「わお〜」な想い



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大阪市はバカ  2005/10/07
 大阪市バスの累積赤字が520億円に達し、最大50%外部委託に出すのだと言う。

 もう本当にバカとしか言いようが無い。外部に委託したってしなくったって、関係ない。なぜ赤字になるのか、どうやったらせめて収支トントンになるのか、打つ手は同じである。
 人件費を下げること、人員を減らすこと、保有車両を減らすこと、これしかない。
 人件費を減らすには給与カットをすればいい。悪いがたかだかルーチンでバスの運転をしているだけで年収800万とは呆れる。450万で十分だ。大型2種免許を持ってるんだから、不満があるならやめればいい。
 500万以上の年収をもらっていいのは、事業の拡大発展のために尽くしている人だけだ。あるいは、与えられた仕事の中で自分だけが突出している人だけだ。営業マンに例えれば、いわば一定の顧客をキープしておく御用聞きルーチンワークなら500万以下、常に新規開拓をしている人はそれ以上、ということである。

 次に路線の見直しだ。まず大阪市外へ足を伸ばしている路線については、廃止。
 大阪市内という地の利を考えれば、30分に1本しか走っていないような線は廃止。またはせめて15分に1本程度に増発して需要を喚起する。最終も早すぎる。昼の明るいうちなら歩いても大丈夫だが、夜は暗くて危ないのでバスを利用してください、とするのが行政の考え方ではないのか? 夜の7時8時台に終バスを運行して差し支えないような線は、廃止してしまえ。
 赤バスの徹底的な見直し。
 赤バスという発想は悪くないが、いいかげんそろそろ需要の有る無しを判断できるだろう。そして、普通バスと赤バスの区別をなくして統合。乗客の数と時間帯に応じて「バスの大きさを使い分ける」アイテムとして赤バスを利用する。

 こうして余剰になった人員は即座に首切り。余った車両は大切に保有し、老朽車両の取替えに回して、新車購入を極力控える。

 そもそも、田舎へ行ってみろ。民間のバス会社が赤字で手を引いてしまった路線を、住民サービスのために地方自治体が「白ナンバー」で引き継いでいたりするんだぞ。それを、行政のバスが赤字だからと民間にやらせるなど、本末転倒。まずは自助努力をしろ。

 だいたい大阪市の外部委託なんて、「市がやると○億円の赤字なので、その赤字額の70%を補助金として出すから、民間でやってください」ってやるに決まってる。これで赤字30%カット成功だ。これのどこが改革なんだ?
 役に立ってるか立ってないかの判断をせずにただ維持することだけを目的に補助金付きで丸投げするなんて、アホとしかいいようがない。
 行政の仕事なんだから、必要なら赤字でもやらねばならない。必要ない(あるいは相手にされていない)のに赤字だから問題になるのだ。黒字が出るような仕事ならそれこそ民間に譲渡すればいい。

 問題は、行政サービスを維持するためにいかに赤字を減らすかという努力が出来ていないこと、そして、「赤字でまでやる意味がない」「こんなに多くの赤字を出して問題だ」と多くの人が判断していることに耳を貸さないことだ。赤字だから手を引きます、では民間と同じである。そんなところに税金を払う必要は無い。


カンニング教頭  2005/10/07
 校長への昇任試験で教頭がカンニングしたらしい。

 試験問題は、1200字の小論文。 →→ おいおい、それくらい暗記しろよ。
 処罰は3ヶ月の謹慎……だったかな。 →→ それで済むのかい? 教育者だろ、クビにしろよ。
 本人は降格願いを提出。 →→ こらこら。行いを恥じて、辞表を提出しろよ。

 呆れるにもほどがある。世間はこれを許しておいていいのか? 率先してカンニングするような奴が、教育者の資格あるのか? 今後平教師になって、教壇に立つのか? 「私がカンニングをして教頭から格下げになった教師です」な〜んて奴から授業を受けることになるんだぜ? 本当にこれでいいのか? よく考えろ!


国勢調査って、なんだあ?  2005/10/04
 国勢調査なんて本当に必要なのか?
 必要だとして、あんな内容を書く必要性がどこにあるのだ?
 その上、個人情報満載のあんなのを、地域の当番みたいな人に回収させていいのか?

 そんなことを思っていたら、案の定、不祥事が続発した。
 自転車のカゴにおいていた調査票を盗まれたり、ニセ調査員が現れたり。

 国勢調査員には調査員証の携行が義務付けられている。(愛知)県企画振興部統計課では「調査票と一緒に配布されるパンフレットには、各役所の連絡先が記入されている。不審に思ったら、調査員が本当にその地域の担当者かどうか、役所に確認してほしい」と話している。(読売新聞)だそうだが、じゃあなにかい、不審者かどうかを我々が確認しなくちゃいけないのかい? それより不審者を排除するのが先じゃないのか? 排除できないのなら、国勢調査なんぞやめちまえ。

 なんで我が家の収入のことや勤務先のことなど、いちいち報告しなくちゃならんのだ? そもそも個人情報保護に関する法令に違反してはいないのか?

 そして、回収した調査票をいったいどうするというのだ?
 こんなもの、データのためのデータでしかなく、国益のために、国民のために、きちんと使われているのか? データを収集して統計をだして報告書を作って、ハイ終わり、では、税金の無駄遣いだ。
 国勢調査をして結果を出して、それで国民の生活が向上するのか?
 その分の費用を節約して税金を安くしたり、福祉に回したりしたほうがよっぽど国民の生活は向上するぞ!

 どうしてもやりたければ、公務員がサービス残業をしてやりたまえ。
 だが、私は次回からは一切協力しない。


公務員の税金  2005/10/01
 何かと公務員が批判の対象になることが多い。公務員の友人・知人もいるので、ことあるごとに責めたりするのだが、別にそういう友人・知人を責めたところで公務員の何が変わるわけでもなく、いわば座興というか、嫌味というか、まあそんなものである。

 そんなとき、彼らは決まって「公務員だって税金払ってるんだ」と主張することがよくある。
 今日は、このことに疑問を呈したい。

 公務員がどうして税金を払わなくてはならないのか、と私は思う。そもそも公務員の給与というのは税金から支払われているのであり、そこからまた税金を取るなど、経理や事務を煩雑にしているだけで、いわば「税金の無駄遣い」である。最初から低い給与を与えておけばそれでいいじゃないか。

 そもそも。
 私は公務員に給与はいらないと思っている。給与がないのだから、税金など払えるはずが無い。
 なぜなら、公務員は公僕であり、いってみればボランティアだ。
 国家公務員なら国民のために尽くします。地方公務員ならその地方の市民に尽くします。国民・市民のために己を犠牲にします。こういう高尚な精神が公務員には必要なのである。

 しかし、だからといって飲まず食わずというわけにはいかない。もちろん、人々のために尽くしてくれているのだから、それ相応の生活の保障もしてあげなくてはいけない。そこで公務員には生活に必要なお金を税金から支給するのである。必要経費の支給であるから、役職がついたからといって高額になるわけではない。もちろん、子供が大きくなればお金もかかるので、年齢や家族構成などに応じて支給金額は異なる。半ば年功序列的であるが、しかし40歳独身男であれば、今年新卒採用の独身男と同額ということになる。管理職手当てなどももちろんつかない。また、子ども達が独立すれば支給額はまた低くなる。

 一方で、公務員に定年は必要ないだろう。なにしろ、ボランティアなのだ。人のために尽くそうという高尚な意識をもっている人に、「あなたは高齢だから引退してください」などというのは不適切だ。

 ただ、一定の年齢になったら、本人にこのさきも続ける意志があるのか、それとも恩給(のようなもの)を受け取って引退するのかの意思確認は必要だし、続ける意志があっても、体力的なことなどの審査は必要であろう。(引退後に恩給がもらえるのは、退職金も年金も公務員にはないからである)。
 この一定の年齢というのは、一般企業でいえば定年のようなものだけれども、そこで辞めてもらうのが前提になっているのではない、というのが根本的に違うところだ。これから若い人が減り、老人が増えるのだから、なるべく長い期間働いてもらい、その分、若い人を新しく採用しなくても済むというモデルケースを率先して作る、というのも公務員の仕事であろうと思う。

 まあ、公務員にボランティアだから給料はいらない、人並みの生活が出来る程度の支給金が払われるだけだ、だから公務員から税金を取らなくていい……なんていうのは、社会システムから見れば絵空事なのだろう。

 僕が言いたいのは、何かにつけて公務員批判が出たとき、「俺たちだって税金を払ってるんだ」なんて言い訳はやめてくれ、ということだ。それは単なる社会システムのせいであって、本質ではない。公務員の本質は「公僕」なのである。みなさんのために身を粉にしてボランティア活動をしているのだと高尚な精神のもとに大いなる誇りを持ち、胸を張っていただきたい。
 そうすれば、公務員批判をされるような言動など起こりえるはずが無い。みんなから尊敬されるだろう。

 つまり尊敬されない公務員はカスだということだ。


神経逆なで  2005/09/06
 今度、初めて自民党に投票しようと思う。

 自民党は嫌いである。これだけ国の舵取りに失敗しても、それでもまだ「目先」のことしか見ていない。30年先、50年先のことなど考えているとは到底思えない。
 目先のことしか見ていない、とはすなわち、少なくとも自分が生きている間だけなんとか(日本の? 世界の? 地球の?)延命処置が出来ればいいやということで、すなわちそれは自分の利権を守ることに他ならない。
 数の力の論理で物事を押し通す。しかも国民として彼らが認識しているのは裕福層、いわゆる上流階級だけである。

 郵政民営化問題で大注目を浴び、自民圧勝の呼び声が高いが、我々は騙されてはいけない。
 国にとって今大切なのは、郵政が国営のままなのか、民営化されるべきなのか、なんてことではない。他にも重要なことはいっぱいある。国民の血税が郵政に垂れ流されるのは問題であるが、それを言うなら無駄な公共事業の方がよほど悪である。不必要な公共事業は多々あり、恩恵を受ける人も限られているが、国民のほぼ全員が少なくとも郵便局になんらかの世話になっているのではないだろうか?
 聖域無き改革をうたいながら次から次へ腰砕けになってしまった小泉なのに、どうして郵政民営化だけにこれだけこだわるのだ? 解散するほどのことか?

