「わお〜」な想い



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期待外れ  2000/11/07
 田村由美の「BOX系」2巻が書店にあったので購入した。愕然! これで終わり???
 ちょっとまってよ。BASARAなみの大長編を期待していたのに。はっきり言って「こんなもんなの?」っていう気持ちです。
 最初からそういう構想だったのか、急遽打ちきりになったのかはわからないけれど、2巻後半部分はまるで「あらすじ」を読んでいるような味気なさ。特に最終回はぐちゃぐちゃだね。
 円谷と他のスタッフとの確執は単なる円谷の「わがまま」でしかない。ここはやはりプロジューサー円谷のクリエイターとしてのこだわりを読者のハートに訴えかけて欲しいところだ。その意図するところは「読者」には伝わるが、漫画のキャラ達には伝わらない。そこに確執が生まれる。理解されない天才の行動は全て「わがまま」とうつる。しかし、それがやがて理解されることによってイベントが成功する。その理解も、理屈ではなく、行動や感動で示して欲しい。そうしないと、読者はついてこないと思う。
 羽根のギターや九条のピアノなども、もっと丁寧に、いかにかつてすぐれたミュージシャンだったかを描写するべきだ。円谷のわがままで嫌気がさして出ていった人材を補うために、電話一本で当日、学生を動員するなど、あまりにも非現実的で、ご都合主義だ。まして、待たされて怒りをあらわにしている観客をスタッフにしたてるなど、無茶苦茶としか言いようがない。こういう展開をする場合、観客が「それなら手伝ってやるよ」っていう熱い気持ちになるまでの過程が描かれなくてはならないだろう。
 わがままの発動が前日ではなく、1週間前であればそれらは解決できよう。つまり、設定のミスだ。1週間の間に学生ががんばって段取りを整えていく姿を描けばいい。そこにチラホラとプロのスタッフが理解を示して戻ってきて、指導に当たる。いざ、当日になったら、ほとんど全てのスタッフが戻ってきていて、学生と力を合わせて、最大級のステージを演出してしまう。こんなストーリーも、あと1回連載があったら可能だったはず。
 律子と瀬々の仲直りだってきちんと描けていないと思う。この親友二人は、傷ついて傷ついて、傷ついて!! そして、それぞれ自分の世界を確立することによってはじめて仲直りが出来、より深い友情で結ばれる。そんなストーリーでなくてはならない。
 まあ、そういった不満は横においといたとしても、はっきり言って、この2巻までのストーリーで、これでようやく序章が終わったにすぎないように思う。ここからが本番のストーリーではなかったか?

 BASARAは、これでもか、これでもか、これでもか!!! というほどにエピローグが描かれていた。他の作家が描けば、ココで終わりだろうな、という場所がたくさんあった。にもかかわらず、本当の終わりの終わりまでが描かれていた。そこが良いのだ。かつ、番外編もあった。なのに、BOX系。これはないんじゃない?


雑誌掲載  2000/11/07
 姉妹サイトの「綾綴人形」が雑誌に紹介されました。ミリオン出版の「URECCO12月号」です。
 申し訳ないことながら僕はこの雑誌を知らず、掲載の許可願いメールによると「男性グラビア誌」とのことで、いわゆるエロ本のたぐいかと思っていたのですが・・・。いや、そうには違いないんですけれど、実際に手に取ると、装丁がとても綺麗で、エロ本とはいいにくい。ヌードグラビア雑誌とでも言った方がいいでしょう。
 掲載されているヌード写真も、エロティシズムを追求したというよりも、いかに女性の裸体を美しく表現するかに取り組んでいるような印象を受けます。こんなことを言うのはナンですが、中学生が見てもオッケーな気がしました。
 しかし、インターネットとなんの関わりもなさそうなこの雑誌が、どうして「ネットで読む官能小説」なんて見開き2ページの記事特集を作り、たった4つしか紹介されていないサイトのうちのひとつに、エッチシーンはあるものの「官能小説サイト」とは標榜していない僕の小説サイトを取り上げてくれたのかは謎であります。
 サイト紹介の専門誌以外に取り上げられる、というのは嬉しいですね。でも、この本、探すのに苦労しましたよ。芸術写真の本というわけではないので、おいてない書店も多いようです。平積みされていたから発行部数はあるんでしょうけれど。

  「長編小説=綾綴人形」の「パワフルオンライン作家加盟サイト一覧」を更新。


やりなおしの人生  2000/11/06
 もし、生まれ変われるとしたら、人生を一からやりなおせるとしたら、なんてことを考えた。
 まず思ったのは、「もっとハンサムだったらなあ」ということだ。女性に告白するのでも、少なくとも見た目で断られたりしない。というか、「俺みたいな外見だったら、まず最初はヒクだろうな」なんて劣等感に満ちたばかげたことを考える必要は無いのに、と思う。
 人間は外見ではなく中身だよ、なんていうけれど、じゃあ中身が同等クラスだったら、外見のいいほうが良いに決まっている。2枚目が3枚目のようなことをすれば「芸の幅が広がった」と評価されるが、逆だと「何様のつもり」と批判されるだろう。
 まあ、問題は「外見」ではなく、そこからくる劣等感なのだ。例えば、僕はとりたてて頭がいいわけではない。試験の成績でもそうだし、社会的にキレモノというわけではない。運動はどちらかというと苦手である。劣等「感」ではなく、明らかに劣っている。音楽、絵画など芸術方面でも人よりすぐれていることは何も無い。
 多少文章は書けるけれど、好きだから書く量が多くなり、量が多くなればその分上達する。その程度だ。才能があるわけではない。
 とりえは無いけれど、「あの人はいい人だ」とか「やさしい」とか、「人格者」だとか、そういうのでもない。人を引きつける魅力も無い。まあ、劣等感にこりかたまった人間が人を引きつけるわけ無いけれど。
 じゃあ、やりなおすとしたら?
 外見が良くて、頭もいい。いわゆるペーパーテストはもちろんのこと、そういう一面的なことではなく、「頭脳明晰」でありたいと思う。体力もそれに伴っていなくてはならない。頭が良くて体力があれば、どんなスポーツだってこなせるだろう。そして、感性豊か。これで芸術方面もばっちりである。何事もひとよりすぐれているけれど、それを鼻にかけたりしてはいけない。つまり、性格も良く、人格者であるということだ。かといって、人がいいばかりでは騙されるだろう。そういう方面の洞察力も必要だ。
 んーで、どうするかな。東大でも出て1種国家公務員試験に合格してキャリア警察官にでもなろう。なぜ警察官かというと、そういう職業の方がオリンピックに出やすいと思うからだ。種目はもちろん柔道である。あ、いや、しかし、柔道の選手って見かけがあんまりカッコ良くないな。馬術あたりがオシャレでいいかもしれない。芸術方面でも才能を発揮して、そちらで活躍するために警察官を定年を待たずに退官。この時にはいくつかの署長を歴任している。創作活動をする傍ら、「大学教授」として迎えられ、週に何時間かの講義をする。ついでに、少年野球かなんかの監督もする。
 やがて学長候補になるが、対抗馬が色々と汚い手を使って陥れようとするので、「役職には興味が無い」と大学を去る。すると、各地から講演依頼がゾクゾクと押し寄せる。文化人としてテレビ出演があとをたたず、やがて評論家に。
 あらゆることに対する目が確かなことが世間に知れ渡り、色々なことへのプロデュースを依頼される。それはアイドル歌手だったり、町作りであったり、国際交流であったりと、分野を問わない。
 あまりにも世間が自分1色になりつつあることに恐怖を覚え、全てから身を引く。そして、自給自足の生活をはじめ、そこに賛同者がポツリポツリと集まり、それはやがてフリースクールへと発展してしまった。再び、世間から脚光を浴びる。
 ・・・・・うーん、ちょっと待てよ。こんな人生の何がいったい面白いんだろう? だいたい、今の人生まだ終わってないし。


わすれ物  2000/11/06
 僕の仕事はサービス業である。もっと砕けて言うと、水商売である。
 水商売につきものなのが「お客様の忘れ物」である。○○はありませんでしたか? などと後日問い合わせの電話があり、それが手元にないと、なんだか本当に申し訳なくなってくる。中には、それがこちらの責任のような言い方をする人もいる。悪いが、忘れ物はこちらの責任ではない。忘れた人が悪いのだ。だがしかし、そうは思っていても、情けない声で電話してくる人の前では、まるで自分が悪者のような気持ちになるのである。けれども、むかつくのは当方の建物内でなくしたのではなく、周辺で落としたという者までやってきて、そして「ない」というと「どうしてくれるんだ」みたいな表情をしたり台詞を吐いたりする輩である。それはこっちに関係ないだろ、おい。
 大雑把な統計だけれど、忘れ物の問い合わせのうち、8割は出てこない。また同時に、こちらで預かっている忘れ物のうち、8割は落とし主が名乗り出ない。
 なぜか? 簡単である。どこで忘れたのか(あるいは、落としたりなくしたりしたのか)を忘れているから、忘れ物なのである。それがわかっていたら、すぐに探しにやってきて、首尾良く回収できるだろう。どこで忘れたかも忘れているのに、こっちに責任転嫁するような真似はやめてもらいたい。
 なあに、そんなに大げさに騒がなくてもよろしい。本当に無くして困るものは絶対になくさないものだ。「実はそれがさほど大切なもの、無くしたら本当に困るもの、などではなかったんだ」ということは失ってはじめて気がつくのだ。だから、忘れ物をしたらさっさと諦めて、次善策を考えた方がいい。
 ただし、これはあくまで「物」に関することである。「人」や「心」や「時間」というものは、無くしてはじめて大切さに気がついたりするからね。

