遥かな草原の香り
=12=     

 

「よかった、来てくれたんだね、ありがとう」
 フルダは地上からあたしに話しかけていた。あたしはおそらく地面から数百メートルは上空にうがたれた、歪んだ空間の出口にいる。でもあたし達の会話は距離をものともしなかった。
 フルダはあたしを元の世界に送り返した後のことを、一瞬にしてあたしの意識に送り込んできた。
 それによると、こうだ。
 あたしの一撃は黒死鳥にダメージを与えることに成功した。劣性になった黒死鳥は時間軸を逆行して逃げた。135年分も過去へ逃げてきた。黒死鳥を徹底的に叩くには今しかない。そう思ったフルダは追いかけた。
 どうやらそこは黒死鳥が本来いるべき時間だったらしく、見る見るパワーを回復した。黒死鳥は体制を立て直してフルダを攻撃したのだ。
 攻防は熾烈で、お互いに相手へ決定打を与えることが出来ないままに、戦いの舞台となった街だけがどんどん廃墟化していった。
 フルダに残された力は少ない。
 彼はあたしを召還した。一度失敗したが、二度目には成功した。1度目の失敗とは、あたしが軽いめまいを感じたあのときだったのだろう。
 2度目は成功した。だが残されたエネルギーのほとんどをあたしの召還に使い切った。残るはあと一撃分の力。黒死鳥を倒すか、さもなくば、街も自分も滅びてしまうか、そのどちらかという状況になっているらしかった。
 ようするに状況はせっぱ詰まっていて、しかも最終局面を迎えている。そういうことだ。

 どうもいきなり大変な所へ来ちゃったもんだなあ。
 あたしは半ば頭を抱え込みそうになった。
 けれど、意志はもう決まっていた。戦う。それだけだ。
 あたしは自宅のシャワールームで悩んだ。元の世界で安全・安穏に暮らすのか、それとも、危険とわかっていても黒死鳥と戦えるのは自分しか居ないこの世界に舞い戻るのか。そのとき、心の中を大きく閉めた自分自身の台詞は「このままここに居てもいいの?」だった。
 でも、あたしにはこの二つの世界を自分の力で行き来することが出来ない。出来るのかもしれないが、やり方がわからない。フルダの召還が無ければどうしようもない。
 あのまま自分が放置されていれば、きっとあえてこちらに戻ってこようとは思わなかっただろう。けれど、悩み続けたに違いない。本当にこのままでいいのか、と。危機的な状況にある世界を見捨てたまま何もしないで居る自分に、きっと罪悪感を抱いたままモンモンと暮らしていただろう。
 幸い!
 フルダが呼び戻してくれた。
 あたしを頼ってくれた。

 なすべきことはひとつだ。

「受け取って!」
 地上の廃墟の一点から、フルダの強い意志とともに何かが飛んで来た。あたしめがけて一直線。
 びゅん!
 剛速球ライナーだったそれは、あたしの手前でフワリと速度を緩めた。そしてふわあっと開く。あたしの制服だった。
「取り寄せておいた。それを着て! 裸にバスタオルでは戦いにくいだろう?」
 そうだった。あたしは戦闘服に着替えるために、もともと着ていた制服を置き去りにしていたのだ。右上手後方にはデイパックまで浮いていた。あたしと一緒にこの世界にやってきたのだろう。思えばこの「JAM」の落書きが記されたそれには愛着がある。愛着の度合いが強いと、持ち主とともに行動してしまう。そんな原理がなんとなく理解できた。

 服を着たあたしに、フルダは叫んだ。
「もう僕に残された力はほとんどない。わずかな意識の底で、キミが力を出せるように『祈る』だけだ。けれど、この『祈り』は、森羅万象全てのものに通じるだろう」
 きゅきゅきゅきゅきゅ〜〜〜。
 あたしの知覚出来る全てのものが、収縮し始めた。あたしを中心に世界が小さくなっていく。
 それは、エネルギーの動きだった。世界が本当に縮んでいるのではなく、この世の全てのものがあたしに味方をして、パワーを授けてくれているのだった。

 それは、フルダの祈り。
 何もかもをメチャクチャに蹂躙しつつある黒死鳥から、この世を守りたいというフルダの心の叫びだった。
 ほとんどもう力が残っていないと言いながら、こんな激しい祈りを奏でることが出来る人をあたしは他に知らない。これにくらべたら、神父さんや和尚さんの説教や説法など、とてつもなく上っ面なものだったなと思う。もっとも、そんなものを聴く機会なんてそれほどあったわけじゃないけれど。
 学校の授業だったか遠足だったか、そんなときに「へっ、な〜にいってんだよ。テメエだって女も抱けば酒も飲むくせに」と思いながら適当に聴いていた記憶がある。

