青 空
=10=

 


 土曜日の夜、私はミーティングを持った。出張所のメンバーは迷惑そうでもあったが、所長からの号令とあれば従わないわけにはいかない。
 予算がさほどあるわけではないので、会場は居酒屋である。しかし、それでも個室を用意した。ただ部屋が仕切られているだけで、他の酔客の喧騒がそのまま届く。
 その中で、我々だけがシーンとしていた。
 なにしろ宴会ではない。ミーティングなのである。

「そういえば、所長の歓迎会、やっていませんでしたよね」
 空気の重さに耐えかねたのか、一人が言った。私はこれから自分が語るべきことを頭の中で反芻していたので、誰が喋ったのかは覚えていない。
「お、おい、それは……」誰かがたしなめ、「あ」と小さな声が聞こえた。私が左遷で本社からこの地に格下げでやってきたことも、そろそろ所員たちに知られ始めていた。
「いや、いいんだ」と私は言った。

 いくつかの料理が並び、形ばかりのカンパイのあと、私は口火を切った。
「会社の新体制構築の構想はみんなも知っているだろう。それに伴って、この福知山出張所は閉鎖される。キミたちにも、それを前提に日々の仕事を進めてもらっている」
 一座を見回すと、下を向いたままの者もいれば、小さく頷くメンバーもいた。
「だが、このままでいいのか?」と、私は強い語調で言った。
 何人かが顔を上げたが、すぐにまた視線をテーブルに戻した。

 この日の私の演説の要旨はこうである。
 会社の方針に従って業務をすすめるのた当然のことだ。だが、漫然とソレに従っていていいのか?
 新製品の売り込みも、新規開拓もせずに、ただ引き継ぎが円滑にいくようにと覇気のない仕事をしてていいのか?
 機構改革が多少の混乱を招くのは当たり前のことである。だからといって、その混乱を最小限に抑えるためだけに仕事をしてて、それで会社に貢献してると胸を脹れるのか? ともかく減っているのだ。
 ここ数ヶ月の成績を見せてもらった。取引高は微減である。激減していないのは評価できるが、そんなものを評価しているのは本社だけだ。仕事人として自分自身納得できるのか?
 会社という組織の中では、どこでどんな仕事をさせられるかについて個人の思惑の入る余地は少ない。けれど、与えられた立場の中で、最大限自分の力を振るうことこそ、生甲斐じゃないのか?
 もっとやれるのにと思いながら、会社の方針のために力をセーブして働くのは辛いだろう?

 私の独壇場だった。ひとりで喋り続けた。こんなものはミーティングでもなんでもない。しかし、私は会社に一矢報いたかったのだ。閉鎖予定の出張所の閑職に飛ばされたなんぞと、誰にも言わせたくなかった。たとえ会社の方針がそうであったとしても、前向きに動きたかったのだ。
 酒も食事も、私がいいというまで適当に追加して運んで来いと店には伝えてある。誰も何も注文しないのに、いつのまにかテーブルには様々なメニューが並び、所員たちは無意識のうちに手をつけ、酒も回っていった。
 酒が回れば景気のいい話は耳障りがいい。
 最初、俯き加減だったメンバーは徐々に顔を上げ、目も輝き始めた。
 そうだ、これでいい。
 私が口を閉じると、「俺もこれでいいのかと思ってたんだ」などの発言が飛び出し、場が一斉に明るくなった。
「引継ぎ事務とか本社とのやりとりなんかは俺が責任を持つ」と私は胸を張った。
「新しい仕事をとって文句をいうやつなんかいやしませんよ。引き継いだ後、仕事量が多いといって混乱するようなやつはそいつがヘタレだからですよ。ガンガンいきましょう」
 心強い応援演説があちこちから飛び出して、酒宴は盛り上がった。

