ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

15.

「シャワー、浴びさせてね」
 香織は身を翻した。
「気兼ねせずに使えよ」くらいのことが言えれば良かったのだが、真也はただ頷いただけだ。

 間もなく、お湯のしぶきが勢いよく壁や床にたたきつけられる音が聞こえてきた。
 湯の滝に洗われて汗を流しているであろう香織の裸体を、真也は想像せずにはいられなかった。

 香織の肌に張り付いていた二人の体液は、いともあっさりと排水口から下水へと流され、その後に残るのは肌を輝かせた香織である。シャワーを終えた香織は何食わぬ顔で出勤するのだろう。そして、いつもと何ら変わらない様子で仕事をするに違いない。そう思うと真也はたまらなくなった。

 お互いに恋人がいるにもかかわらず肌を重ねた夜。このまま別れてしまっては、そんなものはなんの意味も持たなくなってしまう。
 いや、もともとそんなものはないのだ。しかし、それを認めてしまえば虚しい。真也は無理に理屈をつけようとしているのだと自分の精神状態を分析した。
 真也は香織の中にもっとはっきりとした刻印をきざみつけたい衝動に駆られた。繰り返せば繰り返すほど虚しさは増すばかりなのもわかっていた。けれど、感情の波を押し返すことは出来なかった。
 真也はバスルームの扉を開けた。

 ミコはその頃、テレビのニュースを見ながら、やはり出社の準備をしていた。
 今日は荷物が多い。会社帰りにそのまま真也の所に行くつもりなのだ。

 これまでも真也の部屋で度々寝泊りしていたが、そこから会社に通うにはどうしても落ち着かなかった。自分の部屋にならあるものが、真也のアパートにはないからだ。
 身支度をするのに不便というほどではないのだが、いつもなら手を伸ばせば届くところにあるものが無い、というのはなんとなく気持ちが悪く、また小さな苛立ちを誘発した。

 何日間かは真也と一緒に過ごせるように着替えや日用品を整えて、それをスポーツバックに放り込む。
 普段はセカンドバックひとつで出社するミコだから、こんな大荷物を持っていたら同僚に何か言われるかもしれない。スポーツバックは駅のコインロッカーに入れておこう。
 テレビのスピーカーから流れる出来事は、慌しく身支度をするミコにとってはBGMでしかなかったが、そのワンフレーズが耳に触った。
 何か気になる。神経を逆撫でるとはこういう感じのことを言うのだろうか。
 テレビを注視したが、どうやら既に別の話題へと移っているらしく、それがなんだったのか確認することができなかった。

 途切れることなく落ちてくるこまかな水滴と、立ち上る湯気。その中に香織はいた。

 ドアをあけるその瞬間まで、真也の気持ちは荒ぶっていた。もう一度、肌を重ねたいという想いは切実だった。それは、大好きな人をそっと抱きしめてたい、などというのとまるで違う。蹂躙、という言葉がぴったりだった。香織が抵抗しようがお構いなしにきつく抱きしめ、立ったままでペニスをぶち込んでしまいたい欲求に駆られていた。

 それが証拠に、真也のものはお腹にはりつかんばかりに聳え立っている。
 しかし、シャワールームの香織を一目見て、そんな気持ちは一気に萎えてしまった。
 待ち合わせ場所で初めて彼女を見たときの印象そのままに、香織はまるで少年のように無邪気な笑顔をしていた。シャワーの心地良さを全身で受け止めていた。
 真也は急に恥ずかしくなった。
 性的な恥ずかしさである。生々しくも勃起したペニスを放り出していることへの羞恥心である。

 バスルームの中の香織は、天井から人口の灯によって照らされていた。決して大自然の中の太陽光ではない。にもかかわらず、彼女は神々しいまでに輝いていた。女性の裸体の美しさを全て身に付けていた。
「どうしたの? 一緒、する? 流してあげようか?」
 何のこだわりもなく声をかけてくる香織。一晩身を寄せ合った男女にとって裸をさらすことはもはやなんでもないはずなのだが、真也は急に照れくさくなった。
 性器を思わず両手で覆い隠してしまいたいくらいだ。

「いや、いいよ。狭いし」
 狭いのは最初からわかっていることじゃん。
 そんな指摘をされるんじゃないかとびくびくしたが、幸い香織は「そうね」と言っただけだった。

 シャワーを終えた香織は、途中まで一緒に出かけてどこかでモーニングでも食べようかと真也に提案したが、とてもそんな気にはなれなかった。
「明日、作文を持って来るように言われているから」と、真也は香織の誘いを断った。
 嘘ではない。
 内定通知をもらった会社から、「短期戦略と中期戦略、それぞれを立てる上での重要ポイントを、両者を比較した形で意見を述べよ」というテーマを与えられていた。
「ああ、そういうのはしっかりやっておいた方がいいわ」
「そのつもりだよ」
「今晩にでも見に来てあげようか? これでも社会人の先輩だし。つっても、窓口で書類を受け取ったり判子を押したりしてるだけだから、たいしたことはアドバイスできないけれど」
「見てもらえるのはありがたいけれど、多分、今夜はミコが来るから……」
「あ、そうよね。ごめんごめん」

