黄金丘陵の古い寺院

 

 シャルルが耳元で囁く。
「ねえ、あたし達って、気が合うような感じがしない?」
「どうだろ?」
「多分、合うよ」
「そうかもね」
「だったら、ねえ、一緒に旅しようよ」
 もとより女っけのない一人旅を覚悟していた。覚悟、というよりも、それが当然だと思っていた。
 写真で見た憧れの風景を実際に自分で訪れるのだ。ロマンを求める旅だ。そういうのは一人旅が似合っているし、それ以外に無いと決め付けていた。だから、恋人を置いてきたことにも罪悪感はないし、旅先でのひと時の恋愛など思いもよらぬことだった。

 むしろ、同行者は邪魔である。あてのない放浪とか、一般的な観光とか、そういうのだったら、不意の同行者も楽しいだろう。旅は道連れだ。けれども、僕には唯一無二の目的がある。同行者がいれば食事の場所だの経由地だの、色々と意見をきかないといけない。煩わしい。目的へ向かって一直線、というわけにはいかないに決まっている。それどころか、「○○へ行って、何日間か過ごしましょうよ」なんてことになったら目も当てられない。

 僕はシャルルの同行については否定的なことばかり考えていた。
 にも関わらず、口から出た言葉は、「いいよ。一緒に行こうか」だった。
 とりたてて美人というわけではないが、どこかしら可愛らしい部分を持ったシャルル。それも常に可愛らしいわけではない。ふとしたときにそう感じさせるフシギな魅力。おまけに僕たちはキスまでした仲だ。
 言い訳めいた思考を飛び越して、「この子と一緒にいたい」という気持ちがほとばしったとしても、そのことに疑問を挟む余地はないように思えた。

 そして僕は、目が覚めた。
 昨夜はあまり眠らなかった。ほとんど喋っていた。だから、ジブラルタル海峡を越える船に乗り、座席に座ったとたん、僕は眠っていたのだ。そして、シャルルの夢を見た。
 どうしてあんな夢を見たのだろう。
 夜明けの駅で確かに僕と彼女は別れたのに。

 シャルルともっと一緒にいたかったのだろうか。それとも、シャルルが指摘したように、恋人のために旅の日程を減らしてせめて一日だけでも一緒にいてあげたらいいのに、ということへの言い訳を自分なりにしたかったのだろうか。
 多分、両方だろう。

 海峡を渡る船は、海原を掻き分け、風を従えて走っている。
 船に乗る前に仕入れたミネラルウォーターをぐびぐびと飲む。口の端から水滴が流れたが、気にせず一気に流し込む。
 そしておもむろに口元を腕で拭う。
 ちょっとカッコイイかもしれない。けれど、誰もそんな僕のしぐさなど目にとめない。
 僕は頭を2・3度振ってからもう一度頭を上げ、ペットボトルの底に残った水を飲み干した。甘くて冷たいジュースが飲みたいなと思ったが、そんなものを売っている売店があるのかどうか。探しに席を立つのも面倒くさくなっているうちに、また瞼がくっついた。

 スペイン。
 船を下りてアルヘシラスの港をなんとなく町に中心部の方へ向かって歩く。足がふらついた。まだ船の揺れが身体の内部に残っているのかと思った。人間の中身は、ええと、何パーセントが液体だったろう? きっとまだ影響を受けているのだ。
 そんなことを考えていて、はたと思いついた。昨夕から何も食べていない。
 時間は午前9時を回ったばかりだ。日本なら喫茶店でモーニングサービスでもと思うところだろう。
 香ばしい匂いにつられて辻をまわると、小さなベーカリーがあった。路上にふたつ、店内にひとつ、丸いテーブルがある。店で食べさせてもらうことも出来るらしい。
 僕はショーケースにあるいくつかのパンを指差し、それから自分を指差し、最後に店内においてあるテーブルを指差した。
「あんた、どっから来たの? 香港? 韓国?」
 年のころはおそらく30代後半だろう。ちょっときつい目つきの細い女性が、太い声で訊いた。化粧が濃い。比較的綺麗な英語だった。
「日本」と、僕は答えた。
 その女性は興味なさそうに「ふーん」と返事をした。興味が無いなら訊くなよ……。いや、香港や韓国だったら興味があったのかもしれない。

