杜の庵
エピソード7 アルターネイティブ

 

 北海道では、秋と冬が一緒にやってくる。
 あたり一面が燃えるような紅葉に彩られる頃には、朝夕などめっきり冷え込み、もちろん暖房も欠かせない。
 大学の多くが夏休み前に前期試験を実施するようになって、夏休みが後ろにずれてきた。9月に入っても学生のお客が途切れなかった。
 紅葉の見ごろは、9月の中旬の連休である。
 山々は深く濃く色づき、見る者を圧倒する。空気は冷涼であり、空は澄み渡る。これからやってくる厳しい冬に思いを馳せさえしなければ、まさしく至福の一時といえるだろう。
 一年間を通じて「杜の庵」に最も予約のたくさん入る日であり、同時に「申し訳ありません。既に満室です」と断り続ける日でもある。
 9月に入ったある日、恵は1人で留守番をしていた。午後4時くらいまでは喫茶の客でもない限り暇である。せいぜい電話番くらいだ。窓際の席に座っているカップルはかれこれもう1時間くらい、飲み物とチーズケーキで過ごしていた。さほど会話が弾んでいる様子もないが、出て行く気配もない。すっかりくつろいでいる。他には客もない。空気がそよとも動かない。
 メニューは季節ごとに数種類のものをローテーションするだけなので、恵もすっかり段取りを心得ていた。あと20分くらいはのんびりしていて大丈夫だ。カップルに提供するために作ったコーヒーがデカンタに残っている。火にかけて暖めなおし、自分のためにカップに注いだ。


 4時が近づき、さてそろそろ、と手元のコーヒーを飲み干したとき、カップルが席を立った。
 お金を受け取り、「ありがとうございます。これからどちらへ?」などと話しかけていると電話が鳴った。
 予約の電話である。台帳をめくり、必要事項を記入する。10月の予約だった。台帳は9月の後半から白紙が目立つ。客がほとんど入っていない。
「杜の庵」には客室は3室しかない。しかもそのうち1室は年間を通じてバス会社が借り上げているから、実質2室だ。直前になって埋まることも多いので、大規模旅館やホテルのようにシーズンオフ対策に力を入れなくてもなんとかなるのだが、予約があまり入っていない状況というのは寂しいことに変わりはない。
 恵はそろそろ潮時かな、と思った。
 そこそこの忙しさがあってこその「居候」である。これから冬に向かえば宿泊客も昼間の食事や喫茶の客も徐々に減ってくる。給料はもらっていないとはいえ、やはり気が引ける。
 まだ庵の主にも妻にも何も言っていないが、9月中にはおいとましようと思う。それまでの間に、自分の今後のことを考えなくては。


 その日の客は一組だけだった。夕方のバスで運転手と一緒に着いた。男性二人組みである。両人とも大きなカメラ用のカバンを持っている。
 恵は(紅葉の撮影にでも来のかしら)と思った。しかし、紅葉にはまだ少し早い。さらに標高の高いところへ向かえば色づいた木々もあるけれど、北海道の山は森林限界が低い。やがて潅木の世界、そしてガレ場になるので、写真に収めて絵になるような「あたり一面の鮮やかな世界」を撮るには不向きである。
 しかし恵が知っている山の範囲なんて「庵」から半径徒歩で3時間以内だから、撮影のスポットはあちこちにあるのかもしれない。
 だとすれば、この二人組みは明日から山に入るのだろうか? それにしては、荷物も靴もふさわしくはなかった。大きなカメラバッグは仕方ないとしても、着替えや旅行道具を収めたカバンもバックパックではなく、肩掛け式のスポーツバックである。
 二人は運転手と一緒に庵にいったん入ってきたが、恵に会釈をすると荷物を床に置き、運転手を促してまた出て行ってしまった。
 運転手は「終業点検」のために部屋に落ち着く前に外へ出るが、まずはお茶をいっぱい振舞うのが常だった。もちろん恵は茶の用意をしていた。それを口にすることなくすぐに外へ運転手は出て行ったのである。何事かと思って覗くと、例の二人組みがバスをバックに運転手を撮影していた。
「もうすぐここも廃止になるんでしょう? 今のうちにと思って乗りに来たんです」
 二人組みの1人が言った。
「え? バスが廃止になる?」
 恵はまさかと思った。