 香織を送り出した真也は一呼吸おいてから部屋を出た。文房具屋に原稿用紙を買いに行かねばならない。けれど、颯爽と職場に向かう香織の後姿を見たくなかった。だからわざと少しばかりの時間をおいたのだった。
 薄ぼんやりした店構えの文房具屋に入る。年季の入った店だ。何十年前に開店したのか知る由もないが、その後は清掃以外のメンテナンスを一切やっていないかに見受けられた。しかし、品物の上に埃が積もっているなどということはない。気配りは行き届いている。

 店員も年季が入っている。笑顔が埋もれてしまいそうなほど深い皺。だが子供たちは店主を「じーちゃん」とは呼ばなかった。「とーちゃん」であった。そのことにどんな意味があるのか真也にはわからない。せいぜい「じーちゃん」より「とーちゃん」の方が身近な存在だから、店主が子供たちにそう呼ばせている。そんな想像をするばかりだが、当たらずとも遠からずだろう。
 この店が朝早くからやっているのはかねてから知っていた。通学途中に子供たちが文房具を手に入れることができるように、登校時間に合わせて店を開けている。

 一番安い原稿用紙を買う。400字詰の原稿用紙20枚がビニールの中に入っている。規定枚数は5枚以内なので、3回書き直してもなお余裕がある。これで十分だ。
 今日なすべきことは、この原稿用紙のマス目を埋めることだ。他には何もすべきことはない。

 短期戦略も中期戦略も難しいことはわからないけれど、テーマを与えられた瞬間にイメージは湧いていた。
 短期はとりあえず売れる商品の開発であり、広報も流通もあとからついてくるものであると主張するつもりだった。つまり、良い商品こそが短期戦略の骨子になるという要旨である。
 一方、中期のほうは、消費者に愛される会社を目指した活動をする、というのを主張するつもりだった。いくら商売が上手でも、企業そのものがユーザーに愛されなければ長続きなどしない、というのが真也なりの答えである。

 短い作文など、ここまで出来れば半分は完成したようなものだ。あとは文章の組み立て、つまり構成を整えればよい。これで8割完成だ。残りの2割が書くという「作業」だ。
 文章を書くことは単なる作業である。書く以前に8割は終わっているのが作文というものだ。
 このことは誰かに教わったのだが、実際にやってみるとその通りだった。あれほど作文が苦手で原稿用紙を前にうんうん唸りながら頭を抱えていた自分が、この話を聞いてからは嘘のようにすらすら書けた。要するに何も考えずに書き始めたところで既に破綻しているということであり、しっかりと構想と構成が組み立てられていれば、書くことそのものは決して難しくないのである。

 これを教えてくれたのはいったい誰だったろう?
 思い出せない。
 ともあれ、書く内容は決まっている。あとは、全体構成を整えるだけである。そう思うと、まるで作文はもはや完成したかのような錯覚すら覚えた。
 とたんに、真也は空腹を感じた。
 香織の誘いは断ったけれど、喫茶店のモーニングサービスくらいは食べたいなと思った。

 油断というのは恐ろしいものだなと真也は思った。邪念と言い換えても良い。
 モーニングサービスを食べながら、真也は“ああ、全てが終わった”と、開放感に包まれた気分でいた。実際はまだ作文を書きあげないといけないのだが、終わったような気持ちになっていたのだ。

 すると、とたんに性欲が湧いてくる。
 それは油断であり、邪念である。真也は自分でもわかっていた。
 けれど、抑えることが出来なかった。
 猛烈な性欲に駆り立てられシャワールームの香織をめちゃくちゃにしてしまいたいという想いが一蹴されたあの瞬間、全ての欲望は消えたのではなかったか。ただなりをひそめただけだったのか。
 今ごろになって性欲がめらめらと湧き上がってきた。

  食事を終えて外に出ると、真也は携帯電話を取り出し、1人の女性にコンタクトを取った。その相手は、ミコでも香織でもなく、柳真里絵だった。

「我がS市でも、また中堅どころが倒産したなあ。あそこは地元からそれなりに雇用してくれていたのに」

 登庁してしばらくは周囲でそんな会話が囁かれていた。香織には興味のない話題であった。今日も時間前から市民の何人かが書類を提出したり取りに来たりで順番を待っている。

 シャワーを念入りに浴びたのに、身体の中心にはまだ熱いものが残っていた。恋人の島崎と一緒に朝を迎えることは珍しくないが、あんなに激しく抱かれたことはない。普通にセックスをして穏やかに眠るだけだ。もちろん十分な睡眠時間はそれで確保できる。週末などは「明日のことはきにしなくていいね」などと島崎に囁かれながら、2回戦、3回戦と続けざまにセックスすることもある。翌日はさすがにこたえる。いつもより2時間くらいは軽く朝寝坊し、その後も昼前までゴロゴロしている。隣では恋人も同じようにダレた時間をすごす。
 しゃっきりと目が覚めるまでには相当の時間がかかる。

