ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

32.

 ミコとのセックスに身を焦がし、睡眠時間はいつもより身近かったはずだ。しかし、魂の奥底まで交じり合った実感があるから、精神的には満たされ、疲労感はない。だが、身体の芯には疲れが残っているような気がした。
 窓の外の明るさに、真也は慌てて「寝坊した!」と、飛び起きた。
 しかし、時計を見たらいつもの時間だった。規則正しい生活を続けていたので、体内時計は正確に保たれるらしい。
 日の出・日の入りの時刻は日々変化するとはいうものの、昨日と今日で体感するほどの差異はない。なのに、今日は窓外の明るさで「寝坊」と思い込んでしまった。その明るさは、降り積もった雪のせいだった。
 まだほの暗さの残る朝の空だが、そのかすかな陽光すらもしっかりと跳ね返すほどの新雪。窓を開けて雪上を見れば、動物の足跡らしきものはあるけれど、雪を黒く汚すようなものはまだ何も無い。人の足跡も、タイヤの跡も。
 いや、目を凝らせば、そういったものも、やはりある。ただ、足やタイヤの踏み跡が、地面にまで届いていないのだ。それほど、昨夜は新しく雪が降り積もったのである。

「う、ああああぁぁぁ」
 窓を開けたまま伸びをする。冷たい空気が真也の肺を満たした。そこで初めて、窓からの寒気が部屋の中の温度を急速に下げていることに気がついた。
「う、さぶ……」
 小さく身震いをする真也。ミコも目覚めたらしく、「んにゃ?」とかなんとか、口の中で言葉を発したが、寒さにおそれいったのか、すぐに布団を顎くらいまでひっぱりあげた。
「もう起きたの?」
「ああ……、この時間に起きるのは、もう癖になってる……」
 窓を閉めて、振返る真也。男の象徴が朝のお約束通りになっているのがミコの目に映る。
「すご。昨日、あんなにしたのに……」と、呟くミコ。
 真也はそれには応じず、「寒い寒い〜」と半ばおどけながら布団にかけ戻る。
 ミコは、朝からご挨拶のエッチを期待して、身構えもした。が、真也は布団の中に潜り込んで、何もしてこない。それどころか、しばらくじっとしてた真也はガバっと飛び起き、「よし、温もった。さあ、仕事だ」と叫んで、服を着はじめたのである。

 2人で過ごす休日の朝をミコは懐かしく感じた。身を起こしかけては交わり、交わってはまどろむ、甘い時間……。
 真也の求めに応じてコーヒーを入れたり、トーストを焼いたりするのも、下着だけだったり、バスタオルを巻いただけだったり、全裸だったこともある。真也が最も気に入っていたのは、素肌にTシャツ下着なし、だったっけ。乳首が透けているのはご愛嬌、アンダーヘアーなど隠れもしない。でも、「ちゃんと着てますよ。何も恥ずかしさなんてないですよ」ってな普通の顔をしながら、下半身丸出しで台所仕事をしている姿がいいのだとか。
 そんな真也が、今朝は起きるなりいきなり仕事にかかろうとするものだから、ミコもちょっと驚いたのである。

「え? なに? もう仕事?」
「ん? ああ」と答えた後、真也は思い出したように付け加えた。「9時5時のサラリーマンのようなわけには行かないさ。基本的に、起きたら寝るまで仕事だよ。そのかわり、営業時間中でもお客がいなければ、気を抜いたり、休憩したりするけどね」
「そうなんだ……」
 さすがにミコも、仕事モードに入った真也に「しないの?」とは言えなかった。
 言えなかったけれど、あんなにそそり立っていたのに、と思った。

「こんな時間から、何するの?」
「ん〜、まず暖房を入れて、それから、掃除かな?」
 あんなに御託ばかり並べて結局就職先を見つけることの出来なかった真也が、いざ仕事に就いてみると、きわめて真面目なのだ。ミコは感心した。

