「わお〜」な想い



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もうだめ〜、メロメロです。  2003/10/23
 約2年ぶり、沢田聖子のオリジナルアルバムが発売になりました。(正式な発売日は22日で、一日遅れで入手)

 かあ〜。もうメロメロです。たまりません、ほんと。
 アルバムタイトルは、「心は元気ですか」

 今回のアルバムは、これまでにも増して「痛い」。とっても痛いです。
 一枚のアルバムを通しで聴くと、必ずいくつかはぐっと来るフレーズがあるんですけど、「生き方を変えてまで欲しい愛がある」って、それ、なんなんですか。
 それほど思いつめる恋愛って……。
 言い換えれば、何もかも捨ててってことだよね。それを「生き方を変えてまで」って表現したりする、これが沢田聖子ワールドなんですよね。

 これは6曲目の「恋心」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)って楽曲。

 沢田聖子の良さっていうのをちょっと語りたい。
 彼女の曲のフレーズやテーマの根底にあるものっていうのは、実はものすごくシンプルでわかりやすい。今はJ−POPっていう大きなカテゴリに入っているけれど、もともとはフォークソング。だから、それをそのまま作品にしちゃうと、とても甘ったるくて気恥ずかしくて青臭い。
 ただ、それをそのままの状態で置いておかずに、さらにその先へ進んでしまうのが彼女の凄いところなんだよね。

 例えば、8曲目の「おやすみララバイ」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)
 おそらく企業戦士みたいなサラリーマンが疲れ果てて身も心も傷ついてっていうシチュエーションで、聖子さんが「私の腕の中でおやすみ」って歌うんだけど、これもすっごくありふれててめちゃくちゃ青臭いのよね。今更こんなことを歌にしてどーすんのよ、っていうテーマだと思うのね。
 でも、それがそこで終わらない。そういう状態の男を「傷ついた翼を手当てもしないままでまた羽ばたく」と表現されたりなんかすると、思わず、「うん、そうそう」って。しかも「哀しみが枯れるまで包んでいてあげる」だなんて、どんだけ優しいねん。もーたまらんわ。それに、普通は「哀しみ」が癒えることを「枯れる」だなんて言わないよね。そう、癒えるんじゃなくて、もう消えてなくなるまでってことなんだな。

 そして10曲目の「息子からの伝言」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)も、アメリカ同時多発テロをモチーフにした「どうして今頃?」な曲。だけど、これが泣かせるのよ。失っても取り戻せるものと取り戻せないものがあるって。どうしてそんなことを引き合いに出して命の大切さを訴えることが出来るだろう?

 だけど、振り返ってみると、沢田聖子はこれまでにも相当、青臭くて気恥ずかしい曲を作っている。でも、どれもこれも、彼女の世界観って言うのは、それを乗り越えた一歩先にあるんだよね。
「悲しむ程まだ人生は知らない」(沢田聖子作詞・作曲・渡辺博也編曲)は、きっとその前提に悲しい出来事とかがいっぱいあって、まあへこんでたりするわけよね。でも、へこんでちゃダメだとか、前を向いて歩こうよ、みたいなクサいことを言わずに、「悲しむほど人生なんてまだ知らないんだからさ」ってやっちゃうとこがイイ。
 その後に発表された「せつなさを抱きしめて」(沢田聖子作詞・作曲・安斎孝秋・TACO編曲)なんかは、「悲しむほど…」のようにへこみを否定せずに、もう肯定してしまってるわけよ。様々なへこんでしまったことをもう抱きしめてしまってるわけよね。全てを認めてしまったうえで、なんだから、普通ではなかなか出来ないし、これができたらもう何も怖くないよね。

 過去曲と比較すると、「恋心」で“生き方を変えてしまう”っていうのもすごいことなんだよね。
 これまではわりと、夢や道のために、愛し合っているけれどお互いのために別れるっていう楽曲がいくつかあったの。例えば「No Goodbye」(原真弓作詞・沢田聖子作曲・平井宏編曲)。サヨナラしてもお別れじゃない、なぜなら「心の中ではいつでも会える」って。これは痛いよね。実際は想うだけで会えるわけでも触れられるわけでもないんだから。
 それから、「Respect」(沢田聖子作詞・作曲・戸塚修編曲)も。だって、「今まで出会った人の中で一番大好きだった」人なんだよ。だけど、だから、もっと輝いて欲しいから、別れる、だなんて。

 こういう世界観もそうなんだよね。愛し合っているからこそお互いのために別れる、だなんて、なんだかほんとに「くっさ〜」って言いたくなってしまうようなものなんだけど、沢田聖子の楽曲に描かれているそれは、そんな甘っちょろいもんじゃないの。めちゃくちゃキツくて痛い。

 もっとも、彼女の曲はそういうものばかりじゃない。どちらかというと、僕が彼女にのめりこんでしまったのは、あまりにもそのときの自分に重なる唄が多かったから。
 彼氏のいる女の子を好きになったときに聴いた「ステディガール」では、はっきり言って「エッチしても自分のものになってくれない」って主人公は嘆いていて、実はその通りの恋愛を僕はしていたし、遠距離恋愛していたときには、まさしく遠距離恋愛を唄った「約束」に励まされたし、婚約から結婚の時期にちょうど、「乗り越えていけるね」(どっかの結婚式場のイメージソングだったらしい)って曲が発表になったりしてね。これは、どんな明日が来ても乗り越えていけるねっていう歌です。

 あんまり売れている歌手じゃないし、有名でもないんだけど、先日インディーズでCDを出したら、どっかの店でインディーズ売り上げトップになったみたいで、それくらいの人気はある、っていう感じかな。コンサートをしたら5000円の人だから、だいたいどういうランクの人かはわかってもらえると思う。

 もし、あなたが沢田聖子を知らなくて、そして、「たまにはこれまで馴染んだのとは違う音楽を聴いてみたいな」とか「詞や世界観をじっくり味わってみたいな」とか思ったら、今発売になったばかりの「心は元気ですか」はおすすめです。日本クラウンから出ています。