 今はけれど、違う。
 フルダの祈り。強烈な意志を持って、人類を救いたいという願いが込められていた。
 あたしも、その祈りに自分の心の振動を重ね合わせた。

 その瞬間。
 怒涛のように押し寄せるエネルギー群。全てがあたしに力を貸してくれている。
 音など無いはずなのに、鼓膜が破れそうになる。空気がぐわんぐわん激震している。
 あたしは恐怖した。
 こんな絶大なパワーがあたしに集まってきたら、黒死鳥に向けて放つ前に、あたし自身が押しつぶされてしまう!
 あたしは目を閉じずにはいられなかった。そして、悲鳴をあげていた。

 とろり……。

 上下左右の感覚もなく、なんの触感もない、ただトロリとした世界にあたしは投げ出されていた。
 そこここに、ゆうるりとした快感が漂っていて、気が付いたらその快感の中にあたしは浸されていた。
 お母さんの羊水の中でたゆたっているとは、こんな状態なのだろうか。暖かくて気持ちいいのに、涼しくて気持ちいい。
 そっと手を伸ばすと、何かに触れる。抵抗はない。けれど、何かがある。
 その何かは、指先だけではない。身じろぎすると、動いた肌の全てにそれを感じることが出来る。あたしはそれに包まれているのだ。
 柔らかい穏やかな世界にたゆたいながら、何万ボルトもの電流に感電したような快感が流れていくのを感じていた。
 全身を焼け焦がしてしまいそうになるほどの激しさなのに、気持ちいい。
 セックスでイク瞬間に似ていた。いや、その数千倍も数万倍も気持ちいい。ううん、もしかしたら、数億倍? どれくらいって比較できない。

 そうだ、思い出した。
 あの時は、彼氏じゃない人とエッチしたんだ。その人が、「面白いクスリを手に入れたから」って。今から思えば、相当ヤバイクスリだったんだろう。時間と空間の感覚を完全になくして、一晩中エッチした。彼を裏切っているという罪悪感がさらに快感を強めてくれた。
 我に返ったときには、身じろぎ一つ出来ないほどに二人とも疲労していた。ヤバすぎるって二人とも気が付いたし、その人とは二度と身体を重ねることは無かったけれど……。
 衰弱することがわかっていながらもクスリを打ち続けたテレヌルのパイロットは、きっとこの快感の中毒症状になっていたんだ。

 そうまでしないと戦えない、そうまでしても勝つことが出来ない、強大な敵、黒死鳥。
 だけど、今の自分なら、勝てる。あたしはそう確信した。
 だって、あたしはクスリなんて使っていない。ただただ、この世のありとあらゆるものがあたしの味方をしてくれているだけだ。

 眼下に広がる、黒死鳥に荒らされた廃墟。
 既に多くの命が失われているだろう。けれど、全ての命ではない。あたしが黒死鳥を殲滅させれば助かる命だってあるはずだ。これ以上、好き放題させない。
 全身全霊を持って、撃つ!

 すべての細胞を溶かしてしまうような快感が一つ一つの細胞をきちんと支配しながら、大自然の偉大なパワーはあたしの身体を通って指先に集中する。
 指先に浮かんだ小さな光球は、瞬時に巨大化していく。光の玉はあたしの視野を超えて大きく膨らみ、さらにあたしの知覚する世界すらも覆い尽くした。眩しくて目は開けていられない。目を開いていたとしても、もちろん見ることは出来ないだろう。けれどそのパワーが、はっきりと地球規模の大きさを超えて膨張していることがあたしにはわかった。

 膨張


 破裂


 霧散


 スモッグがそよ風にあおられてゆっくりと散っていくように、光も徐々に消えてゆく。
 春の草原をたなびく雲のように、ゆっくりと、ゆっくりと。
 爆光が完全に収まるまで、どれくらいの時間がたっただろうか。一瞬のような気もしたし、数年のようにも感じられた。誰もいない森のほとりで釣りをしていたおじいさんが、「そろそろ夕食かな」と腰をあげるみたいに、のんびりした時間の流れがそこにはあった。
 黒死鳥は消えていた。