 でも、それでいいの? ともミコは思った。
 これが真也の、本当にやりたかった仕事なの、と。

 真也が清掃や開店準備をしている間に、おばあさんは朝食の準備をはじめている。真理子の姿が見当たらないと思ったら、キャンディを散歩に連れ出しているようだ。ミコは何もすることがなかった。というより、何をしていいのかわからなかったのだ。

 これがいわゆるOL稼業であれば、自分に手持ちの仕事が無かったとしても、みんなのデスクを拭いてまわるとか、お茶を淹れるとか、ちょっと気をまわせばなんなりと仕事を見つけることができる。しかし、ここではそれすらもない。朝食の支度をしている人がいるのに、お茶を淹れるでもないし、掃除は真也がやっている。掃除の手伝いでもすれば良さそうなものだが、どうも気分がのらない。
 自分で一から考えて動くならともかく、既に動いている人がいるのに、勝手に手を出すわけにはいかないし、かといって「なにかしようか?」と声をかけるにも、どうもタイミングが掴みづらかった。

 ミコは「見学」に徹することにした。
 正月休みが済めば、またいつもの仕事に戻らなくてはいけない。それまでの間はずっとここで過ごすつもりだが、何かこれといった仕事を成し遂げる時間もないし、そもそもそんな気概も無い。店のお手伝いをしながら真也と一緒にすごせればいい、その程度の思いでやってきているミコである。
 ならば、手伝いに徹しよう。そのためには、店のことを熟知しておこう。
 おそらく一番の稼ぎ時になるであろうお正月休み。できるだけ真也の力になってあげたい。
 客が大挙してから考えていたのでは、遅い。今のうちに知り尽くして、考えつくしておくのがミコの唯一できることだ。

 旅館やホテルでは、まだ朝食が終わるか終わらないかの時間だろう。リフトもまだ動いていない。しかし、真也は店を開けた。奥の間では、これから皆で朝食にしようか、という頃合である。
「ここ、いったい何時に開店なのよ?」と、ミコが言った。
「さあ? 8時にはいつも開けてるけど?」
「そんなに早く開けてたって、お客さんなんか来ないでしょ? 私たち、まだ朝ごはんも食べてないのに」
「暖房も照明もつけて準備は整ってるんだ。開店したって何の問題も無い」
「そりゃあ、そうだけど……」

 リフトもまだ動いていない朝のスキー場でも、人通りはある。リフトの運行前に、自力で斜面を登って一滑り、という連中だ。
 他に、朝着の人たちもいる。夜行バスの乗客だったり、あるいは、自分で車を運転してきていたり。そういった人たちが店に寄り、手袋だの耳あてだのを結構買ってくれる。
 朝っぱらからカレーライスだのヤキソバだのを注文する客もいる。
「あ〜ん、これじゃゆっくりご飯も食べられない」と、ミコがまたぼやいた。
「でも、お客が来るんだから、開けてたって甲斐があるというものさ」と、真也が言った。
「お客の応対は1人で十分なんだから、あんたはゆっくり朝飯食べればいい」
 おばあさんはニッコリ笑ったが、ミコはいくばくかでも真也の手伝いになればとやってきてるわけで、真也が席を立てばそれについて行動すべきだとミコは思っている。それに、誰かについてまわらないと、仕事も覚えられない。
「きっと、すぐ、忙しくなるわね」と、真理子が言った。

 真理子が言ったとおり、すぐに忙しくなった。
 朝食目当てと思われる人が次から次へとやってくる。スキー場では、朝着というのが珍しくない。宿屋に入れるのは夕方からである。人によっては深夜に到着して駐車場で仮眠、そして、こういう店を見つけて朝食にありつくのだ。
 ゲレンデの飲食店はまだオープンしていない。ペンション風の宿屋では、昼間は飲食店として営業するところもあるけれど、朝は宿泊客しか相手にしない。ホテルなら出入り自由だが、高い。コンビニもあるけれど、いかんせん飲食スペースがない。
 海外なら国によっては飲食コーナーを併設したコンビニもあるけれど、日本ではまだそれほど例がなく、ましてこんな山の中のスキー場に「その店で買った食べ物や飲み物を持って、椅子にちゃんと座って食べられるスペース」を持つコンビニなどがあろうはずも無かった。