 残りの曲も紹介しておきます。「ナンクルナイサ」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)は、沖縄音階と三線を使った沖縄民謡っぽい唄。ナンクルナイサはなんてことねーよ、って意味らしいです。「Place of Life」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)は、自分って何? 人生って何? みたいな曲ですけど、人生はゲームじゃないんだから誰かと競い合ってもねえ、ていうフレーズがお気に入りです。そういえば、昔の違う曲にも人生はゲームじゃないんだよって詞がありましたね。歌えるんですけど、タイトルが思い出せないです。
 それから、「君は友達」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)はペットのことを歌った曲。茶色い尻尾をふっているので、多分犬でしょう。「想い出にできない」は(沢田聖子作詞・作曲・編曲)別れの曲。でも未練タップリで、なにひとつ浄化できないっていう、ちょっと辛い別れの歌です。正直言って、この曲だけが聖子さんのレベルとしては駄作に近いかも。単なる失恋の歌っぽくて、背景がよくわからないから。
 「Pacifism」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)は、反戦、平和を願う歌。「ひとり愛」(沢田聖子作詞・作曲・編曲)はと〜ってもと〜っても片思いな楽曲。詞というよりも、それはまるで詩。朗読したらきっとめちゃくちゃ綺麗です。
 そして、「星より遠い」(谷山浩子作詞・作曲・沢田聖子編曲)は、切なくて痛い失恋の歌。もともとは聖子さんに頼まれて浩子さんが作ったんだけど、なんと聖子さんがリリースする前に浩子さんがセルフカバーしてしまったというエピソード付き。谷山さんの言い訳は「だって、アルバム収録曲が足らなかったんだもん」だそうです。


 そんで最後に苦情一発。
 なんでイベントやってる新○堂に「心は元気ですか」を置いてね〜んだよ。


その宿題の出し方、おかしくないか?  2003/10/20
 今日、小5の息子が宿題をもらって帰ってきた。
 その宿題というのが、「1週間前から今日までの、新聞の天気図の切抜きをノートに貼ってくること」である。
 理科の宿題で、それを教材にしようというのだろう。

 僕は「そんな宿題の出し方はおかしい」と思い、息子に訊いた。「それは、本当に今日、言われたのか? 一週間前に言われてたのに、ずっとうっかり忘れていて、提出期限の前日になって慌ててやってるんじゃないのか?」
 しかし息子は、「今日、はじめて言われた」と答えた。

 小学校の宿題の出し方も、随分ずさんになったものだと思う。あるいは、先生が思いつきで日々の授業をすすめているのだろうか。
 古新聞の取り扱いなど各家庭様々なのは当然のことで、一週間分、きちんとそろっているとは限らない。そんなことに思い至らないような人が教育者でございと看板を上げてて、教育は大丈夫なのだろうか? そんな学校や教師を信用できるのだろうか?
 案の定、我が家では、一日分の新聞が欠落していた。これでは教材になるまい。

 しかも、今日から一週間さかのぼると、その中には新聞休刊日がある。それでいいのか?
 せめて、「来週、1週間の分を集めなさい」くらいの宿題には出来なかったのだろうか。

「今日から一週間、新聞の所定の記事をスクラップしなさい」というのなら、それなりの教育的効果はあるだろう。しかし、それを言われた時点(つまり今日)で、「過去へさかのぼる」という課題は、本人の努力だけではそれをなすことが出来ない可能性がある。そんなものを教材にしようなどというのは、手落ちである。
 過去にさかのぼって、天気図を本当に教材にしたいのであれば、教師が自分で集め、それをカラーコピーすればいいではないか。
 日数に余裕があれば、図書館などでコピーをとらせてもらうことも可能だが、今日の明日ではこれまた全ての家庭で可能である保証はない。

 気配りと想像力に欠けた教師に、教師たる資格はないと思うが、いかがであろう?


JR西日本様 「JR宝塚線」は廃止してください  2003/09/29
 三田発8時23分の「大阪行普通」が駅に停車したまま動かなくなったのは8時34分。西宮名塩でのことであった。
 車内放送は「宝塚駅で列車が止まっている」「宝塚駅が満線なので発車出来ない」「前の列車が発車しだい順次出発する」であった。
 やがて停車の原因が「中山寺−宝塚間」の架線の停電によるものとの案内があり、「下り電車は動いているが、上りは止まっている」である。
 実はこれが全くのデタラメで、朝日新聞夕刊によると8時25分頃「塚口駅」で停電がおきたとなっている。

 僕は8時48分に会社にメールで「遅れる」ことを通知(まだ誰も出勤していない時間なので、電話をしても意味がないからだ)、確かその頃だったろう、「阪急バスと交渉中」との駅アナウンスに続き車内放送でもその旨が流れた。
 しかし、どうやら復旧したらしく、下り電車が2本ほど三田方面へ向かう。
 後に、8時50分から、神戸電鉄や北神急行、阪急、阪神その他で振替輸送が始まっており、このことがきちんと放送されていたら、多くの乗客が下り電車で三田に向かい、神戸電鉄と北神急行を使って神戸経由で大阪に向かったであろうと思われるが、一切のアナウンスはなかった。
 携帯サイトにつないでも、「遅れなし」としか掲載されていない。

 その後、僕はトイレへ。その間に僕の乗っていた列車は出発してしまい、すぐに続行の「快速大阪行き」がやってきて停車。運転は再開されたはずだった。僕の携帯記録では、9時34分に「運転再開。前がつかえているので到着がいつになるかわからない」と会社へメールしている。もちろんこれは車内アナウンスに従って文字を打っている。
 しかし「快速」はいつまでたっても出発しない。記憶が定かではないが、車内放送では「運転の再開には至っていない」ようなニュアンスのアナウンスが流れ、僕は9時51分、「どうやら運転再開はしていないらしい」と再度メールで会社に連絡を入れている。

 朝日新聞夕刊によると、停電区間で立ち往生した列車の乗客を9時20分頃から徒歩誘導を始めたとあるから、9時34分の「運転再開」が正しい情報だったのか誤っていたのか判断が出来ない。(※しかし、おそらく正しい情報だったと思われる。理由はあとで述べる)

 10時過ぎに代行バスの手配が出来たと放送があり、駅前へ移動する。9時前には阪急バスとの交渉をしているのだからこれはあまりにも遅く、いったん「運転再開」の情報により、代行バス依頼を中止したのだと推測できる。いくつかの前例もあり、阪急バスのこういうときの機動力はすさまじく、こんなに時間がかかるとは思えないのだ。
 事実、駅前に出ると、他の行き先を掲げていたバスが急遽代行バスになり、そのバスが本来行くはずだった目的地へは別のバスがあとから駅前に到着するよう手配されているように思えた。(復旧情報が正しかったと思われる理由その1)

 阪急バスで阪急宝塚についたのが10時35分ごろ。
 JR宝塚駅を外から覗くと、どうやら三田を8時18分に出た快速と、8時23分(僕が乗っていて、トイレへ行っている間に出発してしまった)大阪行き普通の2本が停車している模様だが、そのもう一つ前、8時16分発の特急は既に出発しているようだった。そう、特急はきちんと走っていたらしいのだ。(復旧情報が正しかったと思われる理由その2)しかし、この特急が大阪にいつ着いたのかは定かでない。

 10時43分発の阪急宝塚線梅田行き快速急行に乗車、約35分で梅田着。大阪駅に確認に寄った所、出発時刻案内の電光掲示板にはどの列車にも「遅れ○分」の表示はなく、「運転再開、JR宝塚線ダイヤが乱れている」の掲示が流れるだけ。
 しかし、その他の線区についてはいっさい遅れのアナウンスがなく、実際遅れていなかったものと思われる。携帯サイトにつないで見ると、ダイヤの乱れの影響が出ているのは「JR宝塚線」のみとなっている。

