杜の庵
エピソード4 キャラメル

 夏の陽射しは北海道の雄大な山々にも容赦なく照りつける。
 ほとんどの陽光は、木々がたっぷりと広げた枝葉に遮られて、ハイキング道を歩く人間まで届かないが、枝葉のわずかな隙間から届くそれは、ジリっと肌を焼く。薄暗い森にシャワーの一筋一筋のように、陽光は注いでいた。
 緯度も高度も高いから「熱さ」はそれほど感じない。それどころか夏のいでたちには涼しいくらいだ。けれども、太陽の光は光なのだ。
 恵は葵えみ子と二人で、片道30分の道のりを、展望台に向かっていた。恵には通い慣れた道だ。
 深い森には冷気というのか、霊気というのか、人間の通常の感覚では説明しきれない空気がある。説明は出来なくても、肌で感じることは出来る。人間も自然界に生きる動物なのだから。
 それが実際以上に「涼しさ」というか「肌寒さ」というか、そういうものを感じさせるのだ。
 恵は慣れっこだったが、えみ子は時々肩をすぼめるようにして、小さくブルッと震えるのだった。
 風に吹かれるがままに木の枝や葉がこすれ合い、ザワザワと音を立てる。どこから聞こえてくるのかわからない鳥や虫達の発する音。
 「なんだか不気味」と、えみ子が言った。
 「平気よ。山ってこんなもの。まだここは普段から人が行き来するだけマシだと思うわ」
 「人が行き来する? こんな所を?」
 「うちのお客は、たいてい展望台までさっぽするわよ。何度も何度も訪れる人もいるし。あとは、キャンプの道具を持った山男、山女かなあ。展望台を越えて遙かに山深く入っていくの。」
 「ふうん。そういう生活とは縁がなかったなあ」
 「今は無くても、昔は?」
 「多分、ない。わたし、小学校の時に養子に出されて。そりゃあ、新しい両親はわたしをきちんと育ててくれたけれど、家族旅行とかしなかったし。
 あ、誤解しないで。ひどいことをされたわけじゃないのよ。普通に、ううん、もしかしたら普通以上にわたしはその家で実の娘だったかも知れない。ただ、そこでは家族旅行に行く、なんてこと、きっと両親は思いつきもしなかったのよね」
 「それ以前の、本当のお父さん、お母さんとは?」
 「残念だけど、覚えていないの」
 「ふうん。だけど、なんで養子になんかに?」
 「わからないの。未だに。だけど、両親も教えてくれないし、だったら訊くつもりもないし」
 「へええ」
 生みの親にずっと育てられることが当たり前になっている人にとっては、もしかしたら不幸な境遇かも知れない。場合によってはあれこれ訊くのもはばかられる話題だ。
 そのあたりの神経が決して恵に欠落しているわけではない。
 えみ子がそういう不幸な雰囲気を全く持っていなかったから、訊くことが出来たのだ。
 やがて展望台に続く道がクライマックスを迎え、一挙に急峻になる。
 ハアハアと大きく息をしながらでないと、登ることが出来ない。会話は途切れた。
 通い慣れた恵はともかく、えみ子は前に出した足の膝に掌を添え、ぐっと下に押すようにして一歩一歩登るのだった。
 展望台からは十勝平野がはるかに見渡せる。
 吹き渡る風を遮るものも無くなった。
 太陽光線がジリジリと肌を刺し、すぐさま冷涼な風が肌をなでて焼け付き感を取り払ってくれる。
 恵もえみ子も肩や足をさらけ出す格好をしていたから、風がなかったら耐えられなかったろう。
 えみ子は展望台にもたれかかって、いつまでも風景を見下ろしていた。広大すぎてつかみ所が無く、茫漠たる印象を与えるその風景は、頭の中を空っぽにして、時の流れさえ忘れさせてくれる。
 恵もしばらくはえみ子と同じようにしていたが、やがて腰を下ろし、両手を後ろについて体を反らし、森の中に視線を向けた。
 そこにはただ、森があるだけ。だが、その億にある見えないものを見ようとしているようでもあった。