  「長編小説=綾綴人形」に新作掲載。「アスワンの王子」凶都の7です。


とらお君の優雅な休日  2000/11/02
 7時10分。息子に起こされる。「おとうさん、ぐちゃぐちゃ卵、作って」と。ぐちゃぐちゃ卵とは、僕が作るスクランブルエッグのことである。僕は勤務が不規則なので家にもシフト表を張ってある。いつしか息子はその見方を覚えて、休日には朝食に「ぐちゃぐちゃ卵」を僕に作らせる。勤務の日の朝は忙しく、そんな事をしてもらえないと理解しているのだ。妻は子供たちのためにトーストを焼くが、勤務日の朝、僕に差し出されるのはコーヒーだけである。
 ここで、ぐちゃぐちゃ卵の作り方を書いておこう。まず、フライパンを煙が出るまで熱する。熱したら少し冷ます。冷まさずに油を引くと、油が熱によって調理されてしまい、科学的な根拠はわからないけれど、結局たまごがその油によってフライパンにこびりついてしまうのだ。つまり、焦げ付かないためのサラダ油がその役目を果たさない。もちろん完全に醒めてしまってから油を引いてはだめで、どのタイミングで油を入れるかは経験と勘による。油はタップリと入れる。そして、全体に馴染ませたあと、捨てる。本当に捨てたらもったいないので、専用の器に入れるのだけれど。
 次に、牛乳をわずかにフライパンに入れ、卵を割って落とし、再び火にかける。フライパンにバターを入れ、カレー用の大きなスプーンで卵の黄身を割ってかき混ぜながらバターと渾然一体にし、塩を適量入れる。風味づけにわずかにしょうゆを落とす。そして、固形物が現れ出したらすかさず火を止め、余熱を利用してスプーンでかきまわしながら卵に火を入れる。こうするとドトリとした柔らかいスクランブルエッグが出来あがる。世の大抵のスクランブルエッグはこれよりも火が通りすぎていて、あの独特の柔らかくてとろけるような食感が味わえない。こういう状態のスクランブルエッグを作れるのは我が家では僕だけなのである。
 息子と娘のためにふたつの皿にスクランブルエッグを分け、残りのホンの少しを自分で食べ、妻のいれてくれたコーヒーを飲み、再び眠る。息子の「行ってきます」の声に目を覚まし、「行ってらっしゃい」というが、すぐまた眠る。娘がいつ幼稚園に行ったかは不明である。
 12時に目が醒めた。昼ご飯を食べる。まだ完全に用意されていなかったので、冷蔵庫の残り物をあさり、火を入れなおしたりして、食卓に並べる。僕と妻、父と母、大人ばかり4人の食事だ。父が「がめつくふたつも試食したから」と買ってきた梅干が出る。うまい。
 再び眠る。3時に息子が帰ってくる。いっしょに書店に行く約束をしていたので起きるが、宿題をしてからと妻に言われて、僕は再び寝てしまった。娘が幼稚園から帰ってきて、一緒に行きたいと言ったが、我慢させる。
 書店へ向かったのは3時45分頃。途中、通帳記帳のために銀行へ寄る。この銀行は駅前の交通量が多い道に面しており、しかも駐車場が狭く、入り口も狭い。時々、入庫車と出庫車が出入り口で団子状態になるが、今日もそうだった。僕の前で駐車場に入ろうとする車が、出ようとする車を妨害する形となって、進退きわまっている。入庫車はどうやら銀行の入り口になるべく近いところへ止めようとしているのだが、そこへ行くには出庫車が邪魔である。さっさとあきらめて他のところへ車を止める判断をすればいいのだが、それができない。判断力が鈍いのだ。道から駐車場へは歩道を横切る形となるので、歩行者をやり過ごしたあと、前の車に思いきり接近してクラクションを鳴らしまくる。ようやく前の車は諦めてくれた。
 記帳をして、予定通りの入金を確かめる。趣味で作っているホームページ(ここじゃないよ)の広告料だ。
 本屋についたのは4時過ぎ。息子は「ワンピース」の8巻と9巻を買う。というか、僕に買ってもらう。ワンピースは息子用に僕が与えた始めてのコミック本だ。続きを買うのは一ヶ月以上経ってからである。他にも、アレが欲しい、これが欲しいというが、「おこづかいをためて買いなさい」
 僕は昨日、パチンコ屋でおこづかいを珍しくもらったので(いつもはとられている)、オーダーメイド4巻、トトの世界4巻、なんでも解決110番(上下巻)、ミスタージパング1巻を買う。ネコじゃないモン6巻は見当たらず。それにしても趣味がばらばらだね。これら本の著者全てがわかる人はメール下さい。お褒めの言葉を差し上げます。
 帰宅後、息子はあっという間にマンガ2冊を読み終える。僕は寝転がってオーダーメイドを読んでいるうちに眠ってしまった。息子に起こされて将棋をする。1回目は僕の圧勝。2回目は「1手」差でかろうじて僕の勝ち。お互い王手のかけあいである。最近は5回に1回は負ける。7時に近くなったので、食堂兼居間へ。おじゃまじょドレミのおもちゃで娘と遊ぶうち、夕食。妻は急に腹具合が悪くなったという。心配だ。
 買ってきたマンガを読みながらメールを書き、それが終わったので、これをかいている。「沢田聖子のそよ風の街角」の更新が滞っているが、またも時間切れか。


死刑廃止論  2000/10/31
 唐突だが、僕は死刑廃止に賛成である。理由、「死刑判決」が言い渡されたあとも、執行されずに長い間放置されることが多い。「極刑」であるという意識が強いのか、そもそも死刑が求刑されたり、ましてそのように判決が下されることが少なく、現実的でない。また、被害者がそれで救われるとも思えない。なぜなら、被害者の預かり知らぬところで判決が下され、どこかに入れられ、そしていつのまにか死刑が執行されるだけだから。
 まして、「死」に値するほどの迷惑を社会にかけておきながら、死んで済むとでもいうのだろうか。
 死刑廃止には賛成だが、もちろんそれに代わるあらたな刑が必要だ。単に極刑が「死刑」から「無期懲役」になるだけではいけない。
 代わりの刑として、このようなものはどうだろう。まず、「終身刑」。無期懲役と違って、刑務所から出ることは許されない。しかし、刑務所の中にいたのでは、社会に迷惑をかけた償いを奉仕によって行うことは難しいかもしれない。いうまでもないことだが、終身刑の受刑者は「社会復帰」のための更正や償いのために刑務所にいるのではない。ひたすら労働奉仕によって一生を棒に振って社会貢献をするためだ。ということは、終身刑ではなく、「奴隷」というのがいいだろう。性器を隠す以外の着衣は認められず、奴隷の焼印か刺青をしておく。しかし、それでは加害者もいたたまれないだろうから、反省の色が濃い場合は「自殺」に減刑される。切腹あたりが妥当であろう。本来の切腹とは、腹を十字に裂き、内臓を自らの手で引きずり出すものらしいが、介錯ぐらいは用意してやろう。介錯は被害者がいいだろう。一思いに首を跳ねるのか、のたうちまわる様を見物するのか、それは被害者の自由である。


新500円玉  2000/10/29
 神戸電鉄の終点、三田駅の駅前にある「コカコーラ」の自動販売機に「新500円玉使えます」というシールが貼ってあるのに気がついた。いつからそうなのかわからないが、新500円玉が使える自動販売機に初対面。ちょっと感動! あわせて「旧500円玉使えます」というシールも並んではってある。
 え? なんで? そりゃあ、両方の500円玉が使えたら便利だよ。けどさ、新500円って、なんでつくられたんだっけ? 旧500円がやたらと偽造されたからじゃなかったっけ? そんで、あちこちの自動販売機で500円玉が使えなくなったよね?
 それで「旧500円玉」の使用を停止した自動販売機はそのまんまで、一方では両方使える自動販売機が登場してって、なんか変。いや、別にいいんだけれどさ、便利だから。けど、それだったら最初から新500円なんていらなかったんじゃない?


カウンセリング  2000/10/29
 もう10年以上前のことになるが、仲間内に変なヤツがいた。変といっても、別に異常をきたしている訳ではない。周りの人間からみると、彼の考え方や思考の辿る経路はどうやら一般的でないと思われる。標準と比べれば、人の話を理解する能力が劣り、かつ自己主張が強い、という特徴が見受けられた。ときとしてそれは明らかな「誤った考え方や行為」につながるが、そこまで普通を逸脱して叱られたりすると、とてもしおらしくなる。反省の度合いも人より強く、なにかと言うとすぐ「責任」を取りたがる。しかし、次の瞬間、それが改まっているわけではなく、同じことの繰り返しだ。「変」というより、「偏」というべきかもしれない。
 そうこうするうちに彼は会社を辞めざるを得ない状況になり、辞めた。そして、独立。カウンセラーとなった。「偏」なカウンセリングを受ける羽目になった人が気の毒である。
 さて、そんなことは随分長い間忘れていたが、久しぶりに思い出した。偏なカウンセラーに出会ったからである。こんなことで大丈夫か、とか思う。
 本来カウンセリングとは、友人・知人や家族、学校の先生や会社の上司など、身近な人と触れ合いの中に、その要素を持っていると思う。あるいはまた、自分自身の中にも浄化作用やバランス感覚というものが存在する。しかし、そういう通常の手段では解決できなかった場合は、専門家に頼るのがいいだろう。それがカウンセラーだと思う。なのに、カウンセラーが偏でどうする? 怖い世の中だ。
 というか、そういう人が「カウンセラー」を名乗ることを受け入れる世の中が怖いと思う。


散髪  2000/10/25
 4ヶ月ぶりくらいに散髪した。「後ろは肩にかかるぐらいでいいですか?」と訊かれて、「いや、もっと短くしてください」と答えたんだけれど、そんなに伸びていたのかと思った。
 中学校では校則で「丸刈り」(なんと時代錯誤な)だったのだけれど、それ以外はいつも伸ばしたいな、伸ばそう、とか思っていた。つっても別にロンゲの芸能人ほど伸ばしたいわけじゃない。サラリーマンおじさんカットがいやなだけ。ちょうどいい長さがあるんじゃないの、といつも感じていた。しかし、どの時代にあっても誰かに「そろそろ切れよ」とかいわれたものだ。
 今回、始めて誰にもなにも言われなかったような気がする。で、「このぐらいが一番いいなあ」まで伸ばせた。それが、「ちょっと伸びすぎたなあ」と感じ始めたため散髪したのである。散髪にはあまり行かないので、「ちょっと短いけどまあいいか」ぐらいまで切ってもらった。


