青 空
=9=

 


 火曜日、私は出社と同時に「ちょっと出かけてくる」と元所長代行に告げた。仕事がなくて日がな一日机の前に座っているのは私の性に合わない。転勤してきたばかりなのだから、いかにお呼びでなくとも町の雰囲気ぐらいは掴んでおくべきだろう。

 あわよくば、という気持ちもあった。あわよくば、飛び込みセールスで契約の1件もとってやろう、と。
 このまま座っていたのでは、出張所の廃止後は次にどこへ飛ばされるかわからない。肩叩きが待っているだけかもしれない。さらなる閑職にまわされたらそれこそたまったものじゃない。
 本社に帰りたいとは思わないが、仕事をしてそれなりの業績を残さなくては元営業一課長の肩書きが廃る。
 というよりも、意地のようなものだったかもしれない。

「所長、それは困ります」と、元所長代行は言った。
 私に向かって「それは困ります」などという部下は本社にはいなかった。
「所長不在でロクに外回りに出られず、困っていたんです。何度も本社に頼み込んで、ようやく来ていただいたんですから、ともかく所内に居てください」
 私は「わかった」と答えた。
 彼らはわたしがトバされて来たとは思っていないのだと知った。所長不在では業務に差し障るからと、本社への懇願が叶っての人事だと思っているのだ。それならば、仕方あるまい。
 私は席を外すのを諦めた。頼りにされるのも悪くはなかった。

 営業1課の時は何度も部下を見放すような発言をした。それでいいと思っていた。だが、彼らは私を頼っていたのだ。少しは何かをしてやればよかった。今更そんなことを思っても後の祭りだが。
 しかし、「頼りにされているのだ」といい気になったのもつかの間だった。私の役どころは実のところまるでないのだ。それはしばらく所長の椅子に座っていて思い知らされた。
 電話応対や宅配便の受け取りなどは事務の女子社員で間に合うし、逆に私では電話に出たところでなんら事情がわからない。たまの来客も名刺交換と挨拶をするだけで、「担当の○○さんがおられないのでしたら」と、そそくさと帰っていく者ばかりである。
 女子社員は「所長さんが居てくださって助かります。私だったら携帯で担当の人を呼び出したりして、結局、すぐには戻れないので後ほどこちらから連絡しますって言うだけですから」。私がいたところで同じである。業務はなんら進展しないまま世間話をしてそれで終わりなのだから。ていのいい留守番である。
 女子社員は来客の度にお茶だけ出して、会釈のひとつを残して自分のデスクに戻る。なるほど、目の前に積み上げられた事務処理が滞りなく済んで、さぞや私の存在はありがたいであろう。

「あなた、会社から電話よ」
 妻がコードレスの電話機を持って寝室にやってきたのは夜の11時を回った頃だった。
「いったい誰だよ。こんな時間に」
 私はもう眠ろうとしていたのだ。
「サポートセンターの末次さん、っておっしゃったわ」
 そんな部署とは縁がないし、末次という社員とも面識はない。いったいなんだろう。首をひねりながら受話器をつかんだ。
「萩原所長ですね。夜分恐れ入ります。これから大阪支社へ向かってください」

 我が社が県庁所在地以外の拠点を廃止するのは、別にリストラのためだけではない。都道府県単位でひとつの支社に人員を集中配備することによって、それぞれの拠点を強化し、これによって顧客満足度をあげて、他社との差別化を計り競争力をつけるのが目的である。もちろん同時に合理化にも力を入れているが、希望退職者を募ったり肩叩きしたりなどの人員整理は行われていない。せいぜいポストが若干減るくらいである。

