杜の庵
エピソード1 春の陽射し

 

 一日3本のバスが最後に辿り着くところ。
 「杜の庵」
 お客のほとんどは車でやって来て、お茶を飲んだりご飯を食べたりして、車で去って行く。
 深く広い森が連なり、観光客は展望台で眼下に広がる木々の海原を一刻楽しむ。
 展望台は「杜の庵」からちょっとばかり険しい道を30分ほど登ったところだ。
 庵の主の風体は典型的だった。山男の多くが「クマさん」とあだ名されているが、そのものだ。髪の毛と髭の区別が付かない。30代半ばと思われた。
 妻はいるが子供はいない。
 妻はまだおそらく20代だろう。後半であることは間違いないが、細面で華奢な体つき。化粧っけはないが、きめの細かい肌で、素肌美人である。
 美女と野獣などと評されることにはもう慣れた様子である。
 妻はよく働き、主はちっとも働かない。日がな客とのおしゃべりに熱中している。
 「客の心を解きほぐすのが俺の仕事なのさ」と、はばからない。
 実際、この男は多くの客の心を解きほぐしてきた。だから、こんなへんぴな地でいつの間にか常連がつき、商売が成り立っていた。
 常連、といっても、良くて年に数回、ひどい客になると、数年に一度しかやってこない。
 ひどい、といってもこの手のケースが一番多く、最初ひとり旅だったのが2度目は二人連れ、次に来るときは3人とか4人になっていた。
 大人は懐かしそうに目を細め、子供は走り回った。
 客は年月と共に自分と自分の回りの変化を連れてくるけれども、庵はちっとも変化しなかった。
 年賀状だけが毎年増えていった。
 まれに主が仕事をするのは、妻が買い出しや所用で出かけているときぐらいだ。しかしそれも「なるべく客が来ないとき」を見計らって出かけるから、やはりあんまり仕事をしない。
 この日の2本目のバスが定刻にやってくると、たったひとりの客が降りた。大きな荷物を持った若い女性である。
 荷物が多いのも仕方がない。なにしろ、2年間にもわたる北海道の旅を終えて、都会へ帰る途中にふらりと立ち寄ったのだから。
 「とくにあてのない旅なのですね」と、ドライバーが声をかけた。
 「ええ」
 「このバスが折り返すまで3時間ありますから。展望台まで往復しても1時間ぐらいです。それから『杜の庵』でお茶をゆっくり飲んで、充分間に合いますよ」
 「あ、でも」
 「ここが気に入ったのなら、泊まる部屋もありますし。ご主人とは懇意ですから、お話ししてあげましょう」
 若い女性客、遥香は、バスの客から庵の客になった。
 とりあえず荷物を預けて展望台へ行く。
 「これで良かったんだわ」
 遥香は足早に上り坂を歩いた。少し汗ばんだ身体に、気持のいい風が優しく包み込んだ。
 自分が決めたことを彼は認めてくれた。
 そしてこの地に立ち大きな自然に包まれると、彼だけでなくこの世の全てが「これで良かったんだよ」と、語りかけてくるようだった。
 遥香は杜の庵に戻ると、アイスコーヒーを頼んだ。
 「お待たせしました」と、庵の妻が席まで注文の品を運んできた。
 遥香はグラスがテーブルに置かれるのと同時に、「今夜、泊めていただけますか?」と言った。
 「ええ。ごゆっくりどうぞ。夕食は7時でいいかしら?」
 妻が買い物に出かけると、案の定庵の主は遥香から会話を引き出していた。
 「話を聞いてあげることが俺の仕事だ」とうそぶくだけのことはある。
 遥香もいつの間にか、自分のことを主に語りはじめていた。自分よりはるかに年上のこの男に、まるで人生を語るかのように。
 それはある意味正しかったかも知れない。
 色々な人のエピソードは数え切れないくらいきかされてきた庵の主だが、本人が波ある人生を過ごしてきたとは思えない。のほほんとこの地に腰を落ち着けたその時から、この男の人生はまるで歩みを止めたようだった。