まんがレビュー  2000/10/25
 「とらおランド」の改装前に「マンガ所持作品リスト」というコーナーがあった。現在でも未練がましく過去コンテンツへのリンクが表紙ページにあるけれど、所持リストはもちろん更新していない。更新が追いつかなくなったというのもあるし、作品の感想や批評も掲載せずにリストだけのっけたって意味無いじゃない、という気がしてきたせいもある。
 しかしマンガを買いつづけていると、やはり思うところなどがあり、ちょっと表現出来たらなあと言う気持ちが湧き上がってきたので、書くことにした。コーナーにしてしまうとそれなりの体裁を整えて数もそこそこそろえなくちゃという強迫観念にとらわれるので、逆に長続きしない。なので、ここでチョコチョコ今後も書いていこうと思う。マンガなんて興味が無い、うっとおしい、という方は読み飛ばしていただければよろしいかと。

 BOX系(田村由美)小学館 現時点で1巻のみ発売中/1巻所持
 BASARA以来の長編もの(になるのだと思う)。田村さんの作品はBASARAしか知らず、その印象が強烈だったので他の短編などに手を出しかねていた。BASARAは多彩で魅力的なキャラクター達と壮大でありながらどこか身近なストーリー(日本が舞台であることや、近未来ものでありながら歴史上のいろいろなものがモチーフになっているせいだろう)にぐんぐんひきよせられ、何度も何度も夢中になって読んだ。もともと、近未来でいったん文化が崩壊した、という設定は好きだし。だって、「北斗の拳」とか「ヨコハマ買い出し紀行」とか、その世界観や解釈はまさしく作者の個性だから。ところが友人は「ああ、BASARAね、田村由美にしちゃまともな作品だ」なんぞと評するのだ。
 BASARAって、大絶賛するほどのものじゃなかったのか? 田村由美ってたいしたことないのか? そんなことないだろう。たいしたことなければ活躍の場なんてあっという間になくなるはず。
 で、書店で見つけたのが「BOX系」。基本的に僕は長編が好きなので、買ってみた。面白いやんか!
 BASARAを知らなけりゃきっと「なんだよ、これ」って思っただろうけれど。だって、才能ある美形キャラが芸能界で活躍するんだもん。そんなの当たり前じゃない? そういえば、芸能界もの少女マンガってひさしく読んでいないなあ。「愛してナイト(多田かおる)」や「愛の歌になりたい(麻原いつみ)」以来じゃないかな? あ、「恋愛(高河ゆん)」が一番最近か。
 しかしまあ、BASARAであれだけ多彩なキャラを繰り出したのに、BOX系のキャラがそれぞれオーバーラップするのがちょっと残念でもあり、嬉しくもあり。瀬々が更紗、三神が朱理、パールちゃんがユウナ、円谷が多聞、羽根がタローちゃん、社長がマークンのお母さん、九条は色々なキャラにかぶさるけど、異論を承知で言うと僕的には白の王、ぽっちゃり律ちゃんは新キャラってな感じかな?
 ま、BASARAであれだけ出したら持ちキャラも底をつくよな、普通。あだち充に比べたら何百倍もオッケーってところでしょうか。

 ALEXANDRITE(成田美名子)白泉社 何巻まであるのか不明/文庫で1・2巻所持
 「サイファ」や「エイリアンストリート」を持っていて、馴染みが無いわけでもないし、それぞれの作品にはそれなりの思い入れを持っている。で、久々に買ってみた。アメリカン青春ストーリーってのはいいんだけど、お約束の「日本観光」がまた登場。もういいよ、って感じです。

 ネコじゃないモン!(矢野健太郎)リイド社 全10巻の予定で5巻まで刊行/1〜5巻所持
 2度目の復刻でおまけページがついたミレニアム版。ヤングジャンプ連載時にコミックは全て買っているので、いまさら買わなくてもいいんだけどさ。つい・・・
 人気作品だったし僕も夢中になって読んだけれど、さすがに20年前の作品で違和感はずいぶんあります。(「夕焼け番長」ほど古くなれば、それはそれで読めるのですが)違和感と言うより、当時すんなり受け入れていた自分がちょっと恥ずかしかったりするんですよね。同じ時代が自分の青春時代だったせいもあるでしょう。今回の刊行ではじめてこの作品に触れた読者にとってはきっとそういう時代の違いというのがまた新鮮だったりするんだろうけれど。
 この手の復刻は「単行本」であるにもかかわらずなんとなく月刊誌的で、発行時に入手しないとそれっきりになってしまうことが多いので、ちょっと焦りながら買っています。けど、最近、最新刊以前の巻数が本棚に並んでいる書店もあるし、まあなんとかなるかな?
 本当は「ネコじゃ」には触れたくなかったんですよ。だって、ここ、矢野先生読んでるから。でも、自分にとってのマンガを語るとき、外せないから仕方ないよね。

 並木通りアオバ自転車店(宮尾岳)少年画報社 2巻まで発売/1〜2巻所持
 こういうのすごく好きです。ヤングキング連載中ですよね。確かまだ。ふと思うと、小山田いくさんの「衆楽苑」にそっくりなんです。雰囲気もモチーフも絵のタッチも違うけれど、テーマや手法が同じといってもいいんじゃないかな?
 一話完結で、ハートフルで。衆楽苑は上野駅前の食堂が舞台、こっちは自転車屋が舞台。絵のタイプもそうとう好きですね、気がついてみれば。牧歌的・叙情的な画風もあり、アクションや動きのあるシーンは迫力満点で迫ってくるし、自転車のディティールが正確でありながらマンガ的な絵柄から逸脱していないし。イヤなキャラは出てこないし、最後にはホロリとさせたり、ほっとさせたり。
 冒険活劇ファンタジーなんていうジャンルも書いておられるようなので、そちらも是非買わないとね。ヤングキング系の作品は最近伸びているようで、書店のスペースも少しずつ広がっているみたいです。
 ただ、2巻の帯の「吉田聡氏も絶賛」というコピーは頂けないな。同じマンガ家だし、さらに言えば、活躍している雑誌の系統も一緒。それで誉めあってどうすんの、とか思う。これが「黒柳徹子も絶賛」とか「森首相も絶賛」とか「竹村健一も絶賛」ならいいけどさ。マンガ家を出すなら、「松本零ニ」とか「竹宮恵子」クラスを出してくれ。吉田聡なんて誰も知らないって。


また「ユニスタ」ネタ  2000/10/24
 ユニバーサルスタジオジャパンの最寄駅のある「桜島線」の愛称名をJR西日本が募集している。この募集ポスターが札幌駅にまであったぐらいだから力が入っている。
 「賞品は、採用された方の中から抽選で・・・」とあるから、同名の応募が多数来ることをもともと前提としているわけである。
 だから、自分1人しか応募しないような奇抜な名称では採用されない。斬新であるもの、創造性のあるもの、よりも、ありきたりで親しみやすいものを主催者は望んでいるとも言えよう。そして、最終的にはJR西日本の都合で決定されてしまうのである。
 だったら公募なんてする必要ないじゃないか、という人もいるだろう。僕もそう思う。ようするにこれは「愛称名をみなさんに考えてもらって秀逸なものを選びたい」のではなくて、「話題作りに過ぎない」ことを物語っている。しかしだからといって、「話題作りに利用され、踊らされるなんて馬鹿馬鹿しい」なんて考えなくてもいいだろう。応募に要するのははがきいちまい。たった50円だ。だったら、話題作りにまんまとのせられるのも悪くないんじゃない?
 まあ僕は応募しないけれど、「E.T.線」というのはどうかなと思っている。E.T.とはあのE.T.であると同時に、「エンタテイメント・トレイン」の略でもある。エンタテイメントの会場へ向かう列車も単なる移動手段ではなくて、旅というエンタテイメントである、という意味合いを含み、さらには企画列車などでイベントを楽しみながら現地へ向かう特別列車が将来的に運行されることも示唆している。なかなか深いネーミングなのだ。
 あ、言っておくけれど、このページは「公表された著作物」なので、「著作権」がありますよ。だから、これを読んだ人は、勝手に「E.T.線」とか、そのネーミングの理由とかを転載して応募してはいけない。著作権法にひっかかるぞ。ただし、著作権者(すなわち私)は、ある条件のもとに著作権者にいちいち連絡することなく、この愛称名とその理由を応募することを認める。その条件とは・・・・
 「とらおランド」http://www.geocities.co.jp/HeartLand/2762/ に掲載されていて、勝手に使っていいですよ、と書いてあったので応募した、と出展を明らかにすることである。
 なお、送り先は、郵便番号530−8070 大阪中央郵便局留 JR西日本コミュニケーションズ「桜島線」線区愛称名募集係 締め切りは11月10日消印有効、である。


携帯電話  2000/10/24
 10月1日からJR西日本では「混雑した車内では電源を切ってください」という案内放送に変わった。(それまではなんだったろう? 思い出せない。ご遠慮下さいだったかなあ?) 要するに、今までは話し声が迷惑だから、というものだったのが、メールもダメであり、電源を切れということは事実上の「使用禁止」となったわけである。
 ふうーん、思いきった車内放送にしたなあと思ったら、私鉄も多くが追随し、15日から「使用禁止」へと移行した。
 ただし、あくまでも「混雑した車内では」という前提がついており、これではきわめて主観的に判断されかねないが、僕はこれでいいと思う。自分の判断で考えろ、ということなのだ。現代人に欠けているのはこの部分だと思う。もちろん正しい判断が出来ない人もいるだろう。正しい判断が出来るなら車内放送で呼びかけたりしなくてもいいわけだから、全員が正しい判断が出来ないという捉え方も出来るだろう。あるいは、わかっていても「俺にとってはこんなの混雑じゃないね」と開き直るヤツもいるだろう。だが、それでもいい。「混雑した車内では電源を切ってくれ」と呼びかけるのが大切なのであり、非常識な判断しか出来ないヤツは「白い目」で見られればいいのだ。