 写真撮影が終わって再び戻ってきた3人に恵は茶を出した。どういう加減か二人組みがドライバーと仲良くなっており、ロビー兼ダイニングのテーブルのひとつに座り、談笑を始めたからだ。いつもなら運転手にしか茶は出さないが、同じテーブルに座っているのにそれも変だろう。
 二人組みには宿泊者カードとボールペンも差し出した。
 恵はお茶を飲んでもらいながらチェックインの手続きをするのも悪くないような気がした。
「いや、まだ正式に廃止と決まったわけじゃないんですよ、お客さん」
「でも、そういう話はあるんでしょう?」
「うーん、まあ、ぶっちゃけた話、そうですね。でも、どこでそんな噂を聞きつけてきたんですか。社内でも沿線住民に与える不安が大きいからむやみに喋らないようにって言われているんですが」
「ここに載ってます。ええと、ほら、おい」
 書き上げられた宿泊者カードを回収しながら、恵は二人の客の名前を確認した。
 さっきからしきりに運転手と会話をしている方の男性は皆川聡。22歳。職業欄には学生とある。中肉中背。これといった特徴のない、中の下といった容姿だろうか。無精髭がちょっとばかり不潔感を漂わすが、旅行中髭剃りをサボる男は珍しくない。恵はもう慣れてしまった。中途半端に伸びた髪も見るからにうっとおしいそうだ。前髪が目にかかり、耳も少しだけ隠れている。日常に戻ればきちんとした格好をするのかもしれないが、彼氏にしたくはないタイプだった。
 ほら、おいと皆川に促されてバックから一冊の雑誌を取り出した男は佐々木慎。やはり21歳、学生。背が低くて細身。男前には程遠いが仔細に観察すれば顔の各部位はそこそこ整っている。体型の貧弱さがマイナス要因になっている。髪は短くさっぱりしている。大人しそうなことと、皆川に「おい」と言われて行動することなどが、やはり恵には気に入らない。皆川よりもマシだが、やはり彼氏にはしたくないと恵は思った。
(まあ、別に男を捜しのためにここにいるわけじゃないんだけどさ)
 心の中でクスリと笑った恵は、すぐに寂しさにとらわれた。
 気付かない振りをしていても自分自身は正直だ。心と身体を温めあえる人が、そろそろ欲しくなっているのだ。
 佐々木がテーブルに置いた雑誌は、「バスマガジン」というタイトルだった。
 表紙にはカラーでハイデッカーの真新しいバスの写真が掲載されている。いつくかのタイトルが縦に横に書かれており、本文記事のいくつかをピックアップしたのだろう。
「バスマガジン・・・。存在は知っていたが、初めて見たよ」と、バスの運転手は呟いた。
 鉄道ファンや鉄道マニアという言葉は恵みも聞いた事がある。これよりはるかに数は少ないが、バスマニアが存在し、そのための雑誌も発行されていた。この分じゃ船や飛行機のファンマガジンもあるのではないかと恵は思った。事実、あるのである。


