黄金丘陵の古い寺院

 

 僕の進む道は微妙な起伏を保ちながら、前方へ続いている。少し登っては下る。その繰り返しだ。そして、ほぼ正面に丘がある。道はその丘を右へ避け、そして裾野を巻くようにして丘の後ろ側を左にカーブして、僕の視界から消えていた。
 僕はザックを背負い、ゆっくりと、だが、ひたすらに歩く。こういうときはどうしても地面を見つめて歩きがちになるが、たまに見上げる丘が、目の慰めになった。じっと見つめていると気がつかないが、ふと見上げるとその丘はそれまでよりもずっと近く、大きく感じられる。着実に前進していることの証だった。

 丘の裾を道に導かれるままに巻き、その半ばを越えると、目の前に新しい風景が広がった。
 僕は集落を見下ろす位置に立っていた。僕が歩いていたのは集落のある土地よりも高い場所だったのだ。

 それまでの荒涼とした風景とは一変し、そこには人々の生活と、緑の木々があった。街路樹と呼ぶにはその数は少なく、まるで思いつきのように立っている木たちだけれど、そこには確実に木陰を作っていた。そして、家々の窓には心ばかりの花が飾られている。相変わらず埃っぽい感じはするけれど、人の手が加わった景色は僕を安心へ導いた。
 町の左右を横切って一本の道が通じている。おそらくこれが幹線道路で、周辺の町や村と繋がっているのだろう。町から離れるにつれて密度は薄くなるものの、道沿いにはずっと建築物や植物が連なっていた。それはちょうど、銀河系を横から見た宇宙イラストに似ていた。これはこれで、ひとつの小宇宙なのかもしれないな、などと僕はくだらないことを考えながら、集落への道を辿った。
 下り坂なので楽ちんなのだが、歩き疲れたのか、膝が時折ガクガクした。

 町の向こう側も、やはり土地が小高く盛り上がっていた。僕が裾野を巻いて来た町の手前の丘よりも、傾斜はゆるやかで、しかし標高は高いように思えた。そして、このふたつの丘の決定的な違いは、手前の丘は荒涼としていて、向こうのそれは、緑が溢れている点だ。
 なにか果物でも栽培しているのだろうか。
 僕の脳裏に「バレンシアオレンジ」という単語が浮かんだが、もとより本当にそうなのかどうなのか、実がなっていなければ間近で見ても判断はつかない。そこまでのスキルがないのだ。

 さて、この町のユースホステルはどこにあるのだろう? 商店らしい商店もなく、誰にも出会わない。もちろん、旅行案内所のようなものがあるとも思えない。そんな規模の町ではないのだ。
 半ば途方に暮れながら歩いていると、幹線道路に出た。上から見下ろしたとき、左右にこの町を貫いていた道だ。
 幹線道路沿いには、食堂のようなもの、雑貨屋のようなもの、そして地方にありがちな小さなスーパーマーケット、夜にしか開かないようなうらぶれた酒場らしきものがあった。そして、小さな掘っ立て小屋。それはバスの停留所で、粗末ながら屋根と壁があり、形ばかりのベンチがあった。壁には時刻表が貼り付けてある。
 僕は目を見開いた。「そんな馬鹿な」
 一日1本のバスしかないはずなのに、時刻表によると2〜3時間ごとにバスが走っている。朝夕はもっとある。最大でひとつのマスに3本のバス時刻が表記されていた。
 どうやら、長距離バスは1日1本、そして、地形上の最短距離の駅からのバスは存在しない。だが、いくつかの町をつないで、最終的にどこかの駅へつながっているバスはそれなりに存在したのだ。
 そういえばシャルルは、この町からの帰り、ローカルバスを使ったと言ってはいなかっただろうか。
 人の話はちゃんと聞かねばならない。いや、ちゃんと聞いてたんだけれどな。肝心なときに思い出せないのであれば、なんにもならない。
 僕は苦笑しながら、そして、バス停の壁に張られた「ユースホステルまでの案内地図」を眺めた。果樹園らしき緑の丘を登っていくらしかった。