 言われた金額を払い、トレイの上に無造作におかれたパンを受け取ると、僕は丸テーブルに座った。木製だが、目にもまぶしい白い塗装がなされている。染みひとつない。
 ひとくちかふたくちパンをかじると、目の前にコーヒーが差し出された。カップの大きさからするとエスプレッソだろう。
 砂糖つぼとミルクピッチャーも添えられる。
 嘘か本当かわからないが、以前、正しいエスプレッソの飲み方というのを教わったことがある。砂糖をたっぷりいれて、かき混ぜずに飲むのだ。すると、最初のひとくちは苦い。だが、飲み進めるに従って甘くなり、最後の一口はカップの底に残った砂糖ごと口の中に流し込む。エスプレッソで表面を溶かされた、でもまだ小さな粒として形を留めた、そのねっとりと甘いものが、舌の上にしばらく残る。それを楽しむのだ。
 本当だろうか?

「○×▽■×……△」
 彼女が何を言ったのか、早すぎて聞き取れなかった。コーヒー代をよこせと言っているのだろうか? 注文をして出てきたコーヒーではないのだから、口を付けなければ払う必要も無いだろうが、僕は例のインチキくさいエスプレッソの飲み方を試してみたかった。パンも見た目よりごわごわした感触が口に残り、ちょうど何か飲み物が欲しいなと思ったところでもあった。
「いくら?」
 その女性は首を横に振り、ニッと笑った。
 日本的表現をすると「あばずれ」な雰囲気を持った女性だが、その笑みには人懐っこい無邪気さが含まれていた。
 とすれば、さっき聞き取れなかった言葉は「あたいの驕りだよ」とでも、いうことだったのだろうか?
 いずれにしても、パンの支払いは終えている。飲食を終えてささっと店から逃げるように出てしまえば、たとえ有料だったとしてもエスプレッソを踏み倒すことは可能だろう。もっとも、そんなことをしたってさもしい気分になるだけだから、実際はしないけれど。焼きたてパンとエスプレッソコーヒーの豊穣な香りの中で想像をめぐらせる単なる遊びだ。

 パンを食べ、まだ砂糖の溶けきっていない甘ったるい汁を飲み干すと、僕は席を立った。そして、追加のパンをふたつ買って袋に入れてもらった。
 彼女が請求したのは、あくまでもパン代だけだった。ということはやはりコーヒーはサービスだったのだ。
 店を出ようとしたとき、また彼女が何かを言った。けれど、聞き取れなかった。振り返ると、例のニッという笑顔が待っていた。そして、ウインク。人懐っこい無邪気さだけではなく、そこには熟した色香すら含まれていた。

 そうして僕は後で思い出した。彼女が最後に言った台詞を。シモネタ系の俗語だった。そのときは聞き取れなかったけれど、ひとつの決まり文句として、僕の記憶のどこかにしまわれていたらしく、ふと鮮やかに蘇ってきたのだった。
 日本語にするなら、「お兄さん、あっちの方は強いのかい?」あたりだろう。
 単なるからかいだったのか、それとも、僕が反応したら夜のお供にとでも思ったのか。しかし彼女は、そういうことが出来る立場なのだろうか? あの店の奥では、パン職人がパンを焼いているはずで、その職人が旦那である確率は相当高いのではないだろうか? それとも、店番だけに雇われた未亡人あるいは水商売崩れの女なのだろうか。
 なんでもいいや、と僕は思った。
 なにしろ僕は、とりたてて彼女と寝たかったわけではない。