 そんなバカな!
 東海道線や山陽線でダイヤが乱れたときなど、宝塚線もガタガタになる。なにしろ普通が15分に一本乗り入れており、さらに尼崎駅をまたいで東西線から快速が15分に一本乗り入れている。JR宝塚線がこれだけ乱れているのに、東海道線その他線区に一切影響が出ないなど普通では考えられない。

 そこで、出した結論がこうである。
 「ええ? JR宝塚線でトラブル?? そんなん、停めておけ。適当に振替と代行バスでなんとかしろ。それよりなんといっても東海道線を乱すな。復旧した? 放っておけ。いま宝塚線を運転再開させたら、他の線区もガタガタになる。とにかく宝塚線は止めておけ」

 こんな列車指令が出されたに違いない。
 だからこそ、9時34分にいったん運転再開をしておきながら、朝日新聞によると「10時54分全線で運転再開」なのだ。

 JR宝塚線(福知山線)の客をナメとんのか。その程度の重要度しかないと認識しているなら、早速廃止してくれたまえ。阪急か神戸電鉄に譲渡してもらいたい。そうすれば、通勤がラクになる。


新連載構想  2003/09/28
 連載中の作品がたくさんあるのに、新連載構想とはこれいかに。

 へっへー。すいません。でも、近いうちにいくつか完結する予定ですので。
 同時複数連載なので、どうも連載期間が長くなっていけません。読者の皆さん、じっとこらえてお気に入り作品の更新をオマチクダサイ。もちろん、全部を気に入っていただければそれはそれでいいのですが、そうもいかないでしょう。

 先日、この欄に「新・サイクル野郎」とか書きましたけれど、それより先に連載開始して多分10回に及ばず終了するであろう作品をまずは準備中です。
「夜明けの町」に続く旅先恋愛モノで、今回は実在する地名が色々と登場します。フィクションで架空の場所とかも出てきますが、「夜明けの町」よりかはリアルを参考にしています。
「夜明けの町」も、2次創作してくださっている真北さんがサイトを閉じるので、それもこちらへ掲載許可を頂きました。
 タイプの異なる旅先恋愛モノ、お楽しみくだされば幸いです。

 つーわけで、新連載予告でした。


鉄腕アトム by 小林弘利  2003/09/28
 日曜日の朝、というとアニメが楽しみなんだけど、だいたい子供たちに食事を作ってあげて(休日はいつの頃からか妻より先に起きて(起こされて?)子供たちの食事を作るのが日課なのです)、2度寝するから、それほどたくさん観ているわけでもないのです。

「ナージャ」は好きで、やっぱり金春智子さんの脚本はいいなあ、とかいつも思いながら。
 今日は時間帯が少し遅く、久しぶりに「鉄腕アトム」を観ました。
 で、番組のエンディングで「シナリオ 小林弘利」のクレジット!!
 おお!
「東京キングダム」「東京キングダムの逆襲」そして、「ナイトビューティー」シリーズ2冊をもって、小説がまた出なくなってしまった小林弘利さんの、もしやこれが最新作ではなかろうか!

 手塚プロ作品にいまさら辻真先さんがシナリオを書くとも思えず、脚本が誰か、ということまでこれまであんまり注意していなかったんですね。しかし、小林弘利作品だったとは。う〜む。多分これまでも何度かは書かれているのでしょう。(アニメは普通、数名のシナリオライターが交代で担当し、それぞれの作品がばらばらにならないように「シリーズ構成」という役どころの人が全体の流れを統括します。シリーズ構成担当がメインのシナリオライターになることも多いようです)

 小林さんの作品は「セントクレアシリーズ」で大好きになり、それ以前の作品、例えば「童話を胸に抱きしめて」シリーズや、その後の作品などもかなり欠落していて、ファンとしては非常に胸が痛んでおりました。
 最新作の「ナイトビューティー」にしたって、既に「復刊ドットコム」の対象になっていて、「もう絶版なのか?」と呆れるほど。

 それはともかく。
 本日の鉄腕アトム、言われてみればなるほど「小林作品」です。薬品のせいで暴走成長をしてしまった植物を止めるための「薬品」が、本来植物の持っている力を活性化させる(で、いいのかな?)ものだった、というお話。植物自身の力を借りて、ということですね。
 こういうポリシーが小林作品のミソなのです。


一方、最低のテレビもある。  2003/09/28
 テレビアニメの「第1話」と「最終回」とかいう番組があって、番宣の段階から楽しみにしていたんだけど、いやまあ、よくもここまで最低の番組を作ったものだ。

 ベスト100の触れ込みだけれど、実際には途中を飛ばすこと飛ばすこと。放映されるのは、これまでに何度も取り上げられた作品ばかり。「ハイジ」「フランダース」「マジンガー」「巨人の星」「妖怪人間」「ハッチ」「メゾン」「一休」「ルパン」など……。
 途中をすっとばすんなら、なにも「ベスト100」でやらなくてもいいわけだよね。最初から放送時間内に終わるように「ベスト30」とかくらいにしておけばいいんだ。

 多分、制作スタッフがよく知らないアニメは「無視する」というか「取り上げられない」というか、要するに不勉強なのでしょう。

 だいたいこういうのは、ベスト100の下位順位のものの方が、知られざる場面とかが出てきて面白いんだよねえ。
「ヤマト」の打ち切りの理由も、大きく間違ってるしね。「ヤマト」開始半年後に裏で強力なアニメが始まったから打ち切りだなんて、そんなわけないでしょ。それまでの成績(視聴率)が振るわなかったから打ち切りになったんです。それは、「それまで」の裏番組のせいであって新しい裏番組のせいじゃないです。ヤマトの強力なライバルはね「猿の軍団」ですよ。だいたい僕がヤマトに背を向けて「猿の軍団」を観てたくらいですから。
 それに原作のヤマトはそんなに長い作品じゃないしね。原作に忠実にアニメ化したら、せいぜい2時間だろうなあ。
 それと、これはあんまり自信はないんだけど、以前に「聞いた話」では、もともとヤマトは半年の予定で、最後の2〜3話がカットされたのであって、1年の放送予定が半年になったんじゃなかったと思うけどなあ。

 エヴァとかがすっ飛ばされたのにもムカつくし、オタクを装った出演者がさも自分がチョイスしたかのように100位とは関係ないものを紹介するし、CMの前後で同じシーンを繰り返して流して時間稼ぎをするし、全く何をやってるんだろうね。
 あんなんでアニメファンを満足させることが出来ると思ったら大間違いだ。
 出演者の交渉をする暇があったら、制作スタッフはもっとよく勉強しろ!


