黄金丘陵の古い寺院

 

「コーヒーでも、飲もうか?」と、彼女は言った。
「そうだな、ちょっと喉が渇いたかも」と、僕は返事した。そして、付け加えた。「でも、眠れなくなっても困るし」
「いっぱいの暖かいコーヒーは、気分を落ち着かせてくれるわ。だから、大丈夫。何杯ものんだらダメだけどね」
「そういえば、そうだな」と、僕は答えた。

 身に覚えがある。なんとなく落ち着かない気分で、眠れなくなった時、どうせならとコーヒーを飲んだりする。どうせ眠れないのなら一緒だ、という半ばヤケな気分と、飲むのなら好きなコーヒーがいい、という嗜好があいまって、インスタントながら一杯を味わうひと時を楽しむのだ。
 しかし、不思議なことに、それから30分もしないうちに眠ってしまうのだ。
 このことについて、僕は深く考えたことはなかった。夜中だし、自然と眠気が襲ってきたのだと、無意識のうちに思っていたらしい。

「ちょ、ちょっとまって」と、僕は思考から現実に戻った。「今、暖かいコーヒーって言ったよね」
「言ったわ」
「そんなもの、どこで買って来るんだよ」
 この列車にはビュッフェやカフェテリアなどはないし、あったとしてもこんな時間に営業はしていないだろう。
「買うんじゃないの。作るのよ」
 彼女は、ザックからEPIガスとコッフェルを取り出した。

 彼女の荷物はアタックザック仕様の縦長のバックパックひとつである。オレンジと黒のツートンカラー。元は明るいオレンジ色だったろうに、すすけて黒ずんでいる。長い旅を物語っていた。
 ドイターのマークがあるから、ドイツの有名なザックメーカーの、いわばブランドものだ。最近、日本でもよくお目にかかる。
 旅行用のザックはどちらかというと箱型スタイルのもので、ローラーと取っ手のついた、キャリーバックに転用できるものが人気がある。けれど、キャリーに転用するため骨格が直方体で背中にフィットしずらく、背負って運ぶのが中心になるなら、登山用のアタックザック仕様のものが使いやすい。
 これが明らかに旅行用だと判断できるのには、二つの理由がある。縦長のアタックザックには、登山用の場合は普通、下部に取り出し口がない。従って、下のほうに突っ込んだものを引っ張り出すには、荷物をひっくり返さなくてはならない。だが、旅行用には下部ファスナーがあり、下のほうの荷物も容易に取り出せる。
 もうひとつは、ファスナーが両開きになっている点だ。ふたつのファスナーのひっぱる部分には小さな穴があり、ここに南京錠をかけておけば盗難予防になる。山用のザックは片開きだ。山小屋で登山者同士が荷物を荒らすことはなくても、駅で旅行者の荷物が狙われるのは珍しくない。

 ザックの大きさは、おそらく35リットル程度だろう。アタックザックスタイルだから上に10リットルくらいは伸びるとしても、何ヶ月も旅するには少し小さいような気がする。
 そんな中に、彼女はガスやコッフェルまで詰め込んでいるのだ。
「だって、パーティーに出るわけでもなんでもない、放浪旅行だもの。たいしたものは要らないわ」と、荷物の少なさを僕が指摘すると、彼女は答えた。
 貧乏旅行ではなく、「放浪旅行」と言い換えたあたり、彼女もそれなりに自分の旅にはこだわりがあるのだろう。
「Gパン1本にジャージ上下一組。洗濯中の着替えにも寝巻きに防寒にもなるし。それから下着兼用のTシャツと靴下が2〜3枚かな? あと、ブレーカーとジャンパーを持ってたけど、ジャンパーは人にあげた。また寒くなって必要になったら買うだけだし。下着は……、なるべく小さなものばかり揃えてあるから」
 下着は、で少し言い澱むところがかわいかった。
 EPIガスとは、ガスボンベがそのままコンロになる便利なシロモノで、火の噴出し口になるバーナーとコッフェルを支えるためのちいさなパイプをセットして、その上にコッフェルを載せる。
 コッフェルとは野外炊事をするための鍋皿カップなどのセットのことだ。ゴハン2〜3合なら炊ける程度の鍋に、平皿兼フライパンを蓋として使う。その中に、大きさの違うカップや椀やらが器用に収められている。アルミ製で全てそのまま火にかけることも出来る。
 彼女は、エビアンのボトルを取り出して、コッフェルにぼとぼとと水を注いで火をつけ、湯が湧くまでの間にやはりコッフェルセットのカップとお椀にインスタントのコーヒーを入れた。サバイバルナイフのスプーンを使う。
「ミルクや砂糖もあるけど」
「欲しいな」
「いいわよ」
 彼女は僕にカップを渡し、彼女はお椀を使った。