 桜前線が天気予報の話題になると、遥香は嬉しくなったり悲しくなったりする。
 春が近いんだと嬉しくなり、その春がここまで届くにはまだ当分時間がかかると悲しくなる。
 北海道耳別郡東耳別村。
 なにしろ母屋から10メートルもない薪小屋にストーブの燃料を取りに行ったものの、にわかに吹雪に巻き込まれて道を見失い、戻りきれずに遭難した、という嘘か本当かわからないような伝説(?)がある場所である。
 冬は長く、そして深い。
 遥香にとって春が悲しい理由はもうひとつある。
 6月になればこの地ともお別れなのだ。
 都会生まれで都会育ちの遥香が東耳別村という聞いたこともない寒村にやってきた理由を述べておかねばならない。
 短大を卒業して就職。2年で退職。
 過疎に歯止めをかけようと当時東耳別村では、移民を募集していた。
 移民期間は2年。住む人のいなくなった家に都会の若い女性を住まわせ、近所の農業を手伝う。
 給料は安いが生活の面倒は見てくれる。
 都会暮らしに疲れた人に田舎暮らしを体験してもらう。若い人たちが減って村に活気が無くなるのを防ぐ。さらには、村の若い衆と恋に落ち、結婚してここで暮らしてくれれば言うこと無し。
 これが村おこし企画の骨子である。
 この移民は6月1日に始まり、2年間で終了する。なぜ6月からかというと、4月ではまだ寒さが厳しく、都会の若い女性がいきなり体験するには辛いだろうという配慮だった。逆に6月から7月にかけて北海道はもっとも美しい。
 北海道では春と夏が一緒にやってくると言われ、緑の息吹が凍てついた地面を割り、花々が咲き乱れ、さわやかな風が吹く。暗く長い冬に閉ざされた生活が急激に彩りを取り戻す。これを表現するのにもっともふさわしい言葉が「春と夏が同時に来る」である。ひとつひとつの自然現象をこと細かに説明するよりも、ずっと的を得ている。
 遥香は静子と二人でこの家に住むよう村から割り当てられたが、今夜はひとりである。
 従事する仕事は基本的には「農業」だが、冬場は仕事も限られるので、「観光産業」にもかり出される。
 今夜静子はスキー場の旅館で泊まり込み勤務だった。小さなスキー場で村営の旅館が一件と、札幌の大手資本のホテルが一件。ホテルとスキー場の経営は同一だ。ここにスキー場をオープンするにあたり、若い人の就職先を確保するという意味で村営旅館も設置する、というのが村から出された条件だ。ホテルとスキー場の本社が道内の札幌にあるとはいえ、人事異動があれば若い人が村の外に出る。これが問題なのだ。もちろんそのぶん誰かがやってくるのだけれど、やがてまたどこかに転勤になり、村に定着しない。それでは村おこしになり得ないとの村の判断だった。
 遥香は「農業」は好きだが、「旅館」は嫌いだった。
 旅館には都会の人も泊まりに来る。彼らはアーバンライフを引きずっている。
 都会が嫌いというわけではない。「どうしてこんな田舎に来てまで」という想いがするのだ。
 だから遥香は冬場も農業に固執する。酪農だ。


 「元気にしてるか?」という電話は、遠距離恋愛の相手からだった。
 ただし遠距離恋愛は過去のものになっていると、遥香は思う。
 同じ会社に同期入社。彼は4年生大学を卒業しているから、年齢では遥香の方がふたつ下だ。
 遥香が移民すると決まったとき、ふたりともそれほど重大には考えていなかった。
 移民直後はよく電話もかけたし、かかってきた。
 夏休みには彼が遊びに来た。慣れない暮らしに疲れていたときでもあったし、懐かしさと愛しさで感情がいっぱいになり、彼の来訪はとても嬉しかった。
 夏が終わると少しづつ遥香から電話をすることは減ってきた。
 仕事に慣れてある程度任されるようになれば、体力的にはきつくても精神的には充実してくる。めいっぱい働きばったりと眠ることが多くなった。電話の回数が減る。
 会話が少なくなってもふたりの関係に影響なんてしない。これが遥香の考え方だった。
 けれどもふたりの心に微妙な影を落としはじめていた。
 遥香の心の中、彼の占める割合が日々減少していたのだ。
 次に彼がやってきたのは冬だった。二人でスキーをしようと約束していた。夏ほどのときめきがないことに遥香は愕然とした。
 移民期間を終えた後、ふたりの関係は修復できるだろうかと、遥香は考えた。結論は出た。自分次第なのだ。全てはわたしの心のありように左右されるわ。
 (だったらだめかもしれない)
 否定的な想いがさらに電話の回数を減らしていった。かわりに手紙が届くようになった。
 返事はきちんと書くことができた。電話のように時と場合を選ばずかかってくるわけじゃない。落ち着いた時間に読み、そして返事を書けばいい。
 文章もすらすら出てきた。「こんなにたくさん伝えたいことがあったんだ」と改めて思うほど、次から次へと色々な事をしたためた。新しく任された仕事のこと、厳しい冬の自然、同居人と交わした些細な会話、自分が世話をした動物達が示すささやかな親愛の情。
 (なのに、どうして電話では、だめなんだろう?)
 手紙ならじっくりと情景や心情を自分自身に確かめながら記述することができる。だけど即興の会話ができない。「思わず口をついて出る」ということが無くなっている。
 他人にとってはつまらない話でも、恋人に「ねえ、聞いて聞いて!」とばかり語り合えば楽しい。その感情が遥香から欠落しはじめていた。
 遥香が手紙に書く内容は、「わたしはいまこうなんです」と心の深いところを親友に伝えるという類のものだった。 遥香は彼のことを嫌いになったわけではない。だけど恋人同士だった時代が静かに終わろうとしていた。
 遥香も彼も、まだ気がついていない。