「ここです」と、皆川がペラペラとページをめくり、該当記事が掲載された部分を広げて運転手に差し出した。
『全国ローカルバス廃止候補路線一覧』
 そんなタイトルだった。
 わざわざこんなものを記事にして何の価値があるのかと恵は思うが、なるほど今日のお客は「廃止になるまでに乗っておこう」とわざわやってきたのであった。
 4人掛けのテーブルの残りひとつの席、恵は椅子も引かずにたったままで、雑誌の記事を覗き見した。
 過疎問題や道路の整備による自家用車の普及。本数が少なく不便なローカルバスのダイヤ。地元客のバス離れ。そういったフレーズが目に付く。
 廃止候補路線一覧など、芸能ゴシップなみに下司な記事かと思ったら、まじめに取り上げられているのだった。
 交通弱者への対応が云々などとも書かれている。中・高校生の通学とか老人の通院とかの足をどうするのか、などにも触れられている。
 採算第一ではなく、社会の使命として、行政はバス会社をフォローすべし、なんて記述も見られた。
「あ、恵、ちゃん・・・」
 雑誌に釘付けになっていた運転手は、恵が記事を覗き込んでいることにようやく気がついた。恵は、そして「杜の庵」は、まさしくローカルバス廃止によって影響をもろに受ける当事者である。
「このことは、まだ、正式に決まったわけじゃ・・・」
「・・・うん・・・」
 恵はどう返事していいのかわからなかった。
 バス路線が廃止されれば、ドライバーの休憩・宿泊のために借り上げられている「杜の庵」の一室がポッカリ開いてしまう。3室しかない一室だから、バス会社によって33%の稼働率を「杜の庵」は享受している。夜着いた運転手が翌朝出発するための宿泊だけではない。昼の折り返し運転手のための休憩室にもなっているし、駐車場スペースのほとんどがバスに占められることもあって、それぞれそれなりの利用料金を取っている。これが一気になくなるのだ。第一、これまで不便ながらも一日3便のバスを頼りに相当数の客が来てくれている。これもなくなることになる。バスの廃止が経営上大問題になるであろうことは、居候の恵にもわかった。
 だからといって恵には何も言えない。所詮、部外者だ。居候を終えてここを出て行けば、もはや自分とは関係のない土地での出来事だ。
「わたしは何か言う立場じゃありませんから」
 恵はそういうと、宿泊者カードを回収して、皆川と佐々木を客室に案内した。
 ダイニングに戻ると、ドライバーは気まずそうな顔をして茶をすすっていた。
 恵に何かを言おうとして、言葉が出てこない。中途半端に開きかけた口を閉じて、俯いた。恵はわざと大きめの声で独り言を言った。
「さ、夕食の準備、続けなくちゃ」


「手のかからない客だなあ」と、庵の主はボソリと呟いた。
「何言ってるのよ。会議だとかで今頃帰ってきて・・・。最初からなーんにも手をかけてないでしょ」と、妻は言った。
 夕食を終えると、バスマガジン二人組みは、コーヒーを注文してそれっきりだ。
 普段はそういう場所に何気なく主や妻が混ざり、雑談に花を咲かせる。しかし今日の二人組みは、そこに誰かが混じると言う雰囲気ではなかった。バス雑誌や時刻表、その他資料などを広げて真剣に話をしている。
 何気なく耳にしたところでは、北海道には廃止の危機にさらされているローカルバスはいくつもあり、それらはこぞってダイヤが不便だ。そこをいかに効率的に回るかを打ち合わせしているようだ。
 車庫の見学だの、本社訪問だの、そんなフレーズまで聞こえてくる。
 コーヒーのお代わりを頼まれたので、恵が運ぶ。ついでに、訪ねてみた。
「卒論か、なにかですか?」
「え? 卒論?」
「熱心に研究されてるようだから」
「いや、ただのバスマニアです」
 あっさりとかえされてしまった。
 主では取り付く島もなかった二人だが、同年代のしかも可愛らしい恵に話しかけられて悪い気がしなかったようだ。「研究」もそこそこに、恵との間に会話が成立し始めた。
「きみは、アルバイト?」
「いえ、居候です」
「イソウロウ???」
 皆川と佐々木は顔を見合わせた。
「居候って、わからない?」
 恵は二人が言葉の意味がわからないのだと思った。居候だなんて、たしかに前時代的な言葉かもしれない。
「いや、それくらい知ってるけどさ。そんなの何の生活の保証もないじゃないか」と、皆川が言った。
「もちろんずっとこのままってわけにはいかないですけど。今はそれで」
「で、いつまで続けるの? そのあと、どうするの? こんなに不景気なのに。将来が不透明なのに」
 矢継ぎ早に質問されて、恵は閉口した。
「え、あ、う、その・・・」
「よ、よせよ」
 見かねたのか、佐々木が皆川を止めた。
「すいません。こいつ、説教しようとか、意見をしようとかってんじゃないですから。こんなヤツですけど、本気で心配しているんですよ」
「余計なこと言うな」
 皆川に一喝されて、佐々木は口を閉じた。
「ま、人生色々ですから」と、恵はニコリと笑った。
 見た目はパッとしない二人だったが、「彼氏にはしたくないタイプね」なんて印象を持って悪かったなと恵は思った。もっとも、恋人だのなんだの意識するような相手じゃないから、あれこれ話が出来るんだなとも思う。
「どうせ明日のバスはもう決まってるんだから、後のことはあとで考えよう」
 皆川はそういってビールを注文した。
「はい、ビールですね」
「ここで飲むんだったらおごってあげるけど」と、皆川は恵を誘う。
「じゃあ、ご馳走になります」