 身長よりも少し高く育った木々。バレンシアオレンジかどうかはわからないが、オレンジかそれに似た品種の果樹園だった。日のあたり具合なのか、それとも個々の木の特性なのか、まだ緑色のものもあれば、収穫時期に来ているらしい良い感じの色合いのものもあった。当然、中間色のものもある。
 バス停に張られた地図によると、この果樹園を右に左にカーブしながら、ユースホステルへの道は続いている。
 10分近くも坂道を登っただろうか。目の前に雑木林が広がった。果樹園を通り越したのだ。道は左へカーブしている。左側は相変わらず果樹園で、道はその外周を辿るように作られていた。雑木林側、つまり進行方向に向かって右側は、人の手が入っていない。道の上にまで大きく枝を伸ばしている。下草も茂っている。小川のせせらぎさえも聞こえる。
 僕は、また不安になった。
 本当にこの道でいいのか?
 足元から前方に視線を移すと、すぐ先に広場があり、その奥に木造2階建ての上品な家屋があった。
 正面が入り口。ステップを3段ほど上がって玄関に通じている。左側はなんとなくのっぺりとした壁で、窓も小さい。煙突が出ている。台所なのか、バックヤードなのか、そんなところだろう。対照的に右側には、建物の前面にウッドデッキが張り出している。僕とさほど年齢の変わらない3人が、そこで談笑していた。男が二人、女が一人。
 2階は左右対称になっていて、それぞれ窓がふたつづつ。いずれも開け放たれていて、上品な色合いのカーテンが揺れている。

 果樹園の管理人一家が住んでいるのだろうか。それとも、誰かの別荘だろうか。道はこの先、どこへ通じているんだろうか。
 広場へ近づくと、道はその手前で左右に分かれていた。ここまでは舗装道路だったが、左右どちらも未舗装で、車の轍がついていた。2本のタイヤの跡の間には、チョロチョロと雑草が生えている。道幅からして、せいぜい軽自動車や軽トラッククラスの車しか進入できそうにない。
「いったい、どちらへ進んだらいいのか……」
 途方に暮れかけたとき、ウッドデッキの女性が「ハ〜イ!」と僕に声をかけた。
 玄関扉の左側に、世界共通のユースホステルマークが掲げられていた。ちょうど屋根の陰になっていて、近づかないとはっきりと見て取ることが出来なかったのだ。
 そうか。ここがユースホステルか。

 やっとついた。
「ふう」
 僕はため息を漏らし、その場に座り込んでしまった。

 荷物を降ろし、地面に直に座ると、決して気分は悪くないことに気が付く。
 降り注ぐ太陽の光は伸び放題の雑木林のためにあくまで木漏れ日だし、強すぎず弱すぎず、汗ばんだ身体を心地よく風がなぶってくれる。鳥だか虫だかの鳴き声も届く。小川のせせらぎだって相変わらずだ。空気もさほど乾いていない。緑に包まれているせいだろう。
 ウッドデッキの3人がゆっくりと近づいてきて、僕の荷物を持ち上げてくれた。
「泊まるんだろう? さあ、入れよ」
 ガッシリとした男が言った。訛が強くてよくわからないし、英語かどうかも定かではないが、声をかけてくれる。
「立ち上がれないほど疲れたの?」
 これは女性だ。タンクトップの胸元から溢れ出しそうな乳房を揺らしながら、僕を覗き込む。立派なプロポーションとは対照的に、小さくて澄んだ顔。顔に澄んだもくそもないのだけれど、とっさに僕はそう感じた。透明感のある美女だ。
 もう一人の男は何も言わず、僕の荷物をもう建物の中へ運び込もうとしているところだった。顔色が悪く、体格も華奢だ。どこか体調を悪くしているのかと一瞬思ったが、軽々と僕の荷物を持つその様子から、とりたてて健康を害しているわけでもなさそうだった。
「立てないわけじゃないんだ。座り込んだら、案外気持ちがよくってさ」
「わかる、わかるわ〜。私も居心地が良くて、もう1週間になるもの」
「俺はまだ3日だ」と、ガッシリした男が言った。
 僕は玄関に視線を向けた。顔色の悪い男は既に建物の中に入った後だった。
「ああ、あいつか? 俺たちが来る前から滞在してるよ。2〜3週間はいるんじゃないかな?」