 それはともかく、ヘッドフォンステレオに対する注意のアナウンスはいつの間になくなったんだ? 一時的な携帯電話よりも、常時大音響でカシャカシャと音漏れするヘッドフォンステレオの方が遥かに迷惑だぞ。混雑していなくても迷惑だ。完全に禁止して欲しい。それから、混雑した車内では香水や香料の強い化粧品は遠慮したまえ。くさくてたまらん。窒息しそうになる。

  「長編小説=綾綴人形」に新作掲載。「フライデーナイトアベニュー」第3話の(2)です。


北大  2000/10/21
 北海道大学の中をうろうろと歩いた。観光客としていくべき場所は、クラーク像とポプラ並木だろう。どちらも行った。ポプラ並木の方は、倒木・落枝の危険があるので立入禁止、ということになっていた。しかし、学生らしき人や犬を連れたご婦人などが向こうからやってくる。まあ、自己責任だということにして僕もポプラ並木の道を歩く。立入禁止の提示は片手落ちで、向こう側からの進入路にはなんら提示がなかった。
 それはともかく、まあなんと構内の広いこと。ヨーロッパの郊外のようなたたずまいである。どこまで行っても大学のような雰囲気がなかったが、奥へ奥へとずんずん行くと、やっと学生食堂があった。
 教授や職員なども利用しているようで、僕などどうみても学生ではないが、いやしかしこれくらいの規模の大学なら社会人入学もあるだろうし、断られたらそれまでと中に入り、食事を注文したら、なにも言われなかった。カツカレーが320円だったか、340円だったかである。安い。
 それにしても広い。ざっと座席数を数えてみた。喫煙コーナーだけでも200席強。禁煙コーナーはこの4から5倍はある。時間はまだ11時前で、僕はブランチのつもりである。まだごった返してはいないが、あちこちに学生がいる。何人かで喋っているのもいれば、勉強している人もいる。
 学食を出てさらに奥へ行くと道が細くなり、両側に木々がうっそうと茂っている。手入れされた気配がなく、草なども茂り放題。やがて案内板があり、原生林がそのまま残されているのだとわかった。
 山の中を歩き回っているのとおなじ草木の匂いがプンプンしている。いや、学内にはいったとたんにこの匂いはあったが、このあたりは特に濃い。むしろ、農学部の農園の方が人工的であり、この匂いを感じなかったものだ。
 さて、ぶらぶらと戻る。途中で保母さんに連れられた幼稚園児に出会った。
 ふと見ると、ある建物の中にたくさんの学生がいる。規則正しく座っているので図書館の閲覧室か何かかなと思ったら、なんとどうやら講義中だった。そりゃそうだ。ここは大学なんだから。でも、キャンパスを歩き回る限り、ここにはちっともそんな雰囲気を感じることが出来ない。北海道大学の学生は勉強していない、というのではない。それぞれの学生はそれぞれ自分の専門分野において研究をしているのであり、高校以下の学校のように、机を並べて講義を聴いているというシーンが想像できないのだ。
 それほどまでに北大というところは、広く、鷹揚で、茫洋とさえしている。
 こんなところで学生時代を過ごしたら、人生観までかわるのじゃないかな、と思う。


札幌  2000/10/19
 札幌の町を歩いた。札幌はこれまで「のりつぎ」地点であったから、ぶらぶらと歩いたのは高校の修学旅行以来だ。といっても、修学旅行では自由時間といえ自分の意思だけでうろつくわけではないから、実質これが始めての札幌訪問になる。これまで何度も北海道には来ているのにね。
 さて、今日(正確には昨日)、札幌の町には初雪が降りました。そんな中をミニスカートの女の子が、ティッシュを配っています。ティッシュと言っても居酒屋とか、サラ金とかで、別に女性スタッフを売り物にした水商売の宣伝ではないのだからさほどミニスカートでいる必要は感じない。ミニの女の子は好きだけれど、寒さで身を震わせている女の子を見ても別に・・・・。女性らしくカッコイイスタイルは他にもあるとは思うけれど、多分急な寒気でしかたなかったのだろう。
 朝のニュースでは札幌は1度。飛行機到着時のアナウンスでは9度。ま、それでも大阪発の飛行機からへそだしの女性が空港に降り立ったのだから、日本は長い。
 ところで、ISDNのテレビCMによると、NTT北海道はパソコンの斡旋からセットアップまでやってくれるそうです。

  「あなたはだあれ」に新しいバナー。たつるぎさんの提供。


村上春樹  2000/10/19
 「うずまき猫のみつけかた」を読んでいる。エッセイ集だ。意外だった。あまりにも意外だ。
 「ノルウエイの森」や「ダンスダンスダンス」(他にもいくつか読んだ)の文体に比べて、エッセイの文体があまりにも意外だった。
 小説が長い長いトンネルだとすれば、エッセイはカラリと晴れた湿度の低い青空だ。
 本書によると、村上さんは長編小説を書き始めると、長編小説モードともいうべききわめて規則正しい生活を送るようになる。早寝早起きだ。友達づきあいも少なくなるという。日本にいるとなにかと雑用や付き合いが発生し、ここまで規則正しく生活できない。やろうとすればカドがたつし、カドがたてば仕事がやりにくくなる、というわけらしい。
 これに対して「そんなにきちきちに内向的に孤独な生活を送って・・」云々と言われたりするらしい。それに対して、人それそれなんだから仕方ないじゃないか、と村上さんは書いているが・・・・
 異論を唱えよう。どこが「きちきちに内向的に孤独な生活」なんだろう、と思う。「うずまき猫のみつけかた」にはアメリカの大学生とのコミュニケーションや、人に薦められてスカッシュを始めたことや、うちに遊びにおいでと誘われ、かつその誘いに乗ったことや、音楽を聴きに行ったことや、何人かの作家に出会って会話をしたことや、その他色々な外向的なことがたくさん書いてある。1人の人間として僕と比較したとき、僕の方がはるかに内向的なのです。なぜなら、エッセイとして読むなら面白いけれど、自分がそういうことをするのを想像すると気が遠くなるくらい面倒くさい。村上春樹さんはとても外向的な方です。
 だれだって書類仕事をするときにべらべらしゃべりながらなどしないし、内向的で孤独な作業だ。ただ、村上さんは作家という職業柄、その配分が違うだけだろう。すなわち、サラリーマンが9時から5時で仕事をするのに対し、長編小説を書くべく、それが何ヶ月、何年といったスパンで行われるにすぎない、のだと思うのです。

 ところで、「うずまき猫のみつけかた」には音楽観賞のシーンがあり、それぞれのアーティストを描写しているのだけれど、ううーん、と考え込んでしまった。
 僕はホームページ上で「沢田聖子のそよ風の街角」というコーナーを作っていて、その中の目玉が「ライブレポート」なのだけれど、僕の書くものとは全然違う。僕はいつもライブの雰囲気を伝えるのに言葉が足りなくてあるいは言葉を操れなくてむずむずしている。歯がゆい思いをしている。筆力の不足、語彙の不足、表現力の不足などなんやかや色々な不足を感じている。書かれたものを読む限り村上さんの音楽描写は「表現したいことをきちんと表現できてきっとご本人は満足している」ように思う。とても真似できない。
 読者の方は僕のライブレポートをよくできていると誉めてくださるけれど(だって、ひどいレポートだと感じた人はいちいちそんなことを言ってこないからね)、実はそんなことはない。みんな書かないから「書く人」や「書かれた文章」に「ほお!」とか「へえ!」とか思ってくれるけれど、実際に書いてみればいい。そうすれば、僕の文章が決してひいでてなどいないことに気がつくはずだ。
 もっとも、そうやって「普段文章を書かない人が書いた文章」と村上さんの音楽描写を比べても、もしかしたらそうなのかもしれない。村上さんはプロ作家だから当然のことながら一般人以上の語彙や技術をもっているわけで、それらを使うことによって、読まされた方はなんとなくイメージをつかんだような気になってしまう。けれど、実は伝わっていないかもしれない。語彙をたくさん持っているということは、その語を使うだけで、使わなければ延々遠回りをして書きちらした挙句、結局のところ表現しきれずに伝わらないものが、たったひとことで伝わってしまうということだ。しかし、それは送り手と受け手の双方が、その後をボキャブラリーとして所持していれば、である。
 ということは、より簡単な言葉で書かれた文章の方が、伝わる、ということなのだ。(ただ、そうやって日本人から日本語数が失われていくという問題点は、あるけれども)

 またまた書いているうちに脱線してきたので、もうやめるけれども、「国境の長いトンネルを抜けるとそこは雪国だった」というあの一節、実に平易な単語だけでものすごく壮大な情景を描写していると思いません? いつかこれほどの高みに到達してみたいものです。


はみだし刑事  2000/10/19
 ・・・泣かせるよね。


正義  2000/10/18
 関西国際空港にて。国内線を降りてゲートに向かう途中のムービングウオークでの出来事である。飛行機を降りてロビーの喫煙コーナーで一本吸ったために、同じ機の乗客全員に追い越されてしまい、ムービングウオークは「ふん詰まり」の状態だった。
 ムービングウオークの上では「歩く」のが前提だと思うけれど、別に急いでいるわけでもないし、動く手すりに持たれてボーっとしていると、後から足音が近付いてくる。僕は右側に寄っていたが荷物が大きいのでさらに右に寄ってあげた。すると、よりにもよって、「左側によってください」と後から声がかかった。
 テメー何様のつもりだよ。こっちはわざわざ右隅によって広く空けてやったんだから、急ぐんならお前が左側を通れ!
 と、怒鳴り散らしてやろうと思ったのは後になってからで、声をかけられたときは「あ、そう?」と素直に従った自分が悔しい。
 やはり、こういうときはすかさず喧嘩をするべきである。
 声をかけてきたアホウは、自分の正義を貫いただけなのであろう。おそらくアホウが普段使うムービングウオークやエスカレーターは、全て「急ぐ人のために右側」を空けるのが常識になっており、それを守らない輩に常にいらいらさせられているに違いない。従って、黙って左側を通った方が早いのはわかっているが、正義を貫くために、時間がかかることはわかっているのだがわざわざ立ち止まって、右側で足を止めている非常識野郎(つまり、僕)にマナーを守らせようとしたに違いない。
 だが、残念ながら、非常識なのはこのアホウである。急ぐ人のために、右を空けるか、左を空けるかは、場所によって違う。関西はどっちで関東はどっち、なんて話を聞いたことがあるけれど、関西の中でだってバラバラなのである。
 だから、右だの左だの大騒ぎせず、「わざわざ端に寄ってくださってありがとうございました」ぐらいの台詞を吐いて通りすぎるべきなのだ。そして心の中で(バーカ、こういうときは左側によるんだよ。こいつ無知だなあ)と、心の中で軽蔑でもしてればよろしい。