「あなた、もう、こんなに飲んでらして……」
 ふらつく足で玄関を上がると、妻は呆れた口調だった。
「真人はどうしてる?」
「もう寝てるわよ」
「そうじゃなくて、学校ではどうなんだってことだ」
「さあ。徐々には馴染んできてるみたいだけど……、やっぱり転校生だから。でも、特に問題は起こってはいないようね」
「そうか。それなら、いい。それなら」
「よくはないわよ」
 上機嫌だったわたしも、妻の気勢が上がらないことにようやく気がついた。
「何かあったのか」
「あったけど、明日でいいわ。もう、こんなに酔って……」
「ちょっと嬉しいことがあってな」
 私はこのとき、妻の気がかりを察することができずにいた。もう少し酒量を控えていたら、話を聞くこともできたのだが……。
「とにかく、今日はもう寝ましょう。歩ける?」
「バカにするな。ここまで歩いてきたんだ」
 そう言いながら私はどうやら玄関で寝込んでしまったらしい。

 翌日、目を覚ましたのは昼前になってからだった。私の姿を認めると、妻はコーヒーを用意してくれた。そして、寝転がってテレビを観ていた真人を呼び寄せた。
 コーヒーに口をつける私の前で、妻も真人も神妙な顔をして座った。
「いったいどうしたんだ。なにかあったのか?」
 そう問う私の目の前に、妻は一通の手紙を差し出した。
 そこに書かれていた内容は、昨夜の上機嫌を打ち砕くのには十分だった。

 差出人は、息子たちのいじめが原因で自殺した蓑田君のご両親だった。筆跡が男性のもののようで、おそらく父親が書いたものと思われるが、封筒の裏の差出人はご両親連名になっていた。
 ありきたりの季節の挨拶に始まったその手紙は、「決着をつけたいので皆様にお集まりいただきたい」という内容である。
「心に開いた空間は埋まらないが、いつまでもこうしているわけにはいかない。息子にとっても私たち両親が抜け殻のような生活をするのは本意でないだろう」
「日参してくださる方もいまだにおられるが、諸事情で遠方へ住まいを移された方もおられることだし、区切りをつけておくべきではないかと考えた」
 など、前向きととれる言葉も見受けられるが、これまでの経緯から考えても、「慰謝料」の話でと思うと妻は言った。
 私もそれには同意した。しかし、金だけの問題ではないに違いない。「ご本人、ご両親揃っておいでください」と書かれているところから、私はむしろ金の話というより、延々と罵りの言葉を浴びせられるのではないかと思うのだ。
「金の話なら、何も息子まで呼び出すことはあるまい」
「でも、あの方なら、子供たちがいる目の前で、お金のことを言うんじゃないかしら」
「そうかも知れないな。だが、金の話だけで済めばいいんだが」
 子どもたちはもう十分に精神的な重圧を受けている。それは「反省」だとか「更正」だとかいう言葉で表すことができるほど、気軽で単純なものではない。日参して頭を下げたにもかかわらず誠意の通じない父親。いつまでたっても後ろ向きな態度。将来のある子どもたちへ与える影響を考えずに自分の感情だけを露にできればいいとするエゴイズム。
 我が子を失った悲しみは私になど想像がつかない。しかもそれが、不可抗力などではなく人為的なものであり、その当事者たちが目の前にいるという事実。それで平静を装えというのは無理な話かもしれない。けれど、彼が子を大切に思っているように、我々だってそうなのだ。そこのところへ思いが至れば、抑え切れなかったとしても、なんとか感情を抑えようとするだろう。
 それが蓑田君の父親に全くない。
 言いたいことだけを言う。
「あんたのような父親に育てられたから、いじめられたくらいで自殺するようになるんだよ」と言いたくなる所以だ。
 もし、私なら、死んだりせずに、逃げるだろう。
 死という取り返しのつかない決定的な出来事を相手の心に刻み付けることによって、永遠に息子たち当事者の心を蝕もうとするそのアンフェアな根性が、なるほどいかにも蓑田家らしいやりかただとさえ思えてきた。