 これに伴って新設されたのが「宿直制度」であり、サポートセンターだ。顧客はマシントラブルやサプライ用品の急な不足などのさい、サポートセンターに連絡すれば、365日24時間直ちに対応するというものである。人員がばらばらとあちこちに散っていれば不可能だが、拠点集中させることによって、このようなサービスが可能になった。
 取引先だって夜間は通常業務を行っていないが、例えば締切りがせまって徹夜状態で残業しているときに我が社の製品がトラブったりしたら、このサービスは有難いだろう。このサービスをウリにして新規顧客の獲得だって出来る。
 連絡を受けたサービスセンターは直ちに最寄の支店に連絡をし、待機していた社員がすぐに出動するのだ。
 しかし宿直は一人だから、出動すると支店が無人になる。こういうときのために自宅待機の「宿直2番手」がいる。サポートセンターはこの2番手に連絡を取って出社させ、さらに何かあったときのために出動準備をして待機させるのである。

「2番手がいるだろう?」と、私は言った。
「申し訳ありません。大阪支店は3番手までおりますが、どういうわけか呼び出しが重なってしまって、最後の手段なんです」
「しかし、私は営業だから、メンテナンスとかそういうことは出来ないが」
「すいません。さらに何かあったときは京都や神戸から人を回します。とにかくセンター長の指示なんです」
 なるほどな、と私は思った。
 左遷させるだけでは飽き足らず、こういう嫌がらせもしてくるわけか。
 ともあれ、ここで私が拒否したところで、オペレーターの末次とやらが困惑するだけである。
「わかった。行こう」
「ありがとうございます」
 そのかわり、明日は出張所には出なくてもいいそうだ。出張所への連絡も末次の方で済ませておくと言ってくれた。手回しがいいのには感心するが、「所長が出張所にでなくていい」などと言われても、喜べない。

 私は妻に事情を説明し、高速道路を飛ばして大阪へ向かった。
 交通量が少なく夜中のドライブは快適だ。お気に入りのテープを聴きながら車を走らせる。業務命令でやむを得ずこうしているのだというのを忘れる瞬間がふと訪れる。夜中の空いた道路。照明の無い高速道路は自分の車のヘッドライトが照らす範囲だけが全ての世界だ。この世にたった一人、まるで王様になったようで気分が良い。
 対向車のライトを浴びるたびにそのささやかな幸福は霧散してしまうが、いつしかまた自分ひとりの世界に浸る。
 大阪に近づくにつれそんな時間は減少し、やがては無くなる。市内に降りると、だだっ広い道路と煌々と照らされた街灯にむなしさが募り、それでもこんな夜中に交通量は予想以上で、いったいみんななんのために起きているのかと思ったりする。
 大阪支社に到着する。そして、私は打ちのめされた。

「福知山出張所の所長さんに、待機命令が出たんですか?」
 驚きの声を上げたのは、業務を終えて支社に戻っていた「宿直1番手」の若手社員だった。
「そうですか、今日はたまたま3番手にまで動員がかかってしまったんですか。それにしても、僕だってメンテを終えてすぐに『社に戻ります』ってセンターに連絡したんですけどね。申し訳ありません。遠くから・・・・」と、いいつつ、その若手社員は首をひねった。「確かに4番手までは決めていませんが、それにしても、出てこれる人はいるはずなのになあ」
 私が左遷という憂き目に会い、ちょっとした嫌がらせのターゲットにされていることを彼は知らない。
「さあな。それより宿直業務なんて新しいことが始まって、キミたちも大変だな」
「大変といえば大変ですけど、昼間と違ってそのお客様だけを対象に動けますし、感謝もされますし、お客様とゆっくり話も出来ますから、こういうサービスも我が社の特徴になるでしょうね。呼び出しのかからない日は、誰に邪魔されること無くゆっくり事務も出来ますし」
 彼の捉え方は前向きだ。根っから真面目で熱心なのか、それとも、左遷されたとはいえ立場的に上の私に対して優等生的な返事をしているだけなのか、判断は出来ないけれど。いずれにしても、彼の受け答えは爽やかで好印象だった。
 福知山でも感じたことだが、本社よりも地方の方がみんなイキイキしているような気がする。

