約束の場所は君のために
(1)ユキちゃんを抱いた





 助手席、という考え方は日本独自のものらしい。
「私の車でお送りしましょう」などと言われたとき、海外では、前の席に座るのが常だそうだ。自分一人しかいないのに後ろの席に座るのは、「おまえは、職業ドライバーだ」と言ってるのと同義語なのだと教わった。
 海外では、という説明の仕方に僕は少し不安を覚えた。なぜなら、おしなべて海外ではそうだ、という保証なんてないだろうと思うのだ。こういう習慣は国によって違うはずだ。
「だって、彼女を乗せるとき、君は後ろに座らせるか? 違うだろう? 隣に座らせるに決まっている。日本で言うところの助手席は実は特等席なんだよ」
 確かにそうだろう。しかし僕は今、その特等席に嫌なヤツを座らせているのだ。
 教習所の教官である。
「脱輪して平気なのは教習所だけだからね。踏切で脱輪したら大変なんだよ。わかるよね。路肩すなわち蓋をしていない溝、ということだってあるんだからね。気を付けなさいよ」
 気は付けていても運転技術が伴わないのだから仕方ない。
「危ない危ない。それは本当に下手ですよ、あなた」
 下手だから教習所に通っているのだ。僕がちっともうまくならないのは、あなたの教えかたが下手なのですよ、とは言えない。


 僕の通う大学はキャンパスが広大で、友人知人に偶然でくわすのはそれほど多くはなかった。
 しかも僕のお気に入りの場所は人通りが少ないから、なおさらである。
 僕が午前中の講義を終えて、そこにいた。
 生協で買ったサンドイッチと紙パックコーヒーを手に、ベンチに腰を下ろす。
 目の前には畑が広がり、その畑は綺麗に区画されていた。防風林なのだろう、タテまたはヨコに一列になって、区画と区画の間に木々が並んでいる。
 畑の向こうは雄大な山々の連なり。
 僕がいるこの場所自体、キャンパスなのか私有地なのか実は判断が出来かねるのだけど、「キャンパススケッチクランクアップ記念 映画部」とベンチに書かれているから、やはり大学の敷地なのだろう。
 僕はこの映画部の作った作品を一度だけ見る機会に恵まれた。
 映画では、ベンチは反対向いていた。僕のお気に入りの風景をバックにして、ベンチに座った登場人物の会話のシーンを撮るためだ。
 今は、ベンチに座りながらその風景を見ることが出来るようになっている。
 結局その会話は、学生食堂でも教室でも誰かの下宿でも、どこでも成立するものだったけれど、僕は背景にひかれて大学の周囲をほっつき歩き、ついにここを見つけたのだ。
 場所として意味を持たなかったので、誰もそんなことを気に掛けたりはしていないようだった。
 何人かに訪ねてみたけれどはっきりせず、自分で探し当てるしかなかったのだ。
 構内の一部あるいはごく近い周辺であることは、推理でしかなかった。
「キャンパススケッチ」は徹頭徹尾大学内で撮影されていて、このシーンも当然遠方ではないと考えたのだ。
 今日の講義は2限目までと、4限目である。昼休みを挟んで3限目がとんでいる。その時間を利用して昼食をかねてここに来たのだけれど、何だかさらにもうひとつ講義を受けるのがだるくなってきた。
 もう帰ろうかなと思いながら目を閉じて、出席日数を暗算する。多分大丈夫だろう。
 ここでもう少しぼんやりして、気が乗らなかったらさぼろう、そんなことを考えて目を開けると、そこには女の子の顔があった。
 え?
 彼女は僕をのぞき込むようにしていて、僕が目を開けてもたじろぐことなく、相変わらず僕を見ていた。
「間違っていたらごめんなさい。もしかして、高安君?」
 あ!
「ユキちゃん? あ、ごめん、堺さん....」
 僕は思わず言い直していた。


