第4話 スーベニール「未来の子供達のために」  =10= 



 翌日も僕と清花は「風の予感」オフィスに朝から集合した。社長は相変わらず泊まり込みだったようで、僕たちにコーヒーを入れてくれた。
 清花は左手の肘をついて顎を支えながら、右手でカップを持っている。
 「そろそろ、方針を決めなくちゃね」と、清花は力無く呟いた。
 僕もそう思っていたところだ。
 調査と称してあちこち巡り歩くのもいいが、効率が悪すぎる。方向性を決めて、そっちへ向けて動くようにしなくては。
 「にしても、依頼者の青山さんは、何を求めているんだろうか」と、僕。
 「さあどうかしら。既に別れてしまった元恋人だから。『恋愛感情はなくなっても、青春の大切な想い出を共有した人だった』なんて言って欲しいのかもね」
 「そんなことだけで、依頼するかなあ」
 「だから、美しい青春の想い出なのよ」
 「で、決着できるかどうか、もう少し調査が必要だと思うな。僕の主観では美しい想い出どころか、けっこう男女関係がどろどろしてそうな気がする」
 「あら、和宣にも男と女のドロドロが少しはわかるのね」
 「それはともかく」と、僕は咳払いをした。「行くんなら、今夜にでも出発しようか」
 「え? どこへ?」
 「大阪だよ。もう一度行くんだろう?」
 「そうね。出来れば、大田原さんが戻ってからの方が良かったんだけど」
 「いいよ、行ってきなさい」と、社長が言った。「大田原さんが戻るまで数日っていうところなんでしょう? だったら、それまで向こうに滞在してもいいですよ」
 「わかりました。じゃあ、今晩の夜行バスででも出発します」と、僕。
 「チケット、手配しなくちゃね」

 馴染みの旅行代理店でもあるのか、清花は手帳を取りだし、受話器をとった。
 その時、杉橋が事務所にやってきた。
 「榊原さんにメールを送っときましたよ。彼女が犯人なら、きっと何か反応があるはずです」
 「メール? どんな?」と、清花。
 「これです。プリントアウトして持ってきました」
 ポケットから出した紙片を、杉橋はテーブルの上に拡げた。

 拝啓 榊原チエ様。突然のメール、失礼いたします。
 実は私、あなたが兵庫県三田市の爆発事件の犯人である証拠をつかんでおります。インターネット上にあなたが必要とするページを閲覧した数々の記録が残っています。また、通信販売の記録もあります。
 このメールは脅迫でもなんでもありません。私はあなたを援助することが出来ると思います。もちろん金品を要求するものではありません。私のことは同志だと思っていただいて構いません。
 お返事をお待ちしています。

 「こ、これって・・・。」と、清花は、何か言おうとして、口を開いたまま硬直した。
 「杉橋さん、これはまずくないですか?」と、僕は何度か文面を読み返してから訊いた。
 「いや、大丈夫ですよ。ネット上で取得できる無料メールアドレスを使いましたから。無料のかわりに広告が添付されますけど。登録も匿名で出来ますし、インターネットカフェから送りましたので、メールの発送者を特定できません。ご迷惑をおかけすることはありませんよ」
 「バカ!」
 杉橋が言い終えるか終えないかのうちに、清花は大声で叫んでいた。
 「何考えてるのよ! こんな不愉快で気色の悪いメールを送って。受け取った人の気持ち、考えたことあるの?」
 滅多に見せない清花の激情に、杉橋は狼狽した。
 「あ、でも、ですね、彼女が犯人なら何らかの反応を示すでしょうし、直接コンタクトを取るのが手っ取り早い方法かと」
 「僕も感心しないな、杉橋さん」と、僕は言った。
 「しか・・・。」
 「僕たちが期待していたのは、ハッキングです。犯罪の度合いからすれば、嫌がらせじみたメールよりも大きいかも知れない。でも、人の心は傷つけない。だけど、このメールは確実に人の心を傷つけるよ。もし、榊原さんが犯人でなかったら、どうするつもりなの?」
 「・・・そ、それは・・・。でも、私が『ハッキングではなく、汚い仕事をする』と申し上げたとき、どなたも異論を・・・」
 「うん。僕は異論は言わなかった。だけど、こんな方法だとは思わなかった。汚いっていうのは、自分の手を汚すということであって、人を傷つけるのとは違うと思うんです。らしくないですよ、杉橋さん」
 「・・・らしくない、ですか」
 ドン!
 清花が拳を机にぶつけた。そして、杉橋が持ってきた紙片をぐしゃっと握りつぶす。
 社長がその上からそっと掌をあてがった。
 やさしく清花の拳を開いて、紙片を抜き取った。