 寝たかったわけではないが、もしかしたら寝られたかもと思うと、少し惜しくなった。

 シャルル風に言うと、「恋人を置き去りにして」の一人旅である。
 憧れの風景をこの目で見たいという欲求はあっても、旅先でのアバンチュールなどはまるで期待していなかった。少なくとも出発前はそんなこと思いもしなかった。
 けれど、シャルルに続いてパン屋のお姉さん(おばさん?)に出会ったことで、僕はなんだか無性に女性が恋しくなってしまった。
 インターネットカフェが目に付いたので、シャルルにメールをした。
 とりたてて書かねばならないことなどないのだが、とりあえずこれまでのことを報告した。とはいえ、彼女だって旅行中なのだから、このメールをいつどこで読むことになるのか僕にはわからない。

 日本語環境がないので、ローマ字で書いた。
 ローマ字で書くことは苦にならない。僕は普段からローマ字入力をしているからだ。しかし、書き終えたメールを読み返そうとして、難渋した。そう、ローマ字を読む、というのは結構大変なのだ。
 このアルヘシラスの地に果たして日本語環境のあるインターネットカフェがあるのかどうかわからないが、探してみようかと思った。けれど、やめた。シャルルが日本語環境のあるネットカフェで僕のメールを読むとは限らないからだ。
 僕は「送信」ボタンを押す前に、末尾に「See you again」と書き添えた。そして、送信した。
 いや、ちょっと待てよ。これは文字通り「もう一度会いましょう」だったろうか? それとも、「さようなら」の意味合いの方が強かったろうか?
 まあいいや。
 さらに僕は、苦労をしてスペイン語で書かれたホームページを彷徨いながら、どうやら目的地へは「コルドバ」からバスに乗るらしいという情報をつかんだ。日本出発前には「セビリア」からバスではないかという気がしていたが、きっとどちらからでも行けるのだろう。
 いずれにしても「アルヘシラス」からは北上することになる。「コルドバ」の方が近いので、とりあえずそちらでいいだろう。

 空気が乾燥しているせいか、やたらと喉が渇く。
 僕は駅でミネラルウォーターのボトルを2本買った。
 窓口で列車を訪ねると、アルヘシラス15時5分発の特急がコルドバに18時58分につく。まだ出発まで3時間ある。この間に、いわゆる急行とか普通とか、ランクの低いローカル列車があるのではないかと思うのだが、うまくニュアンスを伝えることが出来ない。3時間程度ならふらふらするのも悪くないし、疲れたら公園でも探して寝転がっているのもいいだろう。
 僕は「その列車でいい」と伝えると、まもなく切符を手渡された。

 天気がすこぶるいい。青空にところどころ浮かぶ白い雲。これが日本の草原ならいかにも牧歌的な風景なのだろう。だが、ここはスペイン。活気の漲る港町だ。
 白い壁も赤茶色の屋根もなにもかもがハレーションをおこしているみたいに、とにかくまぶしく輝いている。
 道を行き交う人がとりたててどう、ということはない。普通の日常生活を送っている人、することが無いのか考え事をしているのかぼんやりたたずんでいる人、忙しく動き回っている人。日本と変わらない。けれど、違う。なにが違うのだろう。
 そう、ここはスペインなのだ。
 列車の切符を買い、後の行程が決まったことで、僕の気持ちには少し余裕が出来はじめているらしかった。風景に思いをめぐらすことが可能になった。すると、途端にこの町を離れるのが惜しくなった。
 まだスペインに入ったばかり。せめて最初の町であるこのアルヘシラスで、スペインをはじめて訪れた観光客がすることについては一通り経験しておく、というのも悪くない。しかし、既に切符を買ってしまった。

