遥かな草原の香り
=8=     

 

 入浴と休息のためにパーメに連れられてやってきた部屋は、これまたあたしの知らない場所だった。
 気絶から覚めたときにあたしがいたのは、どうやらあたしの執務室らしいデスクや機器類がごたごたと置いてあり、場違いな天蓋つきベッドだった。そこはあたしのための部屋だった。衣裳部屋なども付随していた。だから、今回もその部屋に戻されるのだと思った。けれど、違っていた。
 お役所とも作戦司令部とも要塞とも受け取れるその無機質な建築物を離れ、パーメが導いてくれる。それは長い渡り廊下だった。
 辿り着いた先は、ピラミッドをモチーフにしたような、けれども全体的に丸みを帯びた建物だった。てっぺんはおそらく3階建ての建物の屋上くらい。けれどピラミッドのようにとがってはいない。全てが曲線で満ちている。しかし、ドームというほど優しいカーブではなかった。
 ピラミッドを作ろうとして、でも直線や鋭角を作れなくて、仕方なくこうした、と表現すればぴったりだろうか。
 曲線ピラミッドの一部にそっと触れるように渡り廊下は接している。飛行機に搭乗するさいに使用する伸び縮みする通路をあたしは連想した。

「どうぞ、中へ」  パーメが言うと、それまで渡り廊下と接していた曲線ピラミッドの壁が、すっと開いた。
 そこにはもともと扉などなかった。何もないところに、人が出入りするための楕円形の穴がぽっかりと開いたのだ。
「どうぞ、中へ」とパーメが繰り返す。
 あたしは足を進めた。
 背後に異変を察知して振りかえると、穴は閉まろうとしていた。長径50センチ、短径20センチ。もう人が通り抜けることは出来ない。
「あ、パーメ」
 パーメが廊下に取り残されていた。
「ご安心ください」
 あたしたちの会話が始まったのを察知したのか、穴の収縮はストップする。
「ここには、聖姫さましか入れませんが、聖姫さまには最良の空間です」
 不安が無いわけではなかったけれど、いまさらじたばたしたって始まらない。黒死鳥なんてわけのわからないものと戦うことと比べれば、ここはパラダイスだと思えた。(一歩足を踏み入れたあたしに、既に癒しのエナジーが注入されつつあったのだ)
 あたしが頷くと、穴は再び収縮をはじめ、間もなく完全に塞がった。
 あたしは覚悟を決めて、戦いが始まるまでの数時間をここで過ごすことにした。

 こんな建物なので、壁と天井の境界線ははっきりしない。全ては透明の材質で出来ており、陽光がタップリ降り注いでくる。透明といっても、ガラスでもアクリルでもないようだ。手を触れてみる。押すとわずかに弾力がある。硬質ではない。けれど、凹むほどでもない。建物の造詣だけでなく、壁の材質すらも中途半端なのだった。
 角のないピラミッド。
 その中央には直径3メートルくらいの丸いプール。傍らにテーブルと、上半身部分が少し浮き上がったベッド。リゾート地でよく見かける光景。しかし、テーブルには氷の浮いた水差しと伏せて置かれたグラスがあるきりだった。トロピカルドリンクなんて気の効いたものは無い。
 気温は、暑くも無く、寒くも無く。外界と隔絶されているから空気の対流はないが、不思議と閉塞感はなかった。
 時計などないし、とっくに時間の感覚も失っている。ともあれ、ここで休息と入浴をせよとのことなので、あたしは服を脱いで全裸になった。裸は気持ちいい。
 自宅の自分の部屋で、時折裸で過ごしたことを思い出す。きっかけはなんだったろう? あまりに暑い夜、風呂上りの火照りが冷めず、あたしは廊下や階段に人の気配が無いのを確認し、狭い脱衣場から素っ裸のまま自分の部屋に向かった。そして、そのままでいくばくかの時間を過ごした。
 裸でいることの快感。ちょっとエロチックな気持ちになって、脳裏に恋人といちゃついている自分の姿なども思い浮かべながら、姿見に自分を映してみる。ただそれだけで濡れた。覚えた手のセックスに夢中になり、放課後毎日彼に抱かれた。最初は痛いだけだったけれど、2日目には身体の奥に快感の芽が顔を出し、3日目にはすっかり痛みは消えうせて喘いでいたっけ。 4日目はあたしの部屋も彼の部屋も確保ができなくて(どちらの家にも両親がいたのだ)、公園でいちゃついているうちに、あたしは立ちバックで挿入された。スカートは身に付けたまま、パンティだけ膝まで落ちている。あたしはそのときの光景を鮮明に記憶している。人の気配を感じながら、絶頂を迎えたことも。
 そのとき、全身を駆け抜けたあの力強いエネルギーはなんだったのだろう?
 あれからあたしは何度もセックスをしたし、エクスタシーの頂上はどんどん高くなっていったけれど、あのエネルギーを再び感じることはなかった。……この世界に来るまでは。
 あの日以来、あたしは時折、ひとりの時間を裸で過ごす。彼のことを思い出しながら。そして、あたしの中心部に放たれた熱い彼のエキスが太ももを伝ってゆっくり落ちてゆく感触を、何度も何度も反芻した。

 あたしにはもうわかっていた。こちらの世界に来て、パワアを感じたり放出したりするときに得る快感は、あの日の力強いエネルギーと全く同質のものであることを。
 あたしは、ゆっくりとプールに浸かった。
 立ったままだと、膝すらも水の上だ。浅い水深。あたしはゆっくりと腰を下ろし足を投げ出した。プールは中央部に向かってかすかに傾斜しており、浴槽のふちに頭を載せるととても具合がよかった。
 目を閉じる。
 ピラミッドの中に密閉されているはずなのに、目を閉じると、あたしは建物の中にいるような気がしなかった。大自然の中に投げ出されたような気がした。静かで、穏やかで、それでいて力がみなぎっている。
 水温があたしの体温と同じなのか、暖かさも冷たさも感じなかった。ただ、肌の表面をさわさわと撫でていくだけ。
 草原を渡る微風のようでもあり、優しい彼の指先のようでもあった。

 まどろむ、というよりも、浅くて短い気絶をあたしは繰り返した。覚醒しては意識を失った。喉の渇きを覚えてあらかじめ用意された水を口に含む。なんの味もしなかったが、喉の渇きだけでなく、全身が癒されるようだった。
 水を飲んだ後は、プールに戻った。不思議とベッドに横になりたいとは思わなかった。あの水の中でまどろみたいという欲求しかなかった。
 どれくらいそうやって過ごしただろうか。
 パーメに声をかけられた。通路との出入りが出来るように、楕円形の穴がピラミッドにうがたれ、その向こうにパーメが立っていた。
「少し予定の時間より早いんだけど」と、パーメが言った。「フルダ先生が、待ち構えるより、先制攻撃をしようって」
「うん、わかった」
 あたしは落ち着いていた。穏やかな気分だ。戦闘前の精神状態じゃない。昂ぶるものがあたしの中には全くなかった。
 でも、戦いの準備があたしの中で整っていることは、痛いほどわかった。

つづく

 



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