 社長は「これは、一応預かっておきましょう」と言った。
 清花が声を出さずに頷いた。
 社長は紙片の皺をテーブルにこすりつけて伸ばしながら、言った。
 「杉橋さん。私とあなたとは長い付き合いだ。これまで色々と手を尽くして下さった。細かいことをアレコレ言いたくはありません。けど、今はこの二人の気持ちを大切にしてあげたい。なぜなら、この二人の思いこそが『風の予感』のありようなのだと、私には思えるんです」
 「すいません、社長・・・」
 「あとは私に任せて、今日の所はいったんお引き取り願えませんか?」
 「社長がそうおっしゃるなら」
 「そうそう、榊原さんから返信メールが届いたら、知らせて下さいね」
 「それでしたら、このホームページにアクセスして・・・」
 杉橋は手帳を見ながら、テーブルに置きっぱなしにしてあるメモに走り書きをした。
 「このIDナンバーと、パスワードを入力して下さい。彼女から私宛のメールが読めます」
 「わかりました」
 「じゃあ、とりあえず、失礼します」
 杉橋は深々と頭を下げた。僕と社長は黙礼で応えたが、清花はじっとテーブルを睨み付けたままだった。

 杉橋が去った後の事務所にしばらく会話はなかった。
 「橘君」
 「はい」
 「入り口をロックしてもらえますか。ちょっと誰とも面会したくない気分なんです」
 「ええ、僕もそうです」
 「じゃあ、お願いします。僕はコーヒーでも入れましょう」
 僕が入り口を施錠して戻ると、テーブルの上にはもうコーヒーが並んでいた。どうもレンジで暖めなおしただけのようだった。
 清花はカップを両手で包み込むようにしている。
 「立華さん、あなたの気持ちはわかります。でも、こんなことも中にはありますよ」
 「うん、わかってる」
 「じゃあ、いつまでもうなだれていてはいけません」
 「そうじゃないの、そうじゃないんです」
 「そうじゃない、というと?」
 「わたし、杉橋さんに、言い過ぎたかなって、わたしのほうこそ、杉橋さんを傷つけたんじゃないかって」
 「へえ。そんなことを思っていたんですか。なら、もう大丈夫ですね」
 「はい、わたしは・・・。でも・・・」
 「あの男なら大丈夫ですよ。保証します」
 「ありがと、社長」
 社長は静かに立ち上がった。

 唯一の事務机に行き、引き出しから封筒を取りだして戻ってくる。
 「二人とも、今夜の大阪行きは中止しなさい。気持が乱れたときは、まずそれを修復するのが先決です」
 僕は頷いた。清花は無反応だが、きっと心の中では僕と同じだろう。
 社長は封筒の中身を取りだした。
 「今夜のコンサートのチケットです。2枚ありますから、ふたりで行ってくるといいですよ。ピアノの弾き語りで、良い唄をじっくり聴かせてくれます。心がささくれ立ったときは癒してくれます」
 「でも、社長が行くつもりだったんじゃないですか?」
 「当日券で入りますから。それより、その2枚のチケットはファンクラブ優先予約で取ったものですから、いい場所ですよ」
 「なら、僕たちが当日券で入ります」
 「その方のコンサートは初めてでしょう? だったらいい席で観るべきです。私はいつもいい席だから、今回は二人に譲りますよ。ね、使いなさい」
 「じゃあ、お言葉に甘えます」
 「うん、では会場でまた会いましょう」
 「え? 出かけるんですか?」
 「ちょっとね。君達は好きなようにするといいですよ。外に出るときは戸締まりと火の用心、お願いしますね」
 杉橋が出て行ったとき、僕の心はトゲトゲしていた。でも、社長が出て行った後の僕の心は、なんだかほんわかしたものに包まれていた。



  『あふれる想い出達と』


 就職が決まって 明日
 住み慣れたこの家を離れる
 荷物をまとめて 部屋を整理していたら
 懐かしい 想い出達が あふれ出てきた

 部屋の扉と 机の引き出し 日記帳
 全てに鍵をつけて 心を閉ざしたあの日
 あなただけが わたしの全てだった

 ノックの音 夜食の湯気
 おかあさんの心配そうな笑顔
 受験勉強で 乾いていた気持が
 ほぐれた夜


 就職が決まった その日
 新しい夢に心が震えた
 けれども旅立ちの その日が近づいて
 夢なんて 想い出達に 飲み込まれそう

 全力疾走 そして立ち止まり また歩く
 自信なんてまるでなく でも振り返らなかった
 前を向いている 今もそれがわたしの全て

 何よりも好きな 晩酌もせず
 おとうさんの怒ったような笑顔
 嫁に行くまでは 一緒にいられると
 思っていたのに

 嬉しかったこともそうでなかったことも
 時間とともに全て
       優しい想い出にかわるのね
 忘れないわ いつまでも
      だから 未来へ立ち向かえる