 このように、狭い世間で卑小な体験しかしらないくせにさも何事も自分が正しいと思いこんでいるヤツの判断によるくだらない正義感というのはタチが悪い。こういうアホウのアホウによる価値判断の基準は徹底的にこなごなにしてやらなくてはいけない。
 こういうやつには、とことん罵声を浴びせ、正義のよりどころとなるものを崩壊させ、二度とこのような口をきけなくなるようにし、見知らぬ人には声をかけられなくなるようなトラウマを負わせるくらいでちょうどよい。それが正義というものだ。


「USJ」と呼ばないで  2000/10/16
 見出ししか見ていないのでいい加減だが、「USJと呼ばないで」「JR困惑」などの文字が新聞にあった。USJとはユニバーサルスタジオジャパンである。
 もっともな話である。「正式名称で呼んでください」というユニバーサルスタジオジャパンの思惑とは全く別に、僕も「その略称は変だよ」と思う。アルファベット三文字の省略になじめないのだ。
 だいたい「USJ」が直感的に「ユニバーサルスタジオジャパン」であるという理解にいたらない。東京ディズニーランドのTDLもそうである。北近畿タンゴ鉄道のKTRもそうだ。
 ただし、マクドナルドを「マック」とか「マクド」というのはわかる。すんなりと入ってくる。ネットスケープナビゲーターを「ネスケ」とか、枚方パークを「ひらパー」とか、木村拓也を「キムタク」とか、パワフルオンライン作家リングを「パオン」とか、みんなオッケーである。

 だから、ユニバーサルスタジオジャパンを「USJ」というのは僕的にはダメである。やはり「ユニスタ」とか「ユスジャパ」とか言うべきなのである。同じ理屈でインターネットエクスプローラーは「IE」ではダメで、「インエク」と言うべきだろう。
 「USJ」を日本語発音表記をすると「ユーエスジェー」となり、略称と言えど50%の節約にしかならない。これが「ユニスタ」なら、78%の節約率だ。どっちが優秀かわかるだろう。さあ、皆さん、ご一緒に。「ユニスタ!」


性衝動  2000/10/16
 ヤクザマンガで、「出入りの後は女だあ!」などと叫びながら、組員一行がゾロゾロと風俗店になだれ込むシーンがある。あるいはまた、若い組員に兄貴分が小遣いを渡しながら「これで女を抱いておけ」と言うシーンなども良くある。小遣いだけではなく、拳銃も一緒に渡される。返り討ちにあえばもう女を抱くことができないから、ということなのだろう。あるいは、つかまって刑務所に入れられれば当分縁が無くなる、ということもあろう。また、そういった事情とは関係無しで、イイオンナをはべらしているシーンも数多い。欲望を素直に表現するのに「悪者」たるヤクザに代弁させるのが製作者側としてはラク、ということだろうなどと考える。また、悪者は「欲望に忠実」ということを表現したかったのだろうとも思う。悪者と言うなら政治家を登場させた方がよほどいいだろうに、残念ながら政治家というのは「欲望を素直に」表に出す役ではなく、裏や陰で悪いことをするようだ。

 それはともかく、(導入部は終わった・・・ここからが本編)「誰でもいいから」という性衝動にかられることはないだろうか? もちろん「誰でも」というのは言葉の綾で本当に誰でも良いわけではない。配偶者や恋人に限らない、という意味である。また、異性の好みに関する許容範囲も通常より広くなっているだろう。当然、特定の相手でもいい。浮気がしたいという欲求とは全く別のものなのだ。
 性の悦びを知っているものなら大多数がこういう感覚にとらわれた経験があるだろう(もちろん、全く無い、というひともあるだろうが)。僕の場合は肉体的に疲れた時などはまず間違い無くこの感情にとらわれる。精神的に疲れたときも半分くらいはそうなる。異常に暇なときもそうかもしれない。そのほか、色々な理由でこの感情は訪れる。ただ、しばらくいたしていないから、というのはまた別の次元のような気がするのだが。
 果たしてこれを世間の人はどうやって処理しているのだろう? 我慢している人もいるだろうし、別の行為で気を紛らわしている人もいるだろう。きちんと欲求に忠実に行動する人もいるだろう。欲求に忠実になれる人が羨ましいと思う。欲求に忠実と言っても性犯罪に走るという意味ではない。欲求を満たすために努力や工夫を怠らない、ということである。僕は努力や工夫も行わないし、また、あとでやってくるかもしれない色々な煩わしいことをリスクとして背負う覚悟も無い。まあ、ヘタレ、というやつだ。

  報告。  旧「綾綴人形」の障害復旧。引越し案内を掲載。それなりのフォローがあればミラーとして復活させてもいいかと思っていたけれど、1週間以上ホッタラカシにされた挙句、サポートから「復旧しました」のメールすら無し。なので、コンテンツは復活しません。引越し案内のみの掲載となります。
 


あのなあ・・・・  2000/10/13
 考えなさい。もっと。考えないと阿呆になるよ。おっと、時既に遅しかな?


複雑な世の中  2000/10/12
 ダイエーの会長、社長が退任。といっても、取締役の上につく役職って、外されても平取になるだけで、「クビ」ではなんだけどね。これは商法の規定だと思うんだけど、しかしなんだなあ、「ダメ」ということで役を降りたり外されたりした人が、あいも変わらず「取締役」って、どういうことなんでしょうね?
 さて、ダイエーの場合、会長の新しい肩書きは、「代表取締役最高顧問」なんだそうだ。代表権のある最高顧問って、いったい・・・・?
 要するに来年5月の株主総会まで社長不在になるので、会長を退いた「最高顧問」がやむを得ず代表権を行使するということらしいんだけど、複雑だね。後任の社長もほぼ決まっているから、「ほとぼりの冷めるまでの一時凌ぎ」でないことはわかるんだけど、だったら「社長退任により、会長が社長を兼任し、代表権を持ち、来年5月に退任して退職もする」ということで差し支えないはずなのだ。
 しかし、それではケジメがついていないということで、世間が許さないのだろう。
 これは何もダイエーのような大企業のトップに起こっている椿事ではない。世間のどこにでもあることだ。もちろん人事のことだけではない。全般に渡って・・・

 世の中には、本来の業務と関係がないのに、手を煩わさせられることが数多い。そして、これらが、本来の業務の足を引っ張り、ひいては余計な経費や時間の浪費につながってゆく。もっとも、これら「本来の業務に関係ないこと」を円滑にこなせる人が「気配り」「根回し」の上手な人であり、このようなことが必要というのは、腹の探り合いなくして世渡りは成立しないということなのだ。そして、これらに関して上手にたちまわることが出来れば物事はスムーズに動き、ひいては経費や時間の節約になる。これを一般的には「急がば回れ」というのかもしれないが、僕はそういうことが嫌いなので社会人に向かない。急ぐのなら最短距離を走れば良い、という単純思考だから。なにしろ時間がたっぷりあって回り道が出来るというのは最高の贅沢だと思っている人なのである。

 気配りや根回しが上手、というと聞こえは良いが、表現を変えれば、「断れない状況へ追いこんでいくのが上手」とも言える。
 はっきりすっきりした世の中にならんかなあ?


ダウンロード  2000/10/12
 ネットスケープ6.3をダウンロードした。
 セットアップのアイコンをクリックしてインストールしようとしたら、「全てのアプリケーションを終了させよ」とメッセージが出るので、ネットの接続まで解除。次に進むと「ネットに接続していることを確認して」なんてメッセージが・・・・はあ?
 とにかく指示に従うと、そこから延々2時間もかかった。ようするに最初に僕がダウンロードしたのは、「ネスケ6.3」をダウンロードするためのアプリケーションだったらしい。
 ひとつのファイルごとに「転送率何%」とか「残り推定時間」とかでるけど、やっと終わったと思ったら、次のファイルのダウンロードが始まる。よほど途中で電話線抜いてやろうかと思った。全体で何バイト、転送速度何bpsで何分かかります。なんて説明が一番最初に出てくれないもんでしょうかね。なんやかんやと不親切だと思うぞ。
 それにしても、一緒についてくるAOL接続ソフト、あれ、ナンですか? 不親切どころか、迷惑ですよ。こんなもののために、ダウンロードの時間が余計にかかってしまったのだと思うと、腹が立ちますね。有無を言わさずアンインストールしただけではちょっと気持ちが収まらない。
 やっぱ、ソフトのダウンロードはまだまだ環境がついてこないね−。回線速度の問題も大きいし、ダウンロードさせる方はユーザーのことなんてちっとも考えていないしね。雑誌の付録をインストールするようにしましょ。

