銀河鉄道999

第2話 氷上哀歌 

 

 窓の外に小さくなってゆく火星を眺めるうちに、いつしかカゲローは眠っていた。
 リドリームはカゲローの向側の座席に座っている。小型のノートパソコンが膝の上にある。リドリームのパソコンは、カゲローが銀河鉄道から与えられた情報端末よりも、一回り大きかった。自分で持ち込んだものだろう。彼女はキーボードを打っては指を休め、指を休めてはキーボードを叩いた。そして厳しい表情になった。
 彼女が何に思考を巡らせているのか、それは誰にもわからない。わかるのは、カゲローを連れてのこの旅が、決して安穏としたものではない、ということだけだ。
 そんな彼女も、時折ふっと安らいだ笑みを唇の端に浮かべることがある。カゲローの無邪気な寝顔のせいだった。リドリームは思考に行き詰ると、カゲローを見た。大いなる可能性を秘めた青年の姿に勇気づけられた。
 その横を、車掌があたふたと走り抜けて行く。これで3度目だった。

「いったいどうなさったの? 少しは落ち着いたら?」
「いや、その、ハイ。お客様が多すぎて、大変なのであります、ハイ」
「珍しいわね」
 とはいえ、カゲローとリドリームがいる3両目は、2人っきりである。
「4両目に氷上基地の交代要員の皆さんが乗っておられます。それから5両目以降に、火星からの避難民の方々が……」
「999号も、受け入れたのね」
「小生は反対したのでありますが、臨時列車だけではなくて、定期列車も避難民の輸送にあたると、管理局の指示でして、あいすみません」
「いいことよ。謝る必要なんて、ないわ」
「は。リドリームさんに、そう言っていただけて光栄であります」
 大きなアクビをして、カゲローが目を覚ました。さらにもう一発アクビをしながら、両手を上に上げて伸びをする。
「あ、カゲローさん、お目覚めですか。うるさくて申し訳ありません」
「ううん、いいよ。ちゃんと眠れた」
「辛かったら言いなさい」と、リドリームが言った。「2両目は寝台車よ。あなたには寝台車を使う権利もあるわ。お風呂もいつでも沸いているのよ」
「へえ〜。ま、そのうちね」
「1両目にも、避難民の人は乗っているの?」と、リドリーム。
「いえ、それはありません。絶対にありません。1両目は人のための車両ではありません。そう決められています」
「そう。相変わらず、律儀に守られているのね」
「もちろんであります、ハイ」
 車掌は一礼をして、4両目に向かって走って行った。
「車内を一通り案内してあげようと思ったけれど、混雑してるらしいわ」
「この車両には、僕たちだけなのに?」
「ええ、そうよ。……退屈かしら?」
「そんなことないよ。窓の外には宇宙が広がっているし、目の前には……」
 リドリームがいるし、と言おうとして、なぜか途中までしか口にできなかった。言い澱んだことについて、リドリームは何も指摘しなかった。カゲローはありがたかった。

 リドリームはカゲローに、次の停車駅のことについて、語り始めた。
「アイスベース?」
「そう、アイスベース。太陽系の一番外側の惑星よ」
「え? 太陽系の一番外の惑星って、冥王星じゃなかった?」
「ある意味ではね」
「?」
「それで、調べてご覧なさい」と、リドリームはカゲローの横に置いてある情報端末を指差した。向かい合った2人掛けの席に、カゲローとリドリームは一人ずつ座っている。だから、それぞれ隣の席が空いていた。リドリームは旅行用のトランクを網棚の上に乗せていたが、カゲローはデイパックも情報端末も自分の横に置いていた。
「あれ? って思ったことは、自分で調べるのよ。たいていの答えはその中から探せるわ」
「うん」
「でも、どうしてもわからなかったら……」
「わからなかったら?」
「いえ、いいわ。その時はその時」
 それっきり、リドリームはカゲローから視線を反らせた。視線の反らせ方がなにやら不自然で、カゲローはそれ以上話しかけるのがためらわれた。