まさかのアスワン  2003/09/15
 えー、拙作に「アスワンの王子」というアダルトファンタジー小説がありまして、まあ随分前に完結はしているんですけれど、びっくりしました。

 アスワンという地名が実在した!

 いえ、だからどうと言うことはないのですが、全くの架空の話のはずだったのにねー。
 もちろん、日本じゃありません。
 さて、どこでしょう?
 エジプトです。

 う〜む、全くイメージに合わない、というわけでもないですね。そのうち訪れてみたいです。


阪神優勝  2003/09/15
 いやあめでたい。

 阪神優勝関連のテレビ番組を見ながら、妻とエッチしました。
 ではまた。

 日本シリーズが問題ですね。南海時代から応援しているダイエーとですからね。どっちを応援したらいいやら。
 しかし、夢にまで見た「阪神」VS「ダイエー(南海)」です。


ジェットコースターの安全性  2003/09/07
 ジェットコースターなんて、安全なわけがないでしょ?
 ああいう乗り物は、命をかけてのるもんだと思うぞ。

 だって、ああいうのはスリルを求めているわけだから、根本的に「危険」を前提に作ってて、それが「事故」にならないように設計されているわけでしょ?
 でも、現実の乗り物は、根本的に「安全」を前提に作ってるわけだからね。
 「安全」が前提と「危険」が前提だと、不慮の事故だって起こる確率は全然違うんではないかな?

 いいんじゃないの? 娯楽だし、誰にも強制されずに自分の意思で乗るんだし、死ぬ覚悟で乗ったらいいよね。


きくち正太の釣りマンガ  2003/09/07
 あのきくち正太さんが、釣りマンガの新連載を始めました。

 いきなりの巻頭グラビアカラーで、水辺の風景とか自然とか、とにかく美しいですね。この美しさはモノクロページでも変わりません。
 特に、主人公の山女(やまめ)が、ヤマメ(こっちは魚だ)を釣り上げる見開きページ。綿密に描き込まれたヤマメ、背景に広がる大空と木々、少女のイキイキとした表情と身体の躍動。
 どこかで見たことのあるシーンだなと思ったら、「釣りキチ三平」ではありませんか。

 魚釣りのマンガって、そこだけ取り上げてもダメなんですよね。自然に対する造詣や愛情がなくては、いかにストーリーが面白くても、心惹かれることはありません。
 そういうのを描けるのは矢口高雄さんだけだと思っていたので、とても嬉しいです。こういうマンガの連載が始まると、定期購読してて良かったなと思うのでした。

 みなさんも、いかがですか?
 掲載誌は「KINGDOM」、少年画報社発行、作品タイトルは「私のアイザック」です。
 ちなみに現在発売中! 毎号掲載ではないので、次回は「新年号」ですから、興味のある人は今のうちに書店やコンビニへ買いに行こう。


サイクル野郎 復刻  2003/09/07
 またマンガの話で恐縮です。
 昭和40年代〜50年代にかけて約8年連載された「サイクル野郎」が復刻されていました。

 ネットの古本で見ると、全37巻に6万円という値段がついているから驚きでした。全巻、所持しております。売るつもりもないし、売れる状態でもないんですが。

 大げさに言えば、このマンガは僕の人生を変えてしまったもので、残念ながら後半4分の1ほどがダレた展開になっているので、そのせいかどうか、さほど名作との評価は得ていないと思っているのですが、それにしても今頃復刻とは驚きです。

 ストーリーは、日本一周を自転車でする、というもの。まあ自転車で日本一周といえばそれだけでただごとではないでしょうが、その中では旅先でたくさんの人が登場して、その触れ合いがストーリー構築のメインになっているといえるでしょう。

 我が家にある「サイクル野郎」は古いし扱いも悪いし、崩壊寸前なのですが、(復刻版でそろえると3万円をちょっと超えるので、躊躇しているところです)おそるおそる読み返しています。
 道路の状態とか、日本の経済とか、物価とか、時代が違うので少し驚きますね。作品の中でも物価上昇のことが触れられているのですが、「出発当時150円だったカレーライスが200円、高いところでは250円もする」とか、「900円だったユースホステルが1000円する」とか。(ちなみに現在ユースホステルの最高限度額は3200円、カレーライスは近所の店で値段を確かめてください)

 いまどき、未舗装道路に泣かされる、なんてほとんどないわけですから、ほんと、世の中、変わりました。

 さて、どうして今更読み返しているかというと、実は僕も新連載の準備をしているのです。
 2次創作をするつもりはありませんが、小説で「自転車日本一周物語」を書きたいな、とふと思ったのでした。
 現地取材が必要でしょうから、そうそうハイペースで連載できるとは思えませんが。

 色々な状況を現在に置き換えて、「サイクル野郎」の形式を一部踏襲しながら、と考えていますが、さて、タイトルはどうしましょう。やっぱり、「新・サイクル野郎」かなあ?

 原作については、こんな状況です。
 連載誌「週刊少年キング」(既になし)、現在手に入る単行本の版元「青林堂」、作者「荘司としお」、全37巻です。


醤油のお話  2003/09/07
 和歌山県の湯浅町に「角長(かどちょう)」という醤油やさんがあります。
 7月に湯浅に行く機会があって、そこの醤油を買ってきたんですが、美味しいのなんの。で、もうそろそろなくなりそうなのですが、8月にも行く機会があったので、また入手してきました。

 ここでちょっと醤油のお勉強を。
 醤油の原材料は主に、大豆と小麦と塩です。
 普通、スーパーなんかで売っている醤油は、大豆の絞りかすを使っていて、醸造期間も3ヶ月程度なのだそうです。角長はもちろん大豆そのものを使った手作りで、醸造期間も1年以上。そりゃあ美味いはずです。

 濃口とか薄口、とかいうのは大豆と小麦の割合で決まります。普通、濃口といえば、大豆5:小麦5です。薄口になると、大豆2:小麦8位になるそうで、これだと味が水臭くなるので、塩を入れます。だから薄口醤油は「色は薄いのに塩分が濃い」のですね。
 一方、角長の醤油は大豆が5.5、小麦が4.5で、まさに濃口の中の濃口。少しタマリ寄りなのだそうです。なるほど、そりゃあいい味するよなあ。

 それにしても、いかに安いとはいえ、スーパーの醤油が「大豆のカス」で作っていて、しかも醸造期間も手を抜いていたとは、ねえ。
 醤油なんてビールのようにガバガバ飲むわけでなし、日本人にとって味覚の基本でもあるわけですから、きちんとしたものを手に入れたいものです。って、もう遅いかな。化学調味料とジャンクフードで日本人の味覚は既に壊れていますからね。


音更  2003/08/23
 日々、感じたこと、出会ったことなどを頻繁に更新しようと思うんだけど、手付かずが続いてごめんね。
 時々、こんなことを今日帰宅したら書こう、とか思うんですが、まあいいや、明日で、とか延び延びになっていくうちに忘れてしまったりする。
 忘れる程度のことはたいしたことない。そんなことを読者に読んでもらうなんて失礼だ。などと勝手に思ったりしていますが。

