杜の庵
エピソード6 恋するキッチン

 

「おい! こら! そこはどこだ!?」
 恵は受話器をとるなり怒鳴られてしまった。
 主からは受話器を取るとまずこちらから「お電話ありがとうございます。杜の庵でございます」と言うように教わっている。だが、そんなことを言う暇もない。受話器を耳に当てた途端に怒号が飛び込んできた。
「あ、はい、あの、杜の庵でござ、・・・」
「そんなことわかってる! そこはどこかと訊いてるんだ! どこだ」
「あ、ええとですね、北海道○○郡△△村・・・」
「アホンダラ! 住所なんかわかってる! どうやって行くのかと訊いてるんだ!」
 ひえー。
「あ、それでしたら、帯広駅からバスで」
「こおら! 車で来てるんだ。ふざけるな!」
 く、車?
 それは困った。恵はバスで来る方法しか知らない。
 しかしよく考えると車の方が案内が楽だ。目の前を走る道は「帯広」と「層雲峡」を大雪山を越えて結ぶ国道273号線。一本道である。
 そこで恵は、「どちらからおいでですか?」と訊いた。
 帯広から向かってくるのか、それとも層雲峡の方からくるのかで、方角も右左も正反対になるからだ。
「埼玉!」
 と、相手は答えた。
「え?」
 いきなり電話で道案内を請う客はたいていが本日の宿泊者である。自宅や出発地からの道案内というのはだいたい予約と同時に聞いてくる。だがまれに、「住所だけではどこだかわからない」ので予約前にこういう問い合わせのあることもある。
「どこかの空港でレンタカーをお借りになるのですか? それとも、フェリーですか?」
「馬鹿野郎! 近くまで来てわからないからきいてるんだろ! おまえいったい誰だ? 他の者はいないのか!」
 やれやれ。
 恵は心の中でため息をついた。
 最初からきちんと場所の確認をせずに適当に走ってわからなくなったのか、それとも方向感覚が鈍くて道を失ったのか。いずれにしても、道がわからないことを宿のせいにする客は時々ある。
「今、どちらにおいででしょうか?」
「そんなものわからん!」
「ええと、では、どこからどの方向にどれくらい走られたんですか? 近くに何か目標になるものはありますか?」
「山の中だ」
「お手元の地図で大体確認できませんか?」
「そんなものあるか」
「はあ? 地図も持たずにお車で旅行されているのですか?」


 つい余計なことを言ってしまった。間違ったことは言っていないが、まがりなりにも相手はお客様である。お客様の旅のスタイルを批判もしくは否定してしまったのだ。
 地図なんかなくたってわかるとたかをくくったものの、さっぱりわからない。おそらくそれで激してしまったのだろう。あるいは地図なんて観光案内所やガソリンスタンドや高速道路のサービスエリアで無料でもらうもの、とでも思っていたのだろう。
 感情を高ぶらせながらもなんとか会話をしていた相手も、とうとう怒ってしまった。
「お前では話にならない」とか「電話代だってただじゃないんだ」とか「のらりくらり喋りやがって」とか、もう目的地の場所確認などどうでも良くなったらしく、恵を罵倒することに夢中だ。
 結局、昨日からの宿泊者である木村沙織と大沢美香に厨房でカレー講習会をほどこしていた主が手を止めてやってきた。
「どうしたんだ?」
 恵は手短に事情を説明して受話器を主にバトンタッチした。
「はい。お電話かわりました」
 しかし、交渉は決裂したようだ。
「それでは、今夜の予約はキャンセルと言うことで。承知いたしました」
 恵は心の中で「あちゃー」と思った。常識としては相手の方に非があると思うけれど、接客業としては自分が悪い。
 小さくなりながら「申し訳ありません」と、主に向かって頭を下げた。
「いいんだよ。あんなヤツこっちから願い下げだ」
「あ、あんなヤツって・・・」
「キャンセルしたからにはもう客じゃない。気にするな」
「はあ」
 さっさと厨房に引っ込んだ主は、「お二人さん、キャンセルが出た。今夜はちゃんとした客室でゆっくり休めるよ」と、カレーのレクチャーを受けている女の子二人に声をかけていた。
(もう、調子いいんだから)
 旅の何たるかも心得ずかつ無礼なヤツより、沙織と美香が泊まってくれた方がいいな、と恵みも思うのだった。