 情報端末によると、アイスベースは冥王星のさらに外側に位置する、自転はするが公転をしない惑星であるとのことだった。
 発見当初、それは宇宙空間にポツンと浮かぶ孤独な星に思われたが、少し観測すると、太陽と常に同じ距離を保っていることがわかった。見方を変えれば、太陽とアイスベースは、遠く距離の離れた2重星とも言えた。太陽系の各惑星は、太陽とアイスベースの間を通過しながら、太陽の周りを回っている。
「駅があるってことは、人が住んでるってことだよね?」と、カゲローが口にした。
「ええ。でも、住んでいるというより、滞在しているといった方が正しいわ。アイスベースはただの観測のための基地に過ぎないから」
「観測?」
「そうよ。昔、地球にもあったわ。人の住めない、極寒の地、南極に、各国が基地を作っていたわ。宇宙と地球を観測するために」
 アイスベースには、1年に1度、999号だけが停車する。観測要員の交代のためだ。
「普通も快速も急行も停まらないのに、超特急だけが停車するの?」
「そうよ。日常生活がそこにあるわけじゃないから、普通列車が停まる必要は無いの。観測要員は厳しい環境の中で任務を真っ当するわ。そのことに敬意を表して、超特急999号が交代要員を運ぶのよ」
 もっとも、銀河鉄道に「普通」や「快速」はあまり存在しない。太陽系では、地球と月を結ぶ路線にあるくらいだ。途中どこにも寄らないのが快速で、いくつかの宇宙ステーションやコロニーを経由するのが「普通」と格付けされていた。

「交代式があるから、カゲローも見学していけばいい。誇りに満ちた人間とはどういう人たちか、その目で見るといいわ」

 アイスベースは遠く太陽から離れた惑星である。太陽の他にエネルギーを得る恒星もないから、絶対0度の極限の地で、地表は凍てつき、氷に覆われている。温度が高ければ、地球なみに水の豊かな星であったろう。あるいは、地表全てが海だったかもしれない。
「え〜、次の停車駅はアイスベース、アイスベース。停車時間は33時間と55分であります、ハイ」
 停車駅の案内を終えた車掌は、タタタと早足で、カゲローの横を通り過ぎようとして、カゲローに呼び止められた。
「あの、車掌さん」
「ハイ、何でありますか?」
「これ、どうしよう……? ずっと持ってていいの?」
 それは火星下車の際に渡された、コインの詰まったずた袋だった。
「あ、それはお返しください。星によって通貨が違いますから、お客さまがいちいち両替しなくてもいいように、その都度お渡ししているんです」
「じゃあ、返すよ。結局、使わなかったけれど」
「アイスベースでは支給金はありません。お金を使うような場所はありませんから」
「あとどれくらいで着くのかしら?」
「3時間くらいです。避難民の中の2人が、行くアテがないからと、ベースでのボランティアを希望しています。その手続きで、とても忙しいのです。申し訳ありませんです」
 車掌は2人に背中を見せた。

 氷に覆われている、というから、カゲローは白くキラキラ光った星を想像していた。しかし、実際は違った。表層は黒だ。999号が近づくにつれて、ただ黒いだけではなく、純白の白い筋が縦横に綺麗に引かれていた。
「黒い部分は太陽電池よ。星全体を覆っているわ。観測機器と、たった30人の隊員の生活のエネルギーを得るのに、それだけの設備が必要なの。白い筋は太陽電池の無い部分、道路として使われているわ」
「道路があるってことは、外での作業も行われてるってことだね?」
「ええ、そうよ。とても厳しい作業よ。主に太陽電池の交換やメンテナンスね」
 カゲローの視界に、どんどんアイスベースが大きくなってくる。やがて、999号が目指す地上施設も目視できるようになる。
「駅と線路、まだ見えないのかな?」
「ここには、駅は無いわ」
「じゃあ、どうやって降りるの?」
「基地に直接降りるのよ。基地そのものが駅を兼ねているの」
 基地を上から見下ろすと、長方形の味気ない姿をしていた。その真上に制止した999号は、そのままゆっくり降下しはじめる。垂直降下である。基地の屋根が細長く開き、その中に999号は吸い込まれた。
「駅から基地まで歩いていたのでは、すぐに凍えてしまうわ。外での作業は宇宙服なみのものを着用して行ってるのよ」
 基地の中には、プラットホームがあった。しかし、線路の上を走ってホームに横付けされるのと違い、真上からホームの横に降りるその姿は、列車の乗客にとってはなんとなく不自然で、滑稽でさえあった。
 ホームの横にはレールが敷かれており、999号はその線路の上にピタリと着陸した。

「降りてもいいの?」
「待って、カゲロー。ここでは、隊員が先よ。窓なら開けてもいいわ」
 カゲローは窓を開けて、身を乗り出した。隣の車両から、交代の隊員たちがたくさんの荷物とともに下車を始めていた。これから1年間、次に999号が来るまで、この太陽系の果ての寒い星で、自分たちの任務を遂行するのだ。どの隊員の顔も引き締まっていた。使命を帯びた人だけがそのような表情をすることができる。
 荷物を降ろし終えると、ユニフォームを着た迎えの隊員数名に引き連れられて、ホームの端にある扉の中へ隊員たちは消えていった。到着した隊員は思い思いの服装をしていたが、ここでの作業にはユニフォームを着用するのだろう。それは緑色のブレザーとスラックスだった。

