第4話 スーベニール「未来の子供達のために」  =13= 



 大田原光博に会うことが出来たのは2日後だった。
 僕たちは相変わらず姫路のホテルに滞在していた。朝、大田原から清花の部屋に連絡があり、今日の午後なら逢えるという。僕たちはホテルをチェックアウトし、大田原が指定するビルの1階の喫茶店で待ち合わせをした。
 大田原はいささか個性に欠けるスーツを、しかしきちんと身につけていた。
「何度も会社の方にご連絡いただいていたんですね。ええ、添乗で沖縄へ行っていたんですよ」
 大田原は拍子抜けするほどきちんとした格好で、きちんとした態度だった。さすがは勤め人、といいたいところだけれど、まあこれが普通なのだろう。
「殺風景で実質本意なお店ですけれど、このビルの7階がうちの会社ですから。何かあったら呼び出してもらえます。打ち合わせなどにもよく使うんです。その分、ここでお茶を飲んでいる限りはさぼってるんだか仕事上必要なことなのか、にわかに判断できません。ま、そういう意味では重宝しているんですよ。ですから、こんなところで、ご勘弁下さい」
「こんなところだなんて、お店の人に聞かれたら気分を害されるわよ」
「いやあ、その分、売上げに貢献していますから」
「会社のお金で?」
「あ、領収書のことですか。まいりましたねえ。実はそうなんですよ。このビルに入っているテナントのゴム印がレジに用意してありまして、もう僕の顔を見たら、そのゴム印をポンて押すんですよね」
「パブロフの犬みたいに?」
「そうですそうです。ええと、立華さんでしたっけ? 話しやすい方ですね。全てのお客様があなたのようだと、僕もストレスたまらないんですけれど」
 他愛ないお喋りで大田原はその場の雰囲気を作っていく。生来おしゃべり好きなんだろうけれど、さすがに日常サービス業に従事しているだけあるなと、僕は思った。
 そのぶん、これが普段の彼なのかどうかはわからないから、用心が必要かもしれない。
「そうそう、水野のことで、お知りになりたいことがある、ということでしたね」と、大田原。
 面会の用件については、事前に伝えてある。他のメンバーと同じように、昔の友人から調査依頼を受けて、ということにしてあった。

 「彼女の古い友達というその依頼者の方が男性か女性かにもよるんでしょうけれど、本当のことを全て伝えるかどうかについては、あなた方で判断してあげて下さい」
 大田原は少し改まった口調で言った。
 「と、いいますと?」と、清花。
 「うん、彼女は、恋多き女性、だったんです。だから、その依頼者という人が、それを知ってショックを受けるようであれば、ということですが。
 ああ、なんか、自分で過去形で喋ってしまって、あらためて彼女がもうこの世にいないってことを思い知らされますね」
 「恋多き、といっても、僕たちの知る限りでは、青山健二さんと梶谷武史さん、この二人だけなんですけれど」
 「うん、いや、その前に実は僕とも付き合っていたんですよ」
 「え? そうなんですか?」
 弥生と大田原が大人の関係であったことは、葵双葉から訊いていた。だが、彼女の語るニュアンスからは「遊びで寝た」という印象を受けた。あるいは、大田原が軽く「弥生と寝たことあるよ」とでも言ったのを、双葉が「遊び」と感じただけのことかも知れない。
 「先日、ちょっとした同窓会を開かれたそうですけど、じゃあその時に集まった男性メンバー全てと、水野さんは関係があったんですね?」と、清花。
 「ええ。正確には、集まるはずだったメンバー、ですけれど」
 「そうでしたね」と、清花は沈痛な表情を作って見せた。
 「そうです。僕は前の日から参加していたので、参加予定だった女の子達には全員会えましたけれど、夜はいったん自宅に戻りましたから、水野に会ったのはそれが最後になってしまいました」
 「翌日は、どうされたの?」