 ビールを飲みながら聞いたところによると、この二人は東京の有名な私大のうちのひとつに通っている。就職も既に内定済みだ。単位のほとんどもとり終えていて、卒論もめぼしはついている。後は時間が過ぎるのを待つばかりだという。
 ある意味、典型的なエリートなのかもしれなかった。
 お酒をおごっておきながら二人は恵をナンパする風もなく、ビールを飲み終えると部屋に引っ込んだ。彼らにしてみれば、多少可愛いだけで居候というわけのわからない身分の恵こそ、眼中になかったのだろう。


 バスマニア二人組みのテーブルを片付けていると、他のテーブルで庵の主と妻が難しい顔をしていた。
 そういえば、さっき会議がどうとか言っていた。こんなちっぽけな宿屋兼食堂の主がいったい何の会議だと言うのだろう。恵はそっとテーブルの上を覗き込んだ。
「恵ちゃんにも話しておこう。これから色々な噂が聞こえてくるだろうから、本当のことを知っておいてもらった方がいい」と、主は言った。


 主は白紙の紙に大きくアルファベットの「Y」を書いた。その一番下の部分に黒丸をつけ、「帯広」と文字を添える。
 さらに主は字を書き続ける。Yの左上の部分に「杜の庵」。右上のところに「大雪森林温泉」。最後に、Y字の分かれ目のところに「赤村集落」と書いて鉛筆を置いた。
「バスの件なんだよ」と主は言った。
 二人組みの話では「廃止候補」であるが、「会議」と称する外出の後、「バスの件で」の話となれば、どうやら廃止はそこそこ現実的なことなのだろう。
 主の話を集約すると、こうである。