 その頃「杜の庵」では、えみ子の連れの男、相馬斤介がようやく目を覚まし、遅い朝食を食べようとしていた。
 「お連れさんは、うちの居候の娘と一緒に展望台へ行きましたよ」
 食卓にトーストとサラダ、スクランブルエッグにボイルドソーセージなどを並べながら、ログハウス「杜の庵」の妻が言った。
 主はとうに車でどこかへ出かけた後だ。
 「飲み物は?」
 「何が出来ますか?」
 「コーヒー、紅茶、オレンジジュース、ミルク、レモンスカッシュ、ウーロン茶、麦茶、こんなトコかしら」
 「じゃあ、冷たい牛乳と、熱い紅茶を」
 「はい」
 北の大地、北海道。その大いなる山岳地帯の真ん中に、ポツンとログハウスが建っている。
 「杜の庵」という名で、宿泊業と食堂を営んでいる。
 帯広から一日3本のバスで2時間あまり。まわりには何もない。あるのは大自然だけ。
 昨日やってきた客は、高校3年生のカップルだった。
 予約の時から、二部屋をとっている。
 一泊だけの予定だが、出発を16時発の最終バスと決めているらしく、男の子はゆっくりしている。
 「受験勉強の息抜きですから、観光旅行のようにドタバタ動き回りたくないんです」
 斤介は昨夜そのように話してくれたが、女の子の方は朝からバタバタと、恵と一緒に出かけてしまった。
 「彼は誘わなくていいのか?」
 出かける直前に主が問うたが、「まだ寝てると思うから、放っておいてあげて」と、えみ子は答えたのだった。
 「はい、どうぞ」と、妻が、紅茶とミルクを出す。
 「ありがとうございます」
 「で、あなたたち、本当に別々の部屋で寝たのね」
 「ええ、まあ。僕たちはそういう関係じゃないですから」
 「そう。まれにそういう予約は入るけど、いざとなったら一緒に寝るのにねえ」
 「へ、変ですか?」
 「ううん。変じゃないわ。最初は変だと思ったけど、今はそう思わない。そもそもあなた達、一緒に旅していても、恋人同士じゃないのね?」
 「そうですよ。友達、みたいなものかな? まあ、友達だったら、変に意識せずに、それこそ同じ部屋でもいいんでしょうけど、うん、彼女もそう言ってくれたんだけど、シングルチャージがもったいないしって、でも、僕はそうはいかないから」
 「どうして?」
 「自分の理性に自信がないんです」
 「まあ!」
 妻は彼の正直さに、思わず笑ってしまった。
 「あら、ごめんなさい」
 「いいんです、僕だって、笑いたくなってしまってるぐらいですから」
 「でも不思議よね。あなたがただったら、すごく真面目にお付き合いしている恋人同士に見えるのに、そうではなくて、友達だという。でも、一緒に旅なんかして」
 「そうかも知れませんね。でも、とても仲がいいんですよ」
 「どういう関係なの?」
 「ううん、一言ではなかなかいいにくいんだけど、まあ、運命の巡り合わせって言うか、なんというか」
 「面白そうね。時間はたっぷりあるし、ちょっと訊かせてよ」
 「そうですね。なんだか僕も喋りたくなりました。聞いてくれますか?」
 「ええ」
 「僕と、彼女が再会してから、そろそろ1年になるんですけど、彼女が2学期から僕の学校に転校してきたんです」


 「みなさん始めまして。葵えみ子です。よろしくお願いします」
 高校2年生の2学期最初の日、彼女は僕たちの前に姿を現した。転校生である。
 どんな事情か知らないが、こんな時期に転校だなんて、なにかとやっかいだろうになあ。
 僕は机に肘をつき、両手で顎を支えながら、少しの同情と、ちょっとした好奇心で、黒板を背に立って自己紹介する彼女を見つめていた。
 「我が校は基本的には年度途中での転入は認めていないが、姉妹校からの転校でもあり、ご両親の事情もあり、また転入試験を優秀な成績で。。。。」
 担任の説明が続いたが、要するに、「クラスメイトとして仲良くしてあげなさい」ということだ。
 しかし、難しいかも知れないな、と僕は思う。
 確かに葵は美人だ。でも、華やかさがない。ただ、乱れていない、端正な顔立ちである、というにすぎない。愛嬌も色気もない。人形のようだ。いや、人形にだって、作者はそれなりの感情を表情の中に吹き込むものだ。そう、感情のない人形。小さな顔の奥に、強い意志が秘められているのか、それともただかたくなに表情を閉ざしているのか、単に緊張しているだけなのか。
 笑えよ。そう、お愛想でいい。一瞬でいい。ニコッと。
 そうすれば葵はみんなに受け入れられる。
 わからないはずはないだろう?
 だけど、彼女は笑わなかった。