 恋人から親友への道を辿ることもあれば、先輩後輩の関係から恋愛感情が生まれることもある。
 遥香は長坂努との仲が急速に近くなるのを感じていた。
 遥香の長坂に対する第一印象は「なんてつっけんどんなやつだろう」だった。
 彼の父親は農協の役員で、過疎に歯止めをかけるための「移民」計画を積極的に押し進めたひとりだった。「都会からやってくる女に農業なんてできるわけがない」というのが努の意見だった。親が役員で、やってくる移民者に年齢が近という理由から指導係のひとりにさせられたことに努は不満を持っていた。
 だから「つっけんどん」だったのだ。どうせ務まりっこない、と。
 彼がこの「先入観」を改めるのに、それほど時間はかからなかった。遥香の働きぶりはすぐに長坂の認めるところとなった。
 今まで農業と縁が全くなかった遥香は確かに仕事をこなせるとは言い難かった。でも、まじめだった。やる気があった。失敗をしてもめげずに真剣に取り組む姿に長坂は感動すら覚えた。
 こんな田舎に2年間も移り住もうなんて生半可なことでは決断できない。一大決心をしてやって来たからには全力で取り組むしかない。
 遥香の気持ちはほどなく努に伝わったが、努の「つっけんどん」が完全になくなったのは、遥香が仕事に慣れ、初めてやらされることでもある程度自分で判断できるようになってからだった。
 努は遥香の真摯な態度を認めていたが、何をきっかけにして評価を遙かに伝えていいか分からないままで、柔らかい態度をとることが出来なかった。遥香は遥香で「自分はただの足手まとい。気持ちだけでは仕事は出来ない」とかたくなになっていた。
 ある日、遥香はふと手を休めながら、「わたしも少しは役に立ってきたかな」と思った。それが雪解けのきっかけだった。
 ある程度自分で考えて仕事を進めることが出来るという実感が自信につながった。
 ようやく努と遥香の間に仲間意識が芽生えたのだ。
 随分遠回りしたかも知れない。その分、急速だった。
 ちょうど「昔の彼」がスキーをしに来た頃。
 ひとつの曲がフェイドアウトし、次の歌がフェイドインするように、遥香にとっての身近な人が入れ替わろうとしていた。


 「僕はきみに告白なんてしたらいけないんだろうね」
 努が遥香に言った。6月。遥香が東耳別村に来て一年が過ぎていた。
 遥香達移民1期生6人と、今年新たにこの村にやってきた2期生10人、そして指導係の若者やその家族、農協や役場の世話役など、40人近い人たちが集まっていた。2期生の歓迎会だ。
 畳敷きの集会室に宴席が設けられている。遥香と努は隣同士に座っていた。「あのふたり、仲がいいねえ」などと言われることもあった。
 「いっそのこと、長坂の家に永久就職を考えなさいよ」
 何度となく言われてもいた。
 前の恋人とは、電話も文通も続いている。別れ話はしていない。形としては「前の恋人」ではなく現在進行形なのだ。
 努に心惹かれないわけではない。でも...。
 「それって、バッチリ告白してるわよ」
 「あ、そうか」
 「...簡単に、受け入れられたら楽なのにね」
 「彼氏がいるからだね」
 彼がいることは、努だけは知っている。気軽にしゃべれるようになって、いつかお互い問わず語りにプライベートなことを話し合うようになっていた。
 「まあ、ね」
 遥香は口を濁した。付き合っている人がいることは大きな問題じゃない。この村で移民の女と地元の男が付き合うということはすなわち結婚を意味する。村おこし企画の究極の目的は婚姻なのだ。村人誰もが知っている。結婚。遥香はそこまでまだ考えられない。
 「さあ、さあさあさあ、遥香ちゃん、後輩達にどーんと一言、励ましの言葉をかけてやれよォ」
 顔役のひとりが大声で遥香を呼ばわった。
 「はい、わかりました!」
 遥香は元気良く答えて前に立ち、マイクを握った。
 「ほんと、くったくのないいい子だねえ」
 村人の誰かが言った。