 しかし、郵政民営化には私は賛成だ。
 一部の造反自民議員が言うように、「十分な討議がされていない」ことを私は認める。何事もなかったら、私も「頭ごなしに反対はしないが、議論が十分でない」と今の段階では反対であったろう。
 しかし、それでも私は郵政民営化に賛成であり、今回は自民党に票を投ずる。

 その理由を書こう。
 特定郵便局長の妻達が、確か東京で大規模な反対集会をしたからである。
 そうか、こいつらが公務員のくせに世襲という大犯罪を堅持しようとしている非国民の集団か。そう思うと、暴徒のように思えてきた。
 心の底からむかついた。
 こんな最低なやつらの、本来あるべきではない利権を奪う(というか、もともとあるほうがおかしい)ためなら、福祉だの年金だの消費税値上げだの憲法改正だのどうでもいいとすら思う。いや、どうでもいいわけはないが、悲惨なことになれば少なくとも国民全員が被害を蒙る。みんなで泣けばいいのだ。
 しかし、郵政民営化がなされなければ、ずっと泣き続ける人がいる一方で、実力も人望もなく、何の努力もしないやつが、笑い続けるのだ。こんなことが許されてたまるか。

 だって、そうだろう? 郵便局長が世襲で、コネがなくては仕事に就くことも出来ないなど、おかしいじゃないか。
 必死に勉強して公務員試験を受けた人たちや、実力と努力でたたき上げて局長にまでなった人たちに申し訳ないじゃないか。
 利権を守るために愚かな集会まで開いて恥をさらしたあの連中に、我々は鉄槌を下すべきなのだ。

 郵政民営化が実施されて、実際にはさて、どんなことが起こるだろうか。
 僕は申し訳ないながら、これまで過疎地と言われるところに住んだことが無い。こういう前提があるけれども、生まれてからただの一度も「郵便局が歩いていける範囲になかった」という経験はない。
 過疎地でも現在はそれに近いかもしれないが、民営化が実施されれば過疎地の郵便局のいくつかは確実に廃止されるだろう。しかし、廃止イコール不便なのかどうかは、怪しいものである。ワゴンかマイクロバスで巡回郵便局なるものをやればいいわけだし、各家庭を訪問しても良い。車を自ら運転して最寄の郵便局にいくことすら出来ない人が、歩いていける範囲に郵便局があったからといって、どれだけものの足しになるのだろう? それくらいなら、巡回訪問してもらえる方がありがたいに決まっている。
 どこかの商店や家庭が業務を肩代わりしてもいい。金銭や証券の管理には気を使うが、事務作業はネットを通じて処理できるはずだ。タイムラグすら発生しないだろう。

 冷静に考えれば、対処法さえしっかり立ち上げれば、過疎地がひどいことになるなど考えにくい。

 では、なぜ反対するのか。世襲制特定郵便局が廃止されれば、局長というポストがなくなるからだ。郵便局そのものが存続しても、局長不在の郵便局は確実に増えるだろう。局長兼任だ。JRを見ればわかるだろう。駅長のいない駅などゴマンとある。つまり局長ポストがやはり減る。人事管理もある程度の大きさの郵便局に権限が集中するだろうから、当然コネなど使えない。極めて平等になる。
 こまるのは、利権を失う阿呆どもだけだ。

 特定郵便局長の妻たちの集会が私の神経を逆なでしたのだ。公務員にあってはならない世襲などというものにしがみつき、何の努力もせず、厳しい社会を生き抜こうと必死になっている人たちを横目で見て笑いながら、日々安穏と暮らしている、そんな連中が集会などして表に出てきたから、ムカついたのである。

「てめえー。こんちくしょう〜!」と、感情的にむかついたことはこれまで多々あるが、こんなに冷静にムカついたのもまた生まれてはじめてである。


新しい商売  2005/08/31
 18年ほど前のことである。私はある新商売を考案した。それは「犬の散歩屋」である。
 現在その商売は私以外の者によって実際に営まれているが、残念ながら私の構想をかけ離れた「ペット産業」として行われている。私と同じ部分に目をつけ、新たな商売を始めた輩には敬意を全く払わないではないが、しかし浅薄だ。私の構想はもっと社会に根付いたものだからだ。

 簡単に語ろう。
 犬の散歩屋とは、本来の飼い主に代わって犬を散歩させることである。
 飼い主が長期にわたって、旅行や出張やその他様々な理由で不在にするとき、飼い犬はどうなるか? 近所その他の親しく信頼できる人にお願いするとか、ペットホテルに預けるとか、そのようなことになるだろうが、ペットホテルでは不安もある。狭い所に何匹もの犬が預けられるのであるから、環境の変化ともあいまって、病気やストレスが心配だ。
 そこで、自宅に犬を置いたままにできる散歩屋の登場である。自宅を出発・帰着点にし、いつものコースを散歩させる。もちろん、朝晩の2回の餌も、その家で普段与えられているものを与える。

 しかし、これだけではなかなか商売として成り立たせるのは難しい。定期的な海外旅行などをしている客をリピーターに持てば繰り返し注文が来ることは考えられるが、それにしても弱い。常に営業活動をしなくてはならない。もっと堅実な顧客を捕まえるべきである。
 また、ペットホテル(雑居や環境の変化)を批判しながらの商売であるから、まとめて何匹も散歩させるわけにはいかない。その犬一匹だけを、指定されたコースどおりに回らなくてはならない。これでは、大量のスタッフが必要になる。スタッフが多くなれば、質の低下も心配になるが、なにより「常に大量の顧客が必要」となって、これでは悪循環だ。

 このあたりがおそらく、犬の散歩屋が大流行しない原因であろう。せいぜい、ペットショップの副業である。その店でペットを購入した顧客へのサービスやアフターケア、そして顧客との縁を切らない手段としてしか成り立たないだろう。また、最大の問題は、これだけでは社会的に評価されない、ということである。

 犬の散歩屋の本来あるべき姿は、「散歩が出来ないために、犬と一緒に暮らせない人たちへのケア」なのである。
 特にこの場合、お年寄りを想定している。老夫婦、あるいはお年寄りの一人暮らしにとって、従順で可愛らしい犬の存在は、大きな慰めとなり、癒しとなり、また暖かい家族の一員となる。しかし、世話は大変である。餌くらいは与えられるかもしれないが、散歩や予防注射となるとそうはいかない。そういった人たちにかわって散歩を代行できれば、足腰が弱った人にだって犬が飼えるのだ。
 自分自身が自分のペースで散歩することはできても、力の強い犬のリードを持って同行することが困難、という場合もある。しかし、若いスタッフがリードを持ち、犬のペースにあわせて走り、飼い主のペースに合わせて戻ったり待ったりすれば、散歩すら一緒に行ける。

 これなら毎日の仕事であるから、一度顧客を確保したら、当分の間は安定している。毎日のことなので、犬の生活のリズムをこちらのペースに合わせることも出来る。つまり、それぞれの犬の散歩の時間帯をずらすことにより、一人のスタッフが複数の顧客を担当することが可能なのだ。旅行不在などの飛び込み客だけを相手にしていたのでは、時間帯がバッティングしてしまい、引き受けられないことも少なくないであろうし、注文がまったく無い日だってあるに違いない。そのくせ大量のスタッフを抱えていたのでは、商売としてなりがたい。

 そして大切なのは、お年寄りのライフケアという側面を持っている、ということである。
 1日2回訪問しているわけだから、商売とはいえ、どんな福祉スタッフより頻繁に各家庭を訪問していることになるのではないだろうか?

 なお、ここに書いたことは新発想商売のアイディアであるから、当然垂れ流しというわけにはいかない。実はここには、大切な要素がひとつ(もっと?)抜けている。あえて書いていない。それが知りたい人は、200万円ほど支払いたまえ。もちろん、自分で気がついた人はそんなもの払う必要はない。とっとと始めるが良かろう。


 さて、この度の新商売である。
 それは「誕生式」である。この世に、「結婚式」や「葬式」があるのに、一生の最大のイベントであるべき「誕生」を祝うセレモニーがない。
 自宅や寺社や公民館などで、親類縁者や会社関係者、はたまたご近所の方々などの協力を得て成立した「葬式」も今や昔。葬式屋が不動産たる「セレモニー会場」を設置して、そこで通夜も葬式も行うのが当たり前になってしまった。結婚式場という専門のセレモニー会場は昔からあったが、最近はあまり聞かない。ホテルなどのバンケットホールが一般的になってきたのではないかと思っている。私もホテル内のチャペルで行った。

 さて、「誕生式」である。
「私たち夫婦に、待望の子供が生まれました。みなさん、一緒に祝ってください」と声を大きくして、盛大なセレモニーを行うのに、いったいどんな障害があるというのか? 縁のあるものがこれを機に一堂に会して、喜びを分かち合うなど素晴らしいことではないか。
 葬式のように神妙な顔をしている必要は無い。なにしろお祝い事なのだ。
 そもそも葬式とは不思議なものだ。なにしろ、本人は死んでしまっているのだから、誰が来たとか来ないとか、認識のしようがない。しかし、なかなか義理を欠くことが出来ない。早くから日時を告知して招待していても、どうしても都合がつかないからと欠席する人のいる結婚式と異なり、葬式は突然である。なのに、葬式だからと無理をして駆けつける必要があることがいかに多いことか。やっと終わったかと思ったら、1ヵ月後などに「突然の出来事で、参列できなかった方も多いでしょうから、あらためて本葬をとりおこないます」などの案内を寄越し、日常を乱す残された遺族までいる始末だ。

 小子化の時代である。その分、寿命は長くなったが、しかしいずれは死ぬ。さすれば、葬式が頻繁に行われ、うんざりするのは目に見えている。しかし、新たな生命の誕生は、小子化が深刻になればなるほど、喜ばしいことである。
 葬式は親類縁者が一堂に集まる貴重な機会であるが、どうせなら誕生式にその機会を譲った方がいい。

 と、いうわけで、誕生式屋の登場である。
 セレモニー会場は必要ない。ホテルのバンケットホールを手配すればいい。そして、こちら(誕生式屋)の段取りどおりにやらせればいいのである。仲間は最低一人は欲しい。司会進行を努めるものと、段取りを指揮するものは分けたほうがいいからだ。しかし、自分を含めて最低限二人いればいい。これがホテルを使うメリットである。受付や客の誘導、会場のセッティングや演出など、全て注文をしてホテル側にやってもらう。

 セレモニーの内容は難しくない。ご両親の挨拶、できればさらに、祖父母の挨拶も入れたい。なにしろ、祖父母というのは、結婚式においては新郎新婦の両親であり、「二人の新たな門出を見守って欲しい」だのなんだの挨拶をしているはずである。その二人に子どもが出来たのだから、いよいよ一家庭としても一人前になったわけで、これもみなさまの応援と指導による賜物と、挨拶すべきであろう。
 そのあとは、赤ちゃんの披露。といっても、赤ちゃんのご機嫌はセレモニーの進行に合わせてくれないから、大きなパネルの除幕式でよい。赤ちゃんそのものは、セレモニー中にご両親が抱いて、客の間を挨拶して回ればいいのだ。いわゆる「ご会食・ご歓談」の時間に順次行うものとする。