 葵に対する評価は、「冷たい感じがして、近寄りがたい」「何を考えているのかわからない」だった。
 それならばそれでいいと僕は思った。いじめられるよりよほどいい。
 だが、友達が誰もいない教室から、終業と同時に誰と言葉を交わすこともなく出ていく葵の後ろ姿は、痛々しかった。
 もっとも本人は何とも思っていないのかも知れない。


 葵えみ子のあとをつけたわけではない。
 たまたま帰る方角が同じだっただけだ。
 彼女が小柄なせいもあるかもしれないが、歩くペースは僕の方が遙かに速い。普通に歩を進めればすぐさま僕は彼女を追い越しただろう。
 けれども僕は彼女との間に一定の間隔を置き、普通よりも歩くスピードを緩めて、決して葵を追い越すことはなかった。
 だって、追い越しざまになんて声をかければいいかわからないじゃないか。
 今日一日同じ教室にいたのだ。名前までわからないとしても彼女だって僕の顔くらいは印象に残っているだろう。新しいクラスメイトが、自分を無視してスタスタ歩き去って行ったらやはり穏やかな気持ではいられないだろう。彼女が僕にたいして悪い印象を抱くかもしれないという恐怖もあった。葵が僕のことをどう思おうと大したことはないかも知れないけれど、「嫌い」の対象にされることに僕は極度に恐怖する。なぜとか、だったらどうなんだと聞かれても困る。生理的なものだ。
 なんて理屈は付けてみたものの、本当は僕は彼女のことが気になって仕方ないのだ。
 いっさいの感情を外に出さず、誰ともこれといった会話をしないままに転校一日目を終え、そそくさと後ろ姿を見せる葵。
 そんな彼女に、「どうしたの?」って、声をかけたくなるのは、ごく自然なことだ。「声をかける」という行為に至らなくても、「気になる」というのが普通じゃないだろうか?
 それとも、僕が普通ではないのか?
 他人に嫌われることを恐怖し、他人ととけ込んでいない人を見ると心配になる。これが多分僕の本質なのだろう。このことがおそらく、将来僕の強みにもなり、欠点にもなるだろう。だけど、これが僕だ。どうしようもない。


 彼女の後ろ姿を追いながら、僕は「あれ?」っと思った。
 僕の記憶の奥深い中に、同じような情景がある。
 デジャビュ。既視感というやつだ。
 どちらかというと「風景」ではなく、そう、女の子が一人で歩くその後ろ姿に記憶がある。
 そうだ。転校。「転校」という言葉がキーワードになって、ぼくは記憶を引き出しから引っぱり出すことが出来た。
 既視感ではなく、それはあきらかに、既視の出来事。
 あれは小学校3年生の時だったから、今から8年前。クラスの女の子が転校した。
 目立たないけれども、きれいな顔立ちの子だった。葵に似ているかもしれない。名前は思い出せない。
 もっとも、性格や行動はまるで葵とは違った。明るくていつもまわりに笑顔を振りまいていた。優しくてみんなに好かれていた。勉強も運動も出来た。当時の彼女に性格がいいとか悪いとかいう評価はなかったけれども、そんなことが必要ないくらいに彼女は好かれていたのだ。
 彼女はいつも笑顔の輪の中にいた。
 小学校3年生という輪がいつか、進級や進学で移りゆくことは自然の成り行きだ。出会いがあり、別れがある。感傷的になることもあるかも知れないけれど、それは悲劇では決してない。
 けれども、それはクラスメイトのみんなが揃ってひとつ上の学年や学校へ行くからであって、彼女だけが突然転校していくことは、僕たちのクラスにとって確かな悲劇だった。
 それも、担任の先生から彼女の転校を知らされたのは「今日でお別れ」というまさしく彼女の最後の登校の日であり、明日には聞いたこともない所へ引っ越してしまうと言う。
 お別れ会もなければ、サイン帳をまわすこともなく、プレゼントの交換をする暇もない。
 「引っ越しの準備があるので、○○さんは授業に出ずに、このまま帰ります」
 先生が言い、彼女は教室を後にした。
 彼女が校庭を横切り、校門を通り抜けるのを、僕たちは校舎の窓から見送った。彼女は振り返らなかった。
 その背中。淋しすぎた。
 いつも笑い声が絶えない輪の中にごく自然に存在した彼女なのに、この時の彼女は、ポッカリと穿たれた無機質な穴の中に放り出されたようだった。
 たまらなくなって僕は教室を飛び出し、彼女の後を追った。
 先生の叫び声が聞こえたような気もしたが、すぐには追いかけてこない。今にして思えば先生は、自習をしていなさいとか、静かに待っていなさいとか、教室を出ないようにとか、そんな注意を与えていたんだろう。
 校舎を走り出た僕は、かろうじて彼女の背中が曲がり角を曲がるのを見た。それは彼女の家へ向かうのとは違う道だ。
 僕は彼女を追った。
 角を曲がると彼女のさびしそうな背中が揺れている。
 こんなところで曲がってしまったため、まっすぐ彼女の家へ向かったに違いない先生に、僕たちは見つかりはしなかった。
 「ねえ、どこへ行くの?」と、僕は叫んだ。
 家へ真っ直ぐに帰らずにこれからどこへ行くの、と訊いたつもりだったが、しゃべり終えると「どこへ引っ越すの?」ときいたような気がしていた。引っ越し先の地名は先生から教えられていたが、その地名を僕は知らない。電車で3時間だとか、飛行機で1時間だとか、僕のものさしで理解できる距離感を僕は知りたかったに違いない。
 彼女は「公園」と言った。「お気に入りの場所があるの」
 「ふうん。。。」
 衝動に任せて教室を飛び出してきた僕だけれど、授業中にそんなことをしてはいけないんだということに、この時初めて思い当たった。
 彼女は勉強もできて真面目でみんなの信望も厚い。僕は、きっと注意されるだろうなと思った。「はやく学校に戻らなくちゃダメでしょう?」と。
 ところが彼女はまるで反対のことを提案した。
 「一緒に来る?」
 「もちろん」