 人はいつか必ず死ぬ。親しい者の死を、残されたものは乗り越えていかなければいけない。
 私は真人にそのことだけを学ばせようと思った。もはや自分のいじめが原因だったとか、遺族にどのようなフォローをするべきなのかとか、そんなことはどうでもいいように思えてきた。私が守るべきものは自分の子供であり、真人と一緒になっていじめをした、けれど今を確実に生きている子供たちであった。
「いくつか、電話をいただいたわ」
「電話?」
「真人の同級生の保護者の方」
「ああ。それで?」
「萩原さんは遠方ですけれど、お越しいただけるんでしょうか、って」
「行かないわけにはいかんだろう。私もいつケリがつくのか、気が気でなかったよ」
「いやだ。ケリをつけるだなんて」
「でも、そうだろう?」
「そうね」
 手紙には日時まで指定してあった。水曜日の午後3時、ということだった。
「順次ご到着される皆様と、その都度、顔をあわせてご挨拶申し上げるのは辛さの極みです。どうか皆様おそろいの上でお越しください」とあり、そのことについては妻が菊村さんの提案を了解してくれていた。
 指定の日時の5分前までに、蓑田家の玄関前に集合とのことだった。
 主犯格だったとはいえ、こんなことまで幹事的な役回りをせざるをえない状態になっている菊村さんの気持ちを察すると、本当にこれで最後にしてしまいたかった。

 月曜日。私は仕事の合間に妻と待ち合わせて学校へ行った。積極的に外回りをしよう、新規契約を取ろうという雰囲気が盛り上がっているので、「所長自ら外出する」ことにも、もう所員たちは不平を漏らさなかった。
 学校で担任の先生と会う。用件は、水曜日からしばらく学校を休ませて欲しいと伝えることだ。蓑田家訪問が真人にどんな影響を与えるかわからない。だから、翌日すぐに学校へ復帰できるかどうか、私たちには自信がなかったのだ。
 担任は転校までの経緯を知っている。だから、事情はすぐに理解してくれた。
 私も水曜日から先、今週一杯会社を休むことにしている。
 蓑田家訪問を終えた後、家族で数日、旅行でもしようと私も妻も考えていた。

 左遷だったはいえ、会社事情の転勤だ。予想外に経費を補助してくれたし、それこそこれまでレジャーだのなんだのにさほど縁がなかった我が家である。妻によるとそれなりの蓄えはあるらしい。真人の進学や結婚に備えたものでもあったらしいが、ここで心に深く傷を負ってしまえば、それどころではなかろう。
「貯めた金も、使うタイミングを逸したら、ただの紙切れ、ゴミだ」と私は妻に言った。妻は喜んでくれた。

 この時点で、私も妻も、真人の精神状態とは関係なく、ことが終わったら旅行しようという気になっていたのだと思う。浮世離れした贅沢をするのもいいと思った。何もない不便極まりない場所でただただ大自然だけを堪能するのも良いと思った。いっそ海外にとも考えたが、真人はパスポートを持っていない。
「現金、用意しとかなくてもいいか?」
「銀行なんて向こうにもあるわよ。カードだってあるし」
「そうだな」
「それにあなた、現金持ってたら、どうなるかわからないもの」
「なんだよ、それ」
「話がこじれたら、その現金投げつけて席を立つでしょう?」
「かもしれんな」
「そんなことになったら、旅行に行けなくなっちゃう」
「俺のこと、よくわかってるじゃないか」
「何年一緒に暮らしてると思ってるの?」
 軽口を叩きあい、目の前に迫った重苦しい現実を忘れられたひと時だった。

 当日、時間までに蓑田家前に集まったのは20人近かった。子どもたちは5人。それぞれの両親が来たとしても合計15人。父親のいない子がいるが、これまでと同じく祖父が同行している。それ以外にも年配の男女が何人かいるし、襟に弁護士のバッチをつけた者もいた。
 近所の目から見たら異様だったろう。平凡な一軒家の前にこれだけの人数が集まったのだ。しかも、なにするともなくただ立っているのだ。
 みな、一様に声は小さい。が、思い思いに言葉を交わすものだから、ざわついている。それにくらべて、我々の目の前にある蓑田家はシーンとしていた。物音ひとつ聞こえない。いや、物音がどうこうというのではなく、そこにある家屋がなにやら重々しく、喧騒を寄せ付けないのだ。無言の闇を発しているような奇怪さすら感じた。
「時間ですね」と、菊村氏が言った。
 あらかじめ手紙で指定されていたので我々はそれに従った。呼び鈴を押さず、玄関の扉を開けて、靴を脱ぎ、家に上がれというものだった。