 そんな恋人との週末に比べて、さらに激しかった昨夜から今朝にかけてのセックス。睡眠時間など仮眠と呼べるほどにしかとれていない。にも関わらず、香織はちっとも眠くならなかった。
 セックスの余韻というにはあまりにもはっきりしていた。覚醒状態が継続しているらしかった。真也とのセックスのせいである。すさまじい現実感を伴って、香織の中にはまだ熱いものがはっきりと残っていた。

 挿入と挿入の間の、わずかなインターバルの中に身を置いているような錯覚すら覚える。まるでまだセックスの真っ最中のように。手を伸ばせば届くところに真也がいて、せがめばいつでもまたペニスを押し込んでくれるような気がした。
 仕事はもう慣れたものだから、邪念にとらわれながらもそつなく午前中の業務をこなすことが出来た。昼休みになって、わたしは仕事中であって真也はもうどこにもいないんだとやっと理解できた。

 いったん収束しかけていた倒産の話がまたあちこちで沸きあがっている。関係部署では昼休み返上のドタバタぶりだった。
 高卒採用者が一斉に内定取り消しとなり、パートのおばちゃんが予告なしに首を切られたからだ。
 興味のなかった香織の耳にも、倒産したF商事の社名がさいさいと届く。
(え? F商事? それって、真也が採用された所じゃ…)
 気になったが、昼休みは終わろうとしていた。

「休肝日って知ってる?」
 久しぶりに会った真里絵は、麻薬中毒に陥っていたときとは違って、ずいぶんイキイキとしていた。

「休みの日だろ?」
「うん。でもね、カンは肝臓の『肝』を当てるの。お酒が好きで、毎日浴びるように飲んでいる人でも、週に1日か2日、肝臓を休ませてあげなさいってことなんだって。これが健康には随分いいって聞いたことがあるわ」
「真里絵はそんなにお酒のんだっけ?」
「ううん、飲まない。だからこれは、酒飲みの話。私の場合は休セックス日ね」
「どんなに好きでも、週に一日か二日、休むってこと?」
「そうそう。今日がそれにあたるの」
「あ、俺は別に、やりたくて呼び出したわけじゃないから、別にいいけど」

 真里絵はプッと吹き出した。
「いいけどの『ど』は、どういう意味よ。やりたかったんでしょ、実は」
「まあそうだけどさ」
「いいよ。わたしの休セックス日は、あくまで『お客さんとは』って意味だから」
「休売春日ってわけだ」
「せめて休業日って言ってよね」
「じゃあ、タダノリさせてくれるんだ」
「タダノリって、なんかキミらしくない言葉の使い方よね」

 昼過ぎのファミリーレストランには、外回り中のサラリーマンや小さな子供を連れた主婦の姿が目立った。自分と同年代の男女もいるが、「仕事や学校はどうなっているんだろう」と、真也は自分たちのことは棚に上げて思う。
 なにしろ自分は卒業にしくじって学校に顔を出さなくなってしまった大学生だから、身分としては失業者だ。幸い大学中退でもF商事は採用してくれるという。失業者の肩書きもあとわずかで返上だ。

 一緒に食事をとっているかわいい女の子は売春婦。彼女の口ぶりでは需要はいくらでもあるのだろうなと真也は思った。真昼のファミリーレストランで、失業者と売春婦の組み合わせ。しかも二人は高校の同級生。面白いような不思議なような気分になった。

「ところで、就職が決まったんだって?」
「ああ」
 真也はF商事の名を口にした。
「ふうーん、そう」
 真里絵の表情から笑顔が消えた。
「そこ、わたしの友達も内定したって言ってたけど、この前、辞退したって」
 とすれば、その欠員を埋めるために自分が採用になったのかなと真也は思った。

「あんまり経営状態が良くないらしいって」
「え? そうなのか?」
 真也は一瞬、やばいのかなあと思ったが、深くは考えなかった。このご時世、超大企業だって順風満帆とはいかないだろう。