 祝電披露や、友人代表挨拶など儀礼的なものが終わったら、いよいよパーティー、会食である。
 食事の内容やスタイル(立席・着席や、ビュッフェスタイル・会席スタイルなど)は、予算しだいであるし、ホテル任せでよろしい。招待客の有志による芸の披露なんかもあっていい。
 しかし、ただそれだけではつまらないので、誕生式ならではの工夫を凝らしたい。例えば離乳食の試食会である。母乳体験もやりたいところだが、お母さんのオッパイを招待客に吸わせるわけにはいかないから、哺乳瓶で人肌に温めた人口乳を飲むことになるだろう。シャレに走りすぎているかもしれないが、世の大人たちは自分が赤ん坊だった頃のことなど当然覚えていない。そんな大人たちが哺乳瓶で人口乳を口にするのは意義のあることだと思う。
 赤ちゃんの誕生は我が家の出来事ではないにしろ、子どもは人類全てにとっての宝であり、少なくとも自分の行動範囲の中で目にする子どもたちを保護するのは、大切な大人の役目であると心にとどめてもらうのだ。どの程度役に立つかわからないが、こうした地道なことの繰り返しで、子どもたちが凶悪な犯罪の被害者になったり、非行に走ったりすることをいくばくかでも抑えることが出来るかもしれない。これがこの商売における社会的な意義である。

 この他に、キューピーちゃんを使った「おしめ取替え体験」とかもやってみるといい。ベテランの女性(つまり、お婆さんだね)の模範演技があったり、新人お母さんのたどたどしいおむつ交換をベテランに叱られたりするのもご愛嬌である。
 赤ちゃん視線体験コーナーでは、ベビーベッドに寝かされた赤ちゃん人形の目の部分にカメラを備え、それをモニターで見る。生まれたばかりの赤ん坊は目が見えないが、そのうち見えるようになるのだから、難しいことは言わない。赤ちゃん人形の首が自動的に可動して、ベビーベッドからそれを覗き込むいろんな人の姿が映ればこれまた滑稽だ。あるいは、赤ちゃん町探訪なんてビデオを放映してもよい。ベビーカーに載った赤ちゃんの丁度視線の高さにカメラをセットしておいて、世の中の風景を映し出せば、新しい発見もあるだろう。ただしこれは事前に準備し、客を笑わせたり考えさせたりする要素を盛り込んで、ナレーションも必要だろう。つまり演出だ。しかしこれは1本制作してしまえばそれで使い回しができる。

 セレモニーの存在によって、「ご祝儀をお送りしなくちゃ」とか「一度、お顔を拝見に行かなくちゃ」などの煩わしさが消える。出席すればそれで済むのだ。欠席なら祝電の1本でいい。祝儀の相場もそのうち決まるだろう。セレモニーの費用が祝儀からまかなえるように、誕生式屋は料金設定をすべきだ。
 やむをえず結婚式に出席できなかった人も、誕生式に顔を出せば、義理が立つ。

 問題は、誕生式なるものが世の中に根付いていないことである。あるいはこの先、根付くかどうかわからないことである。しかし、事業を立ち上げれば、いくばくかのもの好きは飛びついてくるだろう。とすれば、最初は「もの好き」を相手に、多少は高くてもいいから、きちんとした内容のことをすべきだろう。安くしてもみんなが殺到しなければ商売は成り立たない。しかし、高くてもそこにいくばくかの需要があれば商売は成立する。
 誕生式は望んですぐに出来るものではないから、広く長く広告を打つ必要もある。しかも広告は夢を売らなくてはならない。「我が家にも待望の赤ちゃんができたら、誕生式を」と思わせる内容でなくてはならない。このためには、大手広告代理店を使ってはならない。わずかな資金で思いを伝えるには、自分自身で何度も何度も悩み、苦悶をしなくてはならないのだ。しかし、その結果、デザインなどのクオリティーが低くても、思いの詰まった広告が出来る。広告方法は代理店を通じなくても簡単にできる「新聞折込」と「インターネット」がいいだろう。

 さて。おおよそのエッセンスは公開したが、やはりここにも大切な要素が抜けている。アイディアをただで流すわけには行かないからだ。これも200万円で伝授しよう。もちろん、自分で気がついた人はそんなお金を払う必要は無い。とっとと事業を立ち上げたまえ。


 …ていうか、事業を始めようと言うなら、こんなことお金を払うまでもなく、気がついて当然だよね。



矢沢あい  2005/07/05
 うちの職場は宿屋なのですが、お客様の退屈しのぎのため(というか、自分の趣味)で、漫画本を揃えています。いえ、揃えている途中です。
 最初はポケットマネーで安売り古書店(ブックオフなどの、回転だけを命とした、あまりプレミアムを考慮しない大型チェーン古書店)で、比較的一般ウケするものを買い集めていたのですが、そのうち寄付が集まるようになってきました。
 家にあっても場所塞ぎになるし、かといって二束三文で古書店に出す気にもならない、という人が、「自分の好きなマンガを多くの人が手にとってくれるなら」と持って来てくれるのです。

 実は我が家でも漫画コミックスは大問題になってきてまして、妻に「もう置くところがない。どうするつもりだ」と迫られ、職場に持っていくことにしました。宿屋の漫画など、不特定多数が手に取るわけで、すぐにボロボロに朽ちてしまうと決めて掛かっていたんですが、意外とみなさん丁寧に扱ってくれることがわかったからです。下手をすれば、ダンボールにつめられ押入れに放り込まれているよりも、空気の対流がある本棚の方が、本も長持ちするかもしれません。確かに色は褪せるのでしょうが。

 一度出勤すると2〜3日は職場に滞在しますし、休日もありますから、年間100回職場に通うと仮定して、一回に5冊ほどをもって行くとなると、3年以上かかってしまうことに気付いて愕然としてしまいましたが、もっとショックだったのが「メジャーな漫画があまりない」ということです。何しろ、個人の趣味で買ってますし、作家買いも多いですから。
 これではお客様へのサービスにならんと判断。特に少女漫画は、雑誌を買わずに特定の作家だけを買い続けているので、若い女性スタッフに「今、どんな漫画が人気あるの?」ときいてみました。
 先日、書店でフェアみたいなことをしていたので、この人の漫画は人気があるんだろうと「のだめカンタービレ」というのを買いましたが、確かに面白い。人気作品も悪くないと思ったわけです。で、帰ってきた答えが「NANA」でした。

 もちろん、書店には揃っていますし、帯には「累計2200万部」とあります。
 ちょっとまて。2200万部って、すごくないかい? バガボンドや沈黙の艦隊でも、そこまで行ってないんじゃないか?
 印税は普通2割だから、22000000×390円×0.2=???? ゲゲー! 17億円!!!! こりゃあまさしく夢の印税生活ですね。
 いや、そんな話はどうでも良くってですね……。

 話は変わりますが、僕は昔、日曜日の朝に、ちょっと気になるアニメがありました。それは「ご近所物語」
 たまに目にするだけですから、ストーリーもキャラも設定も何もわからないし、キャラのデフォルメやらぶっとんだ衣装やら、ちょっと尋常ではなかったのすけれど、何か心のどこかにひっかかって非常に非常に気になるアニメだったのです。これが感性に訴えかける、ということなのでしょうか。
 アニマックスかキッズズテーションでまたやらないかなと時々気にしているのですけれど、残念ながらドラゴンボールばっかりやってて、ご近所復活の兆しは感じられません。
 で、びっくりしたのが「NANA」の隣に「ご近所物語」があったこと。
 え? 「ご近所」って、原作があったの? しかも、今、大人気の「NANA」と同じ作者???
 ネットで調べればすぐにわかったんでしょうけれど、まさか原作があって、しかも今も流通してるだなんて思いもしなかったので、調べもしなかったんですよ。

「NANA」ももちろん悪くはないです。売れているだけあります。矢沢さんの作品は、「ご近所」アニメでもそうでしたけれど、設定も何もわからなくても、途中をポンと読んだだけで、心のどこかに訴えかけてくる何かがあるので、おそらく連載の途中で「え? なにこれ? どういうこと? どうなってるの?」と徐々に人気が出て、1巻まで遡って購入し、その結果続きを気にせずにはいられなくなるという読者が多いのではないかと思います。現に、僕にとっては4巻まではちょっと苦しかった。方向性がつかめないでいたのです。

 それに比べると、ご近所の方がまだ入りやすい。入りやすいがためにきっと大爆発はしなかったのだと思うけれど、これだって当時、相当人気があったんだろうなって思わせられます。僕はどちらかというと「ご近所」の方が感性にあっているのだけれど、残念ながらもう物語りは完結してしまっていて、続きを読むことは出来ません。

「ご近所物語」で「うわ〜」って思ったのが、「せつなさを抱きしめて」の部分。これは同時に僕が大好きな歌手、沢田聖子さんの歌のタイトルでもあるんですが、「ご近所」の中に「切なさを乗り越える必要なんかない。それを抱いたままで」というのがあるんです。思わず、「うわあ〜、コレコレ」って思っちゃいました。
 ただなんとなく観ていたアニメですが、「パパの空の写真展」へ実果子が行くシーンは、あまりにもはっきりと覚えていて、カラーのそのシーンが蘇ってくるほどでした。

 カバーの装丁がいかにも少女漫画なので、電車の中で読むにはちょっと恥ずかしいのですが、それでも男性諸氏にもおすすめの少女漫画です。


電話セールス撲滅運動  2005/07/05
 たまの平日休みに家にいると、実に様々な電話セールス攻勢を受けます。
 しかし、不思議なのが、その9割以上が「非通知」でかかってくる事。まともな商売をしているのなら、相手(客)に電話番号を知ってもらうことすらも、営業のひとつの手法だと思うし、そのときは断られても、後で「やっぱり注文しようかしら」と思うかもしれないのだから、絶対的に通知でかけてきたほうが有利だと思う。
 にも関わらず、どうして非通知なのだろう???

 業務上の都合(かける電話と受ける電話をわけている、とか)もあるだろうけれど、そんなことは知ったこっちゃない。僕は非通知セールスは全て「やましい」ものと判断することにして、「当方では非通知による営業の電話は一切お受けしないことにしています」と言って、一方的に切ることにしています。
 そもそも、必要なら自分から調べたり出かけたりして購入しますからね。セールスなんて必要ないって。

 驚くべきことに、今日は個人から家庭教師いりませんかと、非通知の電話セールスがありました。 「我が家では、非通知セールスは全てインチキ・デタラメ・詐欺の類と判断させていただいております」といつものように相手の弁解を待たずに切ってしまい、ちょっと悪いことをしたかなと思ったりもしましたが、おそらく大学生の夏休みバイトのためのセールスだったのでしょう、世の中の厳しさを知るにはいい機会だったかもしれません。
 しかし、あとで考えると、「では、さっそくで恐縮ですが、司法試験合格のための家庭教師をお願いできますか?」とでも言えばよかったかなと、自分のユーモアのなさを反省しているところです。


今日の一句  2005/05/19

  置石で、死人がでたら、死刑です。

刑法
第126条(汽車転覆等及び同致死)

 現に人がいる汽車又は電車を転覆させ、又は破壊した者は、無期又は3年以上の懲役に処する。

2  現に人がいる艦船を転覆させ、沈没させ、又は破壊した者も、前項と同様とする。

3  前2項の罪を犯し、よって人を死亡させた者は、死刑又は無期懲役に処する。


 置石なんぞ、絶対にしないでください。
 ただでさえ、福知山線が止まって、超不便なのに、これ以上、鉄道の運行に支障を来たすようなことは、せんでください。
 死刑になりたいのですか?