 正直言って、エビアンはあまり好きではない。このミネラルウオーターを口にすると、喉を潤しているはずなのに、なんだか乾いた感じがするのだ。色々ためしたが、外国製ではヴォルビックがまだまし。それでも、南アルプスだの富士だの阿蘇だのの水の方が僕の口には合う。
 だが、彼女のコーヒーは美味しかった。心の休まる味だ。
「どう?」
 一瞬、列車の照明に不具合が起こったのかと思ったが、そうではなかった。「どう?」と訊く彼女の動作が、彼女の表情の上に落とす影を複雑に揺り動かしただけだった。首をかしげたのかもしれない。あとで考えると、結構可愛げのあるポーズだった。
 僕はいつもそういうことに気づくのが遅い。女性のステキな一瞬を見逃しては後悔している。
「ちょっといい感じだ」と、僕はコーヒーの味を評定した。
「そう、良かった」と彼女は言った。
 そして、付け加えた。「美味しいって言われたら、インスタントに美味しいなんて、本当の味のわかってない人ねって思うところだったわ。あるいは、お世辞、かもね」
「そんなこといちいち相手に言うつもりだった?」
「言わないわよ。思うだけ。そして、誠意を疑ったかもね」
「やれやれ、つまらないお世辞を言わなくてよかったよ」
「それに、『ちょっと』ていうニュアンスもステキだったわ。『いい感じ』ていうのも実感こもってるしね」
「そりゃそうさ。僕は誠意の塊だもの」
「その一言に誠意が感じられないけど」
 僕達は静かに笑いあった。

 そして結局僕達は、一瞬まどろむことはあっても、どちらからともなく思い出したように口を開き、ほとんど眠らないままでタンジェまで過ごした。
 その間に、僕は彼女の名前を知り、彼女は僕の名前を覚えた。
 彼女の名前は、シャルル。ネット上のハンドルネームだ。僕のメモ帳には、彼女のハンドルネームとメールアドレスが残った。インターネットカフェでもメールチェックが出来るようにと、彼女が教えてくれたのはいわゆるフリーメールだ。
 僕は会社の名刺を彼女に渡した。
 つまりは、僕は彼女に正体を明かしたのであり、彼女の素性はなにひとつわからないままなのである。

 まあ、いいか。
 僕は思った。

 2杯目のコーヒーを飲みながら、僕は自分のことをしゃべった。
 日本には彼女がいること、そして、彼女が今回の旅について、良く思っていないことなどだ。
「たまに長期の休みが取れたのに、どうして一日もデートに割り当ててくれないの?、とこういうわけさ」
 シャルルはクスクス笑った。
「どうして、旅を一日短くして、デートしてあげないの?」と、シャルルは追い討ちをかけた。
「どうしてだろう?」と、僕は呟いた。
「とにかく今回の休みは全身全霊でもって、旅をしたかったんだ」
「わかるわかる、それ」とシャルルは相槌を打った。そして、「けれど」と付け加えた。
「けれど、何だよ」
「遠距離であまり会えないとか、仕事の都合で休みが取れないとか、そういうのは我慢できるわ。けれど、休みがあるのに放っておかれる、それも疲れ休めをしたいからじゃなくて、旅に出る、なんて、彼女としてはやっぱり納得できないわよね。同じオンナとして」
「そういう君だって、人のことは言えないだろ? っていうか、1週間どころの旅じゃないじゃないか」
 反論しかけて、そうか、シャルルには恋人がいないんだ、と思った。
「あたしのこと、本当に愛してるなら、1年でも2年でも待ってるわよ」
「恋人、おいてきたの?」
「別に、おいてきた、なんて思ってないけどさ」
「浮気したらどうする?」
「待ってる間に浮気したっていいわよ。あたしが帰ったときにちゃんと愛してくれれば」
 僕はヒューヒューと口笛を吹いた。
「あたしだって、貞淑に旅してるわけじゃないしね」
「言うねー」
「こんなんだったら、男なんて知らなきゃ良かったって時々思うのよね。でも、知っちゃったんだもの、しょうがないかな、ともね」
 なるほど、それは同じ立場の人間として理解できる。
 それにしても、どうして僕達は、こんな異国の夜行列車の中で、コーヒーを飲みながら、まじめに性欲の話をしているのだろう?