 帯広から赤村集落方面に向かうバスは現在おおよそ1時間に1本。そのうち3本が「杜の庵」まで足を伸ばしている。赤村集落から「杜の庵」の間には、さらに小さな集落がポツポツとあり、また終点には「杜の庵」が一件あるだけだが、それなりの登山客が利用している。しかし、地元客の利用が年々減っており、とても採算の取れる状態ではなくなってきた。人口が減っている上、通学の若い人などいなくなっており、年寄りの通院と言ったってこのあたりはほぼ1人一台(一家に一台ではない)の車を持っているから、本人が運転することも家族の誰かが送り迎えすることも可能で、実質バスなどなくても差し支えないと言う結論になった。すなわち、廃止である。
 一方、赤村集落からはY字のもう片方の終点である「大雪森林温泉」へも一日3本のバス便が伸びている。「杜の庵」のルートとは異なり、こちらはまったくの秘境で、周辺には一軒の民家もない。ただ、「大雪森林温泉」には民宿や旅館などが5件と、小規模なホテルが1件ある。また、こちらも登山の基地である。しかし、ほとんどの宿泊客が自家用車かレンタカー利用、または団体旅行の貸し切りバスなので、路線バスを使うことなど稀である。
 以上のような理由で、帯広からのバス便は赤村集落で打ち切り、その先の2路線を廃止したいとバス会社が言ってきたのである。
 これはほとんどもう決まったようなものだ。実際、大雪森林温泉の組合では「バスが廃止になり、これまでバスで来ていた客がゼロになっても大きな影響はでない」という結論がでている。ただし、「全国大型時刻表」からバス路線が消えれば、当然「大雪森林温泉」の名前も消えるわけで、そのことによる知名度や集客能力の低下が問題なのだ。「富良野」のように間違いなくガイドブックに掲載されるような観光地ならともかく、「大雪の麓、幽玄に抱かれた秘境の中の秘境。バス一日3便」なんぞという紹介で済ませているガイドブックなどからは早晩消え去る運命にある。
 会議の主題は、実はここからだ。
 北海道では既に、こうして廃止になったバス路線を復活させた場所がある。廃止になるはずのバスの終点付近にある旅館や食堂や土産物店などが経費を払って「路線バスを運行させている」のだ。送迎バスでも貸し切りバスでもない。れっきとした路線バスである。だから誰でも乗れるのであるが、終点の地域まで乗車すれば「運賃無料」となる。また、この地区の旅館などに宿泊すれば、復路も「運賃無料」。観光関連の諸施設が分担してバス代を負担しているからこのような事が出来る。
 これを「大雪森林温泉」でもやろうという提案だった。
 「杜の庵」が会議に呼び出されたのは、このための経費を均等割りにして払う仲間になってくれ、という思惑のためである。「杜の庵」は「大雪森林温泉」の組合には入っていないが、経費負担をしてくれれば「赤村集落」から「大雪森林温泉」に向かったバスが終点でUターンし、いったん「赤村集落」を経由して、今度はY字の左側の終点である「杜の庵」まで運行してもらえるというのである。
 バスが廃止されれば「杜の庵」へ向かう客は「赤村集落」から歩くか、タクシーを使うしかない。いったんバスが「大雪森林温泉」を往復しても歩くよりも早いし、タクシーのようにお金もかからない。だから是非参加して欲しいと主は誘われた。
 この話に乗ってくれれば、今後発行する「大雪森林温泉」のパンフレットなどにも「杜の庵」を掲載する、などという条件も出された。
「で、どう返事したの?」と、妻が心配そうに訊いた。
「うちは客室が3室しかないから、バスが来ても分担金の元が取れないって答えたよ」
「そう。即答しなくてもよかったのに」
「こういうことは早い方がいい」
「反感、買わなかった?」
「先延ばしにして断ったときの方が反感は買うよ」
「でも、うちは大丈夫かしら」
「心配するな。実際、バスで来る客はどんどん減ってるが、なんとかやっていけている」
「山登りで縦走する人は?」
 いったん山に上がり、峰々を縦走して別のところに降りる人は、自家用車で来ることもレンタカーを借りることも出来ない。ここにおきっぱなしになるからだ。
「いや、お客さんの便を考えればバスがなくなるのは痛いが、そっちは何とかなるだろう」
 なんとか、とはどういう意味だろうかと恵は思った。
 バスの来る赤村集落まで送迎でもするのだろうか。
 恵がいなくなれば夫婦ふたりだけで切り盛りしなくてはいけない。1時間ごとに来るバスごとに送迎をするなんて無理じゃないかしらと思った。が、自分が口を出すべきではないと判断した。
「でも、お客さん、減るわよね。バスがあるおかげでずっと埋まってる一部屋も空いちゃうし」
「なあに、客が減れば、炭焼きでも山菜取りでもジャム作りでもするさ。ホームページ作って通販すればそれなりに売れるだろう。売れなきゃ自分のところで使えばいい。商売はまた別のことを考えるさ」
 バスマニアの二人から突然もたらされた「バス廃止」の話を聞いたとき、正直言って恵みは生きた心地がしなかった。自分のことではないのだが、血の気が引いた。たった3本のバスが、ここではどれだけ重要か身に染みていたからである。
 しかし、庵の主は鷹揚としている。
 北の大地の、しかも山深くに住むということは、こういうことなんだろうかと恵は思った。
 いずれにしても、客足が大きく減退することだけは確かだ。そうすれば自分は厄介者になる。
 いや、今だって厄介者なのだ。自分がいれば確かに庵の夫妻の仕事は楽になるが、いなくったってこなせるのだ。無給の居候だがいつまでも置いてもらえるとはもとより思っていない。
 いよいよ本当にここを去る時期が近づいてきている。