お店の選び方  2005/05/17
 先日、知人が女の子を誘って食事に行き、そして怒って帰ってきました。

 お店についたのがどうやら午後9時を回っていたらしく、「オーダーストップは9時30分。10時閉店」とさっそく宣言された由。
 わりと有名なチェーン店らしく、ただ直営ではなくフランチャイズだったのか、店名が2段重ねになっています。その美味しい食事を出すと言うチェーン店をネットで調べ、近くにある店を選んで行ったようです。ネットでは閉店10時30分と書いてあった、本部にクレームを入れる……、などなど知人は怒り心頭なのでありますが、その様子を見ながら彼女は、ちょっとうるうるしかけているんですね。
 彼と同様、ムカついていたことには変わりないんでしょうけれど、きっと「私とご飯を食べる、というだけのことで、これだけ真剣になってくれるなんて」とでも思っていたのでしょう。

 知名度もインテリアもお味もそこそこ、というようなチェーン店をわざわざネットで探してに行かなくても、近所には無名で、あんまりインテリアにも気を使ってなくて、でも、一見さんが来るような場所ではないから、一度来た客をガッチリつかんでおかないと商売が出来ない、というお店がたくさんあります。予備知識無しで入るのですから、ちょっとした賭けですが、そういう土地柄での商売だから、当りはあってもハズレなし、なんです。
 だから、そういうところへ、自分の目で選んで行きなさい、……なんて野暮はもちろん彼の前では言いませんが、まあ、そういうことです。

 今日も、ランチを食べにはじめて入ったお店があります。
 もつ鍋の看板を上げていますが、昼は定食屋になります。もう1時近く、僕が食べ始める頃にはどんどん客は減り、長居してても問題なさそうです。「ソムリエ」コンビニ版1巻を読みながらのんびりしていると、いいにおいが漂ってきて、おかみさんが「コーヒーを淹れたから、飲みませんか?」と。
 従業員の昼食が始まっていて、コーヒーをご馳走になりました。

 ところで、チェーン店でおすすめなのは、イタリアンの「サイゼリア」です。
 お味がイマイチ、とのたまう友人・知人も多いのですが、なにしろ安い。イマイチといったって、別にまずいわけじゃない。感心しないメニューもあったけれど、「これは美味しい、絶品」と叫びたくなるようなものもあるし(それは自分で探してください。好みもあるからね)、本当に安い。
 いつだったか、スープ、前菜、メインと頼んで、二人で1400円だったことがあります。店を出たあとで、ラーメンチェーン「四天王」の前を通りがかり(ここのラーメンも好き)、表に出ている看板を見て、思わず笑いがこみ上げてきました。なにしろ、ナントカラーメン(忘れた)が800円と書いてある。二人で食べたら1600円。サイゼリアで何品か頼んだのよりも高いんですよ!

 それ以来、サイゼリアでは、スープ、前菜、メイン、デザート、さらに皆でつまめるような何か(ピザとか)を頼んだりして、コース風にして食事を楽しんでいます。


ベトナム  2005/05/12
 いくつかのメーリングリストに所属しているのですが、その中で「はじめてベトナムへ行くので、何か情報を」というのがありました。

 僕はベトナムへは行ったことがありませんが、しかし、仕入れた知識はあります。ニュースソースはマンガ。

 そこで、
「大使閣下の料理人」(べトナムの日本大使館で公邸料理人を努める料理人が主人公。料理を通じての外交や世界情勢などが面白い。現在は帰国して日本が主な舞台。各国への出張あり)と、
「アキオ紀行ベトナム」(バックパッカーを主人公にしたマンガ) のふたつを紹介させていただきました。

 前者は有名で、B6版と文庫があり、現在も連載中で、もちろん書店でも購入できるし、古書店にもあるし、マンガ喫茶にもたいてい揃っています。
 後者はマイナーで、多分初版で絶版。書店では見かけないし、古書店でも相当さがさないと無いし、マンガ喫茶にもまずおいてません。アキオシリーズのふたつめで、ひとつめが「バリ」、みっつめは「中華(中国? 台湾?)」との予告でしたが、どうも出ていないようです。

 半分冗談で「我が家の押入れを捜索しに来られますか?」などと書いたのですが、こんなふざけた投稿をするのは僕だけで、他のメーリングリストのメンバーは、きわめてまじめに、グルメ情報を寄せたり、数年前のことだがと、色々な町の雰囲気を伝えてきたり……。

 行ったこともないのに、マンガなどをネタに、嬉しがって投稿したのが、恥ずかしくなりました。


5月09日の阪急宝塚線は危険!  2005/05/09
 JR西日本が、ついに本気になりました。
 宝塚ー尼崎間は運休かもしれないが、それ以外の部分は、きっちり輸送するぞ!
 そんな決意表明のような9日からの列車ダイヤが発表になったのです。

 午前7時台、三田発宝塚行きは、6分間隔で計10本運行します。8時台も、正しく記憶していないけれど、7〜8本運行です。全てが207系7両かどうかはわかりませんが、いずれにしても相当の輸送力です。これだけの列車で運ばれた通勤客を、阪急宝塚線は絶対にさばききることは不可能です。
 宝塚駅でネックになっていた、2番線と改札口をつなぐ細い橋も、使う必要が無いように駅を改築してしまいました。具体的には、一番線の線路の上に改札口からホームを延長し、改札口と2番線を直結してしまったのです。これで橋を上り下りすることなく、列車−改札間を乗客は行き来できます。
 いままで鉄道だけだった振り替え輸送も、路線バスまで手を伸ばし、輸送力を確保しています。もしかしたら、路線バスではなく、代行専用のバスも含まれているかもしれません。ただし、これらバスの恩恵を受けるのは限られた地域の人たちだけでしょうし、焼け石に水の感はいなめません。

 つまり、JR西日本は、「やれるだけのことはやった」であり、逆に言えば「あとは知らん」です。

 受けて立つ阪急は、じつはもう既に打つ手はありません。

 宝塚発の7時台は、通勤急行4本、百歩ゆずって準急3本を加えても合計たった7本(普通は3本)。8時台は急行5本に準急2本(普通は1本)。したがって、宝塚に到着する福知山線列車の輸送量を、阪急の輸送量は既に下回っているわけです。
 http://rail.hankyu.co.jp/station/pdf/45_um_a.pdf

 大混雑、大混乱が予想されますが、阪急に増発は無理。その理由は、十三駅の時刻表を見れば、わかります。
 8時台の十三発梅田行き列車は既に24本走っており、なんと3分に1本以上の列車本数です。こんなのにくらべれば、福知山線のダイヤなんて「過疎ダイヤ」であり、「福知山線の過密ダイヤ」などとのたまうマスコミがいかに嘘つきであるか、おわかりいただけるでしょう。
 http://rail.hankyu.co.jp/station/pdf/03_ta_um_a.pdf

 ここから予測できることはただひとつ。宝塚駅ではなんとか全員乗車できるかもしれないが、乗客が集中すれば一部の列車で乗り残しが出ます。もちろん、宝塚を始発とする急行や準急の、途中駅からの乗車は無理。駅の収容能力が少ない途中駅で乗り残しが出れば、そもそも駅へ入れない乗客が大量発生します。
 押すな押すなの大混乱になり、列車ダイヤは乱れ、当然これだけの過密運転ですから、いったん列車が遅れると収集はつかなくなります。ますます輸送キャパが減り、さらに大混乱。怒号が飛び、駅員は詰め寄られ、しかし打つ手はあろうはずがありません。
 気分を悪くする乗客が続出し、ひとたび隊列が乱れたら、将棋倒しや線路上への客の転落などの事故が発生し、下手をすれば圧死や轢死などの事態になります。

 この責任は、全て、福知山線の運行再開を認めなかった国土交通省にあります。

 悪いことは言いません。明日は、阪急宝塚線の乗車は見送った方が安全です。
 福知山線三田以遠の人は、三田で神戸電鉄に乗り換えましょう。
 宝塚周辺の人は、今津線を利用しましょう。
 伊丹・蛍池周辺の人は、モノレールで千里中央へ行きましょう。または伊丹空港から、空港バスで大阪市内へ入りましょう。
 そのほか、伊丹線を使って、阪急神戸線経由で大阪へ向かいましょう。

 これらの不便は全て、国土交通省の責任です。


マスコミを叩く  2005/05/08
 JR西の事故に関して、色々と書いてきたけれど、見解を改めようと思う。
 もちろん、あのような事故は許しがたいことだし、責任はきちんととってもらわねばならないし、今後同様のことが起こってもらっては困る。日頃の不満もあるし、それが会社の体質によるもので改善の見込みがないのであれば、私鉄各社に分割譲渡してもらったほうが良い。この見解はかわらない。
 しかし、連日の報道には嫌気がさした。
 ものごとの本質を見極めず、ただただJR西叩きのためだけの報道。
 マスコミ各社は安全をおろそかにして利益優先とJR西をこきおろすが、マスコミだって、視聴率・売上重視の偏向した報道ばかりで、社会の公器・正義の刃(JRならこれは安全に相当するだろう)としての立場をすでに捨てている。
 いたずらに読者・視聴者をあおり、また遺族や被害者の心情を考えないばかりか、激させることばかりする。

 マスコミがなすべきことは何か?
 事故原因の追究と結果について、正しく報道すること。
 JR西が遺族や被害者に対して、きちんと補償やその他フォローができているか? むやみに被害者側の立場にたって、悲痛な声を報道するのではなく、法律や社会通念に合致しているかどうかを判断せねばならないし、今後、訴訟などになって、裁判所が判決を出すなどしたときに、それが正当かどうか?
 早期復旧に関すること。
 などであろう。

 これだけの大惨事である。マスコミは読者や視聴者の興味をひっぱり、いかに新しいニュースソースを探すことなく売上につなげるか? 事故原因がほぼ解明された今、そのためには重箱の隅をつつきまくり、出てくるものは何でもいいから揚げ足を取る。みっともないことはなはだしい。
 マスコミこそが「売れればなんでもあり」の行動原理で動いており、これを非難・批判することこそ、表現者としての私の使命と考えるが、残念ながら発表の手段をHPしかもたない。
 長くなるが、しばしお付き合いいただこう。