 高校時代、僕と彼女は全くといっていいほど交流がなかった。
 3年間のうち、最後の一年を同じクラスで過ごしただけだ。
 とても下の名前で呼び合う仲ではなかったのだ。
 にもかかわらず、彼女は僕たちの間で、よくうわさに上ったのだ、ユキはどうこう、という風に。
 それはあまりいい噂ではなかった。
 僕たちの高校は私服で、彼女が男子生徒の目を引く服装をしていたせいもあるのだろうけれど、「誰とでも寝る」というものだった。
 真偽は確かじゃない。僕は彼女を誘ったこともないし、誘われたこともなかった。
 それに、目を引くといっても「不良っぽい」とか「派手」とかいうのではなく、さりげなくノースリーブだったりミニスカートだったり、背伸びをしたときだけおへそが見えたり、いつもは気が付かないけれど時々ドキリとさせられる、そんな目の引き方だった。
 彼女の「誰とでも寝る」という噂が話題になると、だからみんな「そう言えばそんな感じだよなあ」という具合に思ったりした。
 いかにも派手に遊び回っているという感じが全くなかったのは、ファッションもアクセサリーもさりげなく、そう、さりげないと言えば、彼女のかわいらしさも顔立ちも言動も、全てがさりげなく、物静かだったのだ。