「皆川さんと佐々木さん、もう一泊することになったから、恵ちゃん、今日はそのへんを案内してあげてくれない?」
 朝食を出して厨房に戻ってきた妻が言った。
「え、はい、いいですよ」
 連泊するということは、客室清掃をしなくていいということだ。そのかわりに、周辺の散歩にお付き合いするなどたやすい御用である。でも、ちょっと気をつけなくちゃなと恵は思った。恵はいつの間にか山歩きに慣れてしまったが、どうやらこの二人はあまり慣れていそうにない。恵みのペースで歩かされたのではバテてしまうだろう。
「そうだ。大雪森林温泉でも行ってくれば?」
 Y字の頂点と頂点を結ぶようにハイキングコースがある。尾根をひとつ越えるのでちょっとしんどいが、地図上の直線距離はしれている。片道3時間あればいいだろう。
「温泉に浸かって、帰りの歩きがダルくなったら、電話をしなさい。今日は予約が入っていないから迎えに行ってあげよう」
 今日は予約が入っていないからの一言に、恵はギクリとした。
 バスマニア二人組が気まぐれの連泊を申し出なければ、今夜はバスの運転手だけになるところだった。そのバスもまもなく廃止になるらしい。ダラダラと世話になっているわけにはいかないぞと改めて恵みは思った。
「そうさせてもらいます」と、恵は明るく返事をして、二人を連れ宿を出た。
 徐々に急峻さを増してゆくハイキングコースをのったらくったら歩きながら、3人はだんだん言葉少なになってゆく。
 振り返ると、二人とも額に汗している。
 女の子に先導されてそのペースについていけないなど恥ずかしくて言えないとでも思っているのか、息を乱しながらも黙々と付いてくる。おそらくエリートなのであろうこの二人に、恵は好感を持った。今の多くの若者ならきっと「疲れた」「休ませろ」「何でこんなことしなくちゃならないんだ」等々、文句をたらたら言うところだろう。
(って、私も今の若いものなんだけどさ)
 恵もこのコースを歩くのは初めてだ。しかし、地図は何度となく眺めている。そろそろ展望の開けた場所があるはずだ。細い山道だから、疲れたといってもあまり休憩する気分にはなれない。景色の開けたところまでがんばれば、その方が疲れも取れるだろう。
 これ以上ゆっくり歩くと自分がしんどくなるのだが、後ろの二人のためにあえてそうした。だが、二人の汗や息の具合も表情も、ちっとも変わらなかった。もしかしたら歩きなれていないからそうなるだけで、体力そのものはあるのかもしれない。恵はそう思ってペースを上げた。そして、振り返った。二人の姿はなかった。
「やれやれ」
 カーブを曲がると急に視界が広がり、十勝平野が一望に見渡せた。ここが地図上にあった展望の開けたところらしい。恵は立ち止まって二人を待つことにした。
 ほどなくやってきた二人は、恵がくつろいでいるのを見て「ああ、ここで休憩だな」と悟り、表情を和ませた。
「ペースを上げたり落としたりしないで下さいよ」と、佐々木に文句を言われた。
「ごめんなさい」と、恵は謝った。

