黄金丘陵の古い寺院

 

 ドバイを経由してカサブランカに降り立った僕は、ゆっくりと駅へ向かった。まず市街地へバスで出て、それから歩いて駅へ、という具合だ。午後1時を少し回っている。日差しはきつく、熱いというより皮膚がひりひりと痛い。
 しかしせっかくのモロッコにもそう長くいられるわけではない。休日だって多くはないし、最終目的地はスペインである。

 なのになぜ僕がカサブランカなどにいるのかというと、おそらく僕が偏屈だからなのだろう。理由はそれなりにつけることが出来る。関西空港からはマドリッドへの直行便がないので、いずれにせよどこかを経由しなくてはならない。かといってパリやロンドンやアムステルダムやフランクフルトを使ったのでは面白みに欠けるし、これから僕が訪れようとしている場所へのアプローチとしても似つかわしくない。
 僕はこれからスペインの黄金丘陵を目指すのだ。
 で、どうやってスペイン入りをしようかと考えているうちに、アフリカを経由してかつ空路を使わない、という条件がオモシロそうに思えてきた。
 とまあ、こんな具合である。

 空港からのリムジンバスを市街地で降りる。カサブランカはアラブとヨーロッパとアフリカが渾然一体となったような、けれど、それなりの纏まりとでもいおうか、形の成立した都市でもある。
 一歩二歩と他国の地を実感しながら歩き始めると、さっそくガイドが近寄ってくる。頼みもしないのにあれやこれやと世話を焼き、ガイド料をよこせと右手を差し出す、いわば物乞いに近い存在だ。挙句にお土産屋に連れて行ってキックバックまでせしめるのである。
 なんだかんだと言い寄られるのも鬱陶しいが、いちいち追い払うのも面倒くさい。
 学生時代の貧乏旅行ならどんなにしつこくされても相手にしないが、定職を持ち、休暇を取って旅に出ているのだから、片っ端から突っぱねるのも大人げないような気がした。要は交渉であり、双方とも納得いく値段であれば役に立ってもらうのも悪くない。
 非公認だろうが限りなく乞食に近かろうが、いったんガイドを雇えば、他のガイドが言い寄ってこないという大きなメリットもある。

 僕は夕方までの合理的な観光案内と同行を依頼し、かつ、高くなくて美味い夕食(予算を提示した)を食べに連れて行ってくれてと頼んだ。さらに、タンジェまでの夜行列車の手配を彼に依頼した。最後に、土産物は一切不要であると付け加えた。余計な荷物になるし、彼にはきちんとガイド料を払うのだから、さらに土産物屋で彼がキックバックを受け取れるように配慮する必要など全く無い。
 彼はそれでいいと言い、値段を提示した。僕はそれを20%ほど値切った。本当はもっと値切れるはずだが、そんな交渉をしている間に少しでも観光案内をしてもらう方が良いと思えたからだ。

 僕達はモハメッド5世広場、国連広場などを連れ立って歩きながら、自己紹介をする。
 中学校からのべ10年も学んできたはずの英語だが、それほど上手く喋れるわけではない。彼の日本語の方が流暢なくらいだ。もっとも彼も、日本語でそれなりの会話が出来るわけではなく、ありふれた観光ガイドを一方的に喋るだけである。そして時々、意味なく「クレヨンしんちゃん」だの「ちびまる子ちゃん」だのといったアニメのタイトルを嬉しそうに叫んだ。だが、それだけだ。もっぱらコミュニケーションは英語に頼ることになる。フランス語の方が得意そうだったが、そんなものはこっちはまるでわからない。

 彼は真っ黒に日焼けをしていて、身長は180くらい。立派な口ひげを蓄えているから年齢不詳だが、聞けば17歳だった。僕よりも10も年下だ。

 疲れたので一休みしたいと言えば、見渡す限りの喫茶店の中で一番高そうなところを彼は選んだ。
 だが僕は、そんな金持ちの観光客が行くようなところはいやだと断った。金が惜しいのではない。旅費くらいは工面して持ってきている。しかし、そういう店ではつまらないではないか。
 僕は考えた末、モロッコ人にもっと愛されているカフェがあるだろう、と切り出した。
 彼は、観光客が入るのには、それなりのふさわしい店がある、と主張した。彼が示した店は、彼のような裏家業の人間にキックバックを渡すようなカフェには思えなかった。おそらくここぞとばかり高級な店に入ろうと考えているだけだろう。
 僕は「観光客は嫌いだ。だけど、モロッコ人は好きだ」と言った。
 彼は苦笑いして、庶民的な店を選んでくれた。