  綾綴人形「パワフルオンライン作家加盟サイト一覧」更新。
 


秋休み  2000/10/11
 今日から秋休みだ。5日間。いや、だからといって、世間のサラリーマンの皆さんは僕のことを羨ましがらなくてよろしい。なにしろ、こうでもしないと公休を取りきれないから、仕方なくやっているのだ。定期的に毎週土日が休める方がよほど良いぞ。だから、羨ましがらないように。
 さて、5日間のうち、3日間はゴロゴロしていようかと思うのだけれど、2日間は沖縄へ行く。目的はコンサートである。
 「OKINAWA FOLK NIGHT」というライブで、今回で4回目。この前進である「アコースティックウエーブ」を含めると7〜8回目くらいになるのじゃないかな?
 というとナンだか大げさだけれど、南こうせつなどが出演する「サマーピクニック」などとは比べようもないほど規模は小さく、(たぶん)7・80人ほど入れるライブハウス(D-set、というところ。ホームページもあります)で実施されるものだ。
 そして僕は、この小さなイベントにわざわざ沖縄へ、それもそのためだけにたった1泊で行くのである。往復の航空券とか宿泊代を含めると下手なディナーショーよりも高くつくが、好きなのだからしょうがない。
 今回の出演者は、沢田聖子、鈴木聖美、かぐやひもである。この沖縄のライブハウスではしばしばこのような沢田聖子プロデュースによるライブが行われているのだ。「かぐやひも」は「かぐや姫」のコピーをしているアマチュアバンド。実力も相当なもので、本家かぐや姫公認の偽者なのだ。去年は川崎のライブハウスにも出演しているし、来シーズンは同じく沢田聖子がプロデュースする「新富良野プリンスホテルチャペルコンサート」にまで出演するから、もはやアマチュアとは言いにくいかもしれない。
 そんなわけで、僕はまた聖子さんから元気をもらってきます。遠足を前にして、眠れない子供のようなものですね。


思えば遠くへきたもんだ  2000/10/11
 記憶が定かでないのだが、「思えば遠くへきたもんだ」というドラマがあった。海援隊が唄う同じタイトルの歌が主題歌だった。古谷一行が学校の先生役で出ていた、と思う。確か同じタイトルのドラマがふたつあり、これはふたつめだったはずだ。座布団の山田君が生徒役で出ていて、柔道部の部員だったようなきがする。いや、記憶が違っていたらごめんなさい。
 舞台は伊那地方ののどかな田舎町、「高遠」である。信州を旅しようと時刻表の索引地図を見たり、ガイドブックなどを読んでいて、魅力的な地名を発見した。「杖突峠」である。アルプスなどがかなり綺麗に見えるらしい。杖突峠を通るバスは一日数本。茅野を出発したバスは杖突峠を経て「高遠」に至る。え? 高遠?
 ドラマの中で馴染んだ地名。そうか、こんなところにあったのか。急に懐かしいような気持ちになり、旅の計画に組み込んだ。
 超ローカルな路線バスは、それでもこの峠で若干の休憩をしてくれた。アルプスの山並みを望む風景美を目に焼き付け、売店で何か食べ物を買ったような記憶がある。
 そして、高遠へ。茅野から峠までは急峻な道でたくさんのヘアピンカーブをこれでもかこれでもかとバスはあえいで登っていたが、峠から高遠へはカーブの少ない緩やかなくだりだった。
 辿りついた高遠の町は、予想より遥かに都会だった。テレビドラマが「のどかな田舎の風景」ばかりを強調したのだろう。「高遠」は国鉄バスの「駅」が存在し、記憶が確かなら4番線までホームがあった。僕の故郷、丹波篠山に似ているような気がして、なんとなく懐かしい。高遠から伊那駅まではバスが15分間隔で出ている。これでは田舎とは呼べないだろう。疲れたら近くのバス停で待てば良い、そんな気軽な気持ちで歩いた。
 結婚前だったか、結婚後だったか、妻と二人で再び訪れた。路線バスではなく、今度は自分で車を運転してきたから、時間が自由になる。杖突峠の喫茶店でお茶を飲むことが出来た。
 ルートは前回と同じく、茅野から峠を抜けて高遠へ。妻はこのドラマを観ていないか、記憶に残っていないかのどちらかで、高遠には興味を示さなかった。桜の名所であることや、絵島ホテルという有名なホテルがあることもこのとき知った。
 ==昔の旅の想い出シリーズ(1)でした== さて、(2)はいつのことになるでしょうか?

  綾綴人形「風の予感・第4話(7)」アップ。昨日付けでリンクも2件追加・デッドリンク2件削除。
 


用便紙  2000/10/08
 いや、どんなタイトルにしようか悩んだ。シモネタだからだ。もちろんエロを題材にしたわけではなく、きわめてまじめなシモ話である。本当はう○ことでも書きたかったのだが、それで読者がひいてしまっても困るので、このようにした。用便紙とはトイレットペーパーのことである。
 さて、質問。みなさんは大便をしたあと、何回拭きますか? 回数を決めていますか? 何を根拠に「綺麗になった」と判断していますか?
 僕は拭きおえた紙を目視し、そして汚れがつかなくなったら「よし」としている。
 そうすると、時に、いくら拭いても綺麗にならない日があったりするのだ。普通は、紙に付着する汚れというのは拭く度に少なくなっていくのだが、こういう時は拭いても拭いても綺麗にならない。付着してくる汚れの量が全く減らないのだ。
 ウオシュレットなら問題ないのだろうが、我が家にはそのような設備はないし、もちろん外出先にはそのようなものは望めない。仮に外出先にあったとして、ホテルの部屋とかならともかく、パチンコ屋とかそういう公衆便所ではその装置を使う気になれなかったりする。
 対策として、「赤ちゃんのお尻拭き」のウエットタイプなどを持ち歩いた時期もあったが、「いつまでも汚れが落ちない現象」は思い出したようにやってくるので、そういう時はもう所持していなかったり、乾燥してて使い物にならなかったり、という次第だ。なので、今は持ち歩いていない。
 自宅であれば、そのまま浴室に直行してシャワーを浴びるなどもするのだけれど・・・・。
 悔しいのは、そういう汚れの落ちにくい日に限って、ようやく拭き終えて「やれやれ、やっと綺麗になったぞ」と安堵した途端に、またまた便意が起こるということだ。こういう日に限って2度目、3度目の便意がやってくる。また拭き終えるのに、時間と回数を必要とする。終えたころには、お尻は疲弊している。

 これはもともと幼児教育に問題があるのだ。毎朝でかける前にうんこをしなさい、という教育だ。そうではなくて、入浴前まで我慢しなさい。そして、風呂に入って綺麗にしなさい。こういう生活習慣が身につけば問題ないのだ。(そうか?)


雑破業  2000/10/08
 うーん、上手い。プロに向かって上手いなんてこといったら「当たり前だよ!」なんて、返事が返ってきそうだけれども、雑破業先生の小説は、ホント、いいよなあ。
 いわゆるエロ小説なんだけれども、よくある「人妻」だの「妖艶」だの「痴態」だのというイメージとはちょっと違って、ポップで明るい感じ。青春小説だよね。(しかし、もちろん実用的なので、誤解のないように)。イラストも淫靡でなくて、どっちかというとオタク系。インターネットの個人ページにあるようなCGっぽい、かなあ。
 いわゆるポルノ小説ってどうしてカバー絵からしてああもエロいんだろう。もちろん中身もエロいんだろうけれど、ちょっと買いづらい。店員に対して恥ずかしいなんて言う歳でもないし、実際そうではないんだけれど、そういうのを買う自分自身に対して恥ずかしい。「おまえ、変態だろ」みたいに自分で自分を責めてしまうんだよね。俺ってうぶだから。(おいおい)
 ああ、それにくらべて、雑破先生の作品といったら・・・・
 しかし、このテの作品は少ないよね。点数も少ないし、書店にもあまり置いていない。かわいらしい感じでかつエッチで、というと、「やおい」系ばかりなんだものなア。作品としてのやおいは決して嫌いじゃないけれど、僕にとっては実用的でないから(笑)
 さて。雑破先生の作品は、辰巳出版のネオノベルズから出ている。「ビジュアル世代の新感覚アダルト小説」なのだそうだ。先生ほどのクオリティーには遥か到達していないけれども、僕の書く性描写のある小説は多分その範疇に入ると思う。いや、本人が勝手に思っているだけだけれど。
 幸い、ネオノベルズは「賞」ではなくて、常時作品の「投稿」を受け付けているから、今度はこれにチャレンジしてみたいな、とか思う。
 ところで、雑破先生に関するホームページはあるのかな? ちょっと調べてみようっと。


おおわらわ  2000/10/08
 ホームページと言うのは本当に大変だ。サーバーに回線に、本人の管理が及ばないところで常に何かトラブっている。
 長編小説をおいている「綾綴人形」がダメになってしまった。表紙ページを更新しようとしたら、もともとあったページが消えてしまい、かつ、新しくアップしようとしたページは受け付けてくれない。つまり、表紙ページ不在になってしまったのだ。
 幸いミラーを構築しかけていたけれど、そちらへ誘導する手段がない。なにしろ、アップロードが出来ないのだから。
 サポートに連絡するが返事は一切なく、メンテナンスも行われていないようだ。
 こうなれば、従来の「綾綴人形」は捨てるしかない。復旧次第全てのページに「引越し」と表記するとして、あらゆるところへメールでその旨を連絡しなくてはならない。引越しのお知らせだ。
 まずは「パワフルオンライン作家リング」加盟の440ほどのサイトにいっせいにメールをし、リングシステムの方も登録内容を変更しよう。と、思ったら偶然が重なってリングシステムがダウン。お手上げである。ほどなくこれは解決したが・・・・。
 次に検索エンジン。面倒くさいのでヤフーとグーとインフォシークだけにとどめておく。
 そして、オンライン小説専門の検索エンジンや、加盟している同盟その他への連絡。メールで連絡できる所はいいけれど、自動登録などのところではIDやらパスワードやらが必要で、これらは先のPCダウンで全てデータを失っている。従って、問い合わせからはじめないといけないのだ。
 まだ完全ではないけれど、ようやくほぼ目途が立った。ホッと一安心。但し、元の500〜600というアクセスレベルに戻るには、どれくらいの時間がかかるだろう? せっかくここまでやってきたのに、という想いが強い。
 嬉しかったのは、ろくにご挨拶も出来ていない文面で、事情だけを説明したにもかかわらず、暖かい声援などを頂いたこと。本当にありがとうございます。そして、困ったことは、引越し先がミラーからメインに格上げになったとたんに重くなったことである。