 さて、本日の話題。
 時々僕はストリートライブに足を止めます。以前、書いたか書いていないか忘れましたが、女性ばかりのア・カペラグループ「キューティーハニー」を紹介したような気がするし、してないような気もするけど、本日は違います。

 アコースティックギターのデュオ音更です。
 大阪の難波を歩いていて、たまたま出会いました。いつもは東京で活動されているらしく、数日間の大阪遠征に偶然出会えたわけですね。

 大阪の人なら知ってる人も多いと思うけれど、あのギタリスト、押尾コータローさんのような、タッピングやボディーヒットを駆使して、数々の世界観をギターだけで表現しています。
 さくさくと通り過ぎようとして、あの音色がどうしても耳に残り、引き返してしまいました。そして、つい最後まで……。
 つっても残り4曲だけだったのが、残念でしたね。

 スゲー技術だなあ、こんな引き方をする人が押尾さん以外にもいるんだと思いながら、ホームページなんかを見てると、やっぱりプロだったんですねえ。

 ギター2本でする分、テクニックの凄さに対するインパクトがどうしても小さくなってしまって、その音楽世界に入り込んでしまいそうですが、それでもやっぱり凄いんです。
 これまで色々な活動をされてきたみたいですが、ありきたりな音楽と違って、今のやり方でいけばきっとメジャーになると思うので、このまま続けて欲しいです。
 欲を言えば、SMCなんかにプロデュースしてもらうと、もっといいかもなあ。


リンク2件追加  2003/07/16
 リンクを2件追加しました。
 ひとつはおなじみ、遠井未遥さんのサイト。
 ○×○× ホールドキス・ホールドキスです。

 そして、もうひとつがしほさんの● 四方堂 ●です。
 短編小説のサイトなんですが、驚きました。
 センスがいいんです。
 センスといっても、サイトのデザインとか、そういう部分ではありません。ここは小説サイトですから、センスがいいなどと言って褒めるべきものは、当然デザインではなく、作品そのものであります。
 始めて僕が遠井未遥さんの作品を読んだときも、なにか戦慄(旋律かもしれません)のようなものを感じましたが、この四方堂もまさしく、そう。
 比較的日常事が、さりげない文体で、サラリと書かれている。
 文章にもつっかかりがなく、すらっと読める。
 読後感も、どよ〜んと何かが心の奥に鉛球のように沈んだりしない。あっさりと過ぎてゆく。
 こう書くと、なんだかとても軽い作品のように思えるが、実はそうではない。
 ただ、余韻だけがあとをひくのだ。

 これは技術とか努力で習得しきれるものではないと思う。もっぱらセンスだ。あっさりしているようで、実は深い。とても真似できない。
 作者の若さ(年齢)にも驚かされる。ここで年齢を書くと、誕生日ごとに書き直さないといけないので書かないけれど、サイトのどこかに自己紹介くらいはあるだろう。

 もうひとつ嬉しいことがある。
 彼のサイトとこのサイトは全く別系統として存在しているということだ。
 かねてから感じていたのだが、だいたいお気に入りのサイトというのは、リンクからリンクを辿って出会うものだから、どうしても同じところでぐるぐる回ってしまう。
 ひとつのネットワークを意識して組んでいるわけではないにもかかわらず、どうしてもそうなってしまう。
 しかし、本当にそれで完結しているのだろうか、と実はずっと思っていた。
 もともと僕はエヴァンゲリオン関係、沢田聖子関係の両方をあわせ持つサイトを中心にサーフィンをしていた。そこからCG系サイトとかにも顔を出すようになるんだけれど、このとき、いくつかの自然発生的ネットワークがあることに気が付いたのだ。
 しかし、小説系では、そういう別系統をなかなか発見できない。
 自分で言うのもどうかと思うが、綾綴人形はそれなりに大手なので、大手どおしのつながりを介すると、どうしてもどこかでつながってしまう。
 本当にそれだけで完結してしまっているのだろうか。そういう風には考えたくなかった。

「● 四方堂 ●」は、全く別系統の小説サイトだった。
 出会いは、漫画家「高河ゆん」さんの公式サイトのチャットだった。


幸せの考察 3「会社で一番偉い人」  2003/07/15
 子供の頃、会社で一番偉い人は「社長さん」だと思っていた。

 ところが、どうもそうではないらしいと気がついたのは、いつの頃だったろうか。
 会社には「会長」といって、社長よりも偉い人がいる。
 会長だけではない。場合によっては、相談役だの顧問だの参与だの、色々いる。
 おまけに、「名誉」だの「常任」だのの冠がさらに付いたりする。
 社長の場合は間違いなく「代表取締役」だろうけれど、会長には「代表」とそうでないのがいる。相談役にも「取締役相談役」なんて肩書きまである。「会長兼社長」ってなんだ? CEO(最高執行責任者)はどうして社長とは別人として存在しえるんだろう?

 じゃあ、会社で一番偉いのは誰だろう? 紛糾したり行き詰ったりしたとき、誰が最終的に判断を下して、それに従うのだろう?

 いやはや、こりゃあまさしく魑魅魍魎の世界。
 こんなに複雑怪奇では、このデフレの厳しい世の中をわたっちゃあいけませんな。
 というわけで、会社の中で一番偉いのは誰か、というお話。

 僕は、「販売」「営業」スタッフだと思う。
 社長がどんなに声高に立派な理念を掲げたって、技術者がどんなにすぐれた製品を送り出したって、売れなければしょうがないんだもの。
 売るのは、誰だ?
 「販売」や「営業」のスタッフである。
 だから、どんなに下っ端からあがったものであっても「こんなんじゃ、売れません」という現場の声を、きちんと聞くべきである。
 総務や庶務や経理がしっかりしていなかったら、日常業務がスムーズに行かなかったり、給料が振り込まれなかったりするけれど、でも、お金を稼いでいるのは「販売」「営業」である。
 したがって技術が「おまえらがきちんと商品説明をしないから売れないんだ」とか言ってはいけない。「販売」「営業」の人たちが消費者に胸を張って説明できる「技術」を先に開発すべきである。
 経営陣が「命を懸けて売れ」とはっぱをかけたり、目標やノルマを設定してはいけない。「販売」「営業」がやりやすいようなシステムをまず整えるべきである。
 経理や総務や庶務が「こんな書類はダメ」とか「こんな伝票はダメ」とか言ってはいけない。社内規定に合わない、フォーマットと異なる、というのであれば、自分で書きなおせ。「販売」「営業」スタッフに余計な神経を遣わしてはいけない。

 宣伝や広報?
 どうでもいいんじゃない? そんな部署は?