 もう一泊したいと二人からの申し出があったのは、恵が引率した半日ミニトレッキングから庵に戻ったときだった。
 カレーの芳しい香辛料の香りが室内にはたちこめていた。
「もう一泊ねえ。実は、今日も満室なのよ」
 主の妻が残念そうに言った。
「あの、別館でもわたし達はいいんですけど」と、沙織が言った。
「うーん、でもねえ。昨日は臨時措置だから・・・。恵ちゃんの部屋は客室じゃないですし・・・」
「いいじゃないか」と、横から主が言った。「ただし、恵ちゃんがよければ、だが」
「あ、わたしはいいですけど」
「よし、決まった。そのかわり、キャンセルが出たらこっちへ移ってくること」
「はい」と、嬉しそうに沙織は答えた。
 山しかない。他に何もない。そんなこの地が気に入ったのだろう。
「もう一泊するんなら、今日の昼はカレーはやめだ。うちのカレーは本当は一日以上寝かせるんだよ」
 これだけカレーの香りをプンプンさせておきながらそれはないんじゃないと恵みは思ったが、沙織も美香も異論を唱えなかった。


 そんなわけで、今日の昼はチャーハンになった。定価550円だから、特製カレーの3分の一程度の値段だ。昼食後にコーヒーで一服して、カレー教室が始まった。


「うちの本式のカレーはね、まず普通にカレーを作って一日寝かす。そして翌日、同じようにカレーを作って、昨日のものと混ぜるんだよ。カレーは煮込み料理だから、いったん煮込んでそれを冷めるままにして放置して、翌日もう一度火を入れるととても美味しくなる。でも、それだと香辛料の鮮烈さがぼやけてしまうから、作りたてのカレーを混ぜ込んでしまう。これが庵カレーの秘密だ。今日はまだ作りたてのカレーしかなかったから、もう一泊するんなら明日本式の庵カレーを食べてもらった方がいいだろう」
 普段は「人に喋らせる」ことは頻繁にあっても、自らが雄弁に喋ることはない。こんなに嬉しそうにものを語る主を恵みは始めて見た。
「寝かせる分のカレーはもう出来ている。だから、明日の作り立てカレーの下ごしらえをしよう」
 主はジャガイモ、にんじん、玉ねぎを取り出した。
「洗って、皮をむいて、乱切り。わかるね?」
 ごくオーソドックスな材料である。
「こっちの牛肉、角切りにしてね」
 野菜は皮をむいて切るだけだが、牛肉はカットした後カレー粉を刷り込んだ。こうして一晩置いておく。
 主は薀蓄を傾けながら、実は手を動かしてはいない。作業はもっぱら二人のお客にやらせていた。そうして、世間話。台所に立ったことはあるのか、とか、どんな料理を作れるのか、とか、彼に手料理をご馳走出来る自慢料理はあるのか、とか、まあそんな話題である。
 例の「道がわからない」という電話がかかってきたのは、この時。せっかくの若い女性との談笑を泊めては悪いかなと、日ごろの居候のお礼というわけでもないけれど、恵は気を使って自ら受話器をとった。
 正式な「スタッフ」というわけではないから、いつもは率先して電話を取ることはあまりない。主も妻も手が離せそうにない時に手伝うくらいだ。そうして、少しづつ教わりながら電話応対をしている。
 そこそこ普通の受け答えが出来るくらいの自信は既についていたが、のっけから「お叱り口調」なのにはビビッた。
「ま、今日のところはこれくらいかな? ちょっと一休みして、夕食の準備にしよう」
 部屋の清掃は午前中に終わっているらしかった。
 ちょっと一休みか、ありがたい。
 恵は思った。
 半日のハイキングで疲れるようなことはないが、あの電話で気持ちがグッタリしたのは事実だ。山をほっつき歩いたら気分が晴れるのはわかっていたが、午前も午後も出歩いたのでは、本当に疲労してしまう。宿業は意外と重労働なのだ。