 「車で三田へ向かっている途中に、ラジオで爆発事故のことを聞きました。現場の状況が把握できていない状態での第一報だったんですが、救援活動の支障になる可能性が高いから、現地に車で行くことは自粛しましょうとラジオが呼びかけていたんですよ。阪神淡路大震災の教訓でしょう。水野の家の電話は誰も出ないし、携帯も通じませんでした。アンテナのある施設がやられたか、回線が混雑したか、わかりませんけれど、とにかく三田へ行くのはやめようと思って、引き返したんです。ニュースの続報で、おそらく青山も梶谷も現地入りは出来ていないだろうなと思いました」
 「大田原さんが実質上の幹事さんだったってききましたが」と、僕。
 「いや、そんな大げさなつもりはなかったんです。彼女が『また、みんなで逢えたらいいね』っていうから、『じゃあ、声をかけてみようか』っていう軽いノリだったんですよ」
 「変なことを聞くようですが」と、僕は口を挟んだ。「男性に限って言えば、水野さんと関係のあった人だけが対象だったわけですね?」
 「いやあ。どう説明すればいいんでしょう。彼女が言いだしたことですから、彼女を中心にした人選だったわけです。もともと僕たちは彼女の取り巻きみたいなものですから。男に限らず、葵や榊原も含めて。まあ、もともとみんな同じ高校のクラスメイトですから、水野がいようといまいと知り合い同士ではあったんですけど」
 「大田原さんは、昔、水野さんと恋人同士だったんでしょう? で、別れた。それでも、今でも交流があるんですか?」と、清花。
 「恋人同士だっただなんて、古い話ですよ。彼女とのデートを時々思い出すこともあるんですが、なにか、遠く懐かしい風景を見ているような気持になります。今は仲のいい友達ですよね。なにしろ、高校生の頃の話ですから。お二人は、かわいい恋愛をしていたなあなんて、振り返ることはないですか?」
 「そうねえ、あるわよねえ」
 大田原の問いかけに、清花は目を細めて答えた。
 「そうでしょう? それと同じですよ」
 「ところで、青山さんや梶谷さんは、どんな気持だったんでしょうね?」と、僕。
 「どんな、といいますと?」
 「ほら、突然誘われた同窓会。その中にかつての恋人がいる、というのは」
 「ああ、うん、梶谷はよくわかりませんけど、青山はまだ未練があったみたいです」
 大田原は青山健二の心情を語り始めた。

 2年生から3年生へのクラス替え。それがこのグループが出来るきっかけだった。
 この時、大田原は弥生と付き合っていた。
 クラス替えと同時に、今のメンバーが弥生を中心になんとなく集まった。彼女の天真爛漫さが、彼らを惹きつけたんだろうと大田原は言う。
 弥生のキャラクターを魅力的だと思う者が自然と彼女のまわりに集まり、そうでない者は近寄らなかった。
 そういう意味では、弥生は目立つ存在だったかも知れない。
 ひとそれぞれ個性やクセがあり、その強さも様々だけれども、強ければ強いほど「惹かれるもの」と「そうでないもの」の区別がはっきりしてくる。
 弥生のまわりには特定の人しか集まらなかったのだから、弥生は「強い」部類だったのだ。
 しかし彼女がそういう特性を発揮しだしたのは、高3に進級してからだった。それまではこれといった個性を発揮してこなかった。
 このことについて、大田原は結構冷静に分析している。
 弥生には当時大田原という恋人がいたために、いわゆる自分らしさを表に出すのは、大田原に対してのみに限られていた。
 ところがクラス替えと同時に、弥生の出す雰囲気に何人かが自然と集まってきた。弥生はもはや自分をセーブし、大田原にのみ心を許す必要が無くなったのだ。
 自分を受け入れてくれる者が複数いる。そうなると、いままで大田原にのみ注いでいた視線が広がる。弥生も大田原も、ちょうど特定の恋愛相手に夢中になり、またそのことが最大の喜びであるという、幼さの残る恋愛ごっこから卒業しようとしている時期でもあった。
 お互い相手が嫌いになったとか、飽きたとかではなく、興味の対象が広がっていったのだ。