【激情する遺族の表情】
 人間誰しも、愛するものの突然の死には、どう向き合って良いのかわからないものである。
 そのときの人の心情というのは、冷静に未来を見据えてどうこれから生きていこうか、などと思考するときとはほどとおい。そんな遺族の怒りや悲しみをテレビの画面でアップにするなど、確かに視聴者の心には一時的に訴えるかもしれないが、遺族のもっとも恥ずかしい部分、できれば人に見られたくない部分をあからさまにするようなものである。
 怒り、悲しみ、嘆き、わめき叫ぶ。そんな姿を、赤の他人に見られて嬉しい人などいるものか。
 では、マスコミのするべきことは何か? たったひとりかふたりの、感情の乱れた様子を延々報道するくらいなら、できるだけ多くの遺族に話しをきき、原稿にまとめて、アナウンサーの冷静な声で、淡々と心情を訴えかけることである。テレビの視聴者は、「死んだものはかえってこないのに、あんな無理難題をJRにわめき散らして、アホちゃうか」と思っている人もいる。それは愛する人を失った直後の心情を理解できないからである。理解できるような報道がなされていないからである。人の心に訴えかけるとは、いかに伝わるようにニュースにするかである。そういう役割をマスコミは一切放棄して、たったいっとき、インパクトのある画像を流して、視聴率稼ぎをしているだけである。

【逃げた運転士ふたりに関して】
 黙って逃げたのなら問題だろう。
 だが、ふたりとも、会社に連絡をして、指示を仰いでいる。指示を仰ぐまでも無く救助に参加しろとか、予定通りの乗務に就くため出社しろという指示がおかしいとか、批判するのはたやすい。
 しかし、ふたりの運転士がその後、乗務につくのであり、その列車の運行に支障がでたら、またマスコミは叩くのだろう。
 心情的には誉められたことではない。だが、何を根拠に会社は「出社しろ」と指示し、運転士はそれに従ったのか。そのことには一切触れていない。それに触れるのがマスコミである。もし、ふたりの運転士が逃げたことについて、世間が大批判をするのであれば、その世間の一方的な見方を廃し、こういう背景(他の列車の定時運行・ふたりが救助に加わったからといって状況が好転するわけではない、など)をきちんと説明し、色々な視点からものごとを見るようにと一般の人々に警鐘するのがマスコミの仕事である。
 また、これから乗務につく運転士が職場に向かったことだけを叩くのは、おかしい。単に感情に訴えかけて、インパクトのある報道にして、視聴率をかせごうとしているだけである。なぜなら、前後で緊急停止した乗務員が列車内で待機していて救助に参加しなかったことも叩くべきである。安全に停止した前後の列車の乗客の世話など、乗務員が1人残って、あとは本部の指示をまつだけではないか。特に、特急には車掌が複数名乗務していたはずだ。そんなことを見落としている。全社をあげて救助しろいう論調を主張するのなら、近くを走る東海道本線を運休させてでも、全乗務員を向かわせるべきだった、と報道しなくてはならない。それをしないのは、単にバッシングのためのバッシングで話題を造りたいからである。これはもう報道の使命から大きく逸脱している。
【過密ダイヤ】

 福知山線を過密ダイヤだと報道するのは、大きな間違いだ。
 過密という言葉を使えば、いかにも福知山線が問題を抱えた欠陥ダイヤで運行されていると視聴者・読者に思い込ませることができる。いわば言葉の魔術である。ペンは剣よりまさしく強しで、福知山線の現状をしらない、ほとんどの視聴者・読者は、「福知山線はむちゃくちゃなダイヤで運行されていた危険な路線である」と思い込むだろう。具体的なデータを示さずに抽象的な言葉で視聴者や読者を騙すなど、もっともマスコミがやってはいけないことである。
 下世話な夕刊紙・ゴシップ紙ですら、センセーショナルなタイトルをつけたときは、小さく「?」や「か」をつける良識を持っているが、大手一流マスコミには良識が無い。なぜなら、自分たちが絶対的に正しいとふんぞりかえっているから、「?」をつけることなど思いもよらないのだ。

 福知山線のダイヤを紹介しておく。昼間のパターンダイヤで1時間当たり「快速6本、普通4本、特急1本」(尼崎ー宝塚)である。たったこれだけだ。ラッシュ時は当然本数が増えるが、それだって、昼間この程度なら、ラッシュはどうだとおしてしるべしだろう。ちなみに南海高野線は「急行5本、準急5本、普通5本」である。
 尼崎駅の複雑なダイヤも非難されているが、近鉄西大寺駅だって、似たようなものだ。尼崎は一部立体交差になっているが、西大寺は全て平面だ。京都から橿原神宮・天理方面に直通する列車は、駅が介在するとはいえ、近鉄奈良線を横切っていくのだ。しかも、車庫への出入りも有り、車両の増結・開放などの作業もこの駅で行われる。危険極まりない駅である。
 名鉄の名古屋駅や神戸高速鉄道の新開地駅などもやはり危険で、あれだけの列車本数をたった3本の線路でやりくりし、しかも真ん中の線路は上下線共有である。めちゃくちゃ危険だ。
 こういった、一見危険なところを、あらゆる安全対策や技術や人間の能力で、安全かつ合理的・効率的に運用しているのであり、福知山線だけ、尼崎駅だけを取り上げ、比較対照も示さずに「過密」だなんて言うのは、仕事(取材)をせずに、適当なことを言っているだけなのだ。

【国土交通大臣の不可解な運行再開拒否】
 兵庫県が正式にJR西に提出した文書によると、「早期の運転再開」という言葉が折り込まれていた。
 地方の行政でさえ、こんなしっかりした見識を持っているのに、国政を預かる大臣が、ただ気分に流されて、あるいは保身のためなのか、世論を味方につけたいのか知らないが、適当なことを言うのはけしからん話しである。少なくとも、日常的に福知山線を利用しているものにとって、国土交通大臣はこの発言によって、見方につけるどころか、あきらかに敵にしてしまった。
 本来的には、「危険なこの区間は、当面時速40キロに制限のうえ、運転乗務員を二人にすることで、早期に運転を再開しなさい」というのが、交通に携わる人間が言うべきせりふである。
 では、いかにこの大臣の言っていることがデタラメなのかを検証しよう。
 事故が起こった当初、福知山線は「広野ー尼崎」の運転を取りやめた。その後、運転取りやめ区間は短縮し、「宝塚−尼崎」となったのである。これは国土交通大臣の命令によるものか? JR西の独自判断によるものだろう。
 だったら、現場検証が終われば、JR西の判断で運転再開していいはずだ。
 安全対策が不十分なので、認めるわけにはいかない、というのであれば、JRが自分の判断で勝手に運転を取りやめている「宝塚−尼崎」について、国土交通省の判断でもう一度検討する必要がある。なぜなら、JR西は「篠山口−尼崎」間で新型ATS導入を決めているのであり、それがなされるまでは運転再開まかりならんというのであれば、現在、運転している「篠山口−尼崎」間に対して、運行中止を命令すべきである。
 あるいは、特に危険であると判断する区間、例えば「塚口−尼崎」間だけ、運転再開を認めない、などとするべきである。
 これらの判断を怠り、ただ単に今JR西が自分の都合だけで運転を取りやめている区間を、そのまま運行してはならん、などというのは、なにも判断していないのと同じことである。
 このことをマスコミは指摘するべきだし、またJR西はこのことをもって反論すべきである。

【オーバーラン】
 マスコミはマスコミのくせに、何の確認もせずに、当初のオーバーランをJR発表のとおり「8メートル」と報道した。この時点で、この情報が疑わしかったことは明らかだ。なぜなら、インタビューを受けた乗客が「列車が半分、行き過ぎた」と言っているのである。
 一両が20メートルなので、「車両が半分行き過ぎた」のであれば、約10メートル行き過ぎた、すなわちJR発表の8メートルとほぼ同じだが、一般の乗客が「どれだけいきすぎたかを鮮明に覚えている」ことを考えれば、車両が半分ではなく、列車が半分ではないのか、と疑うべきである。
 その義務を怠ったくせに、のちにこれが虚偽の報告であるとわかったときには、さんざんJR西を叩いた。叩かれるのはJRではなく、マスコミである。
【ボーリング】

 所属が異なるとはいえ、すぐそばで大惨事が発生しているのに、ボーリングとはけしからん。まことにもってそのとおりだし、不謹慎だが、それは感情論である。
 JR西ほどの巨大組織、しかも24時間体制のシフト制なら、真昼間に「非番」の人だっているし、非番の人が何をしていようと、法的に問題があるわけじゃない。
 むしろマスコミがそういうことをいちいち探り出して、報道することの意義はなんだ? 何を目的としているんだ? 遺族が被害者の気持ちが荒れるだけじゃないのか? なかなか対応の進まないJR西の対応が、そのことによって、ますます遅れるんじゃないのか?
 世間を騒がせたいだけのマスコミの活動としか思えない。


社員にも客にも冷たいJR西日本  2005/04/28
 運転士がなんらかの事情でボーっとしていたための事故ではないか、という私の当初の予想は大ハズレ。
 それどころか、いかにJR西日本がひどい職場状況であったかが明らかになってきた。これでは、「安全」より「保身」のために、乗務員が無理をするのは当たり前じゃないか、と多くの人が感じ始めている。

 報道ステーションによると、ミスをすれば「日勤」という名で延々とレポートを書かされ、これがまた安全教育とは全く何の関係も無く、過去には精神的に追い詰められて自殺したものまでいるという。
 番組が「報道ステーション」なので、古館さんは僕は好きだし、私怨もないが、100%鵜呑みにすることは出来ない。所詮マスコミだしね。しかし、日勤に追いやられ、自殺を考えたと言う社員と上司のやりとりがテープに保存されていて、そんなものまで公開された。
 そして、「もう一度ミスしたら、列車を降りる」と宣言しなければ、再び乗務につけないのだという。

 今回、事故を起した運転士も、このような状況に追い込まれていたのは容易に想像できる。
 国土交通省の役人も、運転士の若さもあるし、私なら「しまった」と思うだろうとのコメントまで出ている。つまり、オーバーランでの失敗によるダイヤの遅れを、なんとか取り戻して、失点を回復せねばと考えるのは、当たり前だろうと言うのだ。
 国交省の役人が、事故を起した張本人に同情するほどなのである。それほど、JR西日本はひどいところなのだ。

 そして、今日、ホームページを見てひっくり返った。
 実は私は、昨日トラブルをひとつ起している。普通乗車券で神戸電鉄に振替乗車しようとしたら、「これは定期だけですよ」と言われ、JRに抗議、JR側は「いや、普通乗車券でも大丈夫なはずです」と、どこにも問い合わせをせずに回答。「かまわないと言われた」と神戸電鉄に申し出て、そのまま乗ってしまったのだ。
 すると、さっそく今日のホームページは、「お手持ちの定期券で振り替え乗車ができる」と案内が書き直されているじゃないですか!

 これはひどいし、おかしい。
 天災で、たとえば線路上に倒木などがあって、不通になった場合は仕方ないと思う。
 しかし、今回の事故は、100%JRに責任がある。客にはなんの責任も無い。不可抗力でも自然災害でもない。ただでさえ、いつ開通するかわからない状況で、そんなことまで言うか!