 駅でタンジェまでの1等車の切符を買ってくれた彼は、その後レストランに案内してくれた。僕は「さっきも言っただろう? 大衆食堂のようなところがいいんだ」と入り口前で彼に告げた。彼は「それなら自分で探すといいよ。いくらでもそのへんにある」と言って手を出した。
 ガイドはもう終わりだ。金をよこせと言っているのだ。
 夕食も付き合ってくれるんじゃないのかと僕は主張したが、お金を持って何時までに帰らなくちゃならないんだと彼は返事した。最初からそういう約束だったと言った。店が高級だろうが大衆だろうが、僕と同行すればタダ飯が食えるにもかかわらず、それを放棄するということは、彼にも何らかの事情があるんだろう。僕は約束の金額を渡して彼と別れた。

 あとで知ったことだが、その時間にタンジェからの長距離バスが到着するのだ。
 きっと彼は、もっと金になる客を探しにバスターミナルへ行ったのだろう。この時間なら、夕食の世話、宿の紹介など、キックバックが沢山もらえそうな仕事が転がっているに違いない。
 僕は適当な店でモロッコ人たちに混じって夕食をとり、そのまま駅へ向かった。列車の出発は23時過ぎだが、勝手のわからない所を日が暮れてから一人でウロウロするのは賢明ではない。駅でじっと時間をやり過ごすことにする。
 恋人に手紙でも書こうかと思ったが、気分が乗らず、持ってきていた文庫本を開いた。既に飛行機の中で読み終えていたが、もう一度最初から目を通す。機内に捨ててこようかと思ったが、持って来ていて良かった。

 文庫本……
 ページをめくり始めた頃は、「本当にこの本を僕は一度読み終えたのだろうか?」と感じるほど、新鮮だった。最初に通読した時、確かに僕はストーリーの流れは理解した。けれど、ページの中に潜む活字の息吹のようなものまでは感じ取っていなかったのだ。
 物語そのものはもうわかっているので、スラスラ読める。だからこそ、話の流れとは違うところにまで意識を向けることが出来たのだろう。
 しかし、そんな「集中力」など長続きしない。
 読みすすめるうちにストーリーの流れが蘇ってきて、そこから続きを読む気がしなくなった。

 視線を上げて辺りを見回す。そこそこ人の動きはあるものの、活気に満ちた、というほどでもない。もっとウジャウジャ人が行き来しているのではないかと勝手に想像していたが、思ったほどではないのだ。
 時間のせいかもしれない。駅という場所のせいかもしれない。そもそも列車の本数がきわめて少ないのだ。おそらく、長距離バスのターミナルや酒場などは、もっと賑わっていることだろう。

 バスターミナルの方へ歩きながら、適当な店でビールを飲み、そして戻ってきてもさほどの時間つぶしにはならなかった。
 僕はもう一度、文庫本のページを開いた。

 列車はコンパートメントスタイルの6人部屋だ。乗車が始まるとどこからともなくゾワゾワと人が沸いてきたのだが、さすがに1等車は静かである。僕は客室を独り占めすることが出来た。
 満員になればちょうどいいのかもしれないが、一人だと冷房がキツすぎる。車両には見覚えがあった。出張で数日間ヨーロッパを動き回った時の記憶が蘇る。そうだ、この車両はフランス国鉄のものに似ている。お下がりかもしれない。いずれにしても、テレビ番組の「世界の車窓から」に出てくるような途上国のゴチャゴチャした雰囲気を予想していた僕は、肩透かしを食らった。1等車なんかにするんじゃなかった。
 しかしまあ、安心して静かに寝られるのだから、それはそれでいいだろう。
 列車は定刻に発車して、ゆっくりと走る。時計を見る。関西空港を出発してほぼ24時間が経過していた。
 いや、時差があるから、実際にはもっと長い時間が流れたことになる。疲れを覚えて、瞼を閉じる。今頃になってビールの酔いが回ってきたような気分になるが、もちろんアルコールはとっくに抜けている。線路の轍は眠りを誘うのだ。