 そして、3杯目のコーヒーは、二人で半分ずつ分け合った。エビアンが切れたのである。
 僕は黄金丘陵の古い寺院の話をした。
 その風景は、なにかの雑誌のグラビアで見た。旅の雑誌ではなかった。でも、何かの雑誌だ。テレビでも写真集でもなんでもない。インタビューを受けていたなにがしかの有名人の、エピソードの中に出て来たような気がする。彼の(確か、インタビューイは男性だった)ゆかりの地だったかもしれない。
「インタビューイって何?」
「インタビューをする人をインタビュアーって言うだろ? 受ける人のことはインタビューイ」
「ふうーん。初めて聞いた」
「そうかもしれない。僕もあんまり言わない」
「で、そこへ行くのね」
「そうそう」
 その風景が僕のどこか奥深くに眠っていた。それが不意に目を覚ました。そして、どうしても行ってみたくなった。
 砂漠なのかガレ場なのかよくわからないけれど、不毛の大地が夕日に染まって、黄金色に輝いていた。その中に小高い丘があり、丘の斜面は傾いた日差しを正面から受ける形となって、いっそう明るく、しかし寂しげに光っていた。
 丘の上には寺院らしきものが建っていた。
 僕は記憶の中の風景をシャルルに語った。
「記憶だけを頼りに行くの?」
「インターネットであれこれ探して、それがどこか突き止めたよ。スペインの、観光地としては名もなき片田舎だった」
「へえ〜、見つけたんだ。やったね」
「まあね」
 得意そうに僕は笑い、最後のコーヒーを飲み干した。
「あれ? ちょっと待って。あたし、そこ、知ってるかもしれない」
 少しずつ口調がけだるそうになってきていたシャルルが、まるでいまにも飛び出しそうな勢いで声を上げた。
「え? ホント?」
「うん。スペインで長距離バスに乗ったとき、このまま通り過ぎてしまうのももったいないし、気まぐれで降りたのよ。そこが、確か、そんな風景だった」
「それ、どのバス路線?」
「う〜ん、実は、よく覚えていないの。これといって目的地もないし、期間も決まってないから、そういう気まぐれ、よくしちゃうのよね。それに、1泊した後は、ローカルバスで駅まで移動してるし……」
「それは、なんていう駅?」
「だから、それも覚えてないんだって……」
 彼女は申し訳なさそうに俯いた。