 そこは何の変哲もない住宅地の中の公園で、彼女のお気に入りの場所とは、ちいさな水飲み場の隣にあるベンチだった。
 彼女はポケットからキャラメルの箱を出し、取りだしたキャラメルの包装紙を剥いてから、「あげる」と、僕にくれた。僕はキャラメルをほうばった。箱からもうひとつ彼女はキャラメルを取りだし、自分も口に含んだ。

 思い出した! 彼女の名前。
 横山!
 そう、横山えみ子!
 え? えみ子?
 僕の前から姿を消したのが横山えみ子で、転校してきたのが葵えみ子。
 転校してきた少女は、葵えみ子。  名前が偶然一緒だという可能性と、実は同一人物なのだが何らかの事情で苗字が変わったのではないかという想い。これらをあれこれ思索する間もない。僕は突発的に「横山!」と、葵の背中に叫んでいた。
 振り返る葵(横山)えみ子。
 「あ、やっぱり、そうなんだ」
 葵は僕を当時のニックネームで呼んだ。
 「キンチャン? そうなのね? うわあー。なつかしー」
 その時見せた彼女の笑顔は、8年前、賑やかなクラスメイトに囲まれていたときのままだった。


 僕たちはあの時と同じように公園のベンチに座った。
 あの頃と違うのは、それぞれ財布を持っていることだ。缶ドリンクを自動販売機で買い、ベンチに座ってからプルトップを開け、喉を湿らせながらのおしゃべり。
 お喋りといっても、想い出話をするには、彼女が転校していったのはあまりにも昔すぎた。時間的に昔というのではない。たかが8年だ。例えば今から8年後の僕が今を想い出として語るのはたやすいだろう。だが、当時僕たちは小学校3年生で、今は高校2年。それは気が遠くなるような成長の歴史だった。
 だからとりたてて話すことなど無いのだ。
 けれども、さびしげな後ろ姿だった彼女が、時折見せてくれるとびっきりの笑顔が、僕を安堵させ、充足させてくれた。