「ちょっとまってください」
 声をかけたのは弁護士のバッチをつけた男だった。
「みなさん、感じませんか? 匂いませんか?」
 このとき既に、7人が靴を脱いでいた。私はその中の一人だった。先頭は菊村氏だったと思う。家に上がってからは「どの部屋へ来い」などとの指定はされていなかったが、これまで何度も手を合わせに通った家である。勝手は心得ている。祭壇のある部屋──それはおそらく、それまでは居間だったろうと思われるところで、キッチンと一体化している──へ、誰もが行くものと思っていた。菊村氏はなるべく音を立てないように静かな足取りだった。
 8人目が靴を脱ぎ終えて上がろうとしていたところで、そのあとに続いて3人が狭い玄関にひしめいていた。
 残り9人も、静かにはしていたもののかなり密着した状態で順番を待っていた。
 弁護士の「匂いませんか?」の一言で、やっと私も気がついた。確かに匂う。ガスが漏れている。それもかなりの濃度だ。玄関の扉を開けたその時に気がつくべきだったが、緊張のあまり鼻が効かなくなっていたらしい。
「おい、ガス漏れだ」
「俺たちを道連れに心中するつもりだぞ」
「逃げろ」
「窓を開けろ」

 次の瞬間、我々は折り重なって狭い廊下に倒れていた。
 妻は、真人はどうしている?
 私は私の上に重なっている肉体を押しのけ、なんとか上半身を起こした。肘に激痛が走っている。倒れる瞬間に手をつこうとして間に合わす、床に肘から落ちたらしかった。その上に誰かがのしかかってきてさらに痛めた。
「おい、早く逃げろ」
「窓を開けろ」
 叫び声が交錯する。
 妻も真人も、玄関を入るか入らないかのところで倒れていた。
「さっさと逃げろ!」
 私は大声を上げたが、中で何が起こったのか確かめようとしているのか、列の最後尾はまだこの家に入ろうとしている。
「バカ野郎。戻れ! 来るな! 戻れ!」
 私は下半身の上に倒れてもがいている誰かの母親を、悪いとは思ったが蹴り飛ばした。うめき声と鈍い音。私はようやく立ち上がった。
 妻も立ち上がろうとしているところだったが、回れ右する気配はなく、さらに中を覗き込もうとしている。
「来るな! 逃げろ!」
「痛い痛い痛い」
「ぐわああああ〜〜〜〜」
 阿鼻叫喚とはこのことか。泣き叫ぶ声に消されて、肝心の情報を伝達することが出来ない。
 狭い廊下に折り重なった人間を掻き分けて出口に向かうのも相当困難なように思えた。このまま進退極まったら、全員が道連れだ。
「静かに! 騒ぐな! 走るな! 火花を出すな! ゆっくり待避だ!」
 どこにも冷静なヤツはいるものだと思ったが、感心ばかりもしていられない。このままだとガス中毒になるのは目に見えていたが、爆発に巻き込まれるよりマシだ。転倒から免れた先頭の菊村と目で合図をして先へ進む。とにかくガスをなんとかしなくては。
 私はすぐ右手にあった扉を開け放った。そこは洗面所で、さらに正面が小窓だった。クレセント錠をそっと回し、窓をゆっくり開ける。火花を飛ばしてはならない。だが、窓は開かなかった。力を入れてもダメだ。思考が鈍り始めていることに気がついた。
 窓はガムテープで目張りしてあった。ゆっくりと剥がして、窓をそっと開ける。外から流れ込む空気を2・3度吸って息を止める。
 洗面所の左右の扉はぞれぞれトイレと洗面所で、やはり小さな窓しかない。扉を開け放ち、やはり厳重に目張りしてあるガムテープを剥がして窓を開け、そのたびに外の空気をタップリと肺の中に入れた。

 廊下に戻ると、なんとした惨状か。誰もが何度も立ち上がり、そして倒れたものと思われる。額に血がこびりついているもの、どこを痛めたのかは判然としないが苦痛に顔をしかめてその場にうずくまる者と様々で、待避できたのは列の最後尾数人のように思われた。
「だ、誰か、外に回ってガスの元栓を締めてくれ。119にも電話だ!」
 玄関は開放されているが相変わらずガスの匂いは強い。いくつかの小窓を開けたくらいではどうにもならなかったのか。それとも、これから少しずつでもマシになっていくのか。そんなことはわからない。ともかくガスを止めなくては。
 既に何人かはガス中毒にかかりはじめていて、廊下でぐったりしている。
 しかし幸いなことに誰かが私の叫び声を聞きつけてくれたのだろう。玄関の向こうで人影が動いた。
 ともかく、換気だ。