 出発から30分もしただろうか。コンパートメントのドアを誰かがノックした。「どうぞ」と答えて、しまった、と思った。半睡の状態だったので、正常な判断力を失っていた。1等車とはいえ真夜中だし、まして中に何人もの同室者がいればともかく、自分ひとりなのだ。安易に返事などせずにまずは相手を確かめるべきだったのだ。コンパートメントの扉には窓があり、そこへ視線を投げるだけで済む行為なのだ。
 しかし、それは杞憂であることに気がついた。僕は「どうぞ」と日本語で言ったのだ。通じるわけがない。
 ところが、扉は開いた。
 日本語が通じるのか、それとも相手が他の単語と聞き間違えたのか。あるいは、もともと僕の言葉など聞き取れなくて、でも、何か僕が返事をしたからOKと受け取ったのかもしれなかった。
 僕は目を擦りながら、開いた扉を見た。そして、「あれ?」と思った。
 そこに立っていたのは、10代後半、よくても20代そこそこと思われる女性だったからだ。
 目鼻立ちは整っているが、東洋系の顔立ちをしている。中でも、目に特徴があった。パッチリとした二重の瞳に僕は一瞬吸い込まれそうになった。足元にバックパックを置いてある。「どうぞ」と言われて、背中から降ろしたのだろうか。ジーンズに白いTシャツのシンプルなスタイル。相当ヒップハングでお腹が少し覗いている。身長は160には至っていないだろう。グラマーじゃないけれど、均整のとれたプロポーションだ。
 彼女は僕に微笑みかけてきた。笑顔はステキだが、少しばかり疲れているように思えた。

 僕は不思議な感覚にとらわれた。それはおそらくほんの一瞬だったろう。彼女が最初の一言を口にするまでのわずかな時間。
 彼女の美しさは、タレントやアイドル歌手のような華やかなものとは違う。けれど、なにか僕のハートを捕らえて離さないものがある。「かわいい」とか「美人」だとかいった言葉だけでは表すことの出来ない何か。彼女の存在そのものが主張する何か。
 いわゆる一目惚れ。でも、それだけじゃない。「わたしのこと、好きになってね」というメッセージが彼女の笑顔の中にあった。それを僕がキャッチしたのだ。
 思い過ごしだろうか。
 まあ、思い過ごしならそれはそれでいい。ともかく僕は感じたのだ。

 不思議な感覚に僕がとらわれたのには、もうひとつ理由があった。
 スペインへの通り道として選んだだけのモロッコだったが、それなりに勉強はした。それによると、列車のコンパートメントで男女が同席することはない。旅行者向けのガイドブックにも、女性が客室を選ぶ際には、女性だけのコンパートメントもしくは家族連れの所を選ぶべし、と書いてあった。
 親戚だろうが友達だろうが、訪ねた先でご主人が不在しており、婦人だけがいた場合、男性訪問客は家には上がらず、時を改めて訪問すると言う風習まであるらしい。
 そんな国で、夜行列車で、女性が僕のコンパートメントをノックするなどありえないのだ……。
 いや、彼女は旅行者だから、そんなことは知らなかったのかもしれない。
 しかし、だからといって「不思議な感覚」にとらわれる必要もないのだが……
 僕は勝手に「にわか仕込みの知識と現実とのギャップ」がそうさせたのだと理解することにした。