単純と複雑の逆転劇  2003/07/14
 先日、メールのやりとりをしていて、その会話の中である真実を発見した。それは「単純と複雑の逆転劇」である。

 それは、根がシンプルなひとほどわかりにくく、根がしっかりしていないほどわかりやすい、ということだ。
 目を引くタイトルをつけるために「単純と複雑の逆転劇」としたけれど、「根がシンプル」というのは「単純」とは実は違う。その人が自分の中の本質をしっかりとみきわめ、あるいは気づいているために、全ての行動や考え方の根源が単一かまたはきわめて少ない、ということだ。すなわち、これ、シンプル。

 人間の表層に現れるものはものすごくたくさんあるし、同じ課題(外的刺激、例えば、片思いをしていた人に告白された、とか)を与えられても、その時々で反応は違うはずだ。根っこがシンプルであればあるほど、反応のバリエーションは複雑で、「つかみ所の無い人」ということになる。
 なぜかというと、根っこから表面へ至る経路が長く、複雑で、かつ多様に枝分かれし、時にはアミダクジのように行ったり来たりすらするからだ。根がシンプルだから、全てのものは根に戻され、再び戻ってくるからである。その思考過程はとても他人には想像もつかない。
 けれど、その人とちゃんと付き合えばわかるはずである。「この人は考え方が一貫している」「一本筋が通っている」。
 そこまで意識できなくても、なんとなく輝いて見えて魅力的だったり、何事にも堂々と対応していることに気づくだろう。

 逆に「単純」な人ほど、「わかりにくい」
 一昨日は「あの子がいい」といい、昨日は「この子がステキ」といい、今日はまた違う人が魅力的だという。
 いったいこの人は何を判断基準にしているのか、とてもわかりにくい。別に異性のことだけでなくてもいい。こんな人を上司に持つと大変である。自分の裁量で判断できると思って進めてきた仕事を「なぜ、詳しく報告しない」と叱られ、翌日そのようにしたら、「その程度のことは自分で判断しろ」と言われたりする。
 こういうタイプの人間は、単純である。思考が短絡なのである。見た目が「かわいい」と思ったから良いのであり、性格が「素直」だから良いのであり、気配りが「出来る」から良いのだ。仕事だって、「その方が儲かりそう」だから決済する。
 根っこに当たる部分が無数にあるので、表層部分とその判断材料になる根っこまでの距離が極めて短く(あるいは、存在しないので、表層そのものが全て)、そのためわかりやすく単純なのである。(例:見栄えがいい=彼女、または彼氏にしたい)

 人間として、どちらが高級か、言わなくてもわかるだろう。
 根がシンプルな方が、もちろん高級である。

 高級な人間になるのは、簡単である。自分と対話を繰り返せばいい。自分は何者なんだ。どこに今立っているんだ? 何をしたいのか、どこを目指すのか。
 どのように見えるか、とか、自分の言動を見て・聞いて、どのように思ったか、などを人に聞くのも良い手法である。
 さあ、高級な人間になろう。


幸せの考察 2「世の中は自分中心に回っている」  2003/06/02
 先日、とある女性と飲みに行って話をした。
(彼女はパソコンを持っていないのでここを見られる心配は無い)

 華奢で、童顔というのではないけれど、年齢よりも若い感じがして、笑顔がステキでそのせいか天真爛漫に見えて、性格のかわいらしさがにじみ出ているような人。

 所用でうちの職場に顔を出すというから、「じゃあ、夕方から夜にかけておいで。その足でのみに行こう」ということになったんだけど、これが偶然、お別れ会になった。
 身の回りを整理して、2日後に東京へいくというのだ。

 彼女とゆっくり二人きりで話をするのは初めて。驚かされることの連続。
 母親が自殺していて、父親は職を17回も変えていて、自分はバツイチで、結婚時代に旦那が始めた事業の借金返済でわずかながらにためた貯金は使い果たし、おまけに初期のガンだという。
 東京に住んでいる姉のところに3ヶ月ほど行くとかで、それは恋人が東京にいるということもあるらしいのだけれど、そこで何かをつかもうとしていることも確かなようだったんだ。

 そして、その身の回りの整理の仕方がまたすごいな、と思った。
 歩合のアルバイトのような仕事をしていたので、そんなにお金があるとも思えないのだけれど、「使っちゃうといけないから」と、必要なものを先に手に入れておく、という整理の仕方。
 うちでポーンと5万円の買い物をして、不在の間の3か月分の家賃も口座に入れて、自動引き落としされるようにして。つまり、いざというときに手をつけることの出来るお金を、もう手がつけられないっていう状態にしたんだよね。
「それは、人と人とのつながりに必要なものだから」って。

 幸い彼女は、ふたつほど技術をもっている。そのどちらかを生かせば食べていくことは出来るだろうし、蓄えることすら可能だろう。両方を生かす事だって決して難しい話じゃない。
 だけど、それらの技術を飯の種にすることには、あんまりこだわっていないようだった。
「いったい、なにがやりたいの?」
「何がやりたい、ということじゃなくて……」
 彼女が語ってくれたのは、こんな内容だった。
「いつも笑顔に囲まれていたい。だから、そのためには、自分が笑顔でいなくちゃいけない」
 初めて彼女に会った時に語ってくれた、こんなことがしたいという夢については、「わたし、そんなこと言ったっけ?」と、もう忘れてすらいる。

 そうして僕は思い出した。僕がいつも、「働くために生きるのではなくて、生きるために働くんだ」と言っていた事を。
「そうそう。そう考えれば、仕事なんてなんだっていいんだよね」
「でもまあ、多くの人はなるべく趣味と実益というか、好きな仕事をしたいとは思ってるけどね」
「そうだね」
 みたいな。

 そして、僕はこんなことを考える。
 世の中は自分を中心に回っている、と。
 笑顔に囲まれるためには自分が笑顔でいなくちゃいけない。
 世の中は自分が中心となって回すのだ。

 いつか僕は彼女のことを一冊の本にすることができればいいなと思う。
「そのときは、わたしにイラスト描かせてね」
「それはいいけど、今のままのキミなら、まだ本にならない」
「それはわかってるわよ」
 スポーツ選手や芸術家の努力記を書くわけじゃない。ささやかな一般人の、だけど確固たる意思を持って行動する先にある、「成功」とはなんだろう。それは僕が、そして彼女自身が判断することだ。そして「うん、成功だよね、これって」って二人で言い合えるようになったら、本は出来るだろう。
 だけど、僕にはわかっている。彼女のインタビュー記事を書くわけじゃない。彼女を通して僕自身のことを書くのだ。

 結局のところ、テーマは「自分ってなんやねん」ってことを、多くの人が考えるきっかけになってもらえれば、ということなのだけれど、彼女は言う。「その、自分って何? ていうのが難しいよね」
 でも、もしかしたら彼女はもう成功を手中にしていて、自分がナンなのかもとっくに悟っているのかもしれない。