 杜の庵では朝・昼・晩と3食を提供している。しかも、食事と食事の合間には、喫茶のみのお客も受け入れている。目の前にお客がいないからといって仕事がないわけではない。仕入れや仕込みが必要だ。電話一本で配達してくれる業者もあるけれど、ほとんどの場合は買出しに行く。これを食事や喫茶の合間にこなすのだ。
 食事の他になすべきこと、それは清掃である。客室を綺麗にして、新しいお客を迎える。たった3室だが、杜の庵はそのうち一室を路線バス乗務員の休憩・宿泊に常時提供しているから、掃除が出来るタイミングが限られている。休憩、すなわちデイユースは宿屋の労働を極端に重くするのだ。
 毎日のそういった業務に加えて、不定期にこなさなくてはいけない清掃もある。カーテンを洗ったり、はがれかけた壁紙があれば修理し、周囲の雑草が目立ちはじめたら草刈もしなくてはいけない。非常用の懐中電灯だってチェックしなくてはいけないし、お風呂のシャンプーやボディーソープ、トイレットペーパー、その他色々な消耗品は常にチェックして必要に応じて補充する。
 タオルやシーツ類はリネン業者に出さずに自分のところで洗濯をしている。出来れば外注したかったのだが、なにしろ街から遠い。しかも、3室であればたかが枚数もしれている。当然のことながら毎日満室になるわけでもない。こんな状態で請け負ってくれるリネン業者などない。
 消耗品や事務用品はストックが必要だし、ストックがなくなればやはり帯広まで出なくてはならない。
 晩ご飯が終わったあとには、客の話し相手。飲み物やちょっとしたつまみの注文だってある。宴会が始まればいつ終わるかわからない。何しろ宿泊施設なのだから、客は自宅に帰る必要がない。つまり、無制限一本勝負である。
 勝手に宴会をするだけなら「本日はそろそろ」と切り出すことも出来るが、やっかいなのが、杜の庵は客の色々な話を聞いてあげる、という宿泊施設であることだ。相手が語りたがっているのに、聞き役が「では、そろそろ」というわけにはいかない。
「別にそういうのをウリにしてるんじゃないけどね」と、主は言うが、森の庵のウリのひとつであることは確かだ。
 今は恵が居候をしているから仕事もそれなりに手伝っているが、恵が来るまでは夫婦二人でいったいどうやって仕事をこなしてきたのか不思議である。
「定休日ってないんですか?」
 いつだったか恵は主に訊いた事がある。
「一日中誰も来ない日もある。宿泊予約がゼロの日もある」
「でも、店は開けるんでしょう?」
「んー、でもどうせ誰も来ないと勝手に決めて『臨時休業』の看板を出す日はあるよ」
「あなたはいいわよ。そういう日は運転手の世話をわたし一人にやらせて、寝てるか好きなことをしているかですものね」と、妻が言った。
「お客がなくても、バスはきますものね」と、恵が応じた。
「雪が深くて吹雪になったらバスも運休するよ」
「そうね。バスが止まっちゃったら本当の休日ね」
 つまり、定休日はないのである。休みの前の日に「明日は休みだー」っていう開放感は味わえない。結果論として休日が存在するに過ぎない。
 恵には理解できなかった。休日のない生活、というものを。
 オンタイムで休日になるのなら、事前に計画をして旅行に出かけることも出来ない。
 果てしない自然に抱かれてはいるけれど、この地を離れることが許されない生活。そのことが恵を息苦しくさせた。限りない閉塞感が悪天候時に垂れ込めるどす黒い雲のように恵を圧した。
 自分はいつでも逃げ出せる「居候」という身分なのに。そう思うと少しおかしかった。


 この日の客は昨日から泊まっている女の子二人の他に、新しくやってきた老夫婦が一組。口数は少ないが穏やかな笑顔を絶やさない。庵の扉を開いたとき、部屋に案内されたとき、食事を出したとき、その他もろもろ何かをしたときには例外なくその穏やかな笑顔で小さく「ありがとうございます」と礼を述べる。
 立ち居振る舞いが上品で、まるでまばたきひとつにも気品が漂っているようだ。
 自分の周りにある事象全てを幸福と感じることが出来れば、このような人間になれるのだろうなと恵は思った。
 夕食が終わると老夫婦は自室に引っ込んだ。沙織と美香は恵の部屋に遊びに来た。そして、庵は静かになった。
「あと、お願いね」と、妻が言った。
 時々妻は「あと、お願いね」と恵に言う。お願いの内容は、日によって異なる。
 今夜は、沙織と美香が客室に戻ったら、消灯と戸締りをしておいてくれ、ということだ。
 恵は悪戯っぽく「エッチするの? もしかして、久しぶりなんじゃないですか?」と妻の耳元で囁いた。
「まあ、当たりかな」と、妻も小さな声で言った。