 あたしは下界を見下ろした。黒死鳥の物理的攻撃で町は破壊されていたが、あたしの放つ膨大なエネルギーによりさらに影響を受けていないか、心配だった。
 けれど、記憶を頼りにする限り、あたしがここに飛ばされてきたときに見た光景と、今とでは、変化があるようには思えなかった。
 あたしの攻撃は、物理的なものではないらしかった。

 あたしは着地した。どうしてその地点を選んだのかわからなかった。多分、無意識。あるいは、フルダからのなんらかのメッセージを感知していたのかもしれない。
 瓦礫の影で、老人をさらに老人にしたような、しわくちゃでほとんど骨と皮だけになったフルダが身体を横たえていた。

「ねえ、これでいいの? これが戦うと言うことなの?」
 フルダは答えなかった。
 ほとんど力が残されていないと言っていた。まさか、さっきの戦いであたしをフォローすることで、命の灯火まで消してしまった……?
「……ありがとう……」
 微弱な声だった。
 良かった。心ではいなかった。
「黒死鳥はもう存在しない。消滅の瞬間を見たわけじゃないが、あの禍々しい空気は、ここにはもう存在しない」
「うん」
 知らず、涙が出た。
「ありがとう。きみのおかげでなんとか僕たちの世界も救われたよ」
「大丈夫?」
「今は何とかね。でも、もう僕には幾分も力が残ってない。きみのまき散らしたエネルギーを少し拾うことが出来たから、多少は生きていられるけれど、でも、それも長くない。回復できないほど力を使っちゃったからね」
「どうしてもっと早くあたしを呼んでくれなかったのよ」

 静かに笑い、そして目を閉じるフルダに、あたしは手をかざそうとした。
「いや。それは、もう無駄だから。君の力を借りてもどうしようもない。僕は今までの戦いで、人間が一生の中で消費するエネルギーの何倍もの力を使ってきた。寿命を越えているんだ。だから何もしなくていい。でもいいんだ。天敵を葬ることが出来たから。充実した一生だったといえるよ」
「フルダ....」
 それ以上言葉がでなかった。
 フルダは一人で喋り続けた。
「ここでひっそりと暮らすよ。あと何カ月生きられるか、あるいは何日か。それまでの間に僕にはここですることがある。歴史の記録を残しておかなくちゃ。ジャムも見ただろう、きみ自身の絵を。アレはおそらく僕が書いたものだ。135年前の世界、つまりここだよね。で、僕が135年後の僕が本来いた未来のために、きみの出現を描いたんだね。そして伝説も残した。
 アレは僕の仕事。
 そんな哀しそうな顔をするなよ。僕のことは心配しなくてもいい。残りの寿命が少なくなった老人が、日がな一日絵筆を握ってる、ただそんな日々が僕にはごく自然なものとして感じられる」
「フルダ....」
「それと、もうひとつ残しておくよ。」
「もうひとつ?」
 もしそのために、さらにフルダの寿命を縮めるというのなら、そんなことしないで。そう言いそうになったけれど言葉にならなかった。
「そうだ、それがいい」
 フルダはあたしのデイパックのポケットにさしてあったシャーペンを手に取った。デイパックはなぜかずっとあたしに付き従っている。シャーペンを自分の胸に突き刺す。
「あ、やめて、何を、....」
 あたしのかすかな声をうち消してフルダの雄叫びが響く。
「僕の全ての能力をこのシャーペンに封じ込めた。」
 シャーペンを胸から引き抜き、フルダはあたしの手に握らせた。
「これを持っていれば、きみは能力の全てが使える。平行世界の移動も、時間の移動も。この世界に満ちているエネルギーも全てきみの思うがままだよ。」
 言い終えるとフルダはその場に倒れ込んだ。
「あ」
 あたしはフルダを抱きかかえて自分の身体と密着させた。フルダはあたし。あたしはフルダ。肌と肌をどれだけ密着しても足りない。だってあたし自身だもの。本来は一つのもの。
「気持ちいいよ」と、フルダは言った。
「うん。いつまででもこうしてあげるよ。」
「いや。ほんの少しでいい。きみは還らなくちゃいけないし、僕は絵を描いて後世のために記録を残さなくちゃいけない」
「ねえ、せめてセックスしようよ。ひとつにならなくちゃ。ひとつになりたいの」そんな台詞まで自然に口からでてしまう。
 フルダはあたし、あたしはフルダ。本来はひとつであるべきもの。
「死ぬ直前の老人はそんなことしない」
 フルダはかすかに微笑んだ。あたしは見たことがないけれど、天寿を全うした老人が死ぬときに見せる穏やかな笑顔だと思った。

つづく

 



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