ロシアンルーレット

敗 者 復 活 戦

 

7.

 ようやく着いた貸し別荘は真也がイメージしていた「高原の中のログハウス」などとはまるで異なっていた。うっそうと茂った森の斜面にヘアピンカーブが連続する急勾配の道を無理やり造営し、その所々に一般家庭の「一戸建て住宅」を二回りほど小さくしたような木造建築が建っていた。
 斜面を削らずに別荘を建てているので、道に面している玄関側は地面に接しているが、奥へ行くと山肌の傾斜具合に応じて床下にニョキニョキと柱だけが生えていた。

 街灯があったのは、県道からそれてすぐの所にある管理事務所付近だけで、それを過ぎると漆黒の闇になった。
 真也はハンドルを右に左に切りながら、車のライトで一瞬照らされる玄関先のプレートを見過ごさないように用心した。そこにナンバーが記されているのだ。麻里絵の借りた別荘は26番だった。

 別荘同士は相応の距離をおいて建設されている。近所の別荘同士でも、それぞれの中でどんなことが行われているかを察知するのは容易でない。だからこそ麻理絵もここを選んだんだろう。夜の闇と、いつのまにかたちこめてきた霧のためにその印象はますます強くなる。
 屋根がびっしりと連続する安手の別荘地と違い、結構な利用料がかかるだろうが、彼女の仕事は売春だ。真也などの想像のつかない金額を稼いでいるのかもしれない。

 26番の前に着いた。各別荘の前には、バス停のように道路がわきに広がった部分が設けてある。そこへ車を止めればよさそうだ。薬を摂取してから、麻理絵じゃずっとハイのまま、色々なことをしゃべり続けていた。この後、一人残される麻理絵を思うと、真也はそのことばかりが気にかかり、麻理絵との会話は上の空だった。そして、彼女もいつのまにか静かになっていた。
 車を止めた真也は「眠っているのかな」と後部座席を見た。麻里絵は半開きの瞳は白目をむいていた。真也は一瞬「死んでるのか」と慌てたが、ピクピク震える唇からは言葉がわずかに漏れていた。
 ドラッグのせいで、異なる世界に旅立って幸福な夢を見ているんだ。真也はそう思った。

「立てる、か?」
「う、うう、うううん」
「よし」
 真也が後部座席の扉を開けると、麻里絵は気丈にも自力で起き上がろうとした。麻里絵の手を掴み、真也は自分の肩にかける。
(そうか。怪我をしてるわけでも病気なわけでもないんだ)
 あっちの世界に行ってるものの、真也の呼びかけには反応した。そして、こっちの世界に戻ってこようと努力しているようにも見えた。寝ているわけでも死んでいるわけでもない。どの程度の認識力かは想像の他だが、いま、何が起こっているのかは理解しているようだ。

 真也はあらかじめ麻里絵から預かっていた鍵で玄関を開けた。すると照明がついた。センサーが作動したようだ。ただし、センサーがあるのは玄関だけのらしい。別荘の奥は相変わらず暗い。真也はとりあえず目に付くスイッチを手当たり次第にオンしてゆく。あらたに灯った電灯がさらに奥にあるスイッチを照らし、それをオンすればさらに奥の……の繰り返しだ。
 カーテンが閉ざされていないので室内の照明は窓の外の闇に吸い込まれ、洪水のような照明もそれほど明るくは感じさせない。
 麻里絵をリビングのソファーに横たわらせてから、真也は水道の蛇口をひねって水を飲んだ。棚から適当なグラスを取り出し、麻里絵にも水を運んでやる。
 唇の端から水をこぼしながら、麻里絵は水をすすった。かすかな笑顔で真也を見つめる。別世界のフィルターを通して見る真也は、麻理絵の瞳にはどう映っているのだろう。性的な行為をすれば、麻理絵はあっという間に真也に吸いついてくると思えたが、そんな気にはならなかった。
 真也は麻里絵の傍を離れ、窓という窓のカーテンを閉ざした。

 麻里絵はソファーの上から、途切れ途切れながらもこれからのことを真也に伝えた。
 彼女の意識は徐々にこちら側の世界に戻ってきていたが、それについれて、どんどんハイになっていった。意味なく笑ったり、子猫のように床をゴロゴロと転げまわったりした。
 この時の麻理絵は、このまま快感の渦に巻き込まれるままに真也とセックスしたいという欲求に駆られていた。しかし、それでは同じことの繰り返しだ。言うべきことを言い、真也には早く退散してもらうのがベストだ。だから必死で言葉を紡いだ。

 麻里絵の言葉は何度も行ったり来たりした。鮮明なのか混濁しているのかすらはっきりしない意識の中で、汗が流れていることだけが鮮やかに認識できる。これもクスリの影響だ。正体のわからない絶大な幸福感と浮遊感に包まれながらも、必死で現実世界の真也に、自分の思いと、彼にして欲しいことを伝えた。
 汗が滲み出てくる汗は、妙な匂いがして、気持ちが悪い。暑くも無いのに……。いや、死にそうなほど熱い……。でも、涼しくて気持ちいい。わけがわからない……。
 クスリの作りだす世界に身を投じて、こういう世界を楽しみ、信じがたいほどの快感の中でセックスを貪っていた自分が、クスリを抜くために今は必死になって真也に懇願していた。酩酊状態から抜け出し、次の禁断症状が来るまでの正常な頭の中で考えたシナリオを、真也に伝えているのだ。
「わかった」と真也が頷き立ち上がるのを見て、(ああ、ようやく全てを伝える事が出来た)と麻里絵は思った。意識が遠のいてゆく。疲労困憊して睡眠におちるところだった。

 麻里絵に言われたことを真也は実行に移した。
 ようするに、バスルームで一週間生活できるように、水や食べ物をセッティングし、その後に、麻理絵をバスルームに監禁することである。

 まず、バスルームの準備だ。ユニットなのでトイレもあるし水も出る。粗相をした場合の片付けも容易である。だが、ここで飲食するとなると、テーブルが欲しいだろう。
 別荘内を見渡して真也が見つけたのはコタツ机の天板だ。これをバスにのせればテーブルの代わりになる。ここにミネラルウオーターとロールパンとジャムとカロリーメイトとチョコレートとビタミン剤を置いた。これが一週間の麻里絵の飲食物である。
 次にベッドルームから毛布を取り出す。ベッドには羽毛布団がセッティングされているので基本的に毛布は不要だが、どうしても必要だと言う客のために押入れに用意されていた。これをバスルームの床に敷く。バスルームに麻里絵を監禁するのは、お漏らしや嘔吐などで汚すのが前提のためだが、一週間にわたって朝も昼も夜もタイルの床に身を置くのは辛いだろうとの真也の判断である。備え付けの洗濯機が大型なのは確認してある。真也は麻里絵のためなら毛布の洗濯ぐらいしてやろうという気になっていた。彼女の世話をしてやる義理はないけれど、肌を重ね合い情が移っていた。

 思ったとおり高級な別荘で、バスルームにも空調がある。夜はともかく9月の昼はまだ残暑が厳しい。しかし、ここは山の中だ。普段麻里絵が住んでいる所とは気温もかなり違うだろう。ためしに窓を開けると初秋の風がふうわりと入ってきた。
 さて、どうするか。真也は悩んだ。
 今の麻里絵に空調を正確にコントロールする事が果たしてできるだろうか。しかし、だからといって一日中冷房をつけておくわけにもいくまい。
 そう思ったがバス空調には「冷房」などというものがない。あるのは「暖房」と「換気」と「乾燥」と、そして「涼風」というボタンだった。真也はためしに「涼風」を押してみた。窓から入る山の初秋の風と人口の「涼風」は明らかに質感が違ったが、どちらがより涼しいのか判断が出来なかった。
(麻里絵に任せるしかない)
 これが真也の結論だ。コタツの天板テーブルの上に、リモコンをそっと載せた。

 真也はバスルームの準備を終えると居間に戻った。ソファーに身体を丸めて横たわっている麻里絵は起きているのか眠っているのかわからない。声を出しているようで出しておらず、身体を動かしているようで動かしていない。
 夢を見ているのだろうか。だったらせめて眠っている間だけでも良い夢を見ていて欲しいと真也は思った。覚醒すれば今度は本物の悪夢にうなされるのだ。

 眠っている間に麻理絵をバスルームに押し込み、逃げるように別荘を出れば話は早いが、真也はその気になれなかった。目覚めれた途端に禁断症状がやってくるということもないだろう。彼は「買い物をしてくる」と書置きを残し、別荘を出た。
 ピザや寿司、フライドチキンにジュース類などを取りそろえて、戻ってくると、麻理絵は目を覚まして、テレビを観ていた。
 そういえば、バスルームにもテレビがついている。ただ一週間、ボーっとしているだけでは退屈だろう。幸いだったねと真也が言うと、「きっと、テレビなんて、うるさいだけだと思う。苦痛との孤独な戦いだもの」と、麻理絵はピザを頬張りながら言った。

 晩餐を終えれば、いよいよ麻理絵のたった一人の戦いが始まる。

 麻理絵は服を脱ぎ、黄色いビキニに着替えた。その上に、パーカーを羽織る。目の前に真也がいるのに、全く気にしていないようだ。
 麻理絵の計画に協力してくれる真也を完全に信用しているのか、それとも、既に男女の仲になった男なんだから、裸を見られるぐらいはどうということないと思っているのか、真也には判断がつかなかった。
 水着を身につけながら、麻理絵は「あ、エッチ、しとく?」と訊いたが、真也は首を振った。

「正体を知ったわたしなんかと、したくない?」
 麻理絵は自虐的ともいえる笑い顔を真也に向けたが、「これからキミを僕は放置するんだぜ? することだけして、見捨てるような気分になるから、したくない」と真也は言った。
「ふう〜ん。苦しむ前にいい思いをさせてあげるって、わたしがあなただったら、やっちゃうけどな……。ま、いっか。一週間経ったら、シテね」と、麻理絵は言った。

 麻理絵は脱がせた洋服をきちんとたたんで傍らに置くと、バスルームに向かった。真也もあとに続いた。麻里絵がバスルームに入ると、彼女の左手と適当な配管パイプを手錠でつないだ。予備の青いビキニをコタツの天板に置いた。
「病人じゃないもの。苦しんでいるだけだもの。自分のことは自分で出来るわ」
 麻里絵は何度も真也にそう言った。
「一週間たったら、様子を見に来てね。手錠のカギを持って」
 バスルームの壁にもたれてうなだれた麻里絵を見ながら、真也は何度も彼女の言葉を反芻した。

 すぐに別荘を後にしても良かったのだが、真也はそんな気分になれなかった。この暗い夜を彼女1人にしておくことがどうしても出来なかったのだ。食べ残した食事類を思い出したように口に運びながら、小さな音量に絞ったテレビを見るともなしに見続ける。
 居間のソファーに座っているといつの間にか眠ってしまったが、彼女のうめき声が響いてくるので目が覚めた。
 様子を見に行こうと慌てて立ち上がる。その音に気づいた麻理絵が、「来ないで!」と、叫び声をあげるのが聞こえた。苦しみの中にあってもどこか麻里絵は神経の冴えているところがある。薬のせいかもしれない。真也の足音を正確にそれと判断したのだ。
 それでもバスルームまでやってきた真也に、「見られたくない! 早く、出て行って!」と叫ぶ麻理絵。真也はショックを受けた。出て行けと言われたことにではない。そこまで言わなくてはならない状況がいかような修羅場であるのかを考えたのである。

「朝まで。朝までいさせてくれ」
 真也はバスルームに向かって声を張り上げた。
「わかったわ。でも、こっちには来ないでね」
 それからしばらくは、麻里絵も声を立てなかった。真也に心配させまいと我慢したのだ。だが、それもそう長い時間ではない。真也のまどろみは再度麻里絵の獣のうめきによって破られた。真也はテレビのボリュームを大きくする。バスルームに行ったところで何か出来るわけではない。人に見られたくない姿がそこにはあるだけだ。見ない事がせめてもの優しさである。

 朝、リビングの片づけをして、真也は約束どおり別荘を出た。
 そのまま大学に向かったが、日曜日だということに行って初めて気が付いた。
 それでも学内を一回りしてみた。クラブ活動やらなにやらでキャンパスは日曜日でも無人にはならない。テニスコートの傍のベンチに座る。スコートを翻しながらラケットを振る健康的な女の子がチラと真也を見たが、すぐに興味なさそうにゲームに集中した。
 ドラッグや売春など彼女には無縁なのだろう。それどころか、「中退」などという身分の変化も彼女はこれっぽっちも考えていないに違いない。麻里絵のことを自業自得だとだけは言い切れないと思っている自分に気が付いた。それと同時に、真也は無心にラケットを振ることの出来るその少女に嫉妬を覚えた。

 真也はガソリンスタンドによって満タンにしてから友人に車を返し、その足でレンタカーを借りた。
 車を運転しながら「一週間休んでも出席日数は大丈夫だな」と頭の中で計算をする。もとより前期試験をパスしてほとんどの単位は取っているし、残された科目は少ない。気合を入れないといけないのは卒業論文くらいである。
 バイト先に一週間休みたいと電話を入れると、「もうこなくていい」と言われた。一週間といってもそのうちシフトに入っているのはたかだか4日である。コンビニの深夜レジ担当だ。穴埋めが見つからなければ店長が昼間に続いて徹夜で勤務することになるのがわかっていたので、真也は冷たいあしらいにも文句を言う気にはならなかった。それよりなにより、麻里絵のことが心配だった。

 下宿に戻る。卒論のための資料などをそろえてカバンに詰め込んだ。留守番電話にメッセージを残している者はいない。昨夜、ミコが訪ねてきたかどうかはわからなかった。仮に来ていたとしてもどうしても伝えておかねばならないことがあればメモかなにかメッセージが残っているだろう。それらしきものは見当たらない。全く気にならないわけではなかったが、一刻も早く麻里絵のもとに戻りたかった。
 麻里絵のいる別荘に向かう途中でスーパーマーケットに寄り、自分のための食料と日用品を買った。銀行でお金をおろした。学費と生活費のほとんどは親の仕送りだ。仕送りで足らない分の生活費と遊びためのお金はバイトの収入が頼りである。そのバイトはさっきクビになってしまった。しかも、すぐに新たなバイト探しが出来るわけでもない。真也は残高を確認した。バイトなしでも卒業まではなんとかもちそうだった。

 

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