 葵えみ子が転校してきて一ヶ月が過ぎた。
 彼女は少しづつクラスにとけ込み、8年前と同じように仲間に囲まれた楽しげな表情を見せることも珍しくなくなった。
 ただ、小学3年生の時のように、いつも、というわけにはいかない。
 僕たちはいくつもシビアな問題を抱えている。目の前の定期試験や実力試験もあるし、入試のための模擬テストもある。夢と成績のギャップに愕然とすることもある。学校全体で見れば、家出や補導といったことが絶えずどこかで起こっているし、僕たちのクラスでも、何ヶ月も顔を出さないヤツもいる。どこかで誰かと喧嘩したらしく、ある日突然右手をつって登校してきたクラスメイトも、まもなくギプスが外れるらしい。
 葵にとっての僕なんて、転校先で知っている男の子にあってホッとした、という程度のものであって、葵がクラスに馴染めば馴染むほど、僕は特別な存在から急速に普通の友達へと変化した。つまり、偶然の再会がきっかけで恋人になった、なんてどこかの物語のようなことは一切無い。ただ、それでも僕たちはベストフレンドなのだろう。
 少しずつ僕は、あの明るかった葵の、無表情への変貌の課程を知ることが出来た。知ってみればあっけないほど簡単なことだった。
 ずっと顔見知りばかりの中で愉快にすごし、笑顔で過ごせた小学校3年生の転校までの時代。そして、転校後の新しい世界。自分を取り巻く全てが変貌したのだ。笑顔ばかりではいられない。
 事情があって葵は養子に出され、苗字も変わったのだが、そこでの緊張もあったのだろう。
 まず葵が出会ったのは、自分が変わってしまったことへの驚きだった。
 まわりの大人達の葵に対する評価は、「愛嬌がある」だの「優しい」だの「思いやりがある」だの「礼儀正しい」だの、いわばメジャーなものばかりだった。
 だが、変化した環境の中で、そうではなくなってしまった自分。
 新しい両親はいい人だった。クラスメイトも暖かく迎えてくれた。でも、以前評価されていた自分とは違う自分がいる。
 「今から思えば、それが当然だったんだけどね。両親が変わり、学校が変わり、友達がいなくなって一から作り始めて。。。。そりゃ、笑ってばかりいられないって。だけど、小学生にそんなことわからないじゃない。だから、自分があの頃の自分じゃないということだけにとらわれて、すごくショックだったの。そのショックがますます自分を追い込んでいたんだけどね」
 だけど、ある時葵は気が付いたという。
 まわりの自分への評価がなんだというのだ?
 大切なのは自分の気持ち。笑いたいときに笑い、泣きたいときに泣く。それで十分じゃないか。
 ここから、自然体の葵が始まる。過去に捕らわれない葵の新しい歴史が。
 「転校一日目にわたしがあまりにも無表情だったから心配してくれたなんて、とても嬉しい。でも、愛想笑いしてもしょうがないし、愉快なときは自然に笑みがこぼれるでしょ? ただそれだけだったのよ。心配かけてゴメンね。で、ありがと」
 小学生の頃の葵が、どのように「優しくて」「思いやりのある」子だったのかは、僕にはもはや記憶がない。記憶どころか、そんなこと感じてすらいなかっただろう。それは大人の葵に対する評価でしかなかったのだ。
 でもその評価が、今になってみれば僕にもわかるような気がした。
 あの頃と変わらず、葵は朗らかで明るく優しくて思いやりのある女の子だ。


 「バスの発車まで、どうしよう」
 えみ子が展望台から戻ってきた。そして、杜の庵で昼食を食べた。葵えみ子とその連れ相馬斤介、恵と庵の妻の4人で。
 16時のバスまでまだ5時間近くある。
 斤介が庵の妻に二人のことを語ったように、えみ子も恵に自分たちのことを展望台で語っていた。
 杜の庵で旅人の世話をする二人は、客から素性を語られたというそれだけのことで、食卓にアットホームな雰囲気を振りまくことが出来るようになった。
 ホンの少し過去を知ったからといって、家族同然というわけにはもちろんいかない。そんなことでどれほどのことが理解できようか。
 けれども、過去を語るということは、心を開くと言うことだ。
 人と人とのふれあいは理解ではなく、その時、その瞬間に、心が通い逢うかどうかということなのだ。
 ちょっとばかり賑やかな昼食タイムが繰り広げられた。だが、食事を終えるともうなにもすることがない。
 で、「バスの発車まで、どうしよう」ということになったのだ。
 「歩いて山を下りてみる?」と、恵が提案した。
 「歩いて? どれくらい時間がかかるの?」
 「さあ。わたしも歩いて帯広まで行ったこと無いからわからない。でも、バスの運転手さんに言っておくから。歩いている二人ずれがいたら、途中で拾ってあげてって」
 「たっぷり日焼けしそうね」
 えみ子が笑った。

     

 
 

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この作品はWEB物書き仲間の「はるひさん」に差し上げたショートストーリー「キャラメル」を、「杜の庵」用に再構成したものです。