夏の風が胸元をかすめていった  2  

 

 ただいまおかけになった電話番号はつかわれておりません。

 いわゆる登校停学の処分を終え、その夜マリンは、恋人島崎悠哉に電話をした。
 かけまちがえるはずがない。
 マリンの携帯電話に登録されている唯一の電話番号なのだ。今までこれで通じていた。
 彼とのホットライン。
 それがつながらない。
 「解約」以外に考えられなかった。
 自宅の番号に電話した。電話に出たのは中年女性の声。おそらく、悠哉の母親だろう。
 「渡辺さん? そう、ごめんなさいね。あなたにももちろん言い分はあると思うわ。けれど、いま、息子に取り次ぐわけにはいかないの。何故かは、言わなくてもわかるわよね」

 心が深くえぐられるようだった。
 いっそのこと、罵声を浴びせられる方がどれだけ楽だったか。
 悠哉の母は「ごめんなさいね」と言った。「あなたにも言い分はあると思う」と言った。
 でも、「いまは取り次げない」
 マリンはこの時初めて、自分の行動が誰かを傷つけていることに気が付いた。
 悠哉のお母さんは何も悪くない。
 (何も悪くない人の心をわたしは煩わせているのだ)
 「ごめんなさい、わたしの軽率な行動で、皆さんにご迷惑をおかけしました」
 マリンは受話器を通して、悠哉の母に素直に謝ることが出来た。
 もっとも「みなさん」と言っても、それは悠哉と彼の母に対してのみである。ある種逆恨みの要素が混じっていることを認識しつつも、担任や学校や少年課の婦警さんに対して同じ気持ちにはなれない。
 「こちらこそごめんなさいね。でも、親というのはそういうものなの。自分の子が選んだガールフレンドを悪く思ったり言ったりしたくない。でもね、本当のあなたがどうであれ、処分を受けたことは事実だわ。その子と息子が付き合うことに意見しない親なんていないの。わたしはそういう親にはなりたくないし、悠哉がそういう親に育てられた子だと世間に思われたくない。わかってくれるかしら」
 マリンは「はい」とだけ答えた。
 そして、受話器を置こうとして、一言付け加えた。
 「電話があったことを悠哉さんにお伝えいただけますか?」
 「ごめんなさい。それも出来ないのよ。なぜだか、わかる?」
 わかりません、と答えようとして、やめた。それではあまりにも素っ気ない言い方のような気がしたからだ。
 かわりに、「差し支えなかったら、教えて下さい」と言った。
 「伝言をするということは、あなたと悠哉とのお付き合いを認めた、そういうことになるでしょう?」
 マリンは納得した。
 本心はどうあれ、「付き合いを認めない」という態度を、悠哉の母はとらざるを得ないのだ。
 「あなたには悪いと思うわ。それに、あなたが処分を受けるような子ではないことも、この電話でよくわかりました。これは私からあなたへの忠告だけど、あなたがもし悠哉のことを大切な人だと思ってくれるなら、今はどうしようもないかも知れないけれど、心の中でその想いを暖めておきなさいね。いつかきっと、雪解けは来るわ」
 「それは、いつでしょうか?」
 「あなたは頭のいい子だと悠哉から聞いています。自分で考えなさいな。答えが出たときが、きっと雪解けね」
 「はい」
 「そうそう、ひとつ言わせてもらわなくちゃ。その日が来たら、悠哉にあなたを招待するように言いますからね。うちへ遊びに来なさいね。ゆっくりお話ししましょう」
 「ありがとうございます」
 「いいえ。しっかりやりなさい。あなた自身のためにも、悠哉のためにも」

 悠哉の母親だと思った。私の選んだ人の親だと思った。
 こんな親に育てられた悠哉だから、わたしは心惹かれたのだとも。
 雪解け。
 マリンの中で答えは出ていた。
 放っておけばそのうちほとぼりは冷めるだろう。
 だが、そんなに時間をかけることは出来ない。
 悠哉にも悠哉の母にも会わなくてはいけない。
 彼が今度のことでわたしに対してどう思ったのかを早く知りたいと思うし、彼が「お前はそんな女だったのか」とわたしに失望したのなら弁明もしたい。まだ彼の気持ちが冷めてしまうまでに。
 こんなことで気持の冷めるような男なら所詮その程度だ、という考え方もあるだろう。けれど、それ以上に悠哉はマリンにとってかけがえのない存在になっていた。
 悠哉の母は「それまで想いを暖めておけ」と言った。
 今ですらはち切れそうな彼への想いをこれ以上暖めたら、わたしはどうにかなってしまいそうだ。
 時が流れるのを待つわけにはいかない。今すぐ、だ。
 行動あるのみ。
 わたしはわたしの信念に基づいて、行動するのだ。
 それしかない。

