昇天

 

 

 暖かい。目を閉じているにも関わらず、瞼越しに光がじんわりにじんでくる。快晴だ。
 あたしはどこにいるんだろう?

 そう、ハイキングにやってきて、お弁当を食べて、そして草原の上に寝転がったのだ。陽光が気持ちよくて、ついウトウトしたらしい。不健康な妄想をノートに書き連ねて来て、その反動だろうか。お弁当を持って、自然の中をゆっくりと歩いて。そして、寝転がる。ノートにはセックスとか享楽的なこととかで快楽を得ることばかり書いてきたけれど、気持ちいいという感覚は実はどこにでも転がっているんだなあと思った。

 あたしの背中の下の草たちが、柔らかくあたしの身体を受け止めていてくれる。
 ふわふわ、ふわふわ。

 木々や草花が空気中にその独特の芳香を放ち、微風に漂ってはあたしの鼻先をかすめた。
 心地よい、とはまさにこのことだろう。
 草原に寝転がっているときに享受できるすべての幸福を身に纏っているかのようだ。

 人の気配がする。目を開けばそこに誰がいるのかなんて、すぐにわかるのだけれど、あたしは何故か瞼を開けることが出来なかった。
 ずっとこの幸福を静かに受け入れていたかったのかもしれないし、単に瞼を少し動かすだけの行為がだるかったのかもしれない。
 そう、身体のほんの一部を動作させることすらけだるかった。

 この感覚はどこかで覚えがある。
 初めて身体を交えた彼と、数回の性交の後、ようやく実感として沸き始めたオンナとしての悦び。じんわりと身体の奥から湧いてくるような心地よさ。彼の腕枕に頭を預けて、すぐ間近でその息を感じている。
 ずっとこのままでいたい。動きたくない。
 そう、あのときの感覚だ。


 誰と一緒に来たんだっけ? 彼氏と……じゃ、なかったよね。だって、彼氏、いないもん。
「なんだか幸せそうな顔しているよ。いい夢、見てるんでしょうね」
 耳元で母の声がした。
「ああ、そっとしといてやろう」
 あ、父も一緒だったんだ。
「ええ、そうね」
 父の提案に、母が同意してくれた。
 良かった。あたしはもうしばらくの間、こうして草原の上で眠っていられるんだ。
 こうして両親の声が届くところをみると、あたしはそんなに深い眠りに落ちているわけじゃなさそう。まさに、うたた寝。

 車で来たんだっけ、それとも、電車?
 車なら父が運転してきたはず。帰る時間が遅くなったら、そろそろ初老に域に達している父には辛いんじゃないかしら。ううん、やっぱり電車だったかも。帰りの電車の時間、間に合うのかしら。それどころか、時間をちゃんと調べてあるのかどうかも怪しいわ。

 そう思うなら、パッと飛び起きれば済むことなのに、せっかくだから両親に甘えようと思う。草原に寝転んで微風になぶられてるなんて幸福感は、簡単にそうでそんなに味わえるものじゃないということをあたしは知っていた。

「こつぶ……。この子、いつ目覚めるのかしらね」
「さあ。わからん」
「苦しみと恐怖でのたうちまわるくらいなら、いっそこのまま眠っていた方が、幸せなのかもしれないわね」
「お、おまえ、何を」
「そりゃあ、私も、きちんと目覚めて、以前のこつぶに戻って欲しいわよ。けれど、クスリの禁断症状に苦しみ、たとえ立ち直ったとしてもいつ襲ってくるかわからないフレッシュバックの恐怖に耐えて戦うなんて……」
「辛すぎるか」
「ええ、辛すぎます。この子にとっても、あたし達にとっても」

 ちょっと、待って。お父さん、お母さん、いったい何を言っているの?
 禁断症状とかフラッシュバックとか。
「もっと早く気づいてやることが出来ていれば、な」
「お医者様も回復の見込みはほとんどない、と」
「もうよさないか」
「けど、けど、アナタ……。この子が目覚めて、やがて中毒症状から立ち直ったとしても、もう以前の生活には戻れないって」
「よせ、というんだ」
「…………」
「脳細胞がどの程度破壊されているか、知能がどうなっているか、運動能力がどうか。そんなことはこつぶが目覚めてからでないとわからない。先生もそう言ってたじゃないか。今、どうこう言っても始まらない」

 え、あ、嘘……。
 それって、どういうこと。
 あたし、本当は今、どこにいるの?

「それにしても、哀れですわ」
「ああ」
「病室のベッドで、チューブやら点滴やらをいっぱいつけられて……」
「そうだな」
「こんなことで、治療になっているのかしら。この子は回復するのかしら」
「今は……。先生に任せるしかないだろう。せめて……」
「せめて……?」
「窓から差し込む太陽の光だけでも感じてくれていたら、少しはこの子も救われるような気がするよ」
 

 

もどろっか

それとも、先に進む?