 翌日。朝食の片づけが終わると特製カレーの製作だ。老夫婦はさっさとハイキングに出かけたが、沙織と美香は残った。一緒にカレーを作るのだ。
 カレーの作り方としては特別なものではない。
 寸胴鍋に油を引いて、摺った生姜とニンニクとミンチ肉をまず炒める。そこに昨日切っておいたにんじん、ジャガイモ、玉ねぎを放り込んで、しんなりするまで炒める。
 一方、隣のコンロにはフライパン。角切りにしてカレー粉を刷り込んであった牛肉を炒める。表面に焦げ目がついたら、鍋に放り込む。
 主は鍋の中身は木じゃくしで適宜かき回しながら、一方でさっき使ったフライパンや、下ごしらえした肉を保存してあったタッパウエア、切った野菜を入れてあったボールなどを次々手早く洗ってゆく。


「どうしてミンチを入れるんですか?」と、美香が言った。美香のほうから先に口火を切るのは珍しい。
「味が良くなるからだ」と、主は単純明快だ。
 鍋の中の野菜たちがしんなりとして透き通ってくる。
 寸胴鍋の真上には水道の蛇口がある。主はその蛇口をひねった。ザアーッと水が鍋に注ぎ込まれてゆく。
 鍋は座高の低いガスコンロに乗っている。つまり、下から順に、コンロ・鍋・水道の蛇口という順番になっているのだが、これに興味を示したのは沙織だった。
「コンロの真上に水道があるなんてなんか不思議。でも、便利ですね。鍋を持ち運びしなくてもいいし、何かに水を汲んでくる必要もないですし」
「業務用なんだよ」
「あ、ラーメン屋さんで似たようなの見たことがあるわ。でも、こっちはずいぶん小さいのね」と、沙織。
「ラーメンスープを作る巨大な寸胴鍋ね。直径も高さもあれの半分くらいだよ、これは。そんなにたくさんカレーばかり作ってもしょうがないからね」
 しかもその小さな寸胴鍋の半分も水が入ると、主は蛇口をひねって水を止めた。
「昨日作ったのをここに追加するからね」
 と、今度は問われるまでに解説をした。
「さあ、ここからが当店特製の秘密大公開だ」
 コンロの炎を全開にする。鍋の縁から炎がはみ出して、鍋のへりをなでている。狭い調理場が急に暑くなる。そして主は、タップリの鰹節を放り込んだ。
「カ、カレーに鰹節を入れるなんて!」
「まだまだ色々はいるぞ」
 冷凍庫からむきえびを取り出して、そのまま入れる。スーパーの冷凍食品売り場で売っている小エビで、それほど上等のものとは思えない。
「シーフードカレーにするんですか?」
「いや、ただのダシだ。味にこくが出るんだ。こんな小さなえび、煮込んだら消えてしまうよ」
 鍋が湧き上がると、どんどんアクが浮いてくる。そのアクを掬い取りながら、少しづつ火を弱くしていく。沸騰した時のブツブツがかろうじて表面に浮く程度の火加減。とってもとってもアクが浮いてくる。
「めぐみちゃん、そろそろ昨日作ったカレーも火をかけて。弱火でね。ずっとかき回しといてね、こげるから」
「はい」
 寸胴鍋用の背の低いコンロはひとつしかない。よっこいしょと恵は昨日作ったカレーのはいっている小振りの寸胴鍋を普通の高さのガスレンジに載せた。言われた通りに弱火にして木杓子でゆっくりとかきまわす。
「ほら、もうアクが出なくなっただろう。そうしたらカレー粉投入だ」
 主はでっかいタッパウエアーを取り出し、ふたを取った。中は粉末状のカレー粉で満たされている。これを小さなボールですくって鍋の中に粉を振るようにして注いでゆく。表面からうっすらと色づいてゆくが、すぐに掻き回されてカレーらしい色はどこにも現れない。
 けれど、何度かそれを繰り返していくと、だんだんカレーらしい色になってゆく。