  『恋人達の丘』


 憧れていた 恋人達の丘
 二人連れを見るたびに
         幼い胸がヒリヒリした
 いつかわたしもあの丘で
       恋をささやく時が来るの?
 無邪気な少女時代を
          風が追い越してゆく

 二人で立つ 恋人達の丘
 つないだ手の温もりが
            身体中を暖める
 遠くから見ていたこの丘で
        咲いた愛を確かめている
 無邪気な少女時代が
          風を追いかけてきた



 グランドピアノが1台あるきりのステージ。BGMが消えたホールは、空調の音がやけに大きく感じられた。彼女はゆっくりとやってきた。
 シンプルなライトに照らされて、彼女は深くお辞儀をする。
 手にしたハンドマイクを通して、彼女の澄んだ声が会場に響く。
 「ようこそおいでくださいました」
 微かに残っていたざわめきが止み、空調の音さえも意識の外に放り出されてしまった。
 鮮やかで潔い彼女の声は、もはや他の何者をもよせつけない。
 「わずかな時間ですが、小さな宇宙空間を共有しましょうね」
 そして、彼女はピアノの前に座る。
 旋律を奏でる。
 2本の腕、10本の指が、音を通して世界を構築し始めた。時に、優しく、時に、激しく。いくつもの音色がおりなす深い世界が、実は繊細で最大限の心配りによって紡ぎ出されたものだと気が付くのに、それほどの時間はかからなかった。
 ヴォーカルがまたいい。歌詞カードが無いと何を言ってるのかわからない歌があふれているというのに、彼女の声はひとつひとつの言葉がはっきりと聴きとれた。透き通った声がメロディーにのって歌詞に命を与える。

 2〜3曲を唄うたびに、彼女はピアノを離れてステージの前部に立ち、ちょっとしたお喋りをした。
 「この客席の中には、初めて私の歌を聴きに来てくれた方もいると思いますので、ちょっと自己紹介しますね。何度も来ている人は、茶化さないで黙って聞いていて下さい。なぜって、私ってけっこうそそっかしくて、当時はよく恥をかきましたけれど、おかげで今はお喋りのいいネタです。だから、オチが同じなんです。先に言っちゃダメですよ」
 デビューは高校3年生のとき。歌手を続けながら短大も卒業した。ほとんどの歌は詞・曲ともに自作。根強いファンに支えられて、アルバムはコンスタントに売れるけれど、シングルヒットはない。年齢は27。
 これが彼女のプロフィールだ。

 全て初めて聴く歌ばかりだったが、詞がはっきりと聞き取れるので、存分に彼女の世界に浸ることが出来た。
 テーマは色々あったけれど、もっとも多かったのが、少女から大人への移り変わりを歌ったもの。
 このことはステージで彼女も語っていた。
 「きっと私はもう、完全に大人になってしまったんでしょうね。だから、少しだけ、冷静な目で見て、少女から大人への移り変わりを語れるようになったんだと思います。本音は、いつまでも少女の部分を完全には捨ててしまいたくないんですけれどもね」
 約3時間のステージ。彼女は20曲とアンコール3曲をこなした。そして2回目のアンコールはア・カペラで1曲。
 リズムを紡ぎ出す楽器が何もない音の暗闇の中で、彼女の声は太く明るく、永遠に輝き続ける一条の光となって、僕の心に届いた。

 彼女の声が通り抜けた全ての空間は見事に浄化された。もちろん、僕も。いや、浄化というならとっくにされている。そう、一曲目が始まった瞬間に。ダブルアンコールのア・カペラは、それをさらに確実なものにした。白が透明に変化した。
 二度と汚されはしない。
 そう感じた。
 派手な演出もなければ、総立ち大合唱もなかったけれど、ここには大きくて優しい心があった。
 「溢れる想い出達と」と「恋人達の丘」がとくに気に入った楽曲だった。
 会場の出口には、即売コーナーが設置されていて、僕はニューアルバムとベストアルバムの2枚を買った。
 社長の姿を見かけたけれど、僕も清花も声をかけなかった。二人連れだったからだ。
 恋人かも知れない。

 明日の夜、青山健二が辿ったのと同じ行程で大阪へ行こうと約束して、僕は清花と別れた。

 



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