 帰りは送迎を頼むことを早くも決断し、十分な休憩をとることにした。
「お二人のペースがわからないので、出発したくなったら声をかけてくださいね。それまでタップリと休みましょう」
 深呼吸をすると森の香気をタップリと含んだ空気が肺に満ちて気持ちがいい。眼下に見下ろす景色もすばらしい。「自分の足で高度を稼いだから見れるのだ」と思うと上機嫌にもなれる。何もかも手に入れたような気分になるのだ。
「うーん。おおいなる休憩時間だなあ」と、皆川が言った。
「そうでしょ、気持ちいいでしょ。山の中、森の中って」と、恵が返事した。
「いや、そうじゃなくて・・・。昨日はすまなかったな。人の将来のことアレコレ言っちまって」
 ああ、その件か、と恵は思った。
「考えてみれば、俺達、休憩時間なんてなかったよなあ」と、皆川。
「なんだよ、それ」
「ほら、小学校からずーっと学校ばかり行ってて、立ち止まることなく、受験、受験ってさ。で、大学卒業前にちゃーんと就職決めて、で、会社に入ったら定年退職まで勤めるんだ。これまでだけじゃなく、これからも、休憩時間なんてないんだよな」
「自分で選んだことだろ。俺はそれでいいと思ってる。短い人生、のんびり立ち止まってる暇なんてないんじゃないのか?」
「俺も昨日までそう思っていた。だけどなあ。居候なんていう一時があってもいいよな。金を稼ぐとか、そういう目的なしに、ただ滞在してるって、一種の余裕だよな」
「昨日はああだこうだ意見したくせに」
「だから、それは悪かったってさっきこの子に謝っただろう?」
「大丈夫です。気にしていませんから」と、恵は言った。「こういう暮らしぶりのほうが普通じゃないのもわかってますし」
「でも、キミに案内してもらわなかったら、こうして山道を歩くこともなかったし、ここから景色を見ることも無かった。キミは今、自分のことを普通じゃないと言ったし、俺は俺の方が普通で当たり前だと思ってるけど、普通でない人に普通の人が素晴らしいことを教わったんだ。普通でないことの方がいい人生かもしれない」
「だけどな、佐々木。一年就職浪人すればそれだけ不利になる。入社年は違っても定年の年齢は一緒だから生涯賃金も少なくなる」
「そう、そういう考え方が当たり前すぎて、もしかしてつまらない人生かもなって思うんだよ」
「おいおい。この子に影響されて、せっかくとった内定を辞退して浪人するなんて言うなよな」
「そんな度胸があれば、この子に憧れたりするか。俺は詰まらない常識の枠の中でもがくのが似合ってるんだよ」
「だったらいいけどな」
「良くない。だが、それしか、ないんだ」
 恵はこれまで「定年までに」とか「自分の生き様はどうなのだ」なんてことを真剣に考えたことはなかった。「明日どうしよう」「これからどうしよう」というのが関の山だ。バスマニア二人組みにこんな話を聞かされた今でさえ、その考えは変わらない。
 森の庵を辞した後、どうしようかな、ということは考える。でも、さらにその先のことなんて考えられない。
 でも、それはそれでいいような気がした。
 この二人のやりとりを聞いていると、考えれば考えるほど袋小路に入り、自分の行く道をどんどん狭めていっているような気がするからだ。
 もちろんこの二人にそんなことは言わないけれど。