 シートを引っ張り出して寝転んでいた僕が上半身を起こすと、彼女は言った。
「こんばんわ。お邪魔します」
 日本人だった。

 聞けば、彼女は1等車のある一室を、やはり一人で使っていたらしい。けれども、その「一人」というのが不安で眠れなかったというのだ。
「一人の方が静かにゆっくり眠れるんじゃないの?」
「最初はそう思ってたし、乗客がもともと少ないって聞いてたからわざわざ1等の切符を買ったんだけど、でも、本当の一人って、すごく怖いのよ。何かが起こったり、誰かに襲われたりしたとき、本当に一人なのよ」と彼女は言った。
 なるほど、そういうものかもしれない。
「ずっと貧乏旅行してたから、相部屋とか雑魚寝とかには慣れてるしね。慣れるどころか、そういう状態でないと不安になる、なんて所まで来てるとは思わなかったわ。あたしね、お姉ちゃんと一緒の部屋だったの。結婚して出て行ったけれど。でも、それまではずーっと一人部屋に憬れてたの。お姉ちゃんが家からいなくなったことそのものには、なんだか寂しいなとか感じたけれど、一人部屋は嬉しかったなあ。でも、こんなあたしなのに、貧乏旅行が身にしみちゃったのね」
「貧乏旅行なのに、1等車に乗るの?」
「ここにいたら、迷惑?」
「いや、そういう意味で言ったんじゃないよ」
「だって、さっきも『一人の方が静かにゆっくり眠れる』って言ったわ」
 僕は、どうしてそんなことにこだわるんだろう、と思った。僕が彼女の存在を、迷惑そうにしているか、歓迎しているか、表情を見ればわかるだろうに。
「大丈夫だよ。まだ旅に出て初日だから疲れてないし、おまけに日本語が恋しくなってきていたところだ」
「旅に出て初日で日本語が恋しくなったりするの?」
「多分、初日だからだろうね。そのうち、慣れるよ。もっとも、慣れる頃には、帰国だ」
「何日くらいの、旅なの?」
「一週間。そして、次の日には会社に行く。ようやくとった7日間の休暇だよ」
「ふう〜ん」と、彼女は不思議そうな顔をした。というより、不満に唇を尖らせた、といった方が適切か。
「たった一週間の旅でモロッコなんかにくるんだ。おまけに旅の初日の夜が、夜行列車なの?」
「正確には、機中1泊だから、2日目だな」
「モロッコが好きなの?」
「いや、通過するだけ。目的地はスペイン」
「なんだか、わけわからないわ」と、彼女は言った。
 そうかもしれない。だが、目的地の「黄金丘陵の古い寺院」へのアプローチとして、ちょっとした旅を楽しみたい、などと説明するのは面倒で黙っていた。
「そうそう、さっき、貧乏旅行でどうして1等車にいるの、って訊いたわね」
 彼女は唐突に少し前の会話を思い出して言った。
「ああ、そうだったな」
「説明するわ。半年前に3年間勤めた会社を辞めて旅に出たの。親元で暮らしてたし、遊びってあんまり知らなかったから、お金は結構たまってたの。学生の頃はちょっとお金が出来るとすぐに旅行に行ったりしたから、お金なんてなかったけどね。でも、OLすると、長期で休みなんて取れないじゃない?」
「そうか? うちの会社のOLは、しょっちゅう海外へでかけてるぜ」
「う〜ん、そういうチャチな旅行じゃなくて、少なくとも2〜3週間はウロウロするような、そんなの」
「まあ、そういうのは、社会人になれば難しいだろうね。僕もようやくとった一週間の休暇だから」
「でしょ? 旅ばかりにお金を使ってきたから、遊び方って知らないのよ。だから、OL時代は貯金が貯まる一方」
「羨ましいね。僕なんか、家賃と生活費だけでせいいっぱいだ」
「親と暮らせばいいのよ。食費や生活費を入れたってたんまりお釣りがくるわ」
「まあ、そうかもな」
「で、まあシベリア鉄道でヨーロッパ入りして、そのあと、ディスカウント航空券でアメリカへ往復して、今度はアフリカとか中近東とかに行きたくなって、それでここにいるの」
「うん……」
「で、思ったのよね。別に長期間旅行をしなくちゃいけないわけじゃないし、貧乏旅行も悪くはないけど、だからって、それだけに徹していたら見落としてしまうものもたくさんあるはずだってね」
「なるほど」
「贅沢するつもりはないけど、たまにはこういうのにも乗りたいなって」
「なら、オリエント急行とか乗ればいいじゃないか」
「それは贅沢の部類よ。2泊3日とかで何十万なんてもったいないじゃない。それだけあったら、もっともっと色んなところへ行けるし、長い間旅行できるわ」
「それじゃあ、見落とすものがあるから、貧乏旅行はやめたんだろう?」
「もう、いじわるなこと言わないで」

 そうして、僕達の会話は終わった。
 唐突に静けさが僕達を包み込む。時折列車のホイッスルが鳴り、それが引き金となって、ここが車内だと気付かされる。確かに揺れているし、車輪が線路の継ぎ目を渡る音もする。
「ねえ、怒った?」
「どうして? どうしてあたしが怒るの?」
「僕がいじわるなこと言ったから」
「怒らないわよ。変な人ね」
「それに」
「それに?」
「急に喋らなくなったから」
「夜行列車で一晩中お喋りするつもりだったの? 一人で静かに過ごしたかったんじゃないの?」
「キミこそ、いじわるなことを言う」
「あら」
 彼女はケタケタと笑った。

 

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