 「わたし、この村に戻ってくる」
 同居人の静子が遥香に宣言したのは、秋から冬に急速に季節が移ろいゆく10月のはじめだった。
 「それ、結婚、ということ?」
 「そ。一度家に帰って、きちんとしてね。」
 「山田さんね」
 「うん」
 うんと答える静子は目が輝いていた。目だけではない。表情が生き生きしている。
 「わかってるの? 生涯この人で間違いないって決めてしまうことなのよ。この村で一生を終えるということなのよ」
 「さあ、わかってないかもしれない。でも、あの人と一緒になりたいの。村がどう、農業がどうなんて、考えたって始まらない。考え出したらそこから先へ進めない。そう気がついたの」
 その通りかも知れないと遥香は思う。
 彼との仲は表面的には前進も後退もしていない。努との関係もしかり。
 あっさりと潔く結論を出した静子は偉いと思う。わたしが思いきれないのはなぜ?
 夏休みに、今年も彼はやって来た。去年のように一緒に眠ることはないだろうと思っていた。だけど、抱かれた。
 遥香は何も期待していなかった。一方彼は敬虔な信者が疑問を持たずに行う儀式であるかのように遥香を求めた。拒みきれなかった。状況に流されたのだと、自分に言い訳をしてみる。
 いざ肌を重ねると不覚にも燃えた。
 努とは相変わらず何もない。口づけも交わしていない。都会にいる頃は、雰囲気で意味のないキスをしたことは何度もあるけれど、努とはできない。
 「あんたはどうするのさ」と、静子が言った。
 「どうしよう」
 どうするのかと訊かれれば返答に困るけれど、答えを出せるとも思っていなかった。


 「さあ、夕食が出来たわよ」
 庵の妻が心づくしの料理をテーブルに並べた。
 「なんだか、しゃべり疲れて喉が乾きました。お冷やをいっぱいもらえませんか?」
 「主人のペースにはまったのね」
 そうだろうか。私が一方的に喋っていただけのような気がする、と遥香は言った。
 「そう、それが既に、主人のペースにはまっているというのよ」
 「いただきます」
 「ごゆっくり」
 食事が運ばれると、庵の主は妻ににらまれて奥に引っ込んだ。
 客と店。けじめがそれなりにあるようだった。
 客に出される料理と同じ物を店の者も食べるわけではないだろう。何しろ毎日のことだから。
 ひとりで食べるのは寂しいかなと一瞬遥香は思ったが、そうでもなかった。
 食べはじめるとすぐにバスが到着し、しばらくして運転手が店に入ってきた。
 店にはカウンター席が4つ。4人掛けのテーブル席が3つ。空いているテーブルのひとつに運転手が座り、遥香に出されたのと同じ夕食が運ばれてきた。
 若い運転手は礼儀正しく「いただきます」と、手を合わせてから食べはじめた。
 二言三言、妻と話を交わす。どうやら運転手もここに泊まるらしいと遥香は思うのだった。
 食事が終わると、庵の妻は「お風呂にどうぞ」と言った。
 「ここのお風呂は男女別も何もないの。たったひとつだから。大隅さんはお客の前には入れないって人だから、あなた、先に入ってあげて」
 大隅というのは若いバスの運転手の名のようだった。
 風呂から上がると、コーヒーとお菓子が用意されていて、主が待っていた。
 「続きを話してくれ」と、言った。
 遥香ももとよりそのつもりだった。
 コーヒーが無くなると妻がお酒を運んできて、そのまま腰を下ろした。風呂から上がった運転手も加わった。
 聴衆が増えるのは悪くないと遥香は思った。
 なぜだろう。こんなに個人的なことを語るのに、ちっとも恥ずかしくない。
 杜の庵とそれを取り巻く自然、そして、ここにいる人々。それらの醸し出す雰囲気が全てを語らせるのだった。


