ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

16.

 ベッドの壁際に、照明やBGMなどのコントロールパネルが収められている。そのパネルに背中を預け、麻里絵は立膝でベッドの上に座っていた。
 両足は思い切り開いていた。
 麻里絵の股間には真也の舌が這う。ベッドにうつ伏せになった状態で、真也は顔だけを上げて麻里絵の秘部をしゃぶるのだった。

 コントロールパネルの無機質な冷たさと硬い感触が麻里絵の背中にはあった。気持ちの良いものではなかったが、真也の舌技が与える快感がすぐにそれを忘れさせてくれた。
「あ……、いい……、んふ……」
 よがり声が漏れた。

 今日の相手はいつものように「お客さん」ではない。演技で声を出す必要はない。だからだろうか、これまでのプライベートなセックスにくらべても声が出なかった。
 無理して喘がなくてもいいんだという思いがあったのか、それとも、真也の舌舐愛撫に夢中になってしまったのか。
 だから微かに漏れる声は、身体の中心部から細胞本体が喘いでいるのだった。

(プライベートなセックス?)
 そんなもの、いつしただろうかと麻里絵はふと考える。
 損得抜きで男に抱かれたのは、別荘で麻薬と戦いを終えたときのやはり真也とのセックスだった。
 この人のセックスは違うと麻里絵は感じていた。
「お前とやりたいんだ」という真也の想いがヴァギナを這う真也の舌先からビンビン伝わってくる。

 お金が絡まないと、こんなにもリラックスできるのかと麻里絵は思った。新しい快感を発見したかのようだ。快感のクオリティーも数段高い。それとも、相手が真也だからだろうか。
 パワフルだけれどどこか猪突猛進な、経験の浅さが感じられたあのときの真也。けれど今は、そこそこテクニックを身に付けているように思えた。それが自分とのセックスで得たものだったら嬉しいんだけどなと麻里絵は思ったが、それだけではないことを麻里絵は直感していた。短い間にそれなりの経験をしているんだと麻里絵にはわかった。そしてもちろん、真也が自分にぶつけてくる想いが大きくなっていることも感じていた。

 舌の先端で突付かれた後に舌の平面をぐっと押し付けられ、さらにぐっちょりと嘗め回される。麻里絵のクリトリスはひくひくと震えた。このまま集中攻撃を続けられればあっけなくいってしまう。

 その寸前に真也の舌は移動した。
(まさか、この子、見切ってるの?)
 お客さんの中にはまれにそういう人もいて、気が狂わんばかりの快感にのたうちまわされることがある。しかし最近はそういうこともない。女を買い慣れた男とのセックスならそんなこともあったが、出会いサイトでは、そんな人には巡り合わなかった。

 真也の舌は割れ目を深くなぞり、熱い軌跡を麻里絵の性器に焼き付けながら、肛門まで辿り着く。アナルセックスという単語が麻里絵の脳髄にひらめき、肛門がゆるくなって、かすかに開いた。
(そこ! そこにも舌を入れて。あ、だめ、入れないで、おかしくなっちゃう……)
 わけがわからなくなりそう。

 けれどその直前にまた真也の舌は場所を変える。
 今度は割れ目の周りをぐるぐると舌が嘗め回す。麻里絵の分泌した淫液と真也の唾液が混じりあいながら、最高級のローションとなって、舌の滑りを促してゆく。
 一方の頂点がクリトリス、もう一方がアナル。中心部分に触れるか触れないかの絶妙な位置をキープしながら、真也の舌は時計回りとは逆に麻里絵の襞を丁寧に捕らえて行った。
 細胞と細胞のかすかな隙間にも真也の舌のデコボコが快感を残していった。

 麻里絵の頭の中がふっと白くなった。
(あ、軽くイッちゃった)

 その瞬間、麻里絵は天使の囁きのような声を発していた。
 状態の変化に真也も気がついたのだろう。クンニを中断して身体を起こした。
「えへへ」と、麻里絵は照れ笑いをした。

 真也のモノがいとおしくなり、口に含んであげたくなったが、やめた。そういうことは商売女として日常的にやっている。快感を与える立場として。
 でも今日は立場は関係ない。フェラチオは真也が求めるまではやめておこうと思った。真也はまだまだわたしを攻めてくれる。そう確信していた。