 昼食を食べていないことに気が付いた。旅をしていると、極端に空腹になるときと、そうでないときがある。そうでない、といっても、腹がすかないのではない。空腹に気が付かないだけなのだ。そして、そのことに気が付いたとき、とたんに腹が減る。
 適当な大衆食堂風の店に入る。
「メニューください」
 といっても、「お品書きをください」と言っているのではない。メニューとは定食のこと。料理がだいたい2品、パン、デザート、ワインなどが付く。定食とはいえ、2品つく「おかず」はそれぞれ3〜4種の中から選ぶことができる。僕は「パエリヤ」と「ガスパチョ」を選んだ。どちらも代表的なスペイン料理だ。
 食後にコーヒーを飲み、さらにミネラルウォーターを別に注文する。とにかく喉が渇く。心地よい渇きだった。
 中途半端な時間だったためか、客は僕1人だ。
「ここには何日いるんだい?」
 浅黒く細面のウエイターが声をかけてくれた。
「いや、もうまもなく出発する」
「ふう〜ん。じゃあ、○○とか△△とかはもう行ったんだね?」
「いや、今朝、モロッコから着いたばかりだ」と僕は返事した。
「先を急ぐのか?」
「ああ」
 僕は雑誌の切抜きを見せて、「ここに行くんだ」
「今夜の泊まりは?」
「コルドバ」
「なんだ、ここからそう遠くないじゃないか」
 特急列車で4時間弱の距離が遠くないのかどうか、僕にはわかりかねた。
「コルドバからはバスだが、詳細がまるでわからない。だから少しでも足を伸ばしておきたいんだ」
「宿は決まってるのか?」
「着いてから探すよ」
 彼は一枚のメモを取り出し、なんとも読みにくい字でアルファベットを書きなぐり、それから数字を書いた。電話番号らしかった。
「いい宿なのか?」
「良くはない。安いだけがとりえだ」
「じゃあ、どうして僕に薦めるんだい?」
「兄貴夫婦がやってるんだ」
「なるほど」
 彼はよほど暇なのか、陽気な笑顔を浮かべながら、僕の向かいの席に座った。
「出来れば、ユースホステルに泊まりたいんだけど」
「ああ、確かにコルドバにもあったと思うよ。うん、兄貴の宿よりもいいかもしれない。けれど、人気があって込んでいることも多いんだ」
「そうか、じゃあユースホステルが満員だったら、キミのお兄さんの宿のお世話になろうかな」
 考えてみればこれは随分失礼な話だ。けれど、相変わらず彼はニコニコしている。
「うんうん、それがいい」と、席を立った。
 笑顔で「それがいい」とはいいつつも、やはり気分を悪くしたのだろう。
 だが、そうではなかった。2分ほどして戻ってきた彼は、「ユースホステルは満員だって」と教えてくれた。どうやら電話をしてくれたらしい。「でも、無断キャンセルもあるから、来たら泊まれるかもしれない」とも言っていた。
 結局、泊まれるのか泊まれないのか結論は出ていないわけで、彼の電話はまるで役に立たなかったわけだが、僕は「ありがとう。とりあえず行くことにするよ」と返事した。
「ところで、キミのお兄さんのやっている宿の空きを確認してくれないかな? ユースも満員、アテにしてた宿も満員じゃ、……」
 路頭に迷う、と言おうとしたのだが、英語表現がわからなかった。
「心配要らない。あんな宿満員になるものか」と、彼は豪快に笑った。
 いったいどんな宿なんだ?
「だけど、泊まれないかもしれないユースホステルに行くのは、時間の無駄かもしれないよ。最初から兄貴の宿に行けばいいのに」
 お兄さんの宿をけなすくせに、それでも「お勧め」する。そんな彼の態度に、僕はなんだかおかしくなって静かに笑った。
「どうしてユースホステルがいいの?」
「ん、ちょっと、人と会えるかもしれないんでね」
 いつのまにかシャルルのことを僕は考えていた。

 アルヘシラスの駅から、列車に乗る。4時間弱でコルドバだ。
 僕が乗った特急列車は「アルタリア」というシリーズの、ちょっとばかり高級な列車らしかった。

 リクライニングするシートを少し倒す。
 一人旅だというのに、今日はよく喋ったなと思う。会社でデスクワークに追われているときよりも喋ったかもしれない。

 

 

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