 さて。サイト同士の相互リンクや、ご好意で片道ながらリンクして頂いているサイト様にまでご連絡の手が回っておりません。どうか、ここをご覧頂きましたら、リンクの変更をお願いいたします。いずれ旧サイトが復旧しましたら、そちらにはきちんと引越し案内を表示します。お手数をおかけしますが、よろしくお願いいたします。
 「綾綴人形」の新しいURLは、http://www5b.biglobe.ne.jp/~novel/ です。

  などと、バタバタしながらも、「アスワンの王子」更新。昨日付けでした。


氾濫するホームページ  2000/10/08
 1997年の秋にホームページをはじめて3年。いつのころからか、「○○という雑誌の○月号に紹介されました」なんてのをあちこちのホームページで見かけるようになった。
 普通の僕なら「なんだよ、勲章をひけらかすみたいなことを書きやがって、いやらしい。ネットならネットで勝負せい」なんて思ってるはずなのだが、実態はかなり羨ましかった。雑誌等の紹介歴をページに掲載することに対してイヤらしいなどとも思わず、「なるほど、こう書いておくと、掲載誌に対するお礼のようにも受け取れるし、はじめてそのページを訪れた人にも『ここはある程度のクオリティーを保っていますよ』と知らせることにもなるな」などと感心したりする。
 まあ、正直言って羨ましかったりするわけだ。
 今年に入って、ネット媒体からは「『僕たち初心者ホームページ作成講座』を紹介させてください」とか、「無料ホームページとしてミルトクラブを紹介するので、その代表として『綾綴人形』を掲載したいがかまわないか?」とか、そういう問い合わせが来はじめた。(もちろんOKした)。しかし、ネット媒体と雑誌ではちょっと違うなあとか思うのだ。ネット媒体を通じて僕のページを知ってつないでくれる人は、それらがなくても最終的にはおそらく検索エンジンその他のネット媒体で僕のページを知ることになると思うからだ。
 しかし現実的な実感として、ネット媒体を通してネットを知る、というのはそろそろ限界なのかもしれない。自分の知りたいことをキーワードにして検索したって、本当に欲しい情報に辿りつくにはかなりの忍耐と努力と工夫とコツが必要だ。
 となると、雑誌で紹介されたところにつないでみる、というのが手っ取り早い。別に雑誌でなくてもいいけれど、ネット以外の媒体で紹介してもらえるようにならないと先が知れているかな、とか思い始めたわけですよ。
 こんなことをうだうだ考えるきっかけになったのは、ついに僕のページが「あちゃら」に掲載されたから。残念ながらこの「とらおランド」系列ではなく、別人格でやっているエロ系ページなので、ここでは紹介できないんだけれど。
 雑誌に掲載されているサイトを羨ましく思ったり、自分のサイトが掲載されて喜んだりするのは、結局メジャー志向なのだろうな、と自分で思ったりする。「とらおランド」に僕はそういうものを感じない。偶然通りかかった人が、感性が合うとか、共感してくれるとか、その程度でいい。嫌われてもいい。趣味の個人ページなのだから。ただ、「綾綴人形」の方は明らかにメジャー志向だし、別人格サイトはさらにそれが強い。
 まあ、だからどうということは別にないのだけれど。そう、この項は結論がありません、はい。ごめんなさい。何が書きたかったのかわからなくなってきました。


ニッポンの恥さらし  2000/10/01
 シドニー五輪の柔道男子100キロ級の決勝で主審を務めたクレイグ・モナガンさんのところへ、抗議や脅迫のメールや手紙が殺到した。(毎日新聞平成12年9月30日付夕刊)
 おめーら、ニッポンの恥さらしだよ。柔道のルールでは審判の判定に抗議できないときく。そして、柔道は日本で生まれたスポーツである。なのに、日本人が抗議するって、どういうこと?
 そ、つまり、日本人はルールを守れないってことだよね。抗議や脅迫をしたものは、審判に、篠原選手に、そして日本国民に謝罪しなさい。


国勢調査  2000/10/01
 プライバシーの侵害という大きな危険をはらみながら、そうまでして国勢調査して意味あんのかなー、とか思う。
 というより、もっと正しく言えば、現状の国勢調査の是非はともかく、この手の調査が必要なのは理解できるけれど、本当にその結果が正しく効率的に役に立っているのか? ということだね。
 調査のための調査、統計のための統計、になってはいないか? 調査結果を踏まえて、例えば政治家は日本の進むべき指針を示してくれるか? 日銀は公定歩合を決めているのか? 文部省や教育委員会は教育のあり方を模索しているのか? どれもこれもかけ離れたところで行われているように思う。
 そして、国勢調査そのものも、あれだけ批判がありながら、それに答えようとしていないよな。どうして「勤務先の住所や会社名」が必要なのだろう? どうして「国籍」が必要なのだろう? いくつかの質問を廃止すれば、プライバシー云々と批判されなくても済むのに、と思う項目がある。また、そういう項目がある限りは、結局、プライバシーに踏みこもうとしていると判断せざるを得ない。
 もっとも現在の日本にプライバシーなんて事実上ないけどね。だからいまさら気にしてもしょうがないとも思う。


季節の変わり目  2000/10/01
 いつのころからか、「窓は一年中開けない。春も秋もエアコンを使う」のが色々なことの前提条件になってきていた。名だたる高原地帯を走る「小海線」の窓が開かなくなったときいてショックをうけたのも、今は昔である。
 9月のはじめ、我が社の食堂(社員食堂ではなくて、営業している食堂だよ)のエアコンが故障した。その後、暑さがぶり返すのだが、幸いこのときは急激に涼しくなった秋の走りで、窓を開ければなんとかなるだろうと思った。しかし、ナンともならなかった。窓を開けても風が通らないのである。

 9月も下旬になり、めっきり涼しくなって、ロビーや事務所もエアコンの必要がなくなった。外は爽やかな風が吹いていて、窓を開ければ気持ちいい・・・はずなのだが、窓がない。というか、開かない。仕方がないので、火災時の排煙用の窓を開けた。気持ちのいい風が駈け抜ける。しかし、夜はそうはいかない。もともと「開ける」ための窓ではないから網戸がなく、虫がじゃんじゃん入ってくるからだ。したがって、朝晩はエアコンを入れなくてはならないのだ。なんだか本末転倒。

 全てが一年中エアコンをつけておくことを前提に、今の世の中が組み立てられているのだ。

 しかし、そんな悠長なことを言っていられる時代ではなくなっている。役所では昼間は照明まで消しているというし、別に役所に限らなくても、無駄な消費をする余裕はこのご時世ないのである。バブルのころの設計の付けが回ってきているともいえよう。(もっとも僕の職場ははるかバブル以降に設計・建築されているが、設計屋のマスタベーションの賜物だから、風の通り道に限らず、何から何まで非現実的である)
 経費節約の面からも、環境保護の面からも、この季節にエアコンを使うなんて言うのはもはやナンセンスなのだ。だから、エアコンのスイッチを切る。けれど、設備がそれに追いついていない。贅沢な設備が必要なのではなく、原始的な設備でよい。「窓が開く」だけでいいのだ。しかし、窓が開かない。先日行った郵便局も、空気がよどんで蒸し暑く、よくこんなところで仕事が出来るなあと感心した。

 実は、人々の間にも「窓は開けない」習慣が根付き始めている。電車の窓を開ける人がめっきり少なくなったし、窓の開く電車も少なくなった。車内は多分、サーモで温度調節され、冷房が入ったり送風になったり切れたりとしているようだが、「真夏にガンガン冷房を効かせて」というのとは根本的に違うから、車内の空気はどんよりとよどんでいる。暑くはないのに、じっとりと気持ちの悪い汗がにじんでくる。どうして窓を開けないんだよ! と思うが、窓が開かなかったりする。

 どうにかしてよー、とか思うんだけど、これから冬に向かうとますます辛く苦しい電車通勤が待っている。どうしてあんなにガンガン暖房効かすのかなあ? 息苦しくなってくるよ、まったくもう。冬の列車内でTシャツ一枚になっちゃうこと、よくあるんですよねえ。あの猛暑の中、コートを着ている人って、どんな神経してるんだろう? それとも、もうなにも感じなくなっているのか? 「弱冷車」があるんだから、「弱暖車」もほしい。
 って、なんだか話がどんどん脱線していってるなあ。もう、終わり。


  2000/09/30
 懸賞シナリオの締め切り目前。原稿用紙換算あと2枚で脱稿。十分間に合うはずだった。だが、風邪をひいた。腰は痛いし、身体はだるいし、おまけに仕事は休めない。熱もあるようだが体温計に温度表示されれば気が滅入るので計っていない。一番問題なのは、あれだけ充実していた気力をイッキに失ってしまったことだ。「しょうがない、諦めるか」という思いが何度も頭の隅をかすめる。
 半年ほど前も投稿を棒に振っている。締め切りまであと三週間というところでパソコンが故障してしまい、入院に三週間かかりもちろん間に合わない。おまけにHDDを交換されてしまい書きかけのデータを失ってしまった。
 締め切りは何ヶ月も前からわかっているのだから、余裕を持って仕上げれば良いじゃないか。人はそういうかもしれない。だが、そうではない。具体的なストーリーも考えず、ただ○月○日が締め切りで、枚数はどれくらい、掲載紙はあれ、などと長い間頭の中で寝かせておくことが大切なのである。こうすることによって無意識下でテンションがあがり気力が充実してきて、ババーッと書けるのだ。
 風邪薬を夕方と深夜にのむ。仕事が終わるのは午前一時。夜勤シフトなので、そのあと午前6時までは仮眠時間だ。この仮眠時間を削って残りの2枚を書き、いったんプリントアウトして推敲、そののちに書きなおして、もう一度プリントアウト。応募者の詳細はどこそこに書けとかいう事務的なことや、宛名書きや封筒詰めなどの実務は郵便局ですればいいからおいとくとしても、これだけのことをやらなくてはいけない。気が遠くなった。
 スケジュール的に若干遅れているのを放置したことを後悔した。スケジュールと言っても別にスケジュール表があるわけではなく、頭の中でだいたいこんな感じ、というのをつかんでいるだけだ。それによると、既に一度目のプリントアウトを終えていなくてはならない。ただ、「でも、まだ間に合うよ」という思いがあった。但し、健康で、あれば。
 夜勤明けには保健所の立入検査に立ち会わなければならないから、残業は確定している。倒れるわけにはいかない。平常時ならば、仕事の積み残しが少しばかり合っても、「時間通りにあがろう、体調が良くなればすぐに追いつくことが出来る。倒れてしまってはなにもならない」と、さっさと仮眠するところである。