 しばらくすると、ホームにまた緑色のブレザーを着た隊員がやってきた。髪の長い女性である。
「お客様方も、どうぞ」
 窓から首を出していたカゲローにホームから語りかける。それはとても優しげな口調であり、そして同時に、浮き足立ってもいた。
「あの人たちが外から客を迎えるのは、この交代式の時だけなの。シャトルで関係者は出入りするけれど、それは客ではなく、仕事の関係者だから」
 リドリームが教えてくれた。
 ホームに下りたのは、カゲローとリドリームの2人だけだった。
「他の人たちは?」
「避難民の人は正式な乗客じゃありませんから、招待することができません」と、車掌が解説する。
「車掌さんも乗客じゃないよね。てことは、交代式を見学することはできないの」
「ハイ、その通りであります。任務ですから、999号の停まっているホームの上までは大丈夫ですが、それ以外は999号から離れることはできません」

 交代式は、食事会だった。
 テーブルが細長く並べられ、片側が1年間の任務を終えた隊員28名、もう片側がこれから任務につく30名である。カゲローとリドリームは、28名の側の末席に座るよう指示された。
 人数が合わない。これについては、リドリームが説明してくれた。
「隊員は30名だけれども、交代するのは28名よ。全員が完全に交代してしまっては業務の引継ぎが出来ないでしょう? だから、2名だけは2年間の勤務となるの。辛いけれども栄えある役割よ」
 テーブルの長辺には役割を終えた隊員とこれから役割につく隊員が向かい合うが、もっとも栄誉ある2年勤務の隊員2名は、テーブルの短辺、すなわち上座にて食事をするのである。新隊員が28名ではなく、30名なのは、火星からの避難民のうちボランティアを申し出た2名を含むからだ。
「勤務を終えて帰途につく隊員は本来なら28名。でも、一人欠員が出ているみたいね。空席があるわ」
「欠員って、交代式に出席しない隊員がいるのかい?」
「そうじゃないわ。出席したくてもできなかった隊員。亡くなられたんでしょうね」
 う、っと、カゲローは息が詰まった。車掌やリドリームが何度と無く「厳しい勤務」と言っていた意味がわかったような気がした。命を落とす事だってあるのだ。
「亡骸は、999号の1号車に乗せられて、家路に着くわ」
 そうか、そういうことだったのか。「1両目は人のための車両じゃない」……。魂のための車両だったのだ。宇宙の荒野で使命を真っ当しようとして、できなかった無念の魂。それを慰め、そして無事、故郷へ送り届けるための車両。

 メニューは、てんこ盛りのカレーライス、フレッシュサラダ、そして水。それだけだ。
 任期1年間の観測業務、しかも極寒の地。その隊員の交代式が食事会と聞き、カゲローは豪華絢爛な料理を想像していた。まさかカレーライスとサラダとは。
 目を丸くするカゲロー。だが、カゲローは交代式の主役ではない。単なる見学者だ。式典は滞りなく進んでゆく。
「1年間。お疲れ様でした。天然光、有機栽培で育てられた採れたてのフレッシュなサラダです。任務を終えた皆さんはこの先、いくらでも食べることのできる食材だとは思いますが、おそらく今、一番食べたいであろうもの、ということで持参いたしました。ご賞味ください」
「ありがとうございます。このカレーライスは、この基地内で栽培した米と野菜、そして基地内で育てた家畜の肉を使っています。これから1年間、似たようなものを食べ続けることになりますが、最初に日常食を味わっていただき、思いを新たにしてこの重要な任務に突いて頂く為には、このメニューをおいて他にないでしょう」
「おそれいります。心して食したいと思います」
 挨拶が終わると、新旧の隊員たちはみんな、両手を合わせて、目を閉じた。カゲローも、同じようにした。
 カゲローには、隊員たちはこの食事の先にある何かに祈っているように思えた。
「いただきます」
 唱和の後に、食事が始まった。
 カレーライスのスプーンを口に運んだカゲローは、「うまい。美味いよ、これ!」と、叫んだ。
「そう。良かったわ」と、リドリームが相槌をうつ。
「豪華絢爛な晩餐会みたいなのを想像していたけれど、この方がずっといい。なんか、気持ちが伝わってくる。うん、ちょっと、泣けてきそうな味だよ、リドリーム」
「そうね。これには、たくさんの血と汗と涙が染み込んでるわ。そのことがわかるカゲローだからこそ、999号の旅路に選ばれたのかもしれないわね」
 ゆっくりと静かに食べ始めた隊員たちだったが、今はもう会話も忘れてがっついている。運動部の合宿の食事のようだ。
 そして、8割方食べ終えた頃、ようやく雑談が始まったようだ。手の動きも鈍くなってきて、それぞれ話に花が咲いている。
 花といえば、欠員の出た隊員の席には、カレーライスとサラダではなく、花が飾られていた。これもこの基地で育てられたものだろうか? とても自然に花が咲くような環境ではない。それとも、新隊員たちが持ち込んだものだろうか。いずれにしても悲しく美しい花であった。