 そこへ猛アタックをかけてきたのが青山健二だった。
 健二は弥生に同じ匂いをかいでいたと大田原は言う。
 「同じ匂い?」と、清花。
 「二人とも、ちょっと純粋すぎる面がありましたね」
 「ふうん」と、僕。
 「ただ、大きな違いがありました。水野は自分でそのことに気が付いていて、それを気に病んでいました。自分の想いや行動が、悪気がなく純なために、まわりを時として追いつめたり、傷つけたりする。彼女は敏感な娘だったので、そのことを自分自身でよくわかっていたんです」
 年齢とともに失われていく天真爛漫さは、失われなければ、ある時を境に魅力にかわる。周囲の人間も徐々に思慮深くなり、簡単には傷つかなくなる。
 高3のクラス替えの後、彼女のまわりに幾人かの取り巻きが出来たことで、弥生はそのことをまた敏感に感じ取り、また、自分が自分であるために、もっと自然に、ありのままに振る舞うようになった。
 「青山も同じように純粋だったんですけどね、彼の場合、水野と大きく違うのは、鈍感だったことですよ」
 不思議に思われるかも知れませんがと前置きをして、大田原は付け加えた。
 「鈍感で不器用、そういう青山の印象のせいで、まわりに与える影響力は水野に比べてずっと小さかったんですよ。純粋で不器用で自分を上手く表現できず、損をしている。彼はまわりにそう思われていましたね。だから、あいつは純粋でいいヤツだ、と」
 純粋である、という共通点。
 にもかかわらず、二人の間に横たわる相違点。天真爛漫、思い通りの行動が、魅力でもあり欠点でもある弥生。純粋さを上手く表現出来なくて、不器用な印象を与える健二。
 僕は青山健二と初めて会ったときのことを思い出す。
どちらかといえば口数が少なく、一見ぱっとしない見た目の僕にガッカリしてみせ、なのに「主任」という肩書きに、ちょっと安心したりする。
 僕は「純粋」というより、「純朴」とか「木訥」といった単語の方が彼に似合うような気がした。

 「青山は、僕と彼女が付き合っていることに気が付いていませんでした」と、大田原は言った。
 「それで、彼は水野さんに告白したんですね?」と、僕。
 「ええ。でも、その前段階で、僕に相談してきたんですよ」
 「あら、まあ」と、清花が反応した。
 「自分の性格を自分でこんな風に言うのはなんだかはばかられますが、僕はいわゆるまじめな性格だと思うんです」
 そのまじめさ故に、健二は安心して大田原に告白をした。大田原も弥生も、お互いに恋愛の対象としては興味を失い始めていたし、そのことを二人とも感じてもいた。
 水野弥生への想いを熱く語る青山健二に、いつしか大田原光博は心を打たれていたという。
 「気が付いたとき、僕は『当たって砕けろっていうだろう? まずは、想いを伝えなければ何も始まらないぞ』って、言ってしまってたんですよ」
 「彼女をとられるかも知れないのに?」と、僕。
 「ううん、まあ、そこが不思議なんですけど、僕の中にいわゆる嫉妬心とかは、芽生えなかったんです。全ては、彼女が選べばそれでいい。そんな気持でしたね。今から思えば、適当な事を言って青山に水野のことを諦めさせるのは簡単だったかも知れませんが、僕には出来ませんでした。青山が水野に告白をする。いいじゃないか。彼だって、好きな人に想いを打ち明けることは当然許されるわけだし。まあ、そんな風に考えてしまうところが、僕が真面目であるゆえんなんでしょうね。僕が僕であるためにはそうするしかなかった、というのもあるでしょう」
 「で、青山さんは告白したのね?」と、清花。
 「ええ、見事当たって砕けましたよ」
 砕けた理由は、「好きな人がいる」ため。むろん、大田原光博のことだ。
 健二は大田原に結果を報告に来た。
 言うだけ言ってだめだったんだからしょうがないじゃないかという、すがすがしい目をしていたけれど、その表情の奥に、悔しさややるせなさを時々のぞかせた。