「その友達、神経質すぎるんじゃないのか?」
「さあ、どうかしら。わたしはそういう世事には疎いから」
「それで、商売やっていけるの?」
 真也の質問は真里絵にとっていささか唐突だったようだ。あるいは、売春婦にそんなものは関係ないんだなと嫌味を言われたような気がしたのかもしれない。
「なによそれ」
 つっけんどんに訊き返す。
「だって、水商売の女の人って、どんなお客さんのどんな会話にもそれなりに話を合わせるために勉強するんだろう?」
「ちゃんとしたお店に所属している人ならそうかもしれないけど、わたしみたいな闇の売春婦とアレコレ話をしたがる人はいないわ。ただやって、性欲満たして、お金を払って、それでおしまい。お互い詮索しないもの」
 そういうものかと真也は思った。

「ま、日本には表の売春婦なんていないけどね。法律で禁止されているからね」
「じゃあ、それなりにセックスが上手だったら商売成り立つんだ」
「ダメダメ、それなり、じゃね。わたしみたいにフリーの女の子に、何度も電話かけてきてもらうためには、相当上手じゃないとね」
「練習相手になってやるよ」
 食事はそろそろ終わろうとしていた。
「キミじゃ練習相手にならないって。デカすぎるし、長持ちしすぎるし。ま、わたしにとっては、身体のメンテ、心のリハビリってとこかな?」
「なんだよ、それ」
「スカみたいな持ち物の男でも、ちゃーんと相手にしてあげてるんだから。たまにはわたしもスゴイの欲しいわよ」
「へへ……」
 ちょっと褒められたような気がして、まんざらでもない真也だった。

 ファミレスを出た2人は、真理絵の車で、ラブホテルにチェックインをした。そして、最初は優しく、次第に力強く抱きしめあい、キスを交わした。
 長いキスのあと、ゆっくりと身体を離した真也は、真理絵の服を脱がしにかかる。麻里絵は静かな笑顔を見せながら、真也に任せたっきりだ。最後に黒いパンティーを脱がして、真也は真里絵のヴァギナに触れた。

 指先で弄びながら、処女の面影を残す香織とは随分違うなと思った。いや、以前貸し別荘で交わったときとも違うような気がする。
 真也がそれを指摘すると、「やっぱり、わかる?」と真里絵は答えた。
 性器の変化については真里絵も自覚していた。
「なんか、ビラビラは広がっちゃうし、クリトリスもずっと剥き出しなのよね。ちょっと大きくなったかもしれないし」
 真里絵はベッドの上に座り、足を開いて見せた。
「色も黒くなったね」
「もう、やだ」

 このことについて、真里絵は自分なりに分析していた。
 これまでは特定の常連が中心の行為だった。けれど、麻薬中毒から脱して以後、そういう人たちを相手にするのはやはりはばかられた。昔のつながりを引きずっていればまたいつそういう事態になるかわからないと思ったからだ。別荘での生活を終えるとき、かつての馴染み客に再び連絡をとると真里絵は言っていたが、結局そうはしなかったのだ。

 だから、新しい客をとらなくてはいけない。そのルートはもっぱら出会い系サイトだ。
 話がまとまってもすっぽかされることも多かったし、単価も安い。ピルを飲んでいるから妊娠の心配は無かったけれど、不特定多数が相手では病気を移される恐れはあった。けれど、せっかくの約束の確度と単価を上げるためには、中出しOKをはっきりと口にするのがてっとりばやかった。
 値段もそれまでと違ってはっきりとしたボーダーが見えた。2万なら買い手がつくが、3万になると客足が減った。真里絵としては、金額よりも早く常連をつかみたかった。相手を限定した方が安全だからだ。
 しかしそれも簡単ではない。一度援助交際をしてみたかったという興味本位のものも多いし、毎回違う相手と遊びたいからこれっきりにしてくれ、というのもあった。

 そもそも今の客層にとって、2万という金額が相当なハードルなのだ。もっと払える男なら、女を買う場所も相手も固定している。リスクの伴う出会い系サイトに頼るのは、金が無いからである。
 一日に一人の客を相手にしていれば生活は出来たが、コレという相手を見つけるために、真里絵は一日に何人もの男を相手にした。
 結果、「不特定多数とノースキンで毎日やりまくることになっちゃってね。そしたら、アソコもぼろぼろになっちゃった。今、相手にしてる人たちって、売春がしたいんじゃなくて、援助交際がしたいんだなってつくづく思っちゃう。どこがどう違うのかと訊かれても困るけど、ニュアンスの問題ね」

 真也には何も言えなかった。
 売春という商売のやり方について、いったい何を言えるだろう。言えるとしたら「そんなのやめて、ちゃんと就職しろよ」だけだった。
「やだ、そんな暗い顔しないで。ボロボロって言っても別に見た目の問題だけだから。前より感度は良くなってるし。HIVの検査も受けてるよ。今のところ、大丈夫」
 真里絵に説得されて、とにかく今はセックスに没頭することにした。

 

続きを読む

目次へ戻る