 玄関を入って右側が、いわゆるロビーになっていた。といっても、ホテルのそれとは趣が違う。8人くらいは囲めそうな大きな楕円形のテーブルと椅子、そしてソファーセットが2組。壁には本棚とどこかの観光地のポスター、そしてダーツの的。暖炉があるが、天井には空調の噴出し口もあり、おそらく飾りだろう。
 大きな窓を開ければ、そのままウッドデッキに繋がっている。
 もとより、靴は履いたままだから、どこへでも行ける。低い手すりを乗り越えれば、デッキと広場を行ったりきたりするのも簡単だ。
 そのデッキの手すりを乗り越えて、顔色の悪い男がひょいとやってきた。身軽なのだ。やはり病気などではあるまい。
「僕達のおごりだよ」
 人懐っこい笑顔を浮かべながら、缶ビールを手渡してくれる。ビールには雫がついている。
「そこの川で冷やしていたんだ」
 奥の窓から覗くと、この建物は雑木林に面していて、すぐ下に小川が流れていた。
 小川といっても、川幅は3メートルくらいはある。ただし、今は水量が少ないので、子供たちが水遊びをするにも少し物足りないだろう。水深は10センチあるだろうか? でも、水は確実に流れていて、しかも鮮烈だ。
 缶ビールが10本近く刺さっていて、そのほかに、膨らんだビニール袋がいくつかおいてある。中に入っているのはおそらく食料。冷蔵庫代わりなのだ。
 僕は喉が渇いていたので、ビールをイッキにあおった。日本で呑むキンキンに冷えたビールに比べると物足りないが、それでも乾いた身体には十分染みた。
 僕が飲み終えるのタイミングを計ったかのように、コーヒーが四つ並べられた。
 そして、自己紹介が始まった。

 乳房の溢れだしそうな女性は、シンディと名乗った。アメリカ人である。22歳。大学生。歴史のある都市を中心にヨーロッパを旅行中。最初は「さすがに歴史の重みは違うわね」などと感じ入っていたらしいのだが、だんだん飽き、かつ疲れてきたとのこと。
「感性は鈍くなるし、感動は薄れてくるし」
 気に入った風景を探しながら田舎町から田舎町へと彷徨っているうちに、ここに来た。
「やっぱり、人の心を癒すのは、日常と隣り合わせの中で非日常に浸ることよね」
 会社に疲れたオッサンの台詞かと思ったが、シンディもそれなりに苦労をしているのだろう。もしかしたら母国で何か男性問題にでも気を煩わされていたのかもしれない。
 僕がそう思ったのは、隣に座っているガッチリとした体格の男と、なんとなくいい雰囲気だったからだ。
 いい雰囲気と言っても、ホットな空気を漂わせていたのではない。たださりげなく、身を寄せすぎるでもなく、離れるでもなく、自然体で二人が並んでいたからだ。無理もしない、気も遣わない、ただ、そこにいるだけ。
 恋愛に疲れたとき、恋愛感情のやりとりを必要としない、ただ安心できる相手が欲しくなるものだ。

 そのガッチリとした男は、ジルと言った。
 アメリカ系のオーストラリア人で、28歳。いったん就職した会社を辞め、次の仕事に就くまでの間、世界各地をフラフラするのだという。アフリカへ向かうか、それともロシア経由でアジアへ行くか、悩んでいるうちに「こんなところで足止めを食らってしまったよ」と愚痴っぽい台詞を愉快そうに吐く。
「釣りをしたり散歩をしたり、なんだかとても居心地が良くてね」
 小さいながらも日常生活に困らないだけのものは一通りこの町で揃うという。ならば気持ちが動くまではここでのんびりするのも悪くないとジルは笑った。
「別に世界一周をしたいわけじゃないしね。ま、有意義な暇つぶしだよ」
 いくら有意義でも、毎日宿泊費や食費が出て行くわけだから、前の仕事でそれなりに蓄えは作ったのだろう。

 もう一人の、あまり顔色の良くない男は、エイショーと自己紹介した。なんだか日本人にもいそうな名前だ。ブラジル人とのことで、先祖を辿れば日本からの移民とどこかで繋がっているのかもしれない。純粋の欧米人よりもアジアっぽい風体でもある。
「ここではもう何もすることがない。でも、ここは気に入っているので、もうしばらくいたい」とユースホステルのオーナーに語ったところ、時々果樹園の手伝いをさせてもらうことになったという。