 「で、僕は僕でこんなヤツですから、『一度や二度で諦めるな。今まで何の意識もしてなかった男から、突然付き合って下さいなんて言われて、ハイそうですかわかりましたなんて言う女より、よほど信用できるぞ』なんてね、けしかけてしまったんです」
 それから約2カ月。その間に健二が弥生に何回告白したかは知らない。
 だが、ついに想いは通じた。
 そのことを大田原は、健二からではなく、弥生から知らされることになる。
 「わたし、青山くんとつきあってもいいかな?」
 許可をもらうような言い方だった。
 いつかこんな日がくるんじゃないかと半ば覚悟していたとはいえ、大田原はショックだった。
 「じゃあ、俺とのことはどうするんだよ」
 恋愛熱中症からは脱しつつあったとはいえ、いざ本当に恋愛が終わってしまうと思うと辛かった。
 「どうって、今まで通りじゃいけないの?」
 平然と、弥生は言い放った。
 「今まで通りって、なんだよ、それ」
 「だって、わたし、大田原のこと嫌いになったわけじゃないし、別れたいとも思わないもの」
 「あのなあ、それは二股をかけるということだぞ」
 「だから、そうじゃなくて。わたしの彼氏は大田原なの。だけど、青山くんも付き合って下さいって言うし、付き合うだけならいいかなって。ほら、お茶を飲んでお喋りしたり、映画とか遊園地とか遊びに行ったり。でも、それだけなのよ」
 「それだけなのよって、気軽に言うけど、それはデートだろ。俺との付き合いのどこが違うんだよ」
 「だから、違うじゃないの」
 弥生は身体の関係のことを言っているのだと、ようやく大田原は理解した。
 青山は親しく付き合う友人で、大田原は恋人。
 「だめだよ。そういうのは」
 「どうして?」
 「青山が付き合って下さいって言ってるのは、『恋人になって下さい』っていうことだぞ。それに、どんな理屈を付けたって、青山から見ればお前が二股をかけていることになるじゃないか」
 「だって・・・これしかないじゃない。今を潰さずに、みんなの想いをかなえるには」
 それは弥生の心からの叫びだった。
 でも、と大田原は思う。今を変えずに全ての思いを叶えることなんて、出来はしないんだよ。
 大田原はしばらく考えた。
 青山と付き合ってあげたいという弥生の気持は多分変わらないだろう。
 そして、弥生に告白するように青山をけしかけたのは自分である。もし自分が弥生と付き合っていなければ、青山が弥生という恋人を得るのは、嬉しいことでもある。
 大田原はひとつの結論を出し、そして、宣言した。
 「わかった。お前はお前の思うとおりにしたらいい。だけど、俺達が恋人同士であり続けることは出来ない。いまから俺達は友達だ」
 ひとつの願いが叶い、ひとつの想いが終わる。さすがに弥生もそのことを実感したのだろう、しばらく黙ったままで、硬い表情をしていた。
 「でも」と、弥生は言った。「わたしのそばにいてね。どこか遠くへ行ったりしないでね」
 「ああ、友達だからな。恋人と違って、友達に別れはない」
 「良かった」
 こうしてひとつの関係が終わり、新しい関係が始まった。
 こんなの絶えられないなと、僕は思った。
 恋愛感情がなくなって別れるならいい。でも、そうじゃない。お互いがまだ気持を確かめあいながら、それでいて恋人という関係に終焉を迎える。
 自分のことではないのに、僕は胸がヒリヒリした。
 「よく、そういう決断が出来ましたね」と、僕。
 「そうですね。でも、それが僕ですから」と、大田原は言った。

 大田原が弥生との友達関係でいることにようやく慣れたとき、新しい波紋が起こった。梶谷武史が弥生に惚れてしまったのだ。
 「ヤツは、青山と弥生が付き合っていることに気が付いていなかったんでしょう。というのは、青山と彼女はおそらくそれほど親密な関係には発展しなかったようなんです」
 教室などで「わたし達は付き合っています」といわんばかりにあからさまにいちゃついてるカップルをみかけるけれど、青山と弥生に関しては一切そうがなかった。それどころか、隠そうとしても隠しきれない恋人同士が醸し出す独特の空気すら感じられなかった。