 「プロポーズしてもいいかな?」
 努がはっきりと意志表示をしたのは12月だった。遥香達一期生が村を離れるまでまだ半年もある。でも、次の季節だ。
 春夏秋冬を時の長さの基準にすれば6月はすぐそこだった。努は遥香にとって仕事の先輩であり良きパートナーであったが、いい人だけで終わりたくなかった。
 (...して、いいかな? か。)
 ダメだと言ったらどうするんだろう。前にも似たような言葉を聞いたことがある。そうだ、「告白なんてしたらいけないんだろうね」だった。
 (そういう言い方はわたしに時間を与えてくれるわ)
 「今はまだ。だめ」
 「いつなら、いい?」
 「わからない」
 人の思いとは無関係に、時は、ゆっくりと、だが、確実に歩みを進める。


 恒例行事のように彼は再びスキーにやってきた。遥香は一緒に朝を迎えることを拒否した。
 「そんな気はしてたよ」と、彼は言った。
 「ごめんなさい」と、遥香は言った。
 謝る遥香に、彼は優しかった。


 桜前線が天気予報の話題になると、遥香は嬉しくなったり悲しくなったりする。
 春が近いんだと嬉しくなり、その春がここまで届くにはまだ当分時間がかかると悲しくなる。
 北海道耳別郡東耳別村。
 遥香にとって春が悲しい理由はもうひとつある。
 6月になればこの地ともお別れなのだ。
 努と離ればなれになることを想うと心のどこか深いところがキュッと締め付けられる。
 桜前線は徐々に北上を続ける。
 もう結論を出さなくてはいけない。
 (結婚する、しないなんて結論は出せない)というのが、遥香の最終的な答えだった。


 努は「プロポーズしてもいいかな?」以来、その件に関してはなにも言ってこなかった。それまでも、その後も、同じように仕事をするだけだ。
 明日、遥香達1期生は東耳別村を離れる。
 宴の席が設けられた。2期生10名と、さらに3日前に来たばかりの3期生25人が加わっている。彼らの歓迎会と遥香達の送別会が同時に行われたのだ。
 パーティーがお開きになり、遥香と努は何の約束を交わしたわけでもないのに、二人で夜の道を散策した。
 「最後に、わたしから告白する」と、遥香は宣言した。
 努は優しく微笑むだけだ。何も言わない。何か言う必要もない。努はとっくに想いを伝えている。
 「よかったら、わたしとお付き合いして下さい」
 努は頷いた。
 「わたしが望むのは、村のみんなが思っているような結婚が前提という形じゃありません。普通に付き合ってる恋人同士で、それ以上でもそれ以下でもありません。結婚はまだ考えられないんです。でも、あなたを失いたくない。贅沢な注文かも知れませんよね。村のみんなが結婚を望んでいてくれるのに、ただお付き合いをしたいだけなんて。世間には星の数ほどの恋人同士がいて、その仲間入りしたいだけなんです。2年間もお世話になって、まわりが祝福してくれているのに、わがままですよね」
 「いいんだ。それでいいんだよ」と、努は言った。「結婚までいけばいいというのは村の移民計画の考えかたさ。何事も計画どおりにはならない。すぐに結論が出ないこともある。でも、僕も同じさ。きみを失いたくない。結婚がどうこういう前に、きみを失いたくないんだ」
 「わたしがその気になれるまで、待っていてくれるの?」
 「何を待つんだい? 僕は何も待たない。ただ、きみと恋人でいたいだけ。結婚のことなんて、今は大切じゃない。きみと恋人でいたいんだ」
 「村の人たちはそうは思ってないわよ」
 「僕は元々移民計画には反対だったから、べつにいいんだよ」


 「あんたも例外じゃないだろうな」と、主が言った。
 「え? どういうことですか?」と、遥香。
 「もう一度ここに来よう、そう思っているだろう?」
 「はい」
 「そう思っている人は、次に来るときは二人で来るんだよ。大抵な」
 「それって、つまり」
 「そう、愛する人と二人でね」
 「そうだといいんですけれど」
 主の妻が優しく微笑んだ。「きっと、そうよ。ここはそんな場所なの」
 「バスの客が増えるかな?」と、ドライバーが言った。
 「それはどうかな。バスは不便だから、きっと車で来るんじゃないか?」
 庵の主が意地悪なことを言った。

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 WEB仲間のはるひさんに差し上げたショートストーリーを、「杜の庵」の物語にするべく一部加筆しました。