 しかし・・・・。

 倒れてもいいから、やれるところまでやろう、と思った。体調をさらに悪くして結局書き終わらないわ、仕事にも支障が出るわ、ではたまらないが、そんなことを言っていたらまたチャンスを逃す。投稿したところで入選する保障などないが、投稿することが大切なのだ。いや、書き上げることが大切なのである。いまくじけてしまっては、この作品自体がもはや完結しなくなってしまうだろう。パソコンの故障で断念した作品も、頭の中に構想が残っているだけで、その後、新たに書き始めてもいない。場合によってはそのまま腐ってしまう。ストーリーなんてものはそんなにひょいひょい思いつくものではないし、書き始めるまでに寝かせておく膨大な時間が必要だ。腐らせるには惜しい。書き上げてさえしまえば、入選ならずともいずれ改稿して日の目を見ることもあろう。
 というわけで、なんとか仕上げた。気合が入れば体調不振も気にならなくなり、一時間で終わった。「後で書きなおす」ことを前提にぶっ飛ばして書いたが、それほど直すところがなかったこと、そして、プリンターが紙詰まりをおこさなかったのが原因である。さあ、寝よ。

  「あなたはだあれ」更新。新委員1名追加。
「インスピレーション創作クイズ」第4回結果、第5回問題発表。


妻との会話  2000/09/27
 妻が「1キロやせなくちゃ」という。妻の体重は40キロ強でやせる必要など無いと思うが、理由を聞けば、「足の関節に負担がかかってしんどい」という。「痩せるか、または筋肉をつけるか」なのだそうだ。
 ちょっと待てよ。痩せるということは、体の一部が少なくなることであるから、さらに筋肉が貧弱になるんじゃないのか? びびった僕は「痩せなくて良いから筋肉つけてくれ」と言った。
 ちなみに僕は80キロ弱である。倍も違うのか? オレの方こそ、痩せなくちゃ。

 さて、懸賞シナリオの話題である。大賞1000万円なのだ。そんな話題をすると、「そんなことを平気で言えるその神経が理解できない」と妻はいう。入選する実力も無いくせに、まるで宝くじ三億円(運で当たるわな)と同等に話題にするなんてどうかしている、という意味かと思ったらそうでもないらしい。
「だって、最初から落選するつもりで応募してどうするんだよ」
「それはそうだけど、ま、いいわ。当選したらわたしはパーっと好きなことして自由にやろうっと」
 別に今、生活が苦しくて、妻に共働きをしてもらっているわけではない。今といったい何が変わると言うんだろう?
「あのねえ、1000万円なんて、2年分の収入だよ。2年のうちに次の作品が売れなくちゃ生活できなくなるんだから、宝くじの三億円じゃないんだから、浮かれてなんかいられないって」
「ほら、またそういうことを平気で言う」
またって・・・・
 わからん・・・・

  長編小説「綾綴人形」更新。アスワンの王子「凶都の5 舞台公演1」です。


メール  2000/09/26
 ホームページをもたずに、もっぱらサーフィンやチャットを楽しんでいた頃の話。
 主に個人ページをサーフィンしていたのだけれど、誰のページにもほぼ例外なく、「メールはこちら」というようなことが書いてある。
 ページの管理者への連絡方法を明記しておくのは、いわば責任の所在を明らかにし、なにか不都合があったらクレームはこちらにお寄せ下さい、というような意味合いだと、最初は理解した。
 もちろん、そういう目的もあるのだろうけれど、それならページの片隅に小さく載っていれば良い。しかし、本来の目的はどうもそうではないようで、「じゃんじゃんお便りをお寄せ下さい」というようなニュアンスを感じた。随分僕は驚いた。
 だって、そうだろう? プロとして雑誌の読者投稿コーナーを担当している編集者じゃないんだから、じゃんじゃんお頼りなんかが来たら、対応し切れなくなっちゃうじゃないか。そう思ったのだ。ひとりひとりお返事などを書こうものなら、自分の時間が無くなっちゃうよ。お返事しきれなかったらどうするんだろう? 雑誌の文通コーナーのように「返事確実」なんてのまである。おいおい、そこまで保障して大丈夫か?

 しかし、現実は違った。ホームページを開設しても、メールなんてほとんど、というか全く来ないんですよ。HP作りの師匠格の方からはアドバイスメールなどが届くけれど、いわゆるサーファーからは一通も来ない。
 なるほど、と思った。ページを公開はしたものの、あまりもの反応の鈍さに、みんな焦りを感じていたのだ。しかし、よく考えるとこれはちっとも不思議なことじゃない。テレビ曲にドラマの「ご意見・ご感想」なんて僕は書いたことはないし、お気に入りの作家にファンレター(のようなもの)を書いたこともほとんどない。辻真先さんと石坂啓さんにそれぞれ1通出したきりだ。つまり、どんなに熱心な読者であっても、メールなどを書いてよこしてくるなんてことは滅多に無いことなのだ。
 ジオのリーダーをやるようになって、実はこの反応の鈍さが、ホームページ作りを投げ出してしまう原因の一つであると思うようになった。だから、その手の相談が来たときは、「あなたはじゃあ、作家にファンレターを書いたことがありますか? よほどのお気に入り作家に対しても書いたことなんて無いんじゃないですか?」という返事をしたりしている。

 さて、最近になって、読者の方からメールをちょくちょく頂けるようになった。ちょくちょく、といっても1週間に1〜3通程度である。ない週もある。
 「とらおランド」は97年11月開設で、53000アクセス、現在一日70前後のアクセスがある。「綾綴人形」は99年1月開設で24万アクセス、現在の一日のアクセスは500〜600。そして、もうひとつ、別人格でやっているサイトは98年10月の開設でこれまで82万アクセス、一日の訪問者数は1500〜2000程度。と、まあここまで来てやっと、週に数通あるかないかのメールが届くようになったのである。
 というわけで、HPをはじめたばかりの皆さん、メールが来ないからと言って投げたらだめです。もともとそんなに来るもんじゃないんですから。でも、見てる人は見ていますよ。
 これも最近気がついたことなのだけれど、どんなにアクセスが少ないサイトでも、必ずファンがいるもんなのです。このことは、提示版やサイトの雰囲気からわかります。なぜなら、アクセスが少ないことは、そのサイトがつまらないとイコールではないからです。イコールの場合もあるけど、個人ページのリンク集を辿るかぎり、つまらないサイトに行きつくことはまずないんです。だって、それなら誰もリンクなんてしてくれませんから。
 どれだけ宣伝に力を入れるかでアクセスの量は変わってきますし、めちゃくちゃ完成度の高いサイトでもそこで取り上げている内容がどの程度一般的かによって訪問者数は変わりますし。

 商業ベースではなく、本当に心の赴くままに作ったページっていうのは、必ず感性の合う人がいて、どういう経緯を辿ってか感性のあう人とは出会うものなのだなと気がついた。
 出来が悪いページでも「つまらない」ということはなく、それぞれに面白い。
 だから、メールがこなくても見ている人は見てくれているし、がんばってスタンスを貫けば、そのうちメールもそれなりに届くようになる。と、まあ、こんなことを言いたかった訳です。はい。


三年  2000/09/26
 三年がんばった。五年がんばれるかな?

  昨日付け(09/25)だけれど、「沢田聖子のそよ風の街角」更新。つっても、中身は「岡崎倫典ライブレポート」の新作を掲載、です。岡崎倫典さんは沢田聖子さんのステージサポートや、アルバムのプロデュースなども手がけた、ギタリストです。もう数年も前になりますが、「沢田聖子ピアノ弾き語り」と「岡崎倫典ギターインスト」のジョイントライブがあり、その時の印象が鮮烈で、ファンになったのでした。
 そういえば、このジョイントライブは非常に珍しい形式で行われました。二人ともステージに出たままで、一曲づつ交代でやるのです。相互にそれぞれの楽曲に対して敬意を払っているようで、とても好感を持ちました。このライブは東京で最初行われ、評判があまりにも良かったので大阪でもやった、というものですが、本当に素晴らしかったです。




再生  2000/09/23
 ここはトンネルの中。出口のかすかな明かりさえ見えずにもがいた日々。
 一歩づつ堅実に歩いても、息の続く限り走っても、暗闇は終わらない。
 はるか遠く先に、ちいさな点が見えてからも、そこに辿りつくまでは気が遠くなるほどだった。
 これが終われば、この時期が過ぎれば、外に出られる。そんな確かな実感を何度も胸に抱きながら、けれどもその時がきたら、また別のトンネルの中にいた。
 けれど、ふとまわりを見まわすと、僕はいつのまにか明るい太陽の下にいた。いつ、トンネルを抜け出せたのか、確かな記憶が無い。
 ただ、ひとつ言えることは、「最初から俺の言うとおりにやっていたら、もっと簡単だったんだ」と、はっきり感じたことだった。
 だが、もちろんそうはいかない。僕は雇われの身であって、オーナーじゃない。
 全ては時間が解決したのだ。無理難題、遠回り。そんなものは放っておいたら、勝手に片付く。そうして、全てが整ってゆく。僕の仕事は交通整理だった。うまく、全てが流れていくように。僕の意思などもともと必要無かったのだ。
 そして、僕はもうやることがなくなってしまった。

 いつまで勝手なことをしゃべらせておけばいいのだろう?

  「あなたはだあれ?」更新。



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