 「もっとも、梶谷のことだから、弥生が誰と付き合っていようと関係なかったかも知れません」
 弥生は梶谷から告白を受けたとき、梶谷にはっきりと言った。
 「わたしには付き合ってる人がいます」
 みんなの思いを叶えてあげたいという気持が、結局大田原との別れにつながった。だから今回は、自分の意志をきちんと伝えたかった。
 「構わない。キミがそのひととの付き合いをやめる必要はない」
 「二股をかけろって言うの?」
 「俺はそれでもいい。キミと一緒の時間を過ごせれば。
 別にいいだろう? 時々一緒に遊びに行ったりするだけなんだから。今までと何ら変わりない」
 何らかわらないと言われて、弥生はドキリとした。弥生は今までに梶谷と二人で過ごしたことが時々あった。
 共通のファンがいるからと二人でコンサートに行ったり、たまたま学校帰りが一緒になり、カラオケに行ったりしたことがある。
 「これも、あなたに言わせたら、騙したことになるの?」と、弥生は大田原に相談した。
 「うう〜ん」
 大田原は考えた末、「意識してやっていたら、そうだろうね」と、答えた。
 「わたしと一緒にいたいと望んでくれる人がいる。嫌いな人じゃない。だったら、どうして素直にそれら全てを受け入れることが出来ないのかしら。望まれることをするのが、どうしていけないことになるの?」
 随分弥生は思い悩んだようだが、梶谷にやはり「付き合ってる人がいるから、あなたとは付き合えない」と答えるしかなかったようだ。
 しかし、梶谷は強引だった。
 弥生の返事など無視するかのように、何度となく弥生を誘った。お付き合いして下さい、ではなく、映画に行こう、夜景を見に行こう、祭りに行こう、どこそこで新しい店ができるから一緒に食事に行こう・・・。
 弥生は全ての誘いにのったわけではなかったが、青山健二との付き合いをおろそかにしていたわけでもないのだからと、用事のない時はとくに罪悪感を感じることもなく、梶谷の誘いに応じた。
 そうするうちに、梶谷と二人でいるときの方が楽しいことに気が付いた。
 交差点の信号が黄色になったとき、梶谷はさっと弥生の手を取り、足早に交差点を渡る。そして、そのまま弥生と手をつないだままでデートを続ける。ふとした拍子に肩を抱き寄せる。身体を引き寄せられて唇を重ねられたときも、ごく自然な動作だった。
 「随分手慣れてて、抵抗しようなんて思いつきもしなかった」と、弥生は大田原に告白した。
 「そりゃあ、おまえが抵抗しようと思わなかったからだよ」と、大田原は言った。
 「なによ、それ。わたしがそれを期待していたって言うの?」
 「そうじゃない。そうじゃないけれど、ファーストキスを思いだしてみろよ。それって、ものすごく特別だったんじゃないのか? それにくらべて、今のお前にとっては、たかがキスなんだよ。ごく普通の、日常の出来事になってるんだよ」
 「そうしたのは、光博でしょ」
 「俺のせいにするなよ」
 「だって、光博と付き合ってなかったら、手を握られただけでもきっとわたし叫んでたわよ」
 「だから、良くも悪くも、慣れてしまったんだよ」
 「でも、手をつながれたら、ドキドキするわ」
 「ドキドキすることの良さを、覚えてしまったんだろう?」
 「まあ、そうだけど」
 「だから、拒否できないんだよ」
 「うん。嬉しいし、気持ちいいし」
 「まさか、誘われて寝たりするなよ。ズルズル関係を持つなんて最低だぞ」
 「そうね」と、弥生は少し考えた。そして、「わからないわ」と、答えた。
 「ばか。何言ってんだ」
 「だって、嫌だとは思えないもん」
 「青山は?」
 「え?」
 「彼とはどうなってる?」
 「だって、青山くんは何もしてくれない」
 多分そうだろうなと大田原は思っていた。その通りだったのだ。
 それから、弥生と梶谷が身体の関係になるまで、それほど時間がかからなかった。