 こんな利用者不在の方針を打ち出しておいて、なにが「ダイヤを守る」だ。ふざけるな。

 JR西日本はもはや不要なのではないのか?
 何度も言うようだが、解体して、周辺の私鉄に譲渡した方がマジで良いと思う。

 今回の事故も、JR西日本の内部構造が必然的に乗務員を追い詰めたものであることが、どんどん明らかになっている。会社として不適切だ。
 しかし、ろくな調査もせずに、最初は「踏み切りで車とぶつかった」などと発表し、次には「置石」なんぞと言い、とうとう逃れられないとなったら、運転士の過去の訓告処分をひっぱりだしてくる。どこまで他人に責任をかぶせたら気が済むんだ?
 幸い、JR西日本管内には優秀な私鉄がたくさんある。分割譲渡してしまえ。その方が、客も社員も幸せだ。

 もうひとつ。
 福知山線のダイヤが全く発表されていないのも、気に食わない。運転本数○%とかいうのみである。40%とか50%とか60%とか書いてあるが、まあおおよそ半分である。
 そんないいかげんな書き方でいいのか? そんないいかげんな走らせ方をしているのか? 時刻表を発表しろよ! 不便でしょうがない。いつ来るかわからない電車を客は待つんだよ!
 それとも本当に、適当に列車を走らせているのか?


事故雑感  2005/04/25
 JR福知山線事故より時間がたつにつれ、色々なことが明らかになってきています。

 運転記録が5両目より回収され、当時100キロを越えるスピードが出ていたこと。
 前の停車駅「伊丹」でのオーバーランが8メートルではなく、本当は40メートルだったこと。
 ATS装置が最も古いタイプで、速度超過に対応していなかったこと。
 2週間前に尼崎駅で「1秒単位」の列車遅延調査が行われたり、「ダイヤ厳守」のペーパーが配布されたりして、乗務員にプレッシャーがかかっていたこと。
 その他、色々です。

 しかし、僕に言わせれば、そんなことは物事の本質ではないのです。

 JRは既に、安全運行に必要な人員を確保していない。これが今回の事故の原因です。考えてもみてください。あの大阪駅にすら、ホームに係員は不在なのです。人身事故などが起こってダイヤが乱れ、どの列車が次に動くのさえ明らかでない状況で、駅ホームに係員がいない。
 ホームの客の対応をするのは、安全運行に全神経を注がなくてはならないはずの、運転士や車掌です。
 ただでさえ、ダイヤが乱れて、すぐにでも発車しなくてはならないところに、客から苦情と怒号の嵐。受け答えしているうちに駆け込み乗車があとからあとからやってきて、いつのまにか出発信号がまた「赤」になってしまう。こんなことが日常的に行われているわけです。

 列車とホームの間は、近いほどいいわけで、そのように設計されているのですが、そんなところを100キロを超えるスピードで通過列車は通り過ぎていきます。しかし、その安全を確保するための方策が、「黄色い線まで下がれ」の案内放送があるだけ。誰も安全確認はしていません。ホームに係員がいないのだから、出来るわけが無いのです。

 伊丹駅でも、もしホーム係員がいたら……。
 オーバーランで虚偽の報告など出来ようはずも無く、それ以前に、「おい、おまえ、大丈夫か? 体調でも悪いんじゃないのか?」「このまま運転をまかせて大丈夫か?」くらいの声がけはあったでしょう。
 あるいは、「1〜2分の遅れなんか気にするな。安全第一で、気合を入れていけ」とも言われたかもしれません。

 施設整備もマニュアルも大切かもしれませんが、機械は故障するし、人間はミスをします。究極的に事故を防ぐ方策は、こうした人間の暖かさとか、あるいは想像力なのです。
 仕事がシビアになるにつれ、これら暖かさや想像力は欠如していきます。
 機械が整備され、それにたよるようになればなるほど、やはり欠如していきます。
 マニュアルが厳格になればなるほど、やはり欠如していきます。

 あなたが車を運転するとき、青信号だからといって100%信用するでしょうか。しないはずです。うっかりした歩行者がひょっこり出てくるかもしれませんし、信号無視の車が突っ込んでくるかもしれません。機械やシステムを100%信用していないはずです。
 車にATSなんてありませんから、ね。
 一方で、譲り合い、ということを、教習所ですら習うはずです。車の運転は、交通法規を守ればそれでよし、とはどこも教えていないはずです。
 危険を予測し、ゆずりあって、と習うはずです。

 これが、今のJR西日本には根本的に欠けているのであり、その原因は、無理な人員整理と機械やシステムやマニュアルに頼った安全確保にあります。

 事故を起した運転士は、車掌時代に2回、運転士になっても1回、訓告処分を受けています。このような人がどうして運転士を続けることが出来たのでしょうか? これも、システムに頼ったからにほかなりません。適正試験に合格したとJR西日本はいいますが、適正試験は100%のものではありません。
 それよりも、もし、「あいつに任せて大丈夫か?」と疑問に思う上司や先輩がいたら、その職人としての勘、あるいは、根源的に動物が持っている生命力からくる判断力、これの方を重要視するべきなのです。

 なにも「あいつは列車の安全運行に適さない」と烙印を押されたからといって、人間失格なわけではありません。その人の人格に傷つくようなことは一切ありません。だって、そうでしょう? 盲目の人は運転士になれないはずです。それは明らかにその人の持つハンデです。しかし、だからといって、それがその人の人格に関わるかと言うと、なにも関わりません。もし、関わると言う人がいるなら、それは差別です。つまり、上司や先輩が「あついは運転には適さない」と判断したことに異論を唱える人がいれば、それこそが差別なわけです。
 鉄道会社には他の部署だっていっぱいあるわけだし、クビにする必要もありません。
 みんなが人間の目で見て「合格」と言った者に対して行うのが適性検査であり、適性検査が先にありきでもなければ、唯一無二の判断材料でもないのです。

 まだ、言いたいことがあります。
 乗客のコメントに「この電車、なんだか変だ」というものがいくつもありました。
 曰く、こんなにオーバーランして大丈夫か? スピードがですぎている、運転が荒い。
 事故にあわれた方にこんなことを言うのは酷ですが、これはあくまで一般論として理解してください。
「おかしい」と感じるのは、生きようとする人間の本能であり、そう感じたら、乗るべきではなかったのです。あるいは、非常停止ボタンを押すべきだったのです。

 人間社会は、このように、人間の生きようとする本能、すなわち動物の本能というものを封じ込める方向に進んでいます。これは危険です。
 例えば、食品の賞味期限です。
 食べ物を、見て、触って、匂って、最後に舌に乗せて、それでおかしいと気づくべきです。それが生き物の本能です。賞味期限が切れているから危ないとか、切れてないから大丈夫とか、そんなことで食べ物の安全/危険を判断すると言うことは、もはや人間は動物ではない、ということです。生きるのに必要な最低限の力も無い物体である、ということです。

 賞味期限内だからと食べて死ぬのと、鉄道だから安心と思って乗車するのとは、同じ意味合いを持っています。
 もちろんこれは、鉄道や食品に関してだけではありません。あくまで例示です。一般論です。新しく職場に来た人が「マニュアルがないから仕事が出来ません」と言い、先輩が「マニュアルがないから指導できません」と言ってるのと同じです。こんなことは現代の世の中のあちこちに転がっています。

 人間はいま、社会システムというぬるま湯に浸かることで、どんどん本来の生命力を失っています。
 社会システムを信用するな。自分の感覚を信用しろ。
 これが今回の事故から得た教訓と言えるでしょう。

 人間はどうして恋愛をするのでしょうか? 特定の相手を特別な人だと思い込むのは、勘以外の何者でもありません。
 一方で、SF小説の中には、配偶者すら社会システムの中で、しかもコンピューターで決められてしまう、という物語設定が登場したりすることがあります。
 あなたは、自分の恋人を、結婚相手を、コンピューターで決められたいですか?
 より完璧なATS(オートマチックトレインストップ=自動列車停止装置)だけに頼るということは、すなわち、恋人や結婚相手をコンピューターに決めさせることです。
 そんな人生でいいのですか?


JR西日本 鉄道事業免許 取り消し!  2005/04/25
 日ごろ、このコーナーでもさんざん叩いてきたJR西日本が、ついに大事故を起した。
 列車運行に対する管理体制の不備が原因である。
 この不備は、相次ぐリストラでベテラン社員の首をどんどん切り、列車の安全な運行に十分な人員を確保しないどころか、さらにどんどん首を切っていった結果であり、このことで支障が出ているのは、これまでこのコーナーで「ダイヤが乱れたときの回復が遅すぎる。列車指令がなってない」と指摘してきた延長線上にある。

 原因は追求中らしいが、12時11分現在の、私の予想を書いておこう。
 運転士の心神喪失状態であろう。
 あるいは、そうでなければ、何かの要因で「ボー」っとしており、速度超過に気がつかなかったのだ。何か、は、もしかしたら、体調不良かもしれないし、カゼ薬のせいかもしれないし、携帯電話を使っていたのかもしれない。

 いずれにしても、それまでの駅で8メートルもオーバーランする事態を引き起こしていながら、本当に運転してなんとも無いのか、の確認を怠ったところにも問題はあるだろう。

 ヤフーに掲載されていたどこかの新聞社発表のニュースによると、「オーバーランで1分半ほど発生した遅れを取り戻そうとしていた」というようなコメントが見受けられたが、JR西日本がそんなお客様本意の運転をしたことは、これまで数年、僕は経験していない。
 列車が遅れると、先行列車との間隔が長くなり、その間に本当なら次の列車にのるつもりだった人が駅へ集まってくる。だから、必然的に遅れた列車に乗ろうとする乗客が増え、さらにいつもなら列車が止まっていない筈なのに何かおかしいと感じた客がどんどん駆け込んでくる。
 このとき、人員不足で適切に案内する係員も放送もないから、駆け込み乗車に対応するため、ますます列車が遅れる。これの繰り返しである。

 しかも、いったん「青」になった出発信号がその間に「赤」になってしまい、またまた出発が遅れ、さらに後ろに列車が数珠繋ぎになってくる。
 しかし、JR西日本は、適切な列車指令も乗客への案内も一切行わず、のほほんとしているだけなのだ。

 つまり、ダイヤの遅れを取り戻そうとしたなどとは考えられず、運転士の身に何か起こったとするのが一番可能性が高い。

 車掌が乗っているのだから、「いつもよりスピードが出ている。おかしい」と気づいても良さそうなものだが、JR西日本の車掌が手を打つのは、いつも遅い。このことも身をもって経験している。
 以前、大阪駅で若者の酔っ払い十数人がなだれ込んできて、車内で大声でわめき、床に寝転がり、タバコを吸うなどの行為をしていたのに、車掌は知らん顔だったことがある。思い余って車掌に通報したが、注意をするだけ。駅員も警察も呼ばない。大阪駅には警察隊の詰め所があるはずで、すぐにかけつけて引きずりおろすことが出来たはずだ。