 リフトが動く時間になると、客は減るが、バスの乗務員や添乗員、旅行会社の現地係員など、既にお得意客がついていた。彼らが言うには、こういう肩の凝らない店がいいのだそうだ。

 11時を過ぎると、昼食客がやってくる。
 12時になると飲食店が大混雑になるのはわかっているので、早めに食事をすませ、12時を過ぎて昼食のために人が減ったゲレンデに再び出る。まあ、この程度の頭を働かす連中はいくらもいるが、さらにゲレンデを離れて、のんびりしたいとこんな店にまでやってくる人がいるのだ。
 もともとキャパが多いわけじゃない。店はあっさりと満席になった。

 それからは休む暇がない。
 行列をしてまで入りたい店ではないから、チラと覗いて席がないとわかれば、回れ右する人ばかりだが、空席があるとすぐに誰かが座る。
 12時台に混雑で食事が出来なかったスキーヤーや、昼食が遅くなるのは計算の上で目いっぱい滑って午後になってから空腹を抱えてやってくる客、さては3時のおやつタイムをゲレンデを離れて過ごそうという人までいる。友人同士で話し込んで、お茶を何回かおかわりしたあげく、どうやらそのまま宿に帰るようなグループもある。
 リフトが止まれば、当然、多くの人が宿へ戻るわけだが、その途中に立ち寄る人もいれば、そのまま帰宅する前に軽い夕食のつもりでメニューを手に取る客もいる。そんなときは、「あら、一通りのお土産も揃ってるじゃない」と喜ばれ、思いのほか売り上げが伸びたりもする。

 一定規模以上のホテルや旅館でなければ、夜の娯楽などはない。
 そこで、「なにかないか?」とうろつく連中にとっても、若干のアルコールメニューのあるこの店は標的になる。
 ふと我に返ったミコは、「あたし、昼ごはん、いつ食べたろう?」と頭をひねり、結局、食べ損ねていることに気がついた。奥の居間を覗くと、1人分だけ食事が残っていた。真也も真理子もおばあさんも、隙をついて食べていたらしかった。
 誰が作ってくれたかも知らないし、昼食が出来たよと声をかけてもらった記憶も無い。だが、みんなで食卓を囲んで「いただきます」など出来る状態でないことは、今日一日、接客に立ってみて、よくわかった。おまけに、おばあさんがどうやら台所に立って、夕食の支度をしていた。
 ミコはそれなりに動いたつもりだったが、誰がいつ何をしているのか全く把握できていないことに気付いた。これでは、本当に店の役に立っているのかどうか、自信が持てない。
 デスクワークとは、全然違うのね……。

 ふう、とため息をついたとき、おばあさんが声をかけてくれた。
「もう上がりなさい。慣れない仕事で疲れたでしょう?」
「でも……」
 真也はもちろん、真理子もまだ接客をしている。
「あの子たちはええんじゃ。暇な時期から経験しとるからな。店の癖もわかっとるし、自分をコントロールすることも覚えとる。あんたは一日中走りまわっとった」
 真也は3人組の女の子たちにドリンクを運んだ後、空いている残りのひとつの席に座り、お喋りなんかも始めている。
 そうか、夜の客は急がないんだ。それどころか、バカ話で時間が潰れるのを喜んでいる。
 真也にとっても、悪くない容姿の女の子たちと、その場限りの会話をするのは楽しかろう。

 真也だけではない。真理子だって、家族連れに声を掛けている。それを1番喜んでいるのは、どうやらお父さんだ。お父さんにとっては、いわゆる家族サービスなんだろう。だとしたら、真理子のような可愛い子と言葉を交わせるのは、ちょっと嬉しいに違いない。
「お正月も、ここで過ごされるのですか?」
「いやいや、大晦日には帰ります。たまには他所で年越ししたいんですけど、そうもいかないので、年末に大慌ての家族旅行ですよ」
 実に罪の無い会話だ。店と客が交わすのにふさわしい。それだけに無意味な会話でもあるのだが、無意味だからこそ心が安らぐということもある。