 真也は麻里絵の思惑通り、攻撃の手を緩めなかった。
 ベッドの上に座り、麻里絵と同じように立膝開脚の状態で、後ろに手を突いて体重を支えながら、じわりじわりとお尻の位置を前進させてくる。お互い股間をさらけ出した状態で正対し、距離をどんどん詰めてくるのだ。
 やがて二人の性器と性器がコンマ何ミリの状態まで接近した。

 真也は左手を背中の後ろについたまま体重を支え、右手をペニスの根元に添えた。
 どうしようというのだろう。
 麻里絵が疑問にとらわれたのは一瞬だった。
 あっというまに一切の思考が出来なくなった。再び真也が快感の波を発生させたからだ。

 破裂寸前にまで膨張しつくした真也のペニスは、それに添えた真也の右手によって上下に動かされ、その先端はクリトリスをピシャリピシャリと叩き始めた。そしてクリトリスからヴァギナまでを猛烈な勢いでこすりつけた。
 Tバックパンティが歩くごとに食い込んでくるように、真也もまたペニスを振りながら少しずつ距離を縮めてくる。ただし、食い込んでくるのはTバックパンティの股下部分のように細くはない。まるで野球のバッド。
 真也のモノは、もちろんそんな人間離れしたものではない。麻里絵の錯覚である。だが、そんな錯覚を起こさせるほど、真也のものは熱く硬くなっていた。

 真也は微速前進をやめない。
 真也の先端部分は中央の裂け目をぐいぐいと押し、膣にもスッと入る。
 けれど、そのままじっとしている、なんてことはない。
 激しい抜き差しに、膣壁はまるで捲れあがるようだ。

 どれくらいそんなことをしていただろうか。ペニスの上下動の勢いと膣壁の押し返す力で、快感の上昇はとどまるところを知らず、麻里絵はヒイヒイ声を上げながら、それでももっともっとと願っていた。
 無意識に麻里絵が腰を突き出すのと、真也が上下動をやめて穴の奥不覚にモノを押し込むのと、タイミングが合った。
 ズドオンと、激しい音がしたかと思ったほどだ。
 焼け爛れた鉄芯が子宮口に突き刺ささる。

「ああああああああ〜〜〜〜」

 麻里絵の性感は細胞の隅々にいたるまで覚醒した。身体がばらばらなる錯覚にとらわれた。
 快感が沸点まで上昇し、ここちよい液体の中で神経のひとつひとつが天国に導かれた。

 こ、これが、イキっぱなしっていう状態なのね。

 神経は隅々まで冴え渡っていた。にもかかわらず同時に弛緩しきっていた。太ももの付け根が痙攣したと思ったら、今度は鎖骨が震えた。足の指先が耐え切れない愉悦に悲鳴を上げ、髪の毛が逆立ち、肛門が開いて、わき腹がめくれあがった。何かが出てくる、そう感じた次の瞬間に潮を吹いていた。

 思わず目を開くと、真也は相変わらず腰を前後に振り続けている。出たり入ったりするモノの姿がばっちりと見えた。
 手で握ったり口に含んだりしたことのある真也のそれと、形が違っていた。一回り大きくなったカリ首。それが平然と自分の穴を出たり入ったりしている。
 こんなデカイモノがわたしの中に……
 そう思うとまた恍惚としたものがこみ上げてきて、潮を吹いてイッた。

 潮を吹いたのは2度目だが、もう何度イッたかわからない。正常位と違って動きにくそうで、ピストンがぎこちない。
 一定のリズムで壊れるほどに押し込まれたら、どうなるだろう。今以上の快感が全身を駆け巡ることを想像して麻里絵は声を上げてのけぞった。

 けれど、今の体勢やピストンを維持しながら、どう身体をひねったら正常位になれるかわからなかった。バックの方がさらに気持ちがいいだろうなと思ったけれど、やはりどうしていいかわからなかった。
 普段の自分なら「ね、うしろからして」などと囁いて、いったん結合を解いて態勢を立て直したりするのだが、身体と身体が離れるその一瞬がもったいなくて口に出せない。ひたすらに「もっと、もっと、ねえ、もっとお」とおねだりするだけである。

 熱くなった身体からは汗が流れていた。麻里絵は額から流れ落ちる汗が唇のすぐ横を通り過ぎるのを感じて、舌をペロリと出した。しょっぱかった。
 見ると真也も全身汗だらけである。