 やがて主は、カレー粉の投入をやめた。
「しばらく煮込もう」と、主。
「ちょっとまだ薄いような気がするんですけど」と、美香。
「そう。煮込むと香辛料は性格が変わるからね。火を止める直前に最後にもう少し追加するんだ。だから今は少し少なめにしておく」
「へえー」
「だから、うちのカレーの香辛料は4段階に分かれるんだよ。肉の下味のカレー粉、昨日作ったカレー、今日作ったカレー、そして最後に入れるカレー粉。これでコクがあるけど同時に香辛料の鮮烈さも保たれた複雑で渾然としたカレーが出来上がる」
「すごいんですね」
「本当は、使う段階によってカレー粉の配合も変えるのがいいんだけどね、そこまでは面倒でやってないんだよ」
「カレー粉の調合もするんですか?」
「いや、業務用に市販されている粉末のカレー粉だ。ただし、3社のカレー粉をブレンドしてる。メーカーによってカレー粉の性格が違うから、それを混ぜることでより美味しいカレーが出来るんだよ。もともとインドではカレー粉っていう概念はないらしいね。各家庭や作る人がそれぞれ香辛料を買ってきて、それを調合したり直接投入したりして、スープを作るってことだからね。だから、カレーライスっていうのは日本料理なんだ」
 そして主は、宣言どおり色々なものをカレーの煮えている鍋にどんどん入れた。すりおろした林檎、チーズ、醤油、オイスターソース、チョコレート、ウスターソース、牛乳、胡椒、塩、インスタントコーヒーの粉、砂糖、梅干のタネを除いたもの・・・。どれもこれもそれほど量は多くない。
「さ、砂糖なんて入れるの?」
 恵が素っ頓狂な声を上げた。
「口に入れたときに舌に優しく人なつっこい甘さを出すにはどうすればいいか・・・。結局砂糖が正解だったんだよな」
「胡椒を単独で入れるのも珍しくないですか?」と、美香。
「鮮やかな辛さを出すには胡椒が良かったんだ」
「鰹節とか、しょうゆとか色々入れましたよねえ」と、恵。
「日本人に馴染み深い味だからね。香辛料だけよりもホッと舌に馴染むんだよ」
 そして、極め付けがキムチだった。それもキムチそのものではない。キムチが漬かっていた汁だ。
「深みのある辛さと酸味と辛さの中に潜む甘み」と、説明を求められるまでもなく先に解説した。

 キムチの汁を加えられたカレーは20分ほど煮込まれ、最後にもう一度カレー粉が加えられた。カレーの色には黄色っぽいのから黒っぽいのまであるが、杜の庵特製カレーはどちらかというと黒に近い。そこにヨーグルトと昨日作ったカレーを入れて、完成である。
 トッピングもいろいろあった。ポテトチップス2枚とクレソン、細く切った海苔、表面をフライパンで焼いてからボイルしたソーセージ、小麦粉をまぶして焼いたグリーンアスパラ、バターコーン。付け合せは、福神漬け、らっきょ、レーズンの3種だった。
 味のほどは庵の主が作りながら解説した通りだった。
 ひとくち食べて恵は「わあー」と思わず口にした。予想外の味のハーモニー、だけどそれは決して突飛であったり拒否反応を呼び起こすものではなかった。幸福へと誘う味覚が、口から喉を通り抜け、そして胃袋に達した。
 まず、舌に優しい甘みがじんわりと広がりカレーの風味が鼻腔をくすぐる。甘みは砂糖だけでなくあらゆる食材からにじみ出た慈愛の優しさのように思えた。しかし4段階に加えられたカレー粉のおかげで複雑に絡み合った香辛料の香りと刺激が口から鼻へ駆け抜けるのだ。
 そしてねっとりとなじみの深い味が広がる。醤油や鰹節系の日本人にとっては常に親しんでいる味だ。これがベースとなっているのでボディのしっかりした風味がする。辛さに頼らなくてもしっかりとした煮込み料理として成立しているのだ。
 なんだ、ちっとも辛くないや。一瞬はそう思うだろう。辛さについては「拍子抜け」かもしれない。しかし、カレーは辛いものだという既成概念を捨てれば、なんて美味いシチューなんだろうと感嘆することが出来るはずだ。
 とはいえ、辛さはゆっくりと、そして、ある地点を境目に、ぐわあーっと強烈に広がってゆく。
 あらゆる種類の辛さが渾然一体となって広がるのは一晩寝かせたおかげである。その上で、スパイスの鮮烈なイメージまでもが口の中に満ちてゆくのは、さっき作ったばかりのカレーが効いているからだ。
 メーカーのカレー粉を使っているが、そこにさまざまなものが加えられている。舌の表面にあって味を感じる部位を味蕾というが、ひとつひとつの味を捕らえて認識できるほどのはっきりした味だ。だが、その味を捉える最後の瞬間に、それがなんだかわからなくなってしまう。味のハーモニーに戸惑わされ、結局「おいしければいいじゃないの」と分析を放棄してしまう。だが、次の瞬間にはまた一つ一つの味が立つ。
 ゴクリと飲み込むと、その後に爽やかな余韻が残る。いや、余韻というにはあまりにも鮮烈だ。辛さに口から火を吹きそうになる。やみくもに辛いだけなら「バカヤロー」と叫びたくなるところだが、辛さ以外に妙に官能を刺激するこの味わいはなんだろう。調理中に加えられた色々な食材がありとあらゆるところに影響を及ぼしている。それぞれのスパイスに調和したり、それぞれのスパイスを強調したり。
 トッピングが賑やかなのも嬉しい。食べ方は自由だ。ポテトチップやクレソンなどは口の中の感覚をフレッシュにするために単独で食べるといいように恵には思えたが、海苔などはルーやライスと一緒に口に放り込んでみた。意外とイケル。海苔の風味がカレーの強烈な味わいに決して負けることなく、かといって喧嘩することもない。海苔の味がして、カレーの味がした。
 好き好きだろうけれど、「アスパラはルーをつけて単独で食べるのがいいみたいね」と恵は思った。
「生卵とかはつけないんですね?」と、美香。
「注文があればお出しするよ。生卵でも、ポーチでも」と、主。
「マッシュルームなんかもいいんじゃないですか?」と、沙織。
「食感としてはね。でも、イマイチ味にマッシュルームらしいインパクトが出せなくてね、やめたんだ」


