銀河鉄道999

第1話 地球へは還れない(前編) 

 

 この作品は「銀河鉄道999」の世界観を踏襲した自作オリジナル作品です。……と最初は書いていたのですが、やはりどうも、多くの方のご意見を伺っていますと2次創作の範疇に入るということになるようです。なるほど、パロディの要素も多分に含んでいます。

 みなさんは、「クトゥルー神話」というのをご存知でしょうか。作家H.P.ラヴクラフトにより生み出され、氏の没後も多くの作家によって書き続けられ、作り上げられた神話体系です。日本の作家もこれに取り組んでおられる方がいらっしゃいます。

 後の世にもこうして書き続けることの出来る作品はきわめて限られるわけですが、これに耐えうる数少ない世界のひとつが「銀河鉄道999」だと私は思います。
 世にある「クトゥルー神話」が、パロディでも2次創作でも、もちろん盗作でもなく、それぞれの作家のオリジナル作品であるのと同様、私の「銀河鉄道999」もまたオリジナル作品です。……と最初は書いていたのですが、「クトゥルー神話」においては著作権者が認めているからその世界観を使って他の作家が作品を著し、商業出版することが可能なのだと、この作品発表後に教えてくださる方がありました。

 いずれにしても非商用の趣味のページですので、そのあたりは「好きなもの」を書いているだけであるということで、「オリジナルを書くぞ〜」という心意気さへ皆さんに伝われば、私はそれで満足であります。

 創始者である松本零士先生に、最大限の敬意を払い、ここに「銀河鉄道999」の物語を著したいと思います。

 

「え〜、毎度お騒がせして申し訳ありません。次の停車駅は、火星〜、火星。停車時間は24時間と33分、24時間と33分であります、ハイ」
 車端部に立った車掌は、車内の乗客に向かって、次の停車駅の案内を告げた。
 彼の身長は150センチほどだろうか。車掌服に身を包み、手袋をはめ、深く帽子を被ったその姿からは、その体形を窺い知ることは困難である。かすかに顔の表面は見えるが漆黒であり、両眼だけが輝いていた。
 とはいえ、その輝きは決してギラリと鋭いものではない。どこか温かみのある慈愛に溢れた光のように思われた。

 温かみと慈愛に溢れた、といえば、この列車「超特急999(スリーナイン)号」そのものがそうである。なにしろ、蒸気機関車が牽引する旧型客車なのだから。その姿は、おおよそ宇宙空間を駆け抜ける乗り物のイメージとはかけ離れていた。
 外見だけではない。車内設備も同様である。ふうわりとした黄色味がかった照明に照らされて、丁寧にニスの塗られた木製の背もたれや肘掛けはテカテカと輝き、真鍮の手摺は鈍く光っている。4人用の固定ボックス席はリクライニングなどするわけがなく、座り心地はお世辞にも良いとは言えない。しかし、両足を向い側の座席の上に放り出せる気軽さがある。そういえば、車内放送というものがないらしい。いちいち車掌が車内をまわって、乗客に声をかけてゆく。まさしく「温かみのある慈愛に溢れた」列車なのだ。
 とはいえ、「超特急999号」の実態は、見かけとは全く異なったものであった。最新鋭の技術の全てが余すところ無く投入されている。その全てをここで紹介するのは不可能だ。しかし、物語が進むにつれ、それらはおいおい明らかになってゆくであろう。
 ひとつだけ特筆せねばならないのは、宇宙空間を縦横無尽に路線網を張り巡らす銀河鉄道株式会社の、その中でも最も重要な列車がこの「超特急999号」である、ということだ。

 車掌の声の響く車内に、乗客は少ない。たった一人である。全部で10両ほどの客車をつないでいるから、他の車両にはいくばくかの乗客がいるのだろう。しかし、前から3両目のここには、夏草陽炎(なつくさかげろう)がいるきりだった。
 年齢は17。性別は男。その人懐っこさから、友人たちは彼のことを気軽に「カゲロー」と呼んだ。身長は160台半ばだが、まだまだ伸びそうだ。彼は少年から青年への移行をほぼ終えつつあった。肉体的にも、精神的にも。窓ガラスに映る彼の顔はどことなく頼りなげだが、笑顔になれば純粋な少年の面影を見てとることができたし、物事をはっきりと見据えるその瞳とキリリとした唇は、青年期特有の、ややもすれば青臭くかつ頑固な、意志の強さを感じることができた。

 カゲローは、土星の衛星「タイタン」から、地球へ向かう途中である。
 宇宙探査の任につく父親は3年前から行方不明であり、母親もつい先日、重い病で命を失った。葬儀を済ませ、身辺がようやく落ち着き、ひとつ年下の妹である洋子とふたり、さてこれからどうするかと、ようやく今後の暮らしに目を向け始めたときのことである。
 一通の招待状がカゲローの元に届いた。
 曰く、「あなたには大切な使命があります。地球でお待ちしています」
 短い文章が記された紙片とともに、「超特急999号」の乗車券が同封されていた。
 差出人は、「リドリーム」とだけ書かれており、住所もメールアドレスも電話番号も何も無い。筆跡からリドリームなる人物は、上品で物静かな女性じゃないだろうかとカゲローは思ったが、もちろんそれを裏付けるものは何もなかった。単なる勘である。

「お兄ちゃん、行きなよ」
 こともなげに妹の洋子が言ったのにはわけがある。洋子は父親の最後の言葉を覚えていたのだった。
 カゲローの父親は宇宙探査に携わる公務員である。その父親が、行方不明になるまさにその宇宙探査に出かける際に、いつもとは違う言葉を残した。
「私の留守中に運命が動くかもしれない。もし、そう感じたなら、運命に従いなさい」
 父親の口調はいつもと変わらなかった。しかし、カゲローはそこに重々しい何かを感じた。いつもと変わらない口調だったからこそ、感じたのかもしれない。それはまるで、独立する息子にかける父親としての最後の言葉のようでもあり、遺言のようでもあった。
「お父、さん……?」
「今は私の言っている意味がわからないかもしれない。だが、やがてわかる時が来る。きっと来る。それはそう遠い先の話ではない」
 父親は宇宙探査に出発し、その後、何度かメールでの交信はあったものの、やがてそれは途絶え、当局から「行方不明」と知らされた。
 カゲローは父が死んだとは思っていないが、少なくとも現時点ではそれが父親の最後の肉声だった。

 妹の洋子も、その場にいた。父親は洋子には何も声をかけず、ただ軽く頭に、その大きな掌を載せた。そしてしばらくじっとしていた。が、やがて、やはり何も言わずにそっとその手を引っこめた。男には言葉で語りかけ、女には心で語りかけたんだと、その時のカゲローは感じていた。
「お兄ちゃん、これはきっと、運命よ。あの時、お父さんが言っていた、あの……」
「わかってる」
 カゲローはぶっきらぼうに言った。
 あの時、父は僕に、何を伝えたかったのだろう? 運命に従うとは、どういう意味なのだろう?
 よくわからなかったが、カゲローは確かに今、運命が動き始めていると感じていた。
 これといった趣味もなく、また将来の目標もつかみかねているカゲローだったが、リドリームのメッセージがしたためられた、たった一枚の紙片が、自分にとってとても大きなものに感じられたのだ。父の消息がつかめなくなってからも、母の保護下にあった。その母が他界し、何か心のよりどころが欲しかったのかも知れない。それも、甘えて頼れるものという意味ではなく、「自分はどうあるべきか」という人生のよりどころだ。
「けど、おまえ1人、残していくわけには……」
「いいえ」と、洋子はカゲローの言葉を遮った。
「遠く離れていても、私はお兄ちゃんと、いつも一緒よ。だって、お父さんとだって、一緒だもの」
 それは精神的なものであって、実際に生活するということにおいては全く違う。地球とは異なって何もかもが過酷なこのタイタンで、16歳の少女が1人で、平穏無事に生きていけるとは考えにくかった。
 しかし、口に出すことはできなかった。
 なぜなら、妹の目には、はっきりとした意思が刻まれていたからだ。それは「私は大丈夫だから、行ってきて」などという優しげなものとは違っていた。はっきりとした意思だ。「お兄ちゃんは行くべきなの。それしか選択肢はないの」と訴えていた。
「少し、考えさせてくれ」とカゲローは言った。洋子はカゲローよりも年下だったが、カゲローが少年を脱しつつある度合いと比べて、誰の目から見ても、洋子の方が遥かに少女時代から次の時代へと変貌しつつあった。そのことにカゲローはまだ気付いていなかった。

 何日か考えたが、結論は出なかった。父の言葉に従い、父を信じて、「断じて行くべきである」とは感じていたが、自分が行けば妹は1人になる。だから、どうしてもその一歩を踏み出す決意を固められなかった。
 洋子はその間、何も言わなかった。カゲローが出す結論、それはたったひとつである。洋子はそのことに微塵の疑いも持っていなかった。ただカゲローが考える時間だけを大切にした。だから余計なことは一言も言わなかったのだ。
 そして、「超特急999号」の出発日が近づいてきた。既に列車は14日前にタイタンに到着している。停車時間は15日と22時間41分。これはタイタンの自転周期に相当する。「超特急999号」の停車時間は、その星での一日、すなわち自転1周分と決められていた。列車は明日、発車する。
「バスタブにタップリお湯を張って、お風呂を沸かしたわ。それから、手巻き寿司、用意したから。トビっきり新鮮なネタと、地球産じゃないけれど、ご飯はコシヒカリよ」
 これは相当な贅沢である。まずタイタンでは水は貴重品で高価だ。その分、浄化装置が優れているので、風呂の湯は使い回しができるけれど、バスタフには必要最小限の水量だけをはり、新しい水は「減った分を追加する」程度のものである。とてもタップリというわけにはいかない。ネタだって、新鮮な、と言う限りは合成ものではないのだろう。
 さすがにコシヒカリは地球産ではなかったが、家計を考えると、洋子がいかにキバったかが伺えた。
「ありがとう」と、カゲローは素直に言った。
「荷物の用意は?」
「もうできている」
 カゲローは、決して「行く」と決意したわけでもなければ、「妹が1人で平穏無事にタイタンで暮らしていける」と結論づけたわけでもなかった。
 ただ、運命を悟っただけである。

 一晩語り明かしたカゲローと洋子は、さらにぎりぎりの時間まで2人で過ごし、そしてカゲローは駅へ走った。荷物は多くない。大きめのデイパックひとつである。
 タクシーを使えばもっと長く妹との時間を持てたが、そのようなもったいないことはしたくなかった。妹のために、少しでも多くのお金を残しておきたかった。にも関わらず、カゲローは洋子が用意した餞別を受け取った。それは当面の生活費ではなく、洋子が月々の小遣いから少しずつ貯めこんだなけなしの貯金だった。 「バカ。生活費の足しにしろ」とは言えなかった。気持は受け取らなくてはならない。カゲローは躊躇せず薄い封筒を手にした。だからこそ、なおさらタクシーなどにお金をかけることはしたくなかった。ギリギリの時間まで一緒にすごし、全力で駅へ走る。自分が洋子のためにできることは、それくらいしかないと信じていた。

 手にはシュナイデンナイフを握り締めている。宇宙探査で功績をあげた父が褒章としてもらったものだ。夏草家の唯一の武器であり、家宝であった。もし父親が生きていないのであれば、同時にそれは形見でもある。柄は握りやすく、掌に馴染む。刃渡りは20センチ強。出刃包丁よりも太く、しかし軽かった。伝説の名工によって作られたそれは、大変優れたものだった。鍛え抜かれた鋼を究極の職人芸で磨き、かつ特殊加工が施されている。女手でも簡単に扱える一方で、武器としての威力もすさまじい。 本当は危険の多い父こそが宇宙探査に携行するべきものだが、留守がちな自分にかわって家族を守るものとして、家に残してあった。
 その大切な品を、洋子はカゲローに託したのだ。
「これは、私と、お父さんの、心だから」
「ん!」
 カゲローは心を受け取った。

 運命の導きによって、僕は宇宙へ旅立つんだ。
 少年でしかなかったカゲローの瞳の中に、意志の光が宿った。その瞬間、カゲローは確かに少年からひとつ脱皮した。少年の皮は、もうほとんど残っていない。彼は青年への移行をほぼ終えつつあった。近いうちに全て脱ぎ捨てることになるだろう。自分自身でそう感じた。
 カゲローは、銀河鉄道「超特急999号」の乗客となった。

「夏草様……っと、いえいえカゲローさん、とお呼びするんでしたね」
 火星到着の案内を終えた車掌は、カゲローのいる座席まで来ると、そのまま通り過ぎずに、立ち止まって声をかけた。
「うん、ありがとう。覚えていてくれたんだね」
 カゲローはタイタンに住む友人たちと同じく、車掌にも「カゲロー」と呼んでくれるようにと頼んでいた。なにしろ、いきなり「夏草様でいらっしゃいますね?」と検札の時に声をかけられて、ひっくりかえりそうになったのだ。苗字だけならともかく、「……様」はこそばすぎる。
「では、カゲローさん。お忘れ物ありませんよう、降りる準備をお願いします」
「え? 僕は地球まで行くんだけど」
「それなんですが、999号は地球へは行かないことになりました」
「行かない? そんな馬鹿な。僕はタイタンから地球までの、999号の乗車券を持ってるんだ」
「銀河鉄道管理局の指示です。地球にいま、何か特別な事態が発生しています」
「そんな、困るよ……」
 カゲローは、表情を曇らせた。自分の用件で出かけているのなら、危険や列車の不通を理由にして訪問を諦めるのもひとつの選択肢だ。必要なら次の機会を作ればいい。しかし、今回はそうではない。カゲローは「呼ばれた」から地球へ行くのである。なぜ呼ばれたかについても、とにかく行ってみなくてはわからない。万が一諦めたとして、次の機会があるかどうかも不明である。
 いや、運命は「リドリームに何としてでも会わねばならない」とカゲローに告げていた。そのことだけはカゲローにもわかっていた。

「特別な事態って、何? なんとかならないの?」
「うまく説明できませんが、体制が、こう、なにか、転覆しそうな事態とかで、非常に危険です」
 体制が転覆って、それじゃまるで革命じゃないか。
 カゲローがそう指摘すると、車掌は「いや、その、何と申しますか、まことにすみません」と頭を下げた。
 頭を下げられてもなあ……。
「もし、出発地にお戻りになられるのでしたら、全額払い戻しの上、同額の賠償金をお支払いいたしますが」
 これまでのカゲローなら、渡りに船とその金を受け取ったろう。なにしろ銀河鉄道の運賃は高い。しかも、今回の乗車券は送られてきたものであり、もともと自分で買ったものではない。それが倍額になって戻ってくるのである。こんなオイシイ話はない。
 しかしもちろん、そんなことはできない。地球で待ち受ける運命とは何か。そして自分がなすべきことは何なのか。見極めなくてはならない。これこそが旅の目的である。
 脳裏に妹の姿が蘇る。そうだ。微塵の迷いも無く送り出してくれた妹を思えば、運命を見定めることも無く、おめおめとタイタンに戻れるものか。

 カゲローは一計を案じ、乗車時に貸与された「情報端末」のキーボードを叩いた。横20センチ、縦10センチ程度の大きさで、蓋を開けるとキーボードになっており、蓋の裏の部分からディスプレイが現れる。インターネットにも接続できるし、テレビ放映も観ることができる。銀河鉄道本社のサーバーに用意された、ありとあらゆる映画や資料映像、そして古今東西の文献にもアクセスが可能だ。
 カゲローはその膨大なデータの中から、「銀河鉄道旅客輸送規則」を探し出した。
「車掌さん、銀河鉄道の規則って、厳しいんだよね?」
「はい、そりゃあもう。お客様を安全、正確、快適に目的地に送り届けるのが使命ですから。厳格な規則によって全てが運用されておりますです、ハイ」
「第241条第2項 銀河鉄道株式会社はいったん旅客と結んだ輸送契約はいかなる理由があっても破棄することはできない。ただし、旅客側に原因があり旅行継続が困難になった場合、旅客自らが権利を放棄した場合等を除く」
「ハイ、ハイ、ハイ。誠にもってそのとおりでアリマス」
 車掌は慌てふためいた。漆黒の顔面に変化は無いが、その慌てようは「顔面蒼白」とでも形容するべきものだった。
 ごめんね車掌さん。カゲローは心の中で呟いた。銀河鉄道にも車掌にもそれなりの理由はあるだろう。それを理解しようともせず、問答無用で規則を持ち出すのは、カゲローの趣味ではなかった。しかしカゲローは、なんとしても地球へ向かわなくてはならなかった。リドリームなる人物に会う為に。そして、自分の運命を知るために。
「じ、じ、じ、実はですね。999が地球へ行かない代わりに、火星発地球行の臨時列車が出ます。でも、出発時間は今の所未定です。それに、カゲローさんには、その列車には乗って欲しくないのです。なぜなら、とても危険です。とても危険なんです」
 車掌が嘘を言ってるとは思えなかった。むしろ、「危険」「乗って欲しくない」という言葉には誠意さえこもっていた。車掌は車掌なりにカゲローのことを思いやってくれているのだ。
「でも、僕は……」
「あ、ハイ、心得ております。カゲローさんにも、事情があります。わかります。すぐに詳細を確認してきます」
 車掌はあたふたとUターンをして、カゲローに背中を見せた。

 せっかくの車掌の好意だったが、状況は芳しくなかった。
 出発時刻は相変わらず未定である。決まり次第、乗車を希望する旅客には個別に連絡をするので、旅客は指定のホテルで待機するようにとのことだった。そして、火星発地球行の臨時列車は、不慮の事態にそなえた特別装甲列車であることも明らかになった。地球到着後の生命は保証できないとも付け加えられた。

「地球行の特別装甲列車は、999と同じホームの向かい側に、既に入線しているそうです。そちらに荷物だけ移動させて、カゲローさんはホテルでお待ち下さい」
「荷物はこれだけだよ。身に付けておくよ」
「さ、さようですか、ハイ」
 超特急999号は、火星の地表に向かってどんどん降下してゆく。カゲローの目に乾いた大地が近づいてきた。それほど大きくない町並みと、その中心部にある駅、そしてその前後に伸びる線路も確認できる。駅からの線路は空中へ伸び、やがて何も無い空間でポツンと途切れていた。高度を落とした999号は、その線路に載ると、車輪の音をきしませてブレーキをかけた。もうすぐ駅である。
 カゲローの身体もとっくに火星からの引力を受け、きつい下り勾配に今にも前につんのめりそうだ。下り坂なのに逆Gを受けながら、座席からずり落ちないようにお尻に力を込める。
 やがて999号は線路に従って地上の鉄道となり、間もなく駅舎に吸い込まれた。2面4線のホームにそれほど大きくない橋上駅舎。超特急999号はスピードを落とし、ホームに横付けされた。
「ご乗車ありがとうございます。火星〜、火星です」
 人影のないホームにアナウンスが響く。
「超特急999号の停車時間は24時間33分。地球方面は向かい側の臨時特別装甲列車にお乗換えです」

 999号から下車した乗客はカゲロー1人だった。車掌はホームまで降りて見送ってくれる。
「これは銀河鉄道から支給されるお金です。火星での滞在にお使いください」
 カゲローは車掌からずた袋を渡された。中にはコインが詰まっているらしく、袋のあっちこっちが出っ張っていた。
「それから、向かいに止まっているのが地球行の臨時列車です。特別装甲列車です」
 窓のない、真っ黒な列車だった。その名の通り、厳重で分厚い装甲が施されているようだ。全部で5両編成。前後の先頭車と中央の3両目には、砲台まで備えられている。装甲どころか、戦闘車両である。
「核爆弾にも耐えられます」と、車掌は胸を張ったが、核が爆発しているまさにその中へ、列車で突入したいなどとはさすがのカゲローも思わなかった。
 ライフルを携えた制服の男がそっとカゲローに近づき、「夏草様ですね。ご案内します」と丁重に言った。軍人かと思ったが、帽子の中央と上着の左胸に、アルファベットのHをかたどったエンブレムをつけている。どうやらホテルの「H」らしい。
「お荷物は……」
 言いかけたホテルマンを制止して、「いいよ、これくらい自分で持つよ」とカゲローは言った。

 カゲローは、まずは食事をしようと思った。ホテルのレストランに入り、ウエイターが持ってきたメニューを見た。
「なになに? 地球懐古フレンチコース、地球懐古中華コース、地球懐古イタリアンコース、地球懐古懐石コース……なんだかよくわからないや」
 静かに近寄ってきたウエイターは「お決まりですか?」と訪ねた。
「ラーメンとかカレーライスとか餃子はないの?」
「あいにくと、当レストランはコース料理しかございません。そのような下世話なものがお好みでしたら、下町の大衆食堂に……」
「じゃあ、これでいいや」
 カゲローは面倒くさくなって、メニューの一番上にあった「地球懐古フレンチコース」を注文した。「追加オーダー無制限おかわり自由オプションも付けてよ」
「かしこまりました」
 次にウエイターは別のメニューを差し出した。「こちらは、お飲み物になっております」
 たかだか食べ物に付随する飲み物に頭など悩ませたくない。やはり一番上に書かれた文字の上に、カゲローは右手の人差し指を置いた。「これ」
「あ、いや、お客様、それは当店一番の高級酒でして、アルコール分も相当お高くなっております。それにお客様は失礼ながら未成年かと……」
「ああもう、たかが飲み物でゴチャゴチャと!」
 頭に来たカゲローは、「オレンジジュースのソーダ割り」と叫んだ。
 ウエイターがまた「そういう下世話なものは」などと言おうものなら、「こんちくしょう、水でも持ってきやがれ」とさらに大声で言うつもりだったが、「オレンジスカッシュでございますね。かしこまりました。こちらも無制限オプションをお付けしておきます」と頭を下げた。さらに「お客様はなかなか通でいらっしゃる」と付け加えた。
 やれやれ、これでメシが食える。

 コース料理だけあって、次から次へと運ばれてくる。カゲローはそれを片っ端から平らげた。思えば、レストランに入ったその時から、それほど空腹というわけではなかった。
 ただ、何か事を為す前には、とにかく腹一杯食わねばならない。そんな強迫観念にも似た感情にとらわれていた。それに、今食っておかなくては、次にいつ食事ができるかわからない。一歩家を出たら、見知らぬ土地に来たら、まして荒っぽい宇宙の旅では、それが当たり前だ。
 生活の見込みが立たない妹の洋子は、日々の食事においても倹約に倹約を重ねているだろう。しかしカゲローは、豪華な食事を食い散らかしながら、妹に悪いとは思わなかった。むしろ、食える時に食うという心構えがなければ、妹に会わす顔がないと思った。
 にわかに動けなくなるほど大量に食べたカゲローは、ホテルの部屋に戻り、ベッドに横になった。
 洋子は今、どうしているだろうか。行方の知れぬ父は、宇宙のどこかで、いつか帰れる日を夢見ながら日々の困難に立ち向かっているのだろうか。
 そんなことを考えているうちに、カゲローは眠ってしまった。再び目が覚めたとき、窓の外は真っ暗だった。時計によるともう真夜中だ。うたた寝ではなく、熟睡してしまったようだ。999号は、ひと目見た感じではさほど快適な造形には思えなかったが、決して疲れを感じさせる列車の旅ではなかった。にもかかわらず、食事を終えた途端にすっかり眠り込んでしまっていた。
 肉体の疲れは確かに無かったかもしれない。けれど、精神はどうだったろう? 母親の死と葬儀から続いた様々な雑事や、地球への招待を受けるかどうか悩んだ日々などが、心労として蓄積していた可能性はある。
 宇宙を旅するには、多少のことではへこたれないタフで強靭な肉体と心、そして休める時には完全に疲れを取り去ってしまう心がけ、これが大切だと改めてカゲローは思った。食事と同じである。食べられるときに食べておく。眠れるときに眠っておく。
 ここは見知らぬ地ではあるが、セキュリティの施されたホテルである。油断はできないにしても、一通りの安全は確保されている。自分がいる場所が、安息にふさわしいところかどうかを見極めるのも、宇宙を旅する者に要求される能力である。
 カゲローは、「安全だ」と確信した。間違いない。自分の勘は正しい。
 熱いシャワーを浴び、下着を洗って干し、朝までもう一度眠ることにした。
 だがカゲローは、再びベッドに身を横たえたとき、言いようの無い不安が自分を包むのを感じた。危険は無い。これは間違いない。だが、この不安は何だろう? このホテルで、身の安全以外に気にすべきことなど無いはずである。だが、心の奥底で小さな警告灯が点等していた。
 カゲローはついにその正体を見極めることなく、襲ってきた眠気のせいもあって、「なあに、気のせいさ。勘が狂うことも有る」と思うことにした。
 これが誤りだった。カゲローはすぐに思い知ることになる。