 しかし、列車は定刻で出発。その後も迷惑集団の行為は続き、しまいには車掌室のガラスを殴る、壁を蹴る、「警察を呼べるものなら呼んでみろ!」と叫ぶ。
 次の停車駅の尼崎でも何も手を打たず、伊丹、川西池田でも同様。ようやく宝塚に着くに至って、ホームで10人ほどの警官隊が待ちうけ、引きずりおろされるという顛末だ。宝塚駅では処理のために列車の出発は遅れるし、それ以上に、その間約20分、暴力集団と同じ車両に乗り合わせた乗客の気持ちや安全などまるで配慮されていない。暴力集団を刺激するのが怖くて、誰も身じろぎ出来ない状態だったのである。
 車掌自身は、隔離された車掌室で安全が保証されていたからだろう。
 もしこれが、大阪駅できちんと対処できていたら、多少出発は遅れてもこのようなことにはならなかった。
 放置しておいたらどうなるのか、という想像力の欠如が原因である。仕事に対する責任感もない。

 最近、女性車掌が増えているが、ああいう集団が乗り込んできて、レイプでもされたらどうするのか。
 いざというとき、危機予測をして早めに手を打つという教育が出来ていないのは明らかだから、多分、人生を狂わせることになるだろう。

 JR西日本は、即刻鉄道免許を返上して公共交通事業から撤退して欲しい。
 残された鉄道は阪急が引き継げばいい。
 これは、前にも主張したことである。


ウイルスバスターがウイルスになる日  2005/04/24
 いつかこんなことが起こるんじゃないかと思っていたけれど……。

 この日、僕は午後からの出勤だったんだけれど、午前中にパソコンを稼動させた職場の仲間が、「パソコンが動かなくなった」と頭を抱え込んでいた。
 急ぎの仕事なのに……。

 ともかく、通常こういう事態が起こったときには、素人の出来ることといえば「リセット」のみ。
 なぜか僕は直感的に「ウイルスバスターが原因じゃないか」と思ったんだけれど、なぜそう思ったのかはもう記憶に無い。でも、システムに決定的な影響を与える外的要因があるとすれば、ウイルスバスターかOSのダウンロードだけなんだよね。

 再起動をしようにも、とにかく動作が遅い。しかも、本来なら「シャットダウン」をして、5〜10秒は電源が落ちたままの状態にしてから、再度、立ち上げないと、いわゆる「再起動」では、まだ悪い要因がPC内に残っていることがあるの。そこで、そうしようとしたんだけれど、「シャットダウン」に辿り着くまでに相当の時間がかかり、しかし、事実上の「シャットダウン」が出来ない。すぐにパソコンが勝手に立ち上がっちゃうんですよ。
 ノートなので仕方なくコードを抜いて、電池も放り出したけれど、それでもダメ。
 ウイルスバスターを止めようと、「ctrl」+「alt」+「Delete」を押して愕然。CPU使用率が常に100%になっている。なんだこりゃ?

 そのPCの担当者が他のPCを使ってネットサーフィンして情報収集をしようとしたら、簡単に見つかりました。
「パソコンのトラブル。常にCPUが100%……どうたら、こうたら……これだ!」
「じゃあ、トレンドマイクロのHPに対処方法が書いてるんじゃない?」
 ……というわけで、復旧したのですが。

 でもね、僕が決定的に怒りを覚えたのは、対応の誠意のなさ。
 24時間電話受付窓口を開設とか、申し訳ありませんでしたとか、口先ばかりの対応で、肝心なことが出来ていない!
 それはなにかというと、電話・ファックス・メール等で対応とホームページに書いてあるのに、メールアドレスがどこにも書いていない!

 PCが動かないのだから、HPに掲載してても意味は薄いけれども、でも、電話やファックスはそれこそPCでHPを見ることの出来なかった人で回線はパンクしているはずだ。つまり、繋がらない! その点メールなら、送信だけならどんどん出来る。受けたほうは、対応方法をコピーペーストしてどんどん返信するだけで済む。こうして、メール環境が使える人には極力メールを使わせて、電話回線の負担を減らすのも大切な仕事の方法論だと思う。
 それが出来ないのは想像力が欠如しているからで、なんとか少しだけでも状況を良くしようという誠意がないから、誰もそんなことを思いつかないのだ。

 HP上で問い合わせをしようとしたら、お決まりのフォームのページが出てくるし、そこに入力しようにも、「まずログインして」だって。ふざけるな。
 こんなときこそ、メールはこちらに、と迅速にページを書き改めるべきなのに、直メールは絶対受け付けません、ユーザーである証をまず入力しろ(ログインしろ)とは、自分たちのミスを認めていないことに他ならない。なんという傲慢な態度だろう。

 そんなことをするつもりはなかったのだが、これでカチンときた僕は、結局「会社概要」のページからアドレスのひとつを探し出し、そこへ苦情を送りつけた。

 (1)社会的責任をどうとるつもりなのか(2)発生した有形・無形の損害をどのように補償してくれるのか
 これが苦情の要旨である。

 メールには書かなかったが、これくらいのことをしなければ許されない、という僕の意見は以下の通りである。
 (1)ユーザー登録をしている全てのユーザーに対し、謝罪文とFDの送付。FDには、FDからPCを立ち上げるためのOSと、問題のファイルを自動修復(削除?)するためのバッチファイルを入れ、FDからPCを立ち上げて簡単な操作で復旧できるようにしておく。
 (2)パソコンが動かないのに、HPに復旧方法を書いていてもどうしうようもなかった人も多いだろう。おかげで、パソコンショップに持ち込むなど実質的な金銭負担を強いられたユーザーもいるはずだ。それらにかんしての金銭的賠償。
 (3)ユーザー登録をしている全てのユーザーに対し、有形・無形の損害を賠償するために、一定の金額を一律で支払う。金額は5000円くらいが妥当であろう。また不服とする者に対して、追加請求をするためのシステムと窓口の設置。
 (4)主要な新聞や雑誌等に広告を出し、謝罪文と、復旧方法を掲載。

 今回のミスは許されることではないかもしれないが、しかし、ミスは誰にだってある。企業などでこうむった損害は賠償すべきだと思うけれども、ここまで厳しいことを要求するのは一般的には行き過ぎだと思う。けれど、HPにきちんと対応部署のメールアドレスが掲載されていなかったために、僕はここまでエスカレートした要求を出さざるを得ないくらいに怒ることになってしまった。
 誠意の無さが原因である。


愛知万博  2005/04/某
 まったく興味ありません。

 ああいうイベントは、スタートから一週間で勝負が決まるそうで、それによると「惨敗」なのだそうです。……と、妻は言ってます。
 僕は全く興味がないし、人ごみは嫌いだし、暑いのも苦手。2月に開催されていたら行ってもいいかなとは思うのですけど、この手のイベントは2月にやってたためしがないですよね〜。

 これも人に聞いた話なのですが、弁当持込禁止なので、会場内の食堂でメシをくうことになるのだが、食券を買うのに1時間、食券を食べ物に引き換えるのに40分、挙句、席が無くって立ち食いって……おいおい、舐めるなよな。

 惨敗と陰口叩かれるほど入場者数が少ないのに、これか?
 客商売で、待たせるっていうのは、最悪中の最悪なんだよな。

 そもそも、飲食物持込禁止の理由がすごい。テロ対策、なんだって。
 冗談じゃない。
 そりゃあ、空港とかターミナル駅とか、その人が望むと望まぬとに関わらず行かねばならないところなら、テロ対策は万全にしてもらわなくちゃと思う。
 けれど、万博だぜ。イベント会場だぜ。大勢の人があるまるんだから、テロのターゲットとしてはこんなに有効な場所はないだろう。でも、危機回避したければ、行かなければいい。
 万博の客は、命が危険になるかもしれないというリスクを当然、覚悟して行ってるはずだ。だって、危ない、嫌だ、と思うなら、行かなければいいんだからな。仕事や所用で空港や駅へいかねばならない人とは根本的に違うわけ。

 テロの標的になるかどうかはともかくとして、この先の季節、炎天下で延々またされるわけだから、日射病や熱射病の危険もあるし、伝染病が爆発的な勢いで広がるかもしれないし、ただ人ごみに気分を悪くする人だって多数発生するはずだ。
 僕は、だから、行かない。精神的にも肉体的にも疲弊するだけだもの。
 だから、テロだけに神経質になっても仕方ない。命はひとつなんだから、テロにあって死ぬも、日射病で死ぬも、同じなんだよ。何人死ぬかが問題じゃなくて、自分が生きるか・死ぬかが問題なの。だって、繰り返すけれど、命はひとつだぜ。
 にもかかわらず、「テロ対策で飲食物持込不可」って、なんだよ。ああいうのは、家族とか友達とかでお弁当持って、ピクニック気分ででかけるのだって、楽しみの一つだし、それを奪ってまで「テロ対策」するのは、「リスク回避したければ、行かなきゃいい」と割り切れる客の立場の考え方ではなく、そこに毎日行って仕事をしなくてはいけない従業員の立場なんだよ。

 従業員のために、客に理不尽な不便を強いる。
 これじゃ、人気など出るわけが無い。

 なんか、弁当の持込はOKになるとか、なったとか聞いたけれど、飲み物はダメとか、なんか制限がつくらしいですね。くだらねー。

 あ、ついでだけど、ジェットコースターかなんかの絶叫マシンで、シートベルトが出来ないほど太っている人が乗って、シートベルトを着用しないままで、結局、落ちて死んだ、ってことらしいけれど、まあこれは仕方ない。ああいうのは、以前にも書いたし、ここの愛知万博批判と同じ精神なんだけど、「命と引き換えにスリルを味わうエンタテイメント」なんだから、死んでもいい。本人の責任だ。死にたくなければ乗らなくて済むものなんだからね。このへんが飛行機や新幹線と根本的に違うところだ。


アワーズライト  2005/03/09
 2002年8月、というともう2年以上前になるけれど、ある雑誌が休刊になった。その誌名が「アワーズライト」である。マンガの月刊誌だ。
 非常にくせのある画風の作品が多く、編集の意図はともかく個人的には相当マニアックな路線を狙ったのではないかと思われるのだけれども、好きな作品も多かった。
 書店でも入手しづらかったので、職場に出入りしていた「配達専門の無店舗書店」さんにお願いして、定期購読をしていたのだ。

 休刊になったとはいえ、本の方向性としては間違っていなかったと思う。その後に創刊された「サンデーGX」や「チャンピオンRED」や「IKKI」などになんとなく同じ匂いを感じるし、出版社が大きくて大量に流通さえしていれば、成功していた雑誌だと今でも思っている。