 食事会のあと、カゲローとリドリームはゲストルームに案内された。隊員達も三々五々と散ってゆく。
 翌朝、命を落とした隊員の棺桶が、1号車に運び込まれた。新旧の全隊員がその後に続く。最後の別れの挨拶をそれぞれに行うのだろう。事情を知らされた何人かの火星難民もその行列に続いた。
「彼らは正式な乗客じゃないから、下車することも、異なる車両に移る事も本来は認められない。けれど、人の命に敬意を表する儀式だから、特別に許されたのね」
 リドリームが言った。ホームの上でカゲローとリドリームは、祈りを捧げるために1号車に入る隊列を見ていた。隊列の最後にリドリームが加わる。
「カゲロー、あなたにも祈ることが許されてるわ、さあ、いらっしゃい」
 カゲローに右手を差し出すリドリーム。しかし、カゲローは首を横に振った。
「僕は、いいよ。……僕には、偉大な魂の冥福を祈るだけの資格がまだないような気がする。もっと立派な大人になったら、あらためて1号車に入れてもらうことにするよ」
「そう。あなたがそう思うなら、それでいいわ」

 隊列は棺を1号車に残したまま、再びホームへと戻ってきた。リドリームも最後にホームに立った。
 誰が何を言ったわけでもないのに、皆はホームに整列し、1号車に向かって敬礼をした。カゲローも少し離れた場所から同じようにした。そして、火星難民は自分のもといた車両へ、任を終えた旧隊員は4両目へ、そして新隊員たちはホームから基地への扉の向こうへ消えた。これから1年間、ここで使命を果たし、再び999号の客になる。
 どうかその時は、1号車など無用でありますようにと、カゲローは願うのだった。
「さ、私たちも……。もうすぐ発車よ」

「え〜、毎度お騒がせして申し訳ありません。次の停車駅は、ドリームワークプラネッツ、ドリームワークプラネッツです。停車時間は15時間23分、15時間23分であります、ハイ」
「火星を脱出した人たちはみんなこの星で降りますです。これでやっと私も多忙から解放されますよ、カゲローさん。そのあとで、少しは車内を案内して差し上げます。もうしばらくおまちください」
 一礼して車掌が去ると、リドリームが説明を始めた。
「太陽系を離れる人のための、適性検査や職業訓練のための人工の星なの。それと、ふるさとにお別れを告げるための星でもあるわ。ホームシックになったら、ここで引き返すこともできる。でも……」
「でも?」と、カゲロー。
「この先へ進んだら、もう後戻りはできないわ。任務以外では太陽系に戻ることが許されないの」
「じゃあ、僕の父さんも……」
「あなたのお父さんは、宇宙探査が仕事なのでしょう? だったらそれは全て任務です。心配はないわ。無事でいるなら、いずれ戻ってくる。でも、カゲロー、私が心配しているのは、あなたのことよ」
「僕?」
「ええ。999号の旅はもういやだ。そう思っても、戻ることができなくなるわ」
「じゃあ、僕はもう二度と、タイタンに戻れないの?」
 タイタンには妹がいる。母も眠っている。父もいずれ帰ってくるだろう。
「あなたが運命をきちんと知れば、きっと帰れます。なぜなら、あなたには任務としてそれが与えられるから。でも、それまでに、とても長い宇宙の旅をしなくてはなりません。この999号とともに」
「なんだ。戻れるんなら、いいよ。ちゃんと運命を知って、ちゃんと役割を果たすよ。でなきゃ、妹にあわす顔がない。何もなさずにおめおめとタイタンに戻れないよ」
「そう。だったらいいわ。胸を張って、ドリームワークプラネッツでの一夜を過ごしましょう」
「もちろんだよ」
「いい、カゲロー、その意志を大切にしなさい。誇りを失っちゃいけないわ。ドリームワークプラネッツには夢も希望も満ちているけれど、同時に失望も溢れているわ。自分が何者にもなれないとわかって故郷に引き返すのは、とても勇気のいることなの。『恥を忍ぶ』っていう言葉があるでしょう? まさに恥を忍んで故郷に帰るのよ。でも、それができない人もいる。そういう人たちが、ドリームワークプラネッツには沢山いて、夢と希望に溢れた人たちの足を引っ張るわ。流されちゃ駄目よ」
「わかってる。誇りを失ったりしない。あの、火星のホテルマンたちのようにはならない」

 カゲローは火星のホテルでの屈辱を思い出していた。もし彼らがホテルマンとしての自覚と誇りを持っていたら、たとえ客が自分のような身分を失った貧乏旅行者でも、部屋から引きずり出したり、荷物を放り投げた寄越したりなんてことはしないはずだ。
「そうね。でも、あの人たちのことは、もう許しておあげなさい」
「別に、許さないとか、そんな風には思ってないけど、なんか、人として情けなくて、悲しくなる」
「あなたの気持ちはわかるは、カゲロー。でもね、それには事情があるの。仕方ないことなのよ」
「仕方ない? そんなことあるもんか。人としてちゃんと……」
 言いかけたカゲローの唇に、リドリームは立てた人差し指をそっとあてた。
「火星では、仕事をするのに、ふたつのシステムがあるの。ひとつは、自由選択。いつでも仕事をやめたり、新しい仕事を自由に選んだりするシステムよ。でも、同時に、いつでも首を切られるということでもあるわ。実際、就職難だから、転職するのは大変だわ。しかも火星では、これを自由人といって、ひとつの仕事に生涯を懸けることのできない意志薄弱な人が選ぶ道ともされているわ。もうひとつのシステムは、一生を縛られて生きることよ。あのホテルマンたちがそう。仕事をやめることはもう許されない。そういう条件で雇用されたの。それどころか、お客の送迎以外はホテルの外へも出られない」
「だからって、あんな仕事ぶりでいいということにはならない。そうだろう? リドリーム」
「ええ、そうよ。でも、考えてもご覧なさい。あの人たちは、他に素晴らしい仕事があっても転職できないのよ。だから、せめて自分の仕事が史上最高だと思わなければやっていられない。だから他の人を見下すのよ」
「そんなの、心の弱い人間の言い訳だよ」
「そうね。だけど、自由を捨てて、身分の安定だけのために、一生の仕事を固定される道を選んだのよ。それを選ぶのは、心の弱い人間だと決まってるわ。強い人、信念のある人は、自由な道を選ぶわ。そうは思わない?」
「うん」と、カゲローは頷いた。その通りだと思った。

「あれ? ちょっと待って。じゃあ、彼らは火星から避難できないの?」
「避難は勧告だから、できるわよ。でも、彼らは留まったでしょうね。火星のあのホテルが彼らにとっての最高の仕事、そしてそれを続けることが彼らの誇りなのですから」
「誇り、か」
「そう。誇りよ。ただ、彼らは自分に誇りをもつあまり、他人の誇りを認められなかったの。それは誤った誇りよ。気をつけなきゃね、カゲロー、私たちも」

 誤った誇り、か。カゲローは宙を見つめた。たとえそれが間違っていても、もし彼らが危険を承知の上でも信念を曲げずに火星に留まっているのだとしたら、少しは救われるなとカゲローは思った。
「あ、あのアルバイトの女の子……!」
 ふとカゲローは、朝食のルームサービスをしてくれた、妹のヨーコよりも幼い少女のことを思い出した。
「あの子はどうしただろう?」
「アルバイトなの?」
「多分、そう」
 カゲローはその少女のことを、リドリームに説明した。
「そう、その年齢なら、確かにアルバイトでしょうね。自由も固定もない、それはシステム外の何ものの保護も無い、給料もとても少ない仕事だわ。その子も避難する権利はあるけれど、実際はどうしたか、私には知る由もない……」
 財も才も無い者は火星を脱出することさえできない。以前、リドリームがそう言ったのをカゲローは思い出した。確かに彼女には財はないだろう。けれど、彼女に才が無いとどうして言える。あるいは、ドリームワークプラネッツのような星で、新たに才を見出すかもしれない。
 カゲローは彼女が、勇気を持って、自分の未来を信じて、火星から避難してくれていることを望んだ。
 そうだ。財も才もなくても、勇気があれば、なんとかなる。
 僕だって!

 それが単なる強がりなのか、本当の強さなのか、今は誰にもわからない。
 しかし、旅を続けるうちに、カゲロー自身がそれを知ることになるだろう。