 私は居間へと足を進めた。そこには、呆然と立ち尽くす菊村氏の姿があった。蓑田君のご両親が首を吊っていた。
「ちくしょう。やはり道連れにする気だったのか」
 ドサリと菊村さんが膝から崩れた。
「おい、しっかりしろ!」
 首吊り死体を前に足がすくみ、その間にどんどんガスにやられていったらしい。
 私はこみ上げるものを我慢しながら、とにかく窓を開ける。
 居間にはそのまま庭に下りることの出来る大きな窓がひとつ。そして、明り取り用の普通の窓がひとつ。居間とドッキングしているキッチンにも、上下幅は小さいが左右に広い窓がある。やはりそれぞれに目張りがしてあるが、私は居間のふたつの窓を順に開放し、その都度外の空気で深呼吸をして、キッチンへ向かおうとした。
 外の元栓を閉めるのが早いか、こちらでキッチンのガス栓を閉じるのが早いか。
 私の後を追って動けるものが誰かやってきていたらしく、既にキッチンに取り付いていた。そして、その男は、あるスイッチに手を伸ばした。
「あ、よせ! バカ野郎!」
 力の限り叫んだが、間に合わなかった。
 換気扇の紐を男はひっぱり、その瞬間、爆発が起きた。


 一番ガス濃度の濃いキッチンで、換気扇の紐をひっぱった男は、蓑田君の父親の兄だった。

「いつまでもこんなことをしてても仕方ないだろう? お前もいいかげん気持ちにケリをつけて、仕事もはじめろ。もう一人子供を作れ」
「わかってるよ兄さん。明日、全てのことに幕を引くよ」
「幕って、お前……」
「心配しなくていい。きちんと話をつけて、もらうべき金もとる。だから兄さんは来なくていいよ」

 前夜、そんな会話が電話で交わされていたと、その妻が後に警察の事情聴取に応じて語ったという。
 しかし、どうしても気がかりでやってきてみれば、ガスを使ってみんなを道連れにしようとし、自らは首を吊っていた。
 なんとかその場を打開しようと必死の思いで換気扇を回したのだろう。火花が引火するかもなどと考える余裕はなかったのだろう。彼は死んだ。

 菊村氏も死んだ。ふたつの首吊り死体を前に金縛りにあい、爆発、火災。逃げることすら思いつかなかったに違いない。
 私はというと、爆風で飛ばされて前後左右を見失ったけれど、必死で身体を動かした。庭へ通じる窓を開けておいたのが幸いだったとみえ、かろうじて家屋からは逃げ出したらしかった。そのあたりの記憶はない。庭に倒れているところを救急隊に助けられた。右目と左足を失った。庭石にぶつけて脊髄を痛めたらしく、残った右足も動かない。一生車椅子の生活だ。

 妻は命を取り留めたが人相がわからないくらいに顔に火傷を負った。

 全員が無傷ではなかった。ガス中毒の後遺症にずっと苦しめられるもの、身体の一部をなくしたり機能を失ったもの、精神に異常を来たしたもの、一生消えないケロイドを残したもの……。

 真人は外傷はたいしたことなかったが、言葉を失った。火事で喉の奥まで炎を吸い込んだためかと最初は思ったが、精神的なものだった。妻が通帳や印鑑や証券類などの全財産を持ち出していたので、真人の身体が回復すると、それを渡した。どうやら妻は、旅行ではなく、このままどこか新天地を探してそこに住み着き、いちから始めることまで念頭に入れていたようだった。
 私と妻の入院治療費は保険や退職金でなんとかなるだろう。
 だから、とにかく今、真人に渡せるもの全てを渡して、言った。
「失踪しろ。何もかも捨てて、いちからやれ」
 義務教育すら終えていない子どもにいったい何ができるだろうか。いくばくかのお金があったとしても、それが何になるだろうか。
 けれど、私は真人の生命力に賭けてみたいと思った。

 どんなことがあっても、生き延びろ!


 

おわり。

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