 版元は「少年画報社」。「アワーズライト」は、少年キング(既に休刊)の兄弟誌の「ヤングキング」の兄弟誌の「ヤングキングアワーズ」のそのまた兄弟誌であり、これだけマイナーだとさすがに売れないかなあ、という感じだ。けれども、根強いファンがいるようで、「アワーズライト」からも「アワーズガール」という少女向き兄弟誌が出ていた(これは3号までで、その後が出ていない。多分今後も出ないだろう)。
「アワーズガール」もなかなかに力の入った雑誌だったし、有名どころの作家さんも描いていた。少年画報社からレディコミは継続的に出ているけれど、もしかしたらはじめての少女誌だったのじゃないかな、と思う。

 それはともかく、ひっそりと創刊され、ひっそりと消えて行った雑誌の割には、蘇っている作品なんかもある。

「純粋! デート倶楽部」(石田敦子)は、ただちに掲載誌を引越しして、無事完結。その後、同系列の「ヤングキングアワーズ」で「アニメがお仕事」を連載し、高い評価を受けている。
 大好きだった「金魚屋古書店出納帳」(芳崎せいむ)は、少年画報社からの単行本は入手しそこなったものの、小学館の「IKKI」で「金魚屋古書店」として復活、この1巻の発売と同時に旧作の「金魚屋古書店出納帳」も新たな書下ろしが加えられて上下巻2冊があわせて出版された。驚くべきことに3冊同時刊行である。
 2冊同時、というのは時々あるけれど、3冊となるとすごい。「モーニング」連載の「オープンマインド」で一躍人気作家の仲間入りを果たしだだけのことはある。前後を見渡して、3冊同時刊行がなされているのは、少年チャンピオンコミックスで新装版が出ている「ブラックジャック」(手塚治虫)くらいしか見当たらなかったが、ようするに巨匠とならぶ扱いである。
 しかしその後、3冊同時発売も時々みかけるようになった。「釣りキチ三平」の「矢口高雄作品」が、「平成版6巻」と「海釣りのハウツーもの」と「9で割れ」の3冊で出る。また、「高河ゆん」も「loveless5巻」と「超獣伝説ゲシュタルト1・2巻」が同時に出た。「loveless」は普通版とおまけ付版の2種類があるから、4冊同時発売(?)。すげー。

 話がそれた。元に戻そう。
 そのほかに、「エビアンワンダー」(おがきちか)が「アワーズライト」に連載していたが、書下ろしを加えて完結にし、コミックスが出るはずだった。実際に出たのかどうかは知らないけれど、入手はできていない。しかしこれも、「エビアンワンダーREACT」という続編(?)が描かれているらしい。まだ目にしていないので、詳しいことはわからないけれど、「loveless」と同じ出版社なので、古い「エビアンワンダー」も出して欲しいなと思っている。

 ところが、である。
「紺碧の國」(水原賢治)がちっとも復活しない。1本のストーリーだから、「三国志」や「火の鳥」みたいに掲載誌を変えながら連載というのも辛いのだろうけれど、それにしても、あれだけクオリティーと独自性が高く、本人のHPでも続きを望む声が多かったのに、本当にどうにかならないものか、と思う。
「金魚屋」だけならともかく「エビアンワンダー」まで復活しているんだから。そう思うと悔しいのだ。
 あるいは、単行本描き下ろしとかでもなんとかならないか。大都社あたりでどーにかしてくれないかと思うのだけれど、描き下ろしは扱ってないのかなあ?
 復刊ドットコムで、復刊どころか単行本化されていなかった「アニマルDr.由乃」(小山田いく)が出たけれど、こちらもあくまで雑誌掲載済みのもので、まるまる一冊(または2冊)描き下ろしなんてやらないだろうしなあ。

 もともと全部で単行本3〜4冊の予定でストーリーが完成している、というのだし、作者が故人となったわけでもないわけで、これは絶対に最後まで読みたい物語なのですよ。


文章を書く、ということ  2005/03/06
 新連載企画が進行中のぶんか社の編集さんと、電話で打ち合わせをした。
 既に提出済みの原稿の「ダメ出し」について、その理由と、次回からは気をつけてください、という内容である。

「ここは説明不足で、もちろん内容から類推はできるんですけれども……」
 なるほど、と思った。
 商業誌では、というより、文章というものは、「読者に考えることを強いてはならない」のだ。
 これくらい考えたらわかるだろう、というのは、筆者のわがままであり、甘えなのだ。
 僕は推敲の際、「これは何が言いたいのかわからないな」と感じた部分については手を入れているし、過去作品も、実はあんまりできていないけれど、折りに触れては読み返して、書き上げた直後はわかったような気になっていても、時を置いて(書き上げたという熱が冷めて)から、「それでもわかるかどうか」検討すべきだと思っている。

 しかしそれは、「何が言いたいのかわかるか、どうか」であって、「考えなくてもすんなり頭に入ってくるかどうか」ではなかったのである。

 さすが、プロの編集は違う……
 いや、僕もプロの編集なんだけれども……

 同じ理由で筆者にダメ出しをしたり、自ら書き直したりすることは、よくある。しかし、なかなか筆者にわかってもらえない。その場は僕が書き直して良しとしても、その筆者は何度も何度も同じミスを繰り返してくる。僕は何がダメなのかを一生懸命説明する。でも、わかってもらえない。
 それは、はっきり言えば感覚的な違和感である。「これじゃ、読者に伝わらないよ」「読者が悩むよ」「何を言ってるかわからないよ」「唐突すぎて意味不明。前段をきちんと書いてくださいよ」「言いたいことがひとつの文章にみっつもよっつもあって、こんがらがってるよ」なことの集大成(?)というか、いくつもの要素が絡み合ったシンドロームみたいなものなんだけれど、「どういうことに注意してください」の一言があらわせなかった。

 それがすなわち、「読者が考えなくても済むような書き方をしてください」だったのだ。
 これまでいくつかの「文章の書き方」なる書物を読んだけれども、残念ながらここまでズバリと指摘したものは記憶にない。もうひとつ残念なのは、僕のプロとしての編集の仕事は、もうすぐ終りなのだ。全く終わるわけではないけれど、社内のシステム変更で、「編集そのものをする」から、「編集と筆者のなかつぎ的な役割になる」に変わってしまうのだ。せっかく極意を会得したのに、役に立つ場面は減るだろう。

 ともあれ、このサイトには物書きさんがたくさん来ているはずだし、中にはプロを目指す人もいるだろう。
 新人賞応募からなかなかプロデビューできないとか、新人賞出身でその後もプロとして活躍している人が少ないとかいう、その一因に、やはりプロの編集さんからの直接的なアドバイスが得られないのがあるのではないだろうか?
 僕の場合、今回は担当編集さんと一緒になって企画を立ち上げたからこそ、こういう言葉も耳に入ってくるんじゃないかななどと思う。

 ともあれ、プロを目指すみなさん。「読者が考えなくてもわかる文章を書く」。これは大切です。心の片隅にとどめておいて推敲をしようじゃないか。自戒も含めて。


一年に20秒  2005/03/05
 パソコン雑誌など滅多に読まないのだけれど、タイトルに惹かれてコンビニで買った一冊がある。
 それによると「1年に20秒増える」のだそうだ。何が増えるのかというと、起動にかかる時間である。

 なるほど!
 やっぱりそうなのか!

 5インチフロッピーディスクでパソコンを立ち上げていたときは別として、ハードディスクからパソコンを起動させるようになってから、パソコンの起動時間の遅さにずっとイライラしていた。
 新品を買うたびにその速さに感心したのだが、いつのまにかまたイライラするようになってしまう。
「速い」のに慣れてしまったので、その速さではもはや「速い」を実感することがなくなったのだろうか、とも思ったが、明らかに性能が劣化しているとしか思えないくらいにやっぱり時間がかかる。なぜだろう?

 その謎が解けたのである。

 もちろん、パソコン本体もハードディスクも劣化する。ハードディスクはドッチファイルのようなバインダーじゃないんだから、ユーザーが使いやすいように記録場所を入れ替えるなんて芸当は出来ない。見た目はひとつのファイルやプログラムであっても、あちこちに飛び散っているので、使えば使うほど、かき集めるのに時間がかかるのは承知していた。けれど、それだけでは遅さの説明がつかない。
 答えは、「いつのまにか余計なプログラムが起動して常駐するようになる」である。

 思えば、ハードディスクから起動するのが当たり前になった頃から、パソコンやOSは、余計なことをしすぎる。
 余計なソフトがいっぱいインストールされていてハードディスクは圧迫されているし、ウインドウズなんて、まずはカスタマイズしなくては使い物にならないし、その上、余計なこと・勝手なことをしすぎるのだ。

 その本によると、「不必要な常駐ソフトは削除すべし」とあるが、僕のような素人には何が不必要でなにが必要かなんてわからない。
 そのくせ、パソコンやOSの初期設定など、ユーザーを馬鹿にしきったほどの「素人向け」がデフォルトとなっている。拡張子くらい表示しとけ。フォルダを開けたら、全てのファイルを表示しろ。見た目ばかり華やかな最新のウインドウズはなんだ! クラシックで十分だ。というか、どうしてわざわざクラシックに切り替えないと、ロクに使い物にならない画面になってるんだ?

 ほんと、なんとかならんかね。

 余計なことは一切しなくていいから、スピードを劣化させないで欲しいものだ。

 そうそう、起動だけじゃなくて、動作のひとつひとつに最近は時間がかかるようになってきた。だから、たまにサクサク動く状態で起動したら、シャットダウンせずに、「スタンバイ」状態でパソコン作業を終わらせている。これだと、次に作業をするとき、サクサク状態が維持継続できているのだ。スイッチを押す、といういつも変わらぬ操作をしているだけなのに、なぜ時によって時間がかかったり、かからなかったりするんだろう?


和式便所とローライズジーンズの関連性  2005/03/04
 久しぶりに「わお〜」に手をつけたかと思ったら、いったいどんなタイトルやねん。
 そんな感じですが、今日は「和式便所」と「ローライズジーンズ」についてです。

 男でローライズはいている人はあまりまだ見かけませんが、僕はここ3〜4年、ずっとローライズジーンズです。
 で、こないだ久しぶりに、和式便所を使ったんです。公衆便所では洋式って使いたくないのですが、家でちゃんとう○ちは済ませる習慣が基本的にはあるし、職場だったらトイレットペーパーがちゃんとあるから、便座に敷いてその上に座っているので、ずっと公衆便所で大きいほうをする機会がなかったんです。

 でも……。
 緊急なことだってあるわけです。
 で、和式を使ったんですが、これがなんと、極めてラクチン。びっくりでした。

 和式で長い間しゃがんでいると、足がしんどいじゃないですか。その原因が、折り曲げた足の間に、ズボンやらパンツやらがタップリ挟まって、太腿の下側を圧迫し、血行を阻害していたからだと気がついたんです。
 ローライズだと布が少ないから、血行を阻害するほどじゃなかった、というわけなんですね。

 それに、ローライズ、最初は違和感があるかもしれませんが、慣れてみると、日常的にラクチンです。
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