 これじゃ、お客にカレーライスを提供しているのか試食会をやっているのかわからないなと恵は思った。
 製作過程を見ているので、客としてテーブルの前に座り出されたものを食べる、というのとはずいぶん違う。
 沙織や美香も話を聞いては頷きあったりしていた。
 調理を手伝わせておいてこれで1500円を取るのかしらと恵は思った。
「何言ってるんだ。手伝わせたんじゃない。教えたんだ」
 主の屁理屈が聞こえてきそうだ。
 あ、違うな。この特製カレーは主のおごりって約束だったっけ。
 恵が色々考えて会話に参加しないでいる間に、会話そのものがなくなっていた。
 カレーの論評もそこそこに、みんな食べることに夢中になっていた。

 食事が終わると再び会話が始まった。といっても片付けのために主と妻は皿を下げておくに引っ込んでしまった。
 それでも食卓を去ろうとしない沙織と美香のために、恵はコーヒーを入れた。
 自分の分も含めて3杯にしようか、それとも自分は遠慮しようかと迷ったが、2杯だけにした。彼女たちの会話には加わらないでいようと思った。
「たかがカレー、されどカレーね」と、沙織が言った。
「なによ、それ」と、美香。
「カレーだってがんばれば普通じゃないくらい美味しくなる。わたしもがんばろうかなってことよ」
「何に?」
「何って、そりゃ、恋愛とか、勉強とか、就職活動とか、趣味とか、アルバイトとか・・・」
「立ち直れそう?」
「まあね」
 庵の主は客の話の聞き役だ。相手の話を引っ張り出すために口を挟むこともあるが、ただ黙って聞いていることもある。
 主が厨房に引っ込んだ今、恵は主の役をすることにした。きっと今日は「ただ黙って聞く」がいいんだろうな。
 夕食の準備が始まるまでは慣例では恵は自由時間だが、狭いカウンターの中に留まる。端に追いやられていた丸椅子を手繰り寄せて座った。
 二人の女の子の会話を聞くともなしに聞きながら、いつだったか主が言っていたことを思い出していた。


「最初はお腹がすいているからガツガツ食べる。空腹が少し満たされると会話が始まる。これは普通の食事の場合。偉大な食事は逆なんだよ。口にしたときのその感動を伝えようとみんな喋り始める。だからなかなか食事が進まない。けれど、気がついたらいつの間にか会話がなくなってる。あまりの美味しさに食事に夢中になるからだよ。でも、途中で会話がなくなるけれど偉大な食事は食後にまたお喋りが始まるんだ。普通の食事は『食べる』という目的が果たされたら、食卓を離れる。そういうものだよ」

 

 エピソード7 「アルターネイティブ」

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