 とっとと歩けば3時間程度で到着できるはずの大雪森林温泉に着いたのは、出発から5時間後だった。食堂で名物という看板のあがっていた川魚料理を食べ、入浴だけでもオッケーの旅館を教えてもらいそこへ向かった。
 内風呂は男女別だが、露天は混浴と聞かされて、森林浴を兼ねた屋外での入浴は次の機会にすることにした。まもなく杜の庵を後にする恵に次の機会があるかどうかはわからないが。
 入浴というれっきとした目的があるのだから、別に多少肌を見られたってどうということはないが、既にあれこれと話をして知り合いになった男性とともにするのはやはり恥ずかしかった。機会があれば今度は1人で来よう。
 時間を決めてロビーで待ち合わせをしていた。恵は少しだけ遅刻をした。二人はまた山道を歩いて帰るつもりでいたが、往路と同じペースで歩かれたんではたまったものではない。下手をすれば夕食にすら間に合わない。往路に手間取った上、のんびり湯に浸かっていたので、もう午後3時だ。恵は庵の主を電話で呼んだ。


 皆川と佐々木は翌日旅立った。
 今回の旅で、相棒以外とこんなに喋ったのは初めてだ、楽しかったと言い残した。恵は「バスの話題ばかりしているから、誰も入れないのよ」と返事した。二人は笑っていた。
 その10日後、恵は杜の庵を去った。
 行き先は・・・、大雪森林温泉の民宿だ。1人で露天風呂に入りに来のではない。恵はアルバイト従業員として採用されたのである。バスマニア二人組みを案内してやってきたときに、「住込アルバイト募集」の提示を見つけた。その瞬間に「ピン」と来たのだ。
 やはり、さらにその先のことは考えていない。
 常に目的や目標を持って一直線に突き進むのも悪くない。でも、寄り道ばかりでもいいだろう。その場しのぎで目の前のことばかり考えていたって、振り返れば自分の辿ってきた道はきちんと残っている。
(こんなのもありよね)
 恵はそういう生き方に結構満足していた。

 バスは10月いっぱいをもって廃止されることになった。組合がお金を払って「大雪森林温泉」へのルートは2往復残されることになった。
 そして、「杜の庵」のローカル路線は完全になくなった。
 しかし、「杜の庵」の前には、新しいバス停が出来た。
 ローカル線は廃止になったが、帯広から旭川に向かう特急バスが新設されたのである。一日7往復だから、バスの本数は倍以上に増えたことになる。
「杜の庵」は大雪山系への登山口のひとつになっている。だから、都市間連絡の特急バスではあるが、バス停が設けられたのだ。
 バス便が便利になり、しかも客室がひとつ空くのだから、「杜の庵」の経営もそれほど心配しなくていいだろう。バス待ちの客が喫茶に食事にと立ち寄ってくれるに違いない。
 今から思えば、庵の主の「そっちは何とかなるだろう」という台詞は、特急バスのことを知っていたからではないかと恵は思う。なにしろ毎晩ドライバーが泊るのである。内部情報をもらっていても不思議ではない。
 大雪森林温泉と路線バスを共同運行するのを早々に断ったのも、このせいかも知れないと思った。特急バスの運行とバス停の新設が発表された後では、「お前のとこはバスの心配しなくていいからな」などと陰口を叩かれかねない。発表されるまでに「断って」おく必要があったのだ。
 しかし。
 あの朴訥な親父がそんなことまで考えが回るだろうか。
 確かなことは恵にはわからなかった。

 わかっているのは、もうしばらくの間、この大雪の大きな懐に抱かれて暮らしていくのだ、ということだけである。

 恵がいなくなった「杜の庵」はもとの静けさに戻った。
 これまでずっと夫婦二人でやってきた「杜の庵」だ。いっとき増えた居候がいなくなって、元に戻っただけである。にもかかわらず、庵の主と妻は、何かポッカリと穴が開いたような心持だった。
「寂しくなるね」と、妻が言った。
「ああ、そうだな。だけど、別に遠くへ行ったわけじゃない。すぐ隣の、大雪森林温泉にいるじゃないか」
「ばかね。恵ちゃんのことを言ってるんじゃないの。人が1人いなくなるってことが寂しいねって」
「わかってるよ。寂しさを紛らわすのにわざわざわかってないフリをしたんじゃないか。お前も気が利かないなあ」


第一部 完

 

 第2部 エピソード1 去り行く命 生まれる命

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