 「どうして拒否しなかった!」
 大田原は弥生を攻めた。
 「だって、面白いところに連れていってあげるって言われて、あっと思ったらホテルの前で」
 「そこで梶谷を振り払うことだって出来たろう?」
 「手をつかまれて、引っ張り込まれたのよ」
 「そうなるまでに、いくらでも逃げることは出来ただろう? 逃げなかったのは、お前だって嫌がってなかったからだ」
 「梶谷と、同じ事を言うのね」
 「な、なんだよ、お前らファーストネームで呼び合う仲になってんのか?」
 「だって、そうして欲しいって梶谷が言うから」
 「じゃあ、お前は望まれたら何でもその通りにするのか?」
 「嫌なことはしないわよ。だけど、呼び方なんて、相手の好きなようにしてあげていいじゃない」
 いつしか大田原と弥生は声を張り上げて口論していた。
 そのことに大田原は、拳を振り上げて立ち上がり、初めて気が付いた。
 「ちょっと、落ち着こう」と、大田原は自分に言い聞かせるように言う。
 「で、ヤツは何て言ったんだ」
 「うん、わたしも部屋に入って、やっぱりだめだ、わたしが付き合ってるのは青山くんで、梶谷とはただの遊び友達。そう思って、『こんなの良くないからやっぱりやめよう、わたし、彼がいるし』って言ったの」
 だが、梶谷は応じなかった。
 「ここまで来てなに言ってるんだ。俺達はデートもしたし、キスもした。お前が誰と付き合ってても俺には関係ない。俺はお前とやりたいんだ。お前だってそうだろう? だからついてきたくせに」
 嫌だ、逃げ出したい。この時弥生は初めてそう思った。ある種の恐怖心が湧いたという。
 でも、きつく抱きすくめられて、身動きできなくなった。
 のしかかられるようにしてベッドに押し倒され、胸を鷲掴みにされ、スカートの中に手を突っ込まれた。
 「いやあ、やめてえ。こんなのいやあ!」
 弥生は叫んだ。
 梶谷は弥生の下着に手をかけた。パンストを履いていなかったので、そのまま力任せに引き下ろされた。布の裂ける音がした。
 「やめて! やめて! お願ああい!」
 身体をひねりながら思いきり叫ぶと、殴られて、それから口を手で塞がれた。
 「うるさい。黙ってろ。俺のしたいようにさせればいいんだ!」
 「あぐ、うぐ」
 殴られたことで、抵抗への気力を失った。口を塞がれたことがそれに拍車をかけた。
 やられる。
 弥生は観念した。
 観念した途端に、身体が反応し始めた。
 抵抗しなくなったと見るや、梶谷は口を塞いでいた手を離し、唇を重ねた。暑く激しいキスだった。苦く甘かった。弥生の口の中で梶谷の舌は一生懸命弥生を求めてきた。なにひとつ逃すまい、全て俺のものだ。 彼の想いが弥生の心と体を完全に開いた。
 キスが終わった時、弥生は「そんなに欲しいのならあげる」という気持になっていた。
 「やさしくしてね。乱暴にしないで」と、弥生は言った。
 「だったら、自分で脱げよ」
 「うん」
 弥生は全裸になった。部屋に備え付けられた必要以上に大きな鏡が、弥生を写す。
 わたしって、いつの間にか、こんなに女になっていたんだ。
 いいよね、もう。望まれるままに抱かれても。
 いいよね、もう。思ったまま、感じたままに行動しても。
 それで幸せになれなかったとしても、自分や誰かが傷ついたとしても、いつか泣く日が来るかも知れなくても、心を閉じこめて思い悩むよりもいい。
 弥生は梶谷の背中に手を回した。
 どうしたら悦びを得られ、与えることが出来るか、弥生は大田原との付き合いの中で覚えた。もはや求め合うことに何の抵抗もなくなっていた。
 「おまえ、初めてじゃないだろ?」
 「うん、違う」
 「じゃあ、優しくなんてしない」
 「うん、激しくもいいよ」
 だが、梶谷のセックスは激しいというのではなく、わがままと言った方がよかった。でも、それが良かった。感情のままに求められることが心地よかった。
 弥生の身体を嵐が駆け抜ける。
 一度、弥生は「避妊してