遥かな草原の香り
=11=     

 

 ブラとショーツを足元に置き、コックをシャワーに切り替えて、カランを回す。
 ちょろっ、と雫が垂れた後、ザアーと勢いよく水滴の大行列が噴出した。
「きゃ」
 水の冷たさにちょっと後ずさったあと、肌の表面に飛んだ水がなんだか妙に気持ちいい。水滴のひとつひとつから、じんわりと快感に似たものがふっと浮かんで消えた。
 シャワーから吐き出される水はやがて湯に変わり、黒死鳥と戦ったあの世界での出来事がまるで夢か物語かのように思えてきた。あたしはただの女子高生で、午後のシャワーを浴びている。

 身体にネットリとまとわりついていたものが、洗い流されていく。
 それは汗や埃ではない。目には見えないけれど、でも何か気持の悪い物質。邪悪な微粒子。
 それらは水滴と共に床に落ちて、排水溝に吸い込まれていく。
 身体の表面に付着していたそれらは、目に見えるわけではないけれど、でも、水を黒っぽい色に変えていた。
 いつだったか読んだファンタジー小説に、「水には聖なる力が宿っていて、邪悪なものを洗い流し清めてくれる」と書いてあったが、その通りだと思う。
 シャワーのしぶきが肌に触れ、そこから熱くて気持ちいいものがスウッと身体の中にしみこむ。これが水道水ではなく、自然の中にある、例えば、深い山の中の石清水だったら、もっとその作用は強いのだろう。
 向こうの世界で感じていた気持ちの良さと共通点があった。しばらく浴びていると、それは共通点というより同じものなのだと思える。強さの程度が違うだけかも知れない。

 美しさと醜さは、それ単一で存在するものではなく、何かと比較をして初めて「美しい」とか「醜い」とか言うことができるはずだ。そしてあたしは、この洗い流された黒い水を「汚い」と思う。水道水と比較してだろうか?
 そうではない、と感じる。
 自分で言うのは気が引けるけれど、あたしは美しい存在なんだ。あの世界で、自分を取り巻くあらゆるもの、自分にエネルギーを与えてくれたものによって、あたしは浄化されていた。

 足元にあるふたつの小さな下着を手に取った。
「?」
 違和感を感じて、その原因がすぐにわかった。多少湿っぽくはあるけれど、ほとんど濡れていない。
 シャワーをガンガン流し続けているのに、床に放置された布が濡れていないとは、どういうことだろうか?
 シャワーのしぶきに直接当ててみる。結果は同じだった。濡れない。
 全く水を吸っていないわけではない。ちょっとだけ湿っている。だから、水を吸わない材質、ということではない。けれど速乾性にしては早すぎる。
 あたしは小さなブラとショーツを、あらためて掌で包んだ。
 その官能的な肌触り……。
 羽毛のようでもあり、シルクのようでもあり……。
 そして目を閉じれば、綿菓子を抱きかかえたようでもあり……。
 つまり、こちらの世界には存在しえない、ある意味、神秘的な材質で出来ているんだと感じた。
 掌と掌で挟んで、シャワーの水流の下にかざして、ごしごしと洗う。手から滴り落ちる水滴は最初は黒く、色合いがどんどん薄くなって、やがて水は汚れなくなった。
 それどころか、下着を経た水は、水道水よりも浄化されているかのようだった。
 布は掌に艶かしく張り付き、かつ凛とした清純さで汚れの全てを寄せ付けない。
 手を開くと、そこには眩しく光沢を放つ小さな布があった。

 シャワーを終えたあたしは、戦闘服として支給された下着を再び身に付けた。
 いつだったかデートの時に穿いた勝負下着とはまるで違う触感。あれはただ「見た目」だけで、あたしの身体には全然フィットしない、違和感だけのものだった。けれど、これは違う。股下からお尻まで紐一本なのに、触れていることすら感じさせないほどに軽い。
 まるで、身体の一部分。
 そして、蘇るエネルギー。生命力。こっちに戻ったそのときのあたしは、確かに疲れきっていた。でも、今は十分な睡眠をとったあとの心地よい目覚めを迎えた時と変わらない。
 セックスまでしたくなってきた。
 あちらの世界でのパワーは、どういうわけか全てどこかでエッチな感覚と結びついていた。なんでだよお〜、と呟いてみたくなる。
 こうすればもっと気持ちよくなるんじゃないか、という思いから、そのままもう一度シャワーを浴びた。

 気持ち、いい。

 全身をことごとく愛撫されているような気分。
 でも、陶酔しきってしまうことはできなかった。だって、まるで夢だったかのように思えていたあちらの世界での出来事が、感覚を取り戻すごとに、現実感を増してきたから。
 あたしはこのままこっちの世界にいていいの?

 黒死鳥との戦いが、最後、どうなったかあたしにはわからない。
 首尾よく退治できていたのかどうか、それすらもわからない。
 あたしは確かに、決定的な攻撃を黒死鳥に加えた。けれど同時に、危険を感じたフルダによって、こちらの世界に送り還された。
 黒死鳥をやっつけた瞬間を見ていない。単純に、その場では撃退した、というだけかもしれない。最悪、あたしの攻撃に効果なく、そのあともフルダは死闘を続けているのかもしれない。

 だとしたら、フルダはどうなってしまったの?
 黒死鳥を退治できていないのならば、あの世界はその後、どうなってしまうの?
 パインはロクに回復しないまま、あの悲しい戦いを続けないといけないの?

 黒死鳥の脅威にさらされているのなら、あたしには向こうの世界で、だれよりも黒死鳥と戦う力がある。期待も大きかった。
 こちらでのほほんと暮らすことと比べれば、向こうで戦いの中に身を投じることは、あたしだって命の危険にさらされることを意味する。けれど、あっちの世界の空気がとても肌になじむことや、持ち込んだコスチュームを身につければこっちの世界でもなお気持ちいいという感覚が「このまま放っといていいの?」という疑問を呼び起こす。

 シャワーを止め、ドアノブに引っ掛けておいたタオルを手に取った。そして、身体を拭いかけたその時である。
 ほんの一瞬、目の前がクラッとした。空気が揺れた、あるいは歪んだ。何だろう、まさか、また、とか思ったけれどそれっきりだった。
 戦慄が走った。まさか、また、あっちの世界に引っ張り込まれるのではないかという恐怖だった。
 このままこっちにいてもいいの? という疑問と同時に、やはり向こうへ戻るのをあたしは怖いと感じているのだ。
 しかし、空気のゆらぎはすぐに収まった。
 何事も起こらなかった。
 規模の小さな地震だったのかもしれない。
 あるいは、ただの立ちくらみだったのかも?

 恐怖心がわきあがったことは事実だけれど、でも、何事も無く終息した空気の揺らぎに、胸の高まりがしぼんでいくのも感じた。
 フルダに会いたい、と思った。

 あたしの本当の居場所は、どっち?

 再び身につけた戦闘服は居心地がよく、いつもの服装に着替える気にはならなかった。裸でいることの気持ちよさ、それと同じ感じがする。余計なものはなにも身につけていない。
 だけど、だからこそ感じる。あたしを包む優しくて力強いものを。
 あたしはもう少しこのままでいようと思い、またバスタオルを身体に巻いて自分の部屋に突進した。
 今度は母親にも発見されなかった。そのまま部屋をロックしてベッドになだれ込む。
 疲労感はまるでないんだけれども、なんとなく「よっこらしょ」なんてつぶやきが出る。母親に見つかって「はしたない」だのなんだの言われたらどうしよう、などという気持ちから開放されたせいだろう。

 がさごそと布団に潜り込む動作の途中、あたしの右手が、あたしの一番女である部分に触れた。
 ずいぶんと敏感になっていた。あ〜あ、戦いの渦に巻き込まれるより、女であることの方がよほどいいのに。
 でも、この敏感さは、向こうの世界に行き、戦いに携わることによって身についたものだ。

 床にデイパックが転がっている。
 こいつだけはあたしと一緒に行ったり来たりしているなあ。そう思うといとおしくなってくる。
 そしてあたしは、決定的なミスに気がついた。
 デイパックは戻ってきた。けれど、制服!
 どうしよう。あっちの世界のロッカーに納めたままになっている。
 やっぱり取りに行かなくちゃいけないだろうな。無くしました、で済ませようにも、じゃあ、いったいどこで、何が原因で失くしたのか、ということになると、きっとややこしいことになるだろう。

 変化はその時に起こった。
 あたしはそれを触覚で感じ取った。あたしの周りにある空気の変化を、あたしの肌が。それはもう触覚としか言いようがない。
 学校の屋上で体験したときは、それは天空遙かでぐるぐると空間がよじれるような状態をまず目で確認した。今回はいきなりその中にあたしがいる。
 前はどちらかというと無重力的だったのが、今回は引きずり込まれるような状態。
 前と少し違う。
 まるで雑巾で絞られるような感じがしたと思うと、口から強制的に大量の空気を入れられた。片方の力で右手と左足を同時に引っ張られ、もうひとつの力は左手と右足をその反対方向に持っていこうとしたり。小さくて、だけどとてつもなく質量の大きな粒子が四方八方からあたしの身体に打ち込まれて、通り抜けていった。
 細胞の一つ一つがバラバラにされたような、あるいは、ぐちゃぐちゃに混ぜ合わされたような.....
 そんなどうしようもない状態のあたしを戦闘服は守ってくれた。
 守るといっても、あたしを包み込んで外的に触れさせないようにする、というような物理的な守り方ではなかった。体や心を浸食しようとする何かを追い払ってくれていた。
 やがてあたしが目にしたのは、黒死鳥に攻撃を受けて崩壊の現在進行形にある大都会だった。

 あたしは再び呼び戻されたのだ。

 見上げると、そこには黒死鳥が天空を被わんばかりに存在していた。それは決して攻撃の態勢などではなく、ただ大空にたゆたっているだけだった。にもかかわらず、この惨状はどうだ。地上の人類の営みなど、黒死鳥にとってはとるにたらないものに思えた。
 だったら攻撃するなよ……。
 そして、失意の沼に沈みこんでいくあたしの心。やはり、あたしの一撃は黒死鳥を退治するには至らなかったのだ。

 それにしても、ここはどこだろう?
 前に訪れた場所は、確かに科学の粋を集めたような施設だったけれど、でも周囲は森は深く湖は澄み、大自然に抱かれていた。
 けれど、ここは、まるであたしの住む世界の典型的な都会を思わせる。
 あたしは空中に浮かんでいた。地上を見下ろしている。バスタオルを巻きつけたままの風呂上りの姿で。バスタオルの下は小さなブラとショーツだけだ。
 ぶわさっ!
 背中空気が大きくゆらいだ。黒死鳥の羽ばたきであることはすぐにわかった。
 想像を絶する気圧の塊がどお〜んと地上に叩きつけられる。
 あたしも空気の塊に押されて、ものすごい勢いで身体が地上に向かってすっとんでゆく。このまま叩きつけられたら無事ではすまない。
 えっと、空中での体勢のコントロールはどうするんだっけ……?
 身体が覚えていた。ビルの屋上を鼻先が掠めたとき、あたしは空気の流れに逆らって空中に再び浮かび上がることが出来た。
 しかし、地上に固定されている建造物はそうはいかない。
 林立する高層ビルは黒死鳥の羽ばたき一つでこともなげに崩れていく。土煙があがる。その中でビルがどのように崩壊していったのか、誰にも見ることは出来ない。しかし、煙はすぐに晴れた。黒死鳥のたった一回の羽ばたきで凶暴化した空気は地上のあちこちで跳ね返り、渦巻き、土煙をあっという間に霧散させたのだ。
 そこには瓦礫がうごめいているだけだ。
 緑の木々と青い水をたたえた公園は見る間に砂漠化していった。
 めくれ上がってカタパルトのようになった高速道路。陥没した地面の中では地下商店街が炎をあげ地下鉄が横転していた。
 軽いものも、重いものも、命のあるものも、そうでないものも、宙に舞っては地面にたたきつけられた。

 絶望的な状況の中、ある一点から希望の光が飛び出した。肉眼でも確認できるぐらいの太くてたくましいエネルギーの束が、黒死鳥めがけて突き刺さろうとしていた。
 誰かが戦っているのだ。
 エネルギーの束を発しているのは、あの青年医師フルダだった。
 戦いの最中なのに、フルダはあたしを認識すると、ニコリと笑った。

「おかえり」

 崩壊の轟音をあげる中で、もちろんフルダの声など届かない。けれど、彼の言葉は確かにあたしに届いた。

「ただいま」

つづく

 



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