「ごめんね、こんなことなら、『そこ、知ってる』なんて言わなきゃ良かった。期待させちゃったね」
「そんなことないよ。インターネットで調べた情報が確かにそこかどうか、なんて確信なかったからね。でも、キミのおかげで、それがスペインで間違いないてってわかった。それだけで十分だよ」
「ありがと」
 シャルルは思いのほかナイーブなのか、今にも泣き出しそうな表情をしていた。けれど、「ありがと」と言いながら、徐々に笑顔が蘇ってゆく。僕はほっとした。
「ところで、1泊したって、言ったよね。宿はあるんだ」
「うん。オスタルらしいのがいくつかあったけど、普通の民家かもしれないし、見分けがつかないから、あたしはユースホステルに泊まったの。町から少し離れてたけど、その寺院には町中より近いよ。見えたもの。さすがに行かなかったけれどね」
「そうか。ユースホステルがあるんだ」
「うん……」
 ちなみに、ユースホステルとは、男女別の相部屋を前提とした宿泊施設で、安い。世界中にある。相部屋なのでプライバシーは保てないけれど、色々な国から旅人が集まってくるから面白い。商談をするわけじゃないんだから、言葉なんて通じたって通じなくたってかまわない。なんたって「カタコトの英語」に劣等感を持たずに済む。やってくるのは英語圏の人種だけじゃないからだ。筆談(といっても、絵を書いたりするわけだが)とボディランゲージの応酬で笑顔の絶えないひと時が過ごせるのがいい。
 オスタルとは民宿のことで、ペンションよりワンランクかツーランク下だ。といっても、別に際立ってみすぼらしいわけじゃなく、その呼び名は税金によって決まると人からきいたことがある。要するに、昔の日本酒の特級・1級・2級みたいなものだ。無鑑査2級の美味い酒があったわけだし、オスタルだからといって、避ける必要は何もない。

「一応ユースホステルは会員になってきたし、ユースがあるのなら、他の宿だってあるだろう」
「でも、結局、民家かオスタルか、区別つかなかったもの。本当にオスタルがあるかどうかはわからないわよ。それに、田舎へ行けば、泊まるところはユースしかない、ってとこだって結構あったしね。少なくともワイエムはないわ」
 ワイエムは、YMCAのこと。日本ではYMCAの宿泊施設はほとんどないし、あってもそれがキャンプ場だったりユースホステルだったりするけれど、海外ではそれなりにアテに出来る。しかし、数が少なく、場所もユースホステルほどバラエティーに飛んでいるわけじゃない。僕はもともとワイエムは念頭に入れていなかった。
「ま、とにかく、泊まれるとわかっただけでも、助かるよ」

「懐かしいな。あたしも行ってみようかな?」
「じゃあ、ユースに泊まることにするよ。待ってるから」
「待たれても困るけどね。気まぐれだから。でも、ユーレイルパスがまだ2日分残っているし、ちろっとヨーロッパに戻るのも悪くないかな」
 ユーレイルパスとは、ヨーロッパ17カ国の国鉄に乗り放題の切符で、連続使用をするタイプのものと、有効期間をばらばらに使っても良いタイプのものがある。彼女のは多分後者だろう。
「ま、スペインの田舎で、日本語で会話ができるのを楽しみにしてるよ」
 僕は、「楽しみにしてる」というフレーズを選んだ。放浪旅行をしているシャルルに「是非、おいで」とは言えなかったからだ。
 それに、そこまで言うほど、彼女に惚れたわけでもない。僕にも彼女にも日本に恋人がいるし、どうでもいいことだ。けれど、半分くらいは惚れたかな、と思った。

 僕は自分のザックの中に、りんごがあるのを思い出した。
 喋り続けで喉が乾いている。
 りんごを取り出すと、シャルルがサバイバルナイフで器用に剥く。
 そうこうしているうちに、列車はスピードを落とし始めた。もうタンジェが近い。定刻なら5時50分着だ。少しだけ遅れている。
 僕達は駅で別れることにした。僕はこれから、船でジブラルタル海峡を渡るのだ。
「キスしようか」
 僕の唐突な提案に、シャルルは目を閉じた。そして、なんらかの表情をしていたのが、すぐに無表情になった。あとになって考えると、ちょっと嬉しそうに顔の筋肉を緩めたのではなかったかと思うけれど、また見落としたらしい。
 短いキスだったけれど、2度ほど舌が絡まった。
「きみも貞淑な旅人にはなれないねえ〜」と、シャルルは感想をもらした。

 

ユースホステル
 日本ユースホステル協会の公式ページ。ユースホステルに関するご質問が多いので、紹介しておきます。物語中のユースホステルは、あえて時代に取り残されたような田舎のそれを舞台としていますが、日本人が一般的な海外旅行で行くようなメジャーな場所ではIT環境も整っており、ネット経由で予約も出来ます。

 

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