 換気装置は作動していたが、空調は入っていない。麻里絵は自分の背中にコントロールパネルがあるのを思い出して、スイッチを入れようと振り返った。けれど、どれがどのスイッチかはわからない。
 目に入ったのは時刻だけである。3時30分をわずかに回っていた。
 さらに身体をひねる麻里絵。
 その勢いでスポンと真也の怒張したペニスが抜けた。

「どうしたの?」と、真也。
「うん。冷房入れようと思って。それと、バックからしてほしい」
 とうとう麻里絵は自分の欲望を口にした。
「いいよ、俺もイキたいし」
「え?」
 意外だった。真也はいつもおそろしいほど長持ちする。それは単に遅漏というのではなく、自らをコントロールすることによって女を喜ばせ、ヒイヒイいわせることが好きなのだと思っていた。つまり、自ら望んでそうしているのだと。
 そんな真也が自分もこんなに早くからイキたいと言うのは珍しかった。

「真也だってそんな気持ちになることがあるんだ」
「もちろん、あるよ。中で出すのは気持ち良いし」
「うん、わたしも気持ちいい。早く来て」

 真也が特別好きなわけではない。単なる男の子の一人。けれど、援助交際の相手とは明らかに違った。心を許せるとでもいうのだろうか。素直に自分の感情を口にすることが出来た。

 これが友達というものだろうかと麻里絵は思った。

 麻里絵は、真也に手を添えられただけで、コロリとひっくり返されてしまった。身体からとっくに力が抜けている。自分がクラゲになったような気分だ。
 快感を散々引きずり出されて力が入らなくなったのか、それとも相手が真也だからだろうか。

 空調のスイッチを入れることなど失念していたが、真也がパネルを操作してくれたみたいだ。ブフォオーと空気の噴出し口の音が大きくなった。
 身体を支えることが出来ず、四つんばいになれない。うつ伏せに突っ伏してしまった。麻里絵に後ろからのしかかった真也は腰に手をあてがって引っ張り上げ、ペニスを押し込んできた。

 ゆっくりと腰を動かし始める。
 にちょねちょと粘液が絡み合う。

「あ、うう、いい……」
 さっきまでと異なり麻里絵は真也のペニスが自分に出入りする様子を見ることは出来ない。けれど、頭の中では鮮明にその様子が映像化されていた。
(あの、大きくて太くて硬いものが、わたしの中を掻き回している)
 体勢を変え、言葉を交わし、ほんの少しだけ冷却されはじめた身体が、再び燃え上がる。

 瞼を開くと部屋の照明が落とされていた。真也が調整したのだろう。光量は減らされていたが、かわりにピンク色の照明がほんのりとともっていた。窓からオーロラのような光の筋が部屋の中に差し込んでいる。
 オーロラ、あれが見られるのは、北極だったろうか、南極だったろうか。今のわたし達はどこにだって行けるわ。

 麻里絵の動きを制御するために腰に添えられていた真也の手は、性器ががっちりとからみあった今となってはもはや不要だ。真也は手を麻里絵の乳房にあてがい、乱暴に揉みしだいた。乳房の先端部分が絞り上げられ、屹立した乳首を真也の指先が弾いていく。
「あん、あん、あん」
 わたしってこんなにかわいい声をだしたかしら。

 そんなことを考える余裕などすぐになくなった。真也の腰の動きがはげしくなったからだ。一気にフィニッシュに持っていこうとしているのがわかった。
 欲望の塊を力の限り突きつけられて、ふたりのぶつかり合う音が部屋中に響き渡った。
 腰がゆっさゆっさと揺れた。

 立った乳首がベッドに押し付けられて痛いぐらいだ。胸と敷布団の間に距離をとろうと麻里絵は腕立て伏せの体勢を作ろうとするが、下方から押し寄せる膨大なパワーに翻弄されるだけだった。
 やがて乳首の痛さなどどこかへ消し飛ぶ。
 ふわふわと快感の雲の中に麻里絵は放り出された。

 あ、くる……

 光の渦が収縮して拡散し、また収縮した。恍惚の海の中で脳みそが溶け、光が弾けとんだ。真也のうめき声が聞こえたような気がするが、すぐに意識がなくなった。

 2回戦、3回戦と挑むことなく、真也はまどろんでいた。耳に麻里絵の寝息が規則正しく届く。それがほんの少し乱れた。目の覚める前兆だ。真也もそれで気がついた。
 時計を見る。4時52分。どうしてこんなに時間が気になるのだろう。何か大切なことを忘れているせいじゃないだろうか。ぼんやりとそんなことを考えていて、大切な用事を思い出した。