 おばあさんに声をかけられて、全身に疲労が溜まっているのをどっしりと感じたミコだったが、自分だけ先に上がるも気が引けた。
「閉店時間は……」と、問いかけて、「特に、決まってはいないんですよね」と、付け加えた。開店時間のことを思い出したのである。
「11時くらいまではやろうかと打ち合わせしとったがのう、9時過ぎには客は切れる。最後の客が帰ったら閉店じゃ」
 あと1時間ほどか。それなら、先に上がらしてもらおう。おばあさんの手伝いもあるだろう。ミコはそう思って、店の奥に引っ込んだ。

 昨夜、あまり眠らなかったミコはもうヘトヘトだ。態度には見せなかったが、真也もそうだろう。テキパキと食事と風呂を終え、2人ともあっさりと布団に潜り込んだ。
「暇を見つけて、ラブホテル、なんて、とっても無理だったね」と、ミコは真也にキスをした。
 ミコが舌先を出すと、真也は唇を開いて、ミコと同じように舌を出す。2人は舌の先っぽ同士をチロチロと舐めあった。疲れ果てているのに、濡れてくる。いま求められたら、やっぱりしちゃうよな、とミコは思った。

 もし、隣に真也がいなかったら、すぐにでも右手を自分の敏感なところにあてがい、自分自身のために右手に奉仕をさせたいところだ。
 それほどまでに、官能が湧き上がっていた。砂漠を何日も彷徨ったあげく見つけたオアシス。何も考えずに頭から飛び込んでしまいたい。そんな気分だった。それが底なし沼だったら、なお嬉しい。
 ミコの気持ちを見透かしたように、真也は「1回だけ、軽く、やろうか?」と囁いた。
「うん」
 子犬がじゃれるような声で応えるミコ。

「でも、あんまり声を出すなよ。真理子ちゃんに」と、真也は隣の部屋を仕切る壁にチラと目線をやりながら、「すごかったですね、なんて言われたよ」
 指摘されるとますます濡れてくるミコである。
「迷惑って?」
「興奮したって」
「やだ、もう……」
「恋人が出来たら、わたしもあんな風になれるのかな、だって」
「いつの間にそんな会話してるのよ、もう」
「ちょっとした間」

 こんなやりとりも、お互いの舌を舐め合いながらである。
「だけど、……ちゃんと……んん」と、ほんのりした快感に途切れがちになりながらも、ミコはちゃんと真也に忠告した。
「エッチなことするだけが、恋人同士なんじゃないって、教えてあげなきゃ……ダメよ」
「そう言いながら、ミコの手、触ってきてるじゃん」
「だって、もう我慢できなくて、あ!」

 真也の指先がミコの茂みに触れる。真也は意地悪のつもりなのか、コネコネとミコの官能を引き出しながら、真面目なことを言う。
「ミコの言いたいことはわかるよ。だけど、何の脈略もなく、セックスしたいためだけに彼氏を作るなんてことはしたらダメだよ、なんて、言えるかよ。性教育のお時間じゃあるまいし」
「そりゃ、そうだけど……んん、あん、あ、あ、あ」
「思いっきり、濡れてるね。もう、入れるよ……」
「……もう? まだオッパイも吸ってないのに?」
「ダメ?」
「いいけど……。ていうか、入れて。……なんだか、すぐに、欲しくなっちゃった」
「まだフェラもしてもらってないけど?」
「真也が入れたいって、言ったんじゃない」

 2人とも、相手の方を見ながら、横向きに寝ている。真也は特に体勢も変えずに、少し腰の位置をずらしたままで挿入した。
「あ、はあ〜〜。気持ち、いい……」
「おまえこそ、セックスしたいだけで、付き合ってるみたいだな」
「……してる最中に、あん〜〜〜、そんなこと言われたら、否定できな……、く、んあはあ〜〜ん……」