「お茶でもいかがですか」
「ああ、ありがとう。しかし、それよりもソファーかなにか貸してくれないか? 少し横になりたいんだ」
「なら宿直室を使ってください。僕はどうせこれから、さっきの出動に関しての書類を作らないといけませんから」
「書類などすぐに作れるだろう。宿直室はキミが使いなさい」
「いえ、いいですよ。もうすぐ朝ですし、宿直のあとはすぐに帰れますから」
「そうか」
 彼の好意に甘えることにした。

 彼は他の社員が出社する前に私を起こしてくれた。大勢出社してくれば、またひととおり説明をしなくてはならない。それは「ご面倒でしょう」という気遣いだ。もっとも彼だってそれが面倒だったのだろう。
 応接コーナーにはコーヒーと新聞が用意されていて、テレビではニュース番組が流れていた。
 私が眠っている間に彼は、事の流れをセンターへ連絡すらしていた。「自分が出先から戻ってきたので、福知山の所長には仮眠していただいています」と報告したのだそうだ。
 本社で上の命ずるままに非合理的だと知りながら私に連絡してきた末次というオペレーターも、この若者の気遣いに少しは感じるものがあるといいのだが。それとも、ただの現場からの報告として、書類を作るだけなのだろうか。
 私は本社というところはどこか何かが間違った動きをしているのではないか、そしてそのことに誰も気付いていないのではないか、そんなことを思いながらコーヒーを飲み干した。

 大阪から福知山に戻った。9時30分になっている。勤務開始は9時である。宿直交代要員で大阪に出張ったため、私が今日、勤務に出ないということはとうにセンターから伝わっているだろう。このまま帰宅してもいいのだが、気になって社に顔を出した。
「あれ? 所長、今日は遅かったんですね。ご自宅からの連絡もないし、ちょっと電話をしてみようかって話していたところなんですよ」
「え? あれ? 本社から連絡は来ていない?」
「何の連絡でしょうか?」
「いや、いい」
 やれやれ、すっぽかされたか。連絡をしておくと言いながらしない。おそらくこれも上からの命令だったのだろう。

 大阪で仮眠させてもらえたおかげか頭の中はすっきりしている。妻にこのまま勤務に就くと連絡をして、私はデスクワークを始めた。
 あれほど活発に動き回っていた部下たちは、なぜか今日は誰一人として外出しようとしない。事務専門の女性がパソコンとにらめっこしているのはともかく、5人の男性社員も難しい顔をしている。福知山出張所の日常を知っているわけではないが、どうも雰囲気がおかしい。
 彼らの顔を見れば、「いつもとは違う」ことがわかる。表情が暗いし、時々何かを考え込んだようになっている。営業とはいえ机にかじりつかねばならないことも当然ある。本社と違って地方ではなおさらだ。
 私はすることもないので、ここ1ヶ月間の業務日報に目を通していたが、誰も席を立たないのなら留守番は必要ない。私は町の様子を見てこようと立ち上がった。
「あ、すいません、所長」
 タイミング悪く呼び止められる。
「どうした?」
「あの、この書類なんですが」
 それは一枚のファックスだった。至急扱いで「以下のデータを提出せよ」と本社監理部から送られてきたものだった。

 私は一通り目を通して、返事した。
「これくらいのデータはあるだろう?」
「しかし、日常的に集計などとっていませんから、ひとつひとつ日報から拾い上げないといけません」
「日常的にはやっていないのか」
「社員別、取引先別、訪問時間一覧・・・。確かにこんなものは無意味だな」
「日報は書いていますから、記録は残っていますけど、過去1年分を拾い上げて集計するなんて、労力の無駄ですよ」
 わずかながら文書がそえてあり、特定の取引先との癒着・不正行為その他が行われていないかどうかの点検材料にするらしいと読める。
「とりあえず、自分の分は自分でやろうということになって朝から始めたんですけど、得意先とかもまわらないといけませんし、こんなもの明日の午前中に提出なんてとても出来ません。所長の方から本社に取り繕っていただけませんか?」
「ああ、わかった」
 本社の返事はこうだった。
「社員が忙しいのなら、キミがやれ」
 大阪へ夜中に走らされ、「明日は社にでなくていいから」などと指示が出ていたことなど、全く知らないようだった。 