「しまった!」
 叫んで上半身をガバッと起こす。
 就職が内定したF商事から、作文という課題を言い渡されていたのだ。締切りは、今日の午後6時。人事に提出してくれたらいいとのことだった。

 頭の中を隅から隅まで精査する。こんなことを書こうと思っていた内容は鮮やか過ぎるほど自分の中にあった。きっちりと練り上げられた構成はたったひとつの綻びもなく、ぎっしりと詰まっている。
 間に合う。
 とっさにそう思った。幸い文房具屋で買った原稿用紙は持っている。ペンはラブホテルの部屋にだってあるだろう。30分で書き上げ、タクシーを使ってF商事に飛び込めばぎりぎり間に合いそうだ。締切り直前まで頭をひねって取り組んでいたんだと相手に思わせることが出来れば、印象が良いかもしれない。
 いやいや、既に内定が決まっているんだから必要以上に点数稼ぎをすることはない。作文の結果次第で内定取り消しなんてことはないだろう。要はそこそこのものを出せればいい。ただし、締切りに遅れたら、まずいだろう。

 麻里絵には悪いが、余韻に浸っている余裕はない。ここですぐに書き始めよう。
 真也はベッドから降りようとした。
「あれ? どうしたの?」
「え? ああ、いや、ちょっと」
 正直に事情を説明すればよかった。でも、どこかに罪悪感があった。つい先刻までこの女の身体を味わい尽くしていたのに、自分の都合でさっさと行動の方向性を切り替える。身勝手な気がした。だから、きちんと筋道立てて説明することが出来なかった。
「ねえ、ゆっくりとお酒のみながらご飯食べようよ。久しぶりの休日なの」
 麻里絵にせがまれて拒絶できなかった。

 明日、書き上げた作文を持ち込み、「よんどころない事情で」などと言えば受け取ってもらえるだろうか。
(いや、この期に及んで卑怯なことを考えるのはよそう)
 真也は思った。
 だいたい、あと30分で書き上げることが出来る保障なんてどこにもない。それよりも目の前の女の子を大切にしてあげることが出来なくて、ただ与えられた課題を全うしたところで、それで「社会人」といえるのだろうか。
 自分に都合のいい言い訳をしているなと思いつつ、作文はもう放棄することに決めた。

「そうだな、ゆっくり食事でもしようか」と、真也は言った。
「今日、誘ってくれて嬉しかった。お礼におごるわ」
「いや、そんな悪いよ。こっちから声をかけたのに」
「いいのよ。それに、あなたは失業者。わたしはちゃんと稼いでいるわ」
「売春婦におごられるなんて、なんか」
「かっこ悪い? プライドが傷つく?」
「いや、ヒモみたいでカッコイイ」と、真也は言った。

 麻里絵との食事を終えて帰宅すると、電話が鳴った。
「ああ、やっと出た。留守電もセットしないでなにしてたのよ」
 ミコだった。
「携帯に電話してくれたらよかったのに」と、真也は言った。言ってから、麻里絵とのセックスや食事の最中だったら、とっていなかっただろうなとも思った。
「電池切れてるんじゃない? つながらなかったわよ」
 確認すると確かにそのとおりだった。麻里絵を呼び出すための電話がどうやら最後だったらしい。

「すまん」と、真也は言った。
「いいのよ、ちゃんと帰ってきてくれて。作文を提出しに行ってガックリ肩を落として、ヤケ酒でも飲んでいるのかと思った」
「どうして俺がヤケ酒なんか飲まなくちゃならないんだ?」
「え? だって、あれ? 何事もなく作文出してきての? ちゃんと受け取ってもらえた?」
 驚きが混じった不思議そうな声が受話器から流れてきた。

「いや、実は……、作文は間に合わなかったんだ。だから、提出していない。会社にも行っていない」
「書きあがらなくて遅れますとか、そういう連絡もしなかったの? それじゃ社会人失格じゃない」
「連絡なんてしてない。とにかく間に合わなかったんだから。どっちにしても社会人失格さ」
「バカねえ。卒論の提出期限とかとは違うんだから、事情をきちんと説明できたら会社は待ってくれるわよ。社会に出れば締切りに間に合わないことなんてゴマンとあるわ。それをお互いのコミュニケーションで補うんじゃない」
「まあ、とにかく今晩書いて、明日のアサイチで持っていくよ」
「その必要はないわよ。その様子じゃ、どうやら知らないみたいね」
 電話の向こうのミコは半ば呆れているようだった。