 この瞬間、目の前にいる彼女も、本当にささやかな感じがした。清潔感だけが取り柄のジーンズに、ベージュのカジュアルシャツと若草色の袖無しV首のセーター。
「ユキちゃんでいいわよ。懐かしいな、その呼ばれ方」
 僕はドキリとした。うわさ話の中での彼女の呼ばれ方も、ユキちゃんだったからだ。でも、彼女の懐かしさはそのことではないだろう。親しい友達からはそう呼ばれていたはずだった。
 僕が返答に躊躇してる間に、彼女は発言を続けた。
「ごめん、わたしがかってに懐かしがっても、高安君にはわからないよね」
 そこで彼女は一息入れて、「ここ、座ってもいい?」
 彼女の手には、僕と同じように食べ物か何かが入っているらしい紙袋が握られていた。
「どうぞ」
「ありがと。時々ここで、お昼ご飯にするのよ」
「僕も。でも、会ったのは初めてだよね」
「わたしが避けてたの。誰かが座っているときって」
「へえ。じゃあ今日は?」
「なんとなく、ね。他に探すの面倒だったし」
「まさか、懐かしいクラスメイトだとは思わなかった、と」
「そうそう」
「でも珍しいよね」
「何が?」
「女の子って、わりと固まってない? 食事の時とか」
「うん。そういうの、私も嫌いじゃない。けれどさ」
「けれど?」
「うん。....昔の私のことをあまりよく言わないコが、いてたから」
「そういうコが、ユキちゃん、でいいかな、のいる中に入ってきたの?」
「ううん、入学してすぐ、同じ学科にいることに気が付いて、それであまり人とは付き合わなくなって」
「噂が広がるのをおそれて?」
「そっか、高安君も知ってるのね。まあ、当然かな。うん、そうなのよ。ひとつの輪の中に誰かがいるとするでしょ、そうすると、当然輪の中にいる人はそこでは話題になるから。で、もちろん誰でもたったひとつの輪の中だけで生きてるわけじゃないから、ある人が他の輪にいって、また噂が広がって」
「ごめんね、嫌なこと言ったな、おれ」
「いいのよ。うわさを聞いて近づいて来る人、去っていく人。色々いたから。でも、高安君は今無関係に隣にいる」
「だって、当時俺は、キミとまったく会話なんか交わさなかったし、そういう意味では知り合いでも友達でも何でもなかったんだから、関係ないじゃないか」
「そんなことないよ。会話なんか交わさなかった人がやってきて、会話を交わした人が去っていくんだから」
「そっか」
 僕はそれで反論できなくなってしまった。そうなのだ。噂とはそういうものだ。
 僕が黙ってしまうと、ユキちゃんは紙袋の中から、菓子パンをとりだした。
「お邪魔じゃない?」と、ユキちゃん。
「全然」と、僕。
 僕だってここでこうして食べてるし、という意味を込めて、僕は紙パックコーヒーを乾杯の時のように掲げて見せた。
 ユキちゃんはささやかに笑い、それから食べはじめた。
 僕たちの背中にはありふれたキャンパスが広がっているかも知れないけれど、目の前には雄大な自然があり、隣にささやかなかわいらしさを持つ少女が、ご飯を食べているというのは、何だかとても気分がいいなと感じた。
「ねえ、今だからきくけど、高安君は私のこと、どう思ってた?」
 菓子パンを一口分ぐらいだけ残して、食べるのをやめたユキちゃんは、僕に質問をした。
 僕は、「さあ」と言って、首をひねってから、「興味なかったんじゃないかな?」と、答えた。
 嘘だった。本当はとても興味があったし、噂が嘘かホントか確かめてみたかった。ホントだったら誘ってみたいとも思っていた。けれど、無責任な噂で彼女を傷つけたらと思うとそれは訊けなかったし、それ以上に、「高安って、私のことをそんな風に見てたのよ。それで厚かましく誘ってもきたの」なんてことになるのが、怖かったのだ。
「そうか。それが、近づいてこなかった人の代表意見ね」
「どうだかね」
 それから彼女は、どうして僕がここにいるのかと訪ねた。一人が好きなのか、とか、わたしと同じような理由があるのか、とか。
 そこで僕は、キャンパススケッチの話をした。
 一人なのは、映画の話やロケ地を探した話、そしてそこが結構お気に入りの場所なのだなど、説明をするのが面倒だからだと言うことにしておいた。でも、実際は自分でもよくわからない。誰かを誘ってここに来る気にならないだけなのだ。
「なるほどと言えば、なるほどだし、よくわからないと言えば、わからないわね」
 ユキちゃんの感想はもっともだと思った。
 なるほどと言えば、そこで話題をうち切っても差し支えない。でも、本当はちっともなるほどなんかではない。僕はどこか、一線を引いて人と付き合うようなところがある。本当のことが言えないのだ。
「見抜いてるね」と、僕は言った。
 彼女は「なにを?」と、言った。
 僕は、「何でもない。でも、わかってるんでしょ?」と、言った。
「多分ね」と、彼女は答えた。
 僕は山の遠くの方を見て、静かにため息をついた。ため息、というより、大きく息を吐いた、という感じかも知れない。
 僕の視線が泳いでる、ちょうど山の稜線当たりを、少しばかり冷たい風が吹いているように思えた。
 少しばかり冷たくて、そしてとびっきり純粋な風。
 お前は人とそんな付き合い方をしてもいいのか、と風が僕にささやいた。僕は「いいんだ」と答えた。
 じゃあ、ユキちゃんに対しても、それでいいのか、と訊いてきた。僕は「多分良くないだろうなあ」という答えを見つけだしていた。
 ユキちゃんは長い間持っていた菓子パンの最後のかけらを口に放り込み、紙袋の中からオレンジジュースをとりだして、飲んだ。
 ごくごくという音が聞こえるような気持ちのいい飲み方だった。
 だが、実際は音を立てたりはしなかった。そんな気がしたのは、僕がじっと彼女の喉を見ていたからだ。
 僕はもうどうでもいいような気になった。
 だから、口にした。
 口にしたけれど、どうでもいいような気になったというのはどうしようもなくなったときのために用意した自分に対するいいわけであり、まず取り返しのつかないことにはならないだろうなと思っていた。
「噂そのものは悪質だったかも知れないけれど、デタラメじゃなかったんだ。それで、ユキちゃんも噂を否定しなかった。違う?」
「そう」
 さりげなく彼女は言った。やはり何事も起こらなかった。
「本質は変わってないんだね、今も」
 僕は絶望的な悲しみを抱えながら、しかし確信を持って言った。
「そうよ。噂にならないように気を付けているだけ。だから、誘ってくる人もいないけれど、まわりの状況が変わっただけで、私は何も変わってないのよ」
 彼女の台詞を僕は努めて平静を装いながら聞いた。
 心の中は嵐だった。
 僕はどうすればいい?
 ユキちゃんを抱けるという想いが僕の身体を反応させる。
 だけど、それがベストの選択か?
 悩むのは、「これっきりでは嫌だ」と僕が思っているからだ。
 これっきりでもいいのなら、どんな選択だって出来る。
 あるいは、何度でも誘うことだって可能なのだ。抱くだけなら。
 でも、そんなことを求めているのではないと、僕はもう気が付いてしまっていた。

 噂も実際も、誰とでも寝る女。
 僕の固まった唇に、ユキちゃんは唇を重ねてきた。
 まあ、いいか、と僕は思った。
 どちらからともなく舌を絡め合った。彼女は「本気で愛してよ」と伝えているような気がした。
 ほどなく、お互いの手が相手の肌をまさぐりあっていた。


[続きを読む]
[目次へ戻る]