 店の混雑の度合いはほぼ変わらないままに、年がかわり、三が日が過ぎた。
 大晦日から3日にかけては、どの宿泊施設もオーバーブッキングさながらの状態だったとか、ゲレンデの食堂は席がないままにトレイにメニューをのせたままうろつく客で立錐の余地もなかったとか、リフト待ちがどれくらいの時間に及んだとか、そういう話は、店に立ち寄った客からもたらされるが、真也とおばあさんのこの店は、既に28日頃からキャパの限界に達していて、並んでまで入りたくなるような店でもないから、実はあまり変化がない。

 運良く空席のあるときにやってきた客や、夜、ふと見つけて夜食やアルコールなどを注文した人からは、「ホッとする」「落ち着く」「やっと旅に出たような気になった」「田舎に帰ったようでくつろげる」などの感想がもたらされるのも同じだった。

 4日になって客足がガタンと落ちたが、食材の在庫が底をつきつつあった。三が日が明けた今日、既に食材の発注は済ませたが、届くのは明日、5日だ。しかも、正月明けの最初の配送ということで、あちこちの店が一斉に大量に発注していて積み下ろしにも相当の時間がかかるらしく、何時に届くかわからない。段取りの出来た食材だけで営業することは可能だけれど、全てのメニューは揃いそうも無い。ミコの車を使って業務スーパーなどへ買出しに行く手もあるのだが。
「いっそ、休みにしましょ」
 おばあさんが、臨時休業を宣言した。
 おばあさんが川上荘に問い合わせたところ、5日の宿泊客は4日に輪をかけて激減しているらしい。他の宿泊施設でもその傾向は変わらないだろう。そもそも、大きな休日の後ほど、落ち込みが激しくなる。
「納品の受取と整理はわしがやっとくしのう。皆は休んだらええ。そのかわり、次の日はわしが休ませてもらうとしよう」
「わかりました」と、真也が言った。
「じゃ、あたしは今日が最後ね」と、ミコ。

「そうか。あんたは明日の夕方、帰ると言うておったな。ま、出来れば昼間のうちに帰り。昼間なら除雪もされとるじゃろ」
 ミコは、はい、ありがとうございます、と元気良く答え、「真也、途中まで付き合ってね」と付け加えた。
 ラブホテルに立ち寄って思う存分エッチしたあと、真也を近くの駅まで送って、そのあとは別々に帰る。ミコは瞬時にそんな段取りを考えた。

「それじゃあ」と、おばあさんは手提げ金庫を取り出し、卓の上に置いた。
「少なくて悪いけど」と、蓋を開ける。この時点でミコは、少しばかりの謝礼金がもらえるのだとわかった。
 しかし、「はいそうですか」と受け取っていいものだろうか? 頼まれもしないのにやってきて店を手伝っているだけだし、それだって、恋人と一緒に過ごしたくてやってきたわけで、寝食の世話になっているいわば居候だから、仕事のお手伝いくらいして当然ではないか。
 しかし同時に、客が引けも切らぬ年末年始の大掻き入れ時である。ミコ1人がいるのといないのとでは全く違う。バイト代とは言わないまでも、交通費くらいのお手当てがあっても悪くない、とも思う。

 おばあさんは白い封筒に筆ペンで「お年玉」と書き込んだ。
 手提げ金庫の蓋が視界の邪魔をして、いくらその中に入れられたかはわからない。
 ミコは、ガソリン代だけ差し引いて、残りを真也に渡そうと思った。真也はほとんど持ち合わせゼロの状態でこの店に駆け込み、仕事を始めている。自由にできるお小遣いなど皆無のはずだった。

 それにしても、お年玉とは気が利いている。バイト代なら、少なければ不満に感じてしまうし、多ければ気が引ける。お年玉なら金額の多寡は渡す人の一存である。
 見事な計らいだ。

「ありがとうございます」と、ミコは受け取った。
 真理子と真也がそれを見て「わたしには?」「僕には?」とハモりながら手を出したのは、可笑しい。
「見事なコンビネーションね」と、ミコが言い、「あんたらにはバイト代を払うんじゃ。そんなものあるけえ。あたしゃ孫の嫁に小遣いをやったんだよ。おっと、孫でもなけりゃ、嫁でもないな」
 おばあさんは暢気な笑い声をあげた。

 

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