「F商事、潰れたわよ。うちの市から高卒で入る予定だった子達がいっせいに内定取り消しになって、パートさんたちが首を切られて、今日は大騒ぎだったって香織が言ってた」
「F商事が、潰れた?」
「ほら、やっぱり知らなかったんだ。浮かれてないでニュースぐらい見なさいね」
「だけど俺は何の連絡ももらってないぜ」
「携帯の電源は切れている、家にもいない、それでどうやって連絡とるのよ」
「あ、そうか」
「それに、学校やらが間に入っていない中途採用の真也なんか、後回しにされて連絡すら来てないかもね」
「はは、後回しね」
 なんだか、情けなくなった。

 後にわかったことだが、辞退者が出たおかげで真也が繰り上げ採用になったというのは、会社の内情がかなり悪いことを知った大卒の何人かが辞退した、というのが実情だった。
「潰れたといっても、廃業するのか、事業は継続するのか、その辺のことはわたしにはわからないけれど、十中八九新人を入社させる余力はないと思うね」
「そうか。そうだろうな」
 真也はがっくりと肩を落とした。

 課題提出をすっぽかしておいて、実は今後のことはあまり考えていなかったのだが、それでも「あなたの内定なんてもうなくなってるわよ」とはっきり指摘されて気落ちせずにはいられなかった。
 麻里絵とセックスを謳歌し、食事をして、いい気分になっていたのだが、冷水を浴びせられたような気分になった。

 どうして俺はこんなにショックを受けているのだろう。作文を放棄して麻里絵と食事をしにいくと決めた時点で、就職のことなどどうでもいいやと思っていたはずだったのじゃないのか? それとも、作文くらいあとでなんとかなると心のどこかでたかをくくっていたのだろうか。
 ミコの言うとおり、倒産イコール廃業とは限らない。明日作文を持参し「遅くなりました」と頭を下げればなんとかなるのかもしれない。
 けれど、倒産した会社に就職してどうなるというのだ。そんなところに行くくらいなら、自分で起業したほうがマシというものだ。残念ながらそんな資金はないけれど。

 ……資金……
 そうだ、なんとかしないと近いうちに生活費にも事欠くようになるだろう。
 これまで「内定がもらえない自分」というふがいなさに焦りを感じはしたが、明日の生活費をどうしようと困惑したことはなかった。けれど、このままだとその日も近い。
 マジでやばいぞと真也は思った。初めて危機感というものを抱いた。

 贅沢は言っていられない。契約でも嘱託でも臨時でも、いやアルバイトでもいい。仕事を始めてから最初の給料を貰うまでのことを思うと、そろそろ限界だ。その間、いくら節約に節約を重ねても、家賃や水光熱費に電話代と、否応なしにやってくる支出だってある。
 やばい。本当にやばい。
 真也はコンビニへ走ってアルバイト情報誌を手にいれ、さらに駅前やらスーパーやらに置いてある求人フリーペーパーにも手を伸ばした。ネットの求人サイトでも検索をする。明日中にこの中からとにかく仕事を決めてやる。
 この必死の思いはこれまでに抱いていた「仕事をさがさなくちゃ」という思いとは比べ物にならないくらい真剣なものだった。
 今までの自分が甘かったことを思い知らされた。

 電話が鳴った。香織の恋人、島崎からだった。
 彼との面識は一度しかない。香織がミコに島崎を会わせたいと言い、「だからってこっちだけ一人で行くのはナンだし」とミコに同席をせがまれた。そのときに言葉を交わしただけだった。
 実際にはいつまでも就職が決まらない真也を励ます会として催された飲み会だった。

 そこで真也は島崎からいろんな話を聞かされた。どの程度真剣だったのか真也にはわからない。島崎から見れば真也は、恋人(香織)の友人(ミコ)の恋人という近いのだか遠いのだかわからないつながりだ。島崎にしても「礼を失しない程度の当たり障りのない外交辞令だけの会話」に徹したのかもしれない。表向きは「今後も情報交換をしましょう」ということだったが。
 真也は島崎の恋人とその後寝ているので、多少の親近感がないわけではないが、どちらかというと罪悪感だ。もちろん香織は島崎にそんなことは告げていないだろう。だから島崎のとって真也は、あのときに会って一緒に食べて飲んで少ししゃべっただけの間柄である。