 「そう。マリンがそうやってきちんと話をしてくれたこと、お母さんはとても嬉しく思うわ」
 マリンは全てを語った。母の佳子に。
 これまでの彼との付き合いのこと、バイトのこと、携帯電話のこと。
 そして、これからどうしたいのか、ということも。
 「でも、どうしてなのかな。わざわざ回り道するなんて」
 「回り道、かな?」
 心配をかけた母への詫びと、そして「これからのわたしを見てて、応援して」という意味も込めて、マリンはこれから自分はどうするのかということを、母に伝えた。
 アルバイトはやめない。携帯電話も解約しない。当分使うことはないかも知れないけれど、家の電話を占拠しないで彼との共有の時間を持てる携帯ホットラインが、自分にとってとても大切なものだ。
 バイトの後の仲間とのお付き合いは羽目を外さない。みんながお酒を飲んでもわたしは飲まない。
 そして、試験勉強。次の定期テストではこれまで以上の成績を取る。授業中に居眠りなんかしない。
 「反省の色を前面に出して、バイトをやめて、その原因になった携帯も解約して、いいこにしていれば話は早いじゃない」
 「だって。そんなことしたら、本当にわたしが悪いことをしたって認めてることになるじゃない。そりゃ、お母さんや彼や彼の家族には迷惑をかけたわ。でも、それだって『わたしが悪いことをした』って決めつける人がいなければ、何もなかったことなのよ。
 調子に乗って酔っぱらったのは悪かったと思う。でも、それだけよ。わたしは今まで通りにする。それできちんとしていたら、わたしは間違っていなかったって事よね」
 「じゃあ、がんばりなさい。同じ結果をだすのに楽な道を選ばなかったってことは、苦労するし、努力がいるわよ」
 「それぐらいしなくちゃ、彼にも彼のお母さんにも、申し訳ないもの」
 「そうね。そこまでわかっているなら、もう何も言わないわ。苦労して、努力して、得たことは、きっとあなたの宝物になるわ」

 マリンは自室に帰った。
 母に告白して良かったと思う。
 いつしか、フランクだと思っていた母と自分の間に溝が出来た。
 いったん出来た溝を埋めるのは容易ではない。
 容易ではないからといってそのままにしておけば、さらに溝は深くなる。
 言うなら今しかない。補導されて処分を受けた、というのはひとつのきっかけじゃないか。
 マリンはどう切り出そうか随分悩んだ。
 けれど、切り出し方なんてどうでもいいことだ、本質とは何ら関係がない。
 そう思えたとき、口から自然と「お母さん、ちょっと話があるんだけど」という言葉が出た。
 佳子はマリンをキッチンに座らせ、紅茶を入れた。
 最初少し照れくさかったマリンだが、佳子の真摯な表情に「聞いてくれるんだ。わたしの全てを受けとめてくれる肉親がここにいる」と実感した。
 溝が出来たなどと思っていたのは、もしかしたらマリンの一方的な思いこみだったのかも知れない。
 マリンが全てを語り終えたとき、3杯目の紅茶が空になっていた。
 佳子は最後の一滴を飲み干しながら、「きっとあなたの宝になるわ」と言った。

 マリンはエアコンを消して、窓を開けた。
 夏のまっただ中だったけれど、時計の針は既に午前3時を差している。
 今夜は少し風があるせいで、カーテンがゆらゆらと揺れた。
 その風が、マリンの胸元をかすめていった。
 「がんばれ」とささやきかけてくれてるようだ。
 そう、イイコの演技をすれば、いますぐにでも悠哉と逢えるかも知れない。
 けれども、そうはしない。
 結果が出るのは、少なくとも2学期の半ば。中間テストの点数発表を待たなくてはいけない。
 試験の点数がなんだ、点数が良かったからといってどうなるんだ、性格とかものの考え方とかわたしそのものとは何の関係もないじゃないか。
 そう思わないでもなかったけれど、「学校の試験の点数なんてわたしにかかったらこんなに簡単にかせげるんだぜ」と、まわりに思わせるのも悪くないし、やろうと思えば出来るんだと自分に暗示をかけるのにはいい材料だとも思う。
 ま、どっちでもいいや。やればいいんだから。

 バイトにも復帰した。
 バイト仲間が、笑った。ホッとしたような笑顔。またこいつと一緒にやれるんだという喜びに満ちた笑顔。これから忙しいんだ、助かったよと胸をなで下ろしながら微笑む店長。
 こんなにも自分を待っていてくれる人がいる。
 とても励まされた思いだ。
 そして、マリンの不安は消えた。
 「いくらわたしが悠哉への思いを暖め続けたって、彼が愛想を尽かすかも知れない」という不安。
 彼はきっと、このバイト仲間以上のとびっきりの表情で、わたしを迎えてくれるだろう。

    
 

 あとがき

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