 1年50週として、一人当たりの勤務日数が約250日。事務専門を除いて5名の所員がいるから、合計1250日。1250枚の日報を集計するのか? 私一人で。明日の午前中までに?
 そうか、これがいじめというものか。
 地方に飛ばされたものをいたぶる手段など、いくらでもあるのだ。

 命令の出所はおそらく取締役兼営業部長の坂崎だろう。もう私は彼の部下ではないのだから、私が何をしたところで彼の昇進には影響が無いはずだが、常務取締役を目の前にして万難を排しているのかもしれない。肝の小さな男だ。
 そのわりには、読んでいる。
 本社から不合理な業務命令が来て、所員から所長である私のところに「泣き」が入る。そして私が本社へ「どうなっているんだ?」と連絡が来れば、「キミがやれ」と誰かに言わせればいい。
 泣きが入らなければ、放って置いたらいい。そして、提出期限に間に合えば「ご苦労様」、間に合わなければ「所長の責任は……」ということなのだろう。

「必要なら本社でやってくれ」と全ての日報を宅急便で送りつけてやろうかと思ったが、やめた。
 目的が「正しい会社の運営」であり「それが必要なこと」ならば、本社から監査員がやってきて自らやるだろう。あるいはむこうから「解析をするから直ちに全ての日報を送れ」と指示してくるだろう。
 不正があってはいけないからといいつつ、その資料作りを「不正をやってるかもしれない当人」に任せるなど、この業務が実は何の意味もなく、私を困らせるためだけのものであると理解することが出来る。

 ならば対応は簡単だ。適当にでっちあげればいい。適当にでっちあげたデータが果たして本当に日報から拾い上げたものかどうかを点検することなどしないであろう。万が一、解析されてもなんら心配は無い。実際、福知山出張所の所員が不正など行っていないことは、見れば直ぐにわかる。これくらい見抜けなければ本社で営業一課長など務まるものか。
 私は取引先別取引内容一覧をパソコンから引っ張り出した。そこには、取引された日時と金額と担当者が書かれている。一日の外回りが平均5時間程度であると見当をつけ、5人の総合計外回り時間を算出する。全取引金額と外回り時間総計から1分当たりの取引金額単価を割り出して、担当者別取引先別金額にあてはめれば、それでオーケーだ。
 夕方4時には書類は完成である。
「私はちょっと寄るところがあるからこのまま直帰する。本社にはこれをファックスしておいてくれ」
 社員に言い残してさっさと席を立った。

 家族で夕食をとりながら、息子から学校の様子を聞く。
「まだ慣れないよ。何人かとは話はしたけれど、なんか、おそるおそるって感じ」
「向こうがか? それとも、おまえが?」
「どっちもだよ」
「そうか」
「それに、言葉が違うから、なんか馴染み辛い」
「だろうな」
 福知山は関西圏だから、言葉はいわゆる大阪弁だ。大阪や京都とは微妙に違うはずだが、そこまで私にはわからない。
 所員たちはそれなりの言葉を使ってくるが、学校ではそうはいかないだろう。
「慣れるのに、時間はかかりそうか?」
「わからないよ、そんなこと」
「そうか」
 夕食の後、真人はすぐに自室に引っ込んだ。
 妻が酒を出してくれる。
「気にしなくていいわよ、きっと。他所から転校生が来た。それ以上でも以下でもない。そんな気がするの」
「ああ」
 その夜、久しぶりに妻を抱いた。


 

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