「大変だったね。せっかく就職が決まったのに」
 F商事の倒産のことを彼は話題にした。
 真也は嬉しくなった。その場限りのリップサービスで終わらせてもなんら支障がないはずの自分との関係なのに、彼は頭の隅に留めておいてくれていたのである。
 その恋人を抱いてしまったことに今更ながら「すいません」と頭を下げたくなった。

 彼の用件は、アルバイトでよければ仕事を紹介する、というものだった。
 生活費に事欠くことになりそうだった真也は「お願いします」と二つ返事だ。
「じゃあ話は付けておくよ。2〜3日中に連絡する」

 仕事の内容はスキー場でのアルバイトだった。民宿とペンションとお土産物屋とレンタルスキーを経営している小さな会社で、スキー場の町営リフトの運行も指定管理を受けて管理・運営を委託されていると島崎は言った。現在引退している社長の父親は、県会議員のその地区での後援会長をしており、地元ではそれなりの顔で、影響力も強いらしい。
 旧態依然とした老舗の民宿だったが息子の代になって多角経営に乗り出して会社組織化、社員は地元の者ばかり少数だが、シーズン前に大量のアルバイトを雇って準備を整え、シーズンが終わって片づけが済んだらアルバイトを解雇する。毎年そのようにして運営しているとのことだった。
 その新社長も、もう50代の半ばだそうだ。

「アルバイトが昇格して社員になることは絶対にないけれど、12月から5月の半年は少なくとも仕事がある」
 アルバイト中はその後の身の振り方について考えたり手を打ったりする余裕など全くないほど多忙を極めるから、アルバイトが終われば失業の真っ只中に放り出されることになる。その時点で1からやり直しになることだけは覚悟しておいてほしいと島崎は言った。

 いったん「お願いします」とは言ったものの、真也は不安になった。明日一日、アルバイト情報誌を片手に歩き回れば、もっと条件の良いところが見つかるかもしれない。
 不況が進む中で企業はいきなりの「正採用」を控える傾向が強く、いつでも首の切れるアルバイトとしてまず採用し、本人の能力をじっくり観察した上で会社の業績と照らし合わせ、アルバイトの中から社員昇格をさせていくところが増えている。それも、正社員ではなく、期限付きの契約社員というところが多い。給料は増えるかもしれないが、身分が不安定ということでは、アルバイトと変わりない。しかし、正社員であってもF商事のようなことになれば、リストラされるわけで、職があるだけマシと思うべきかもしれない。

 しかし、別な考え方もできる。
 面接や筆記やグループディスカッションなど、何度かの試験を行ったとしても、採用側としては「本当にこいつ、役に立つのか?」という不安は拭えないだろう。その点、アルバイトからの昇格なら、仕事ぶりがわかっているから、安心なはずだ。不況だからこそ、役立たずは採用したくない。なら、アルバイトからの昇格、というのも有力かもしれないのだ。
 こちらとしても「気に入らない会社」ならさっさと去るメリットがある。

 確かに、シーズンの多忙を乗り切るために酷使され、半年後にはあっさりさようならとなるスキー場のバイトなど、決して良い条件とはいえなかった。
 ただし、そんなあとくされの無さが気に入って、ずっとそういうアルバイトを続けている人もいると島崎は言った。
 6ヶ月間をスキー場、夏の2〜3ヶ月を山小屋でアルバイトし、残りの時間を自由にすごすのだという。

 中にはスキー民宿と山小屋の両方を経営していて、同じ人を採用し解雇する、という繰り返しを行っているところもあるという。アルバイトではなく正社員として採用と解雇を繰り返すこともあって、そういう場合は保険や福利厚生でも有利なのだった。
「残念ながら僕が紹介するところはスキー場だけ、冬だけの仕事だけどね。ま、人手はたくさん必要だから、1日2日考えてくれたって間に合うよ」

 もう1日2日考えてもいい。
 その言葉が真也の背中を押した。
 ここでアレコレ考えたら、きっとまた前に進めなくなってしまう。考える時間というものが、かえって人を「後ずさりさせる」ことを真也は知っていた。というより、自分の性格をわかっていた、というべきか。考えているうちに「まあ、いいか」となり、最後には意思決定をして返事することすら億劫になってしまう自分の性格を。

 この場で決めてしまおうと思った。
「いえ、もう考えません。やらせてください」
「わかった。段取りしておく」
 求人情報入手のためにバタバタと走り回った数時間が嘘のようだった。

 

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