 ステキな笑顔というのは、ついつい引き込まれてしまって、つられて自分も笑ってしまいそうなのだけれど、僕は彼女の笑顔にはつられなかった。
 神々しいほどの笑顔に、つられたりするわけがない。ただ、惚れ惚れと見とれるだけだ。
 あんな風に笑える人がいるなんて、すごい……。


セックスしたいな〜  2003/06/02
 腰を痛めた話を以前、このサイトの別の場所に若干書いたのだけど、性格には腰ではなく、キョウハイキンザショウとかいう病名(病院へ行ったときにカルテを覗き込んだらそう書いてあった)
 つまり、背中の筋肉ですね。腰でなくて一安心。
 2日ほどで痛みもおさまり、違和感も週末にはなくなって……。

 実は妻とエッチをしている最中のことだったんです。ぐに、痛てえ! ってなったのは。
 で、一週間お預けとなりまして。
 そしたら、今度は妻の体調が悪くなってしまった。
 あーん、あーん、セックスしたいよー。

 セックスレス夫婦? それで仲良くやっていけるならそれはそれでいいんだろうけど、おいらには考えられない。
 不謹慎な話なのかもしれないけれど、したいときに相手が出来ない、という場合に、セックスフレンドというか、リザーバーというか、他に何人か相手がいてもいいんじゃないのかなあとか、つい思ってしまったりする。
 だからといって、妻が別の男に抱かれるというのは、考えものだなあ。このてん、身勝手とか言われるかもしれないけど。
 もっとも、妻が僕以外の男とエッチする、ってことそのものは別にオーケーなんだよね。ただ、妻本人も言ってるんだけど、「わたしには浮気はできない。だって、本気になっちゃうもん」と。これはちと困る。別れたくないしね。


幸せの考察  2003/05/27
 どっちがより偉いか、について考える。

 どういうことかというと、俗に言う「お客様は神様です」が正しいかどうかの検証だ。
 お客様は本当に神様か?

 店員は客に対して、「ようこそお越しいただきました」「ありがとうございます」「またのご来店をお待ちしています」などの言葉を使う。徹頭徹尾、へりくだっている。客の方が「立場が上」である証である。
「これが欲しけりゃウチにしかないんだぜ」「客は他にもたくさんいる」「値切る奴は客じゃねえ」「気に入らなけりゃ他所へ行け」とならないのは、よく考えると実はおかしいように思う。

 ためしに、次の質問に答えてみて欲しい。
 あなたは本格的な中華料理を中華料理店で食べることが出来ますか?
 あなたは電気屋さんで洗濯機を買うことが出来ますか?
 あなたは新聞を読めますか?
 あなたは旅館に宿泊できますか?
 あなたはパソコンでインターネットができますか?
 時間的に無理とか、予算的に不可能とか、そういうことは考慮に入れなくていい。お金も時間もある、という前提だ。たいていの人は全ての設問にYESと答えられるだろう。

 では、続けて質問だ。
 あなたは本格的な中華料理を作れますか? または中華料理店を経営できますか?
 あなたは洗濯機を作れますか? または電気屋を経営できますか?
 あなたは新聞を発行できますか? または販売できますか?
 あなたは旅館を経営できますか?
 あなたはパソコンを作れますか? または売れますか?
 多分、無理だろう。時間やお金があっても、ノウハウや技術といったものがなければ出来ないのである。

 するとどうだろう。客には誰でもなれるが、提供者側には簡単になれない、ということに気が付くはずだ。
 出来る人と、出来ない人。出来ないからお金を払ってそれを手に入れる人と、提供してお金を対価として受け取る人。どちらが偉いか? 僕はこう思う。「誰にでも出来ないが自分には出来る。そういうことやものを提供して対価としてお金を受け取る人の方が断然偉い」と。

 お金を払う側、つまり客は、自分では出来ないスカタンなつまらない人間である。しかし、ほしい。出来ないのに、欲しい。仕方ないからお金を払って手に入れる。客とは劣る存在なのだ。
 そのくせ、どうして「俺は客だ」と威張るのだろう。お金を払うからだろうか。お金を払わなくては手に入れられないなど、自分が不出来であることを認めているに他ならない。なのに、どうして威張るのだろう。

 レストランや食堂を例にとってもう少し論旨を進めてみよう。
 客に食事が供されるまでには、多くの人の手が関わっている。農家や猟師や漁師、協同組合とかもあるだろう。運送には車や鉄道が使われ、それには単に運転をする人ということだけではなく、メンテナンスに関わる技術者だってたくさんいる。厨房に届いた食材は料理人の手によって調理される。食堂を作るのは大工さんの仕事だし、それを設計する建築士だって必要だ。食器も家具もプロの手によって作られている。
 趣味の範囲内で客が出来ることはあるにしろ、プロとして、金を取れる仕事が出来るわけではない。
 こう考えると、食事を供されること自体に、客は多大な感謝の念を表さなくてはならない。ここで自分が食事できるのは、こうした多くの人たちの仕事があってこそなのだ。「俺は客なんだ。金を払うんだ」などと偉そうに言える道理が無い。悔しかったら自分でやってみろ。

 しかし残念ながら、仕事に関わった人全てに感謝の気持ちを伝えることは不可能だ。食事をするたびに農家まで出向いて「あなたが作物を作ってくれたおかげでご飯を食べることが出来ました」などといちいちお礼など言ってられない。
 仕方が無いから、お金を払うのである。
 金を払うというのは、感謝の意を合理的に伝える手段なのだ。

 もちろん、あなただって一生懸命働いている。だからこそ、お金を手にすることが出来る。それは、あなたのプロの仕事に対して客が感謝の意を込めて支払ったものである。金とは感謝の塊である。あなたの生活は多くの人の感謝によって成り立っている。
 客にこびへつらってようやく手に入れたのが給料だ、などと思うのはじつにさもしい気持ちにさせられる。しかし、誇りを持って行った仕事に対しての感謝であると思えば、こんなに嬉しいことは無い。
 辛く苦しい思いをして仕事をしているのに、「俺は客だ」とばかりに札束で頬を叩かれるようにして受け取る金など嬉しくないだろう。感謝された方が嬉しいに決まっている。

 だから、あなたは、お金を払うときには、その提供者に敬意と感謝を込めることになる。

 どうだろう。こう考えた方が、世の中幸福になれるんじゃないだろうか?
 いずれにしろ、金を払う方が下位に立つものである。これは真実だ。客が偉そうなことを言ってはいけない。


SARSはなぜ怖い?  2003/05/27
 SARSには特効薬もないし、予防接種もない。
 では、SARSに感染すればどういう医療措置がとられるか。対処療法による症状緩和なのだそうだ。これで咳が減ったり熱が下がったりして患者は少しは楽になる。
 けれど、根治するわけではない。
 では、どうやって患者は回復するのか。自らの力でウイルスを撃退して回復するのである。

 SARSに感染して死亡に至るのは、身体の弱っている人や老人だという。
 また、SARS感染予防に大切なのは、十分な睡眠と栄養のバランスのとれた食事なのだそうだ。
 実に簡単で、難しい。

 マンモスが滅び、人間が猿から変化したように、生き物というのは絶えず変化をしている。成長している。成長できなかった種は滅びる。ウイルスも同様で、常に新しい種が誕生する。
 この現実を思えば、全ての病を人間が化学の力で撃退することは未来永劫に不可能である。ならば、自らを強くして対抗するしかない。あるいは、滅びるしかない。

 なあに、SARSごときウイルスなら、十分な睡眠と栄養のバランスのとれた食事で十分対抗できる。
 こわいのは、十分な睡眠が取れない、栄養のバランスがとれた食事が出来ない、という現実である。特効薬は世の中を変えることであろう。




南海高野線 またまた減量ダイヤ改正  2003/05/27
 以前にも取り上げたが、かつて都会は鉄道とともに発展してきた。ローカル線ならともかく、膨大なベッドタウンを沿線に持つ南海高野線が減量ダイヤを実施するなど、日本が衰退している証拠であると述べた。覚悟せよと書いた。
 そして、また減量ダイヤ改正である。みんな覚悟は出来ているか? 米国同時多発テロの時に僕が書いた予測、失業率は5%をこえ、株価が8000円を割る、というのは現実のものとなっているのだよ。

 それにしても、このダイヤ改正は相変わらずテクニカルである。
 以前のダイヤ改正では、急行系(急行、区間急行、準急行)が10分間隔から12分間隔になったとか、一部各駅停車になる区間急行がほとんど廃止になることで一列車の所要時間が短くなり車両や人員が節約できるとか、長距離の高野山行きが30分間隔→36分間隔になることでやはり車両や人員を節約し、短距離だが利用者の多い準急泉北ニュータウン方面行きが増発されたとか、そういうことを書いた。
 今回はさらにすごい。快速急行の誕生である。36分間隔だった高野山行き急行が1時間おきの高野山行き快速急行になる。停車駅が減る分所要時間が短くなる。これでは橋本ー高野山間の山間部の客に不便であるから、1時間おきに高野下行き急行を新設する。これでほとんどの客は「30分単位の列車」として利用できるわけだ。以前の36分間隔より便利になっている。しかし、高野下から先のわずかな客は大幅に列車が減らされ、接続するケーブルカーも思いっきり減便できる。
 しかしもともと利用者の少ない区間である。
 これはデータイムのみで、朝夕夜間は大幅にイレギュラーするのだが、それでも高野山行きは極端に減便され、そのかわりに途中の橋本行きに乗れば「高野山行き」に接続となる。こうして本数だけ確保しているわけだが、なぜ客に乗換えを強いるのか。
 ここから先は想像でしかないが、もしかしたら2両編成とかで運転されるのではないだろうか。4両編成が2両編成になっても、経費が半分になるわけではないのだが、老朽車両を廃止して、かつ新しい車両を補充しないための連結両数減なのかもしれない。

 ここでいえることは、かっこよく言えば「利用者の多い区間はより便利に」「利用者の少ない区間は実態に応じて減らす」である。悲惨な言い方をすれば「交通の難所はどんどん見捨てられる」である。

 鉄道だけではない。瀕死状態に陥れば、弱いところから切り捨てられる。これが日本の現実である。目を背ける訳にはいかない。


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 マクドナルドの59円バーガーなんぞ怖くて食えない。そう書いた。ハンバーガーの専門店なら、自信をもって300円のものを売れと書いた。
 このとき、「僕がマクドナルドの経営者なら、プレミアムマックを作って、それなりの値段にして、お店ももう少しマシなインテリアにするんだけどなあ」と思っていた。残念ながらこのことは記事にしなかった。現実となった今、自分の先見の明に惚れ惚れするんだけど、実際にそのことはどこにも書いていないので、「あとからエエカッコして書いてるんやろ」と言われても仕方ないのだが。そうそう、プレミアムのイメージカラーも僕は緑がいいと思ってたんだ。

 だから、このさい、言っておく。
 プレミアムマックは失敗だ。僕のプレミアム構想とは大きくかけ離れている。
 必要なのは、品質の高い、すなわち美味しいハンバーガーであって、小手先の勝負をして欲しいわけじゃない。

 マクドナルドはまず、パンがまずい。ハンバーガーの中身を倍の太さにしてもパンがマズければどうしようもない。パンをいいものに変えて欲しい。
 そして、肉。牛肉100%にこだわるな。いくら牛肉100%でも、ソースをつけないとカスカスでまずくてどうしようもないものを食わせるな。
 つなぎに卵やパン粉や玉ねぎのみじん切りを入れたらいい。工場で表面に焼き目をつけて旨みを閉じ込め、ショップでは電子レンジで温めるだけでいい。その方がおいしいのだからそれでいい。
 それと、給食に出てくるデザートみたいな、安物のパッケージに入れたなんとかというあのデザート、堂々とテレビに映すなよ。パッケージを見ただけでまずそうだ。


 フォローをもう一発。
 JR西日本のダイヤの乱れに関することだ。だいたいこれまで、ダイヤが乱れてどうこう、というのは僕が大阪駅を利用したときのことであった。先日、北新地駅から乗ったとき(福知山線は大阪駅からも北新地駅からも出ている)、ちょうど事故がおこった直後だった。
 駅の対応は非常にきちんとしている。
「どこで事故があったのですか? 大阪駅からも同じ状況ですか?」
「事故が起こったのは、山陽線の○○と○○の間です。大阪駅からは宝塚まで普通が30分おきに出ています」
 宝塚までならダメだ。僕はその先の三田まで行かなくてはならない。この情報は多分、デタラメだと思う。東海道線から福知山線に直通する普通は本来15分おきで、かつ新三田行きである。本線上で事故が起こっているのに、福知山線系列だけ列車を半減させて走らせるなど不可能だし、新三田行きをあえて宝塚で折り返し運転させる理由が無いからだ。
 しかし、駅員は、このとき自分の手元に届いている情報をきちんと伝えたのだ。

 かつ、現場検証のもようを伝え、復旧後は、前に数珠繋ぎ状態でとまっている列車がどこまで動き出したのか、そして、この列車の運転再開の見込みが立っているのか、いないのか、それをきちんと何度も放送する。

 つまり、北新地駅の駅員は、少ないながらも情報収集につとめ、わかるはんいで情報を提供しようと努力をしていたのだ。

 大阪駅の駅員がいかにボンクラで能無しでやる気がないのか、身に染みた。
 ダイヤが乱れたときは北新地駅を使おう。結果は同じでも、安心して待っていられる。


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