「そういえば、管理人はどうしたんだろう? 僕はまだ宿帳も書いていないし、宿泊料も払っていない」
「さあ。あんまり顔を出さないし、今日はもう来ないんじゃないかな?」と、シンディは言った。
「それは困る。まだ僕は部屋も割り当てられていない」
「ああ、それは適当でいいよ」と、エイショーが答えた。

 ユースホステルは基本的に相部屋で、シンディによるとここには2階に客室が4つある。全て4人部屋である。2段ベッドがふたつずつ入っている。
「マネージャーは『まあ、みんながちゃんと泊まれれば、好きにやっていいよ』って言ってる。だから、今のところ、一人一部屋使ってる」と、エイショーは説明した。「部屋は全部で4つある。だから、空いてる部屋をキミが使えよ」
「でも、ユースホステルは相部屋ってきいたけど」
「それはそうだが、空いてるんだから」
「わっはっは。細かいことは気にするなよ」と、ジルは豪快に笑う。
「予約はどうなってるんだろう? 他に泊まる人が来たら困るだろう?」
「いいって、いいって。こんなところ、予約までして来る物好きはいないよ。俺たちみたいに気まぐれにやってくるヤツばっかりだ」と、ジルは相変わらず笑っている。その隣で、シンディはジルの笑顔を穏やかな表情で見つめていた。
「誰か来たら、一番汚い部屋に僕達が移動して、一番キレイな部屋に、その人に入ってもらえばいいさ」と、エイショー。
「一番キレイな部屋って……、掃除もせずに、使わせるのかい?」
「いや、掃除はするよ。だから、一番キレイな部屋を明け渡すのさ。その方が掃除がラクだろう?」
 なるほど。

「ところで、キミはどうしてここに?」と、エイショーが訊いた。そういえば僕はまだ自己紹介をしていない。話せば長くなるけれどと前置きをして、僕は黄金色に輝く丘陵に建つ、古い寺院のことを説明した。
「おう、それなら確かにここだ」と、ジルは胸を張った。「だが、それは寺院じゃないな」
「寺院じゃない?」
「なんていうのかしら。昔この付近一帯を治めていた豪族の、お屋敷みたいなものよ」と、シンディが答えてくれた。「でも、なんとなく寺院っぽいかもね?」
「悪趣味なんだよ。イスラムもブッダもキリストもまぜこぜにしたような建築だ」
 だから寺院っぽく見えたのか。そもそも僕は宗教に造詣はなく、イスラムとブッダどキリストがごちゃ混ぜになっていようがなんだろうが区別がつかない。それにしても、憧れの建築物を「悪趣味」の一言で片付けられてしまった。
「で、そこへはどうやったら行けるんだろう?」
「町の向こうの丘に登ればいいよ。今は無人だから随分朽ちているようだし、中にも入れないみたいだから、ここから眺めている方がいいかもしれないけれど」と、エイショーは滞在が長いだけあって、さすがに詳しい。
「ここから、見れるの?」
「見えるね。もう少し果樹園を登れば」
「今から、行く?」と、興味深そうにシンディは身を乗り出した。
「もしかしたら、屋根に上ればそれだけでも見えるかもしれないな。視界を遮るのはオレンジの木だから、それより高いところへ行けば見えるはずだよ。屋根裏部屋の天窓から屋根に昇れたと思う」
 エイショーは色々と気を回してくれたが、ジルの一言で寺院もどき見物は中止になった。
「見るのは明日でいいだろ? それより、メシにしようぜ」
 誰も反対しなかったし、僕もそれでいいと思った。なぜなら、僕自身も空腹だったからだ。

「ところで、食事のシステムはどうなってるの? 予約をしてなかったら出ないのかな?」
「予約もクソも、オーナーもスタッフもいないんだから、自分たちで作るしかないだろ?」
 ニヤニヤしながらジルは立ち上がった。
 材料はあるのだろうか? レシピはあるのだろうか? いったいここはどうなってるんだろう?
「あなたは今日はいいわ。昼間のうちに材料も買ってきてあるし、今日は私たちのおごりよ」と、シンディが言った。
「そのかわり、明日はお前のおごりで日本料理を食べさせてもらう」
 嬉しそうにジルは言い放った。
 まあ、それも面白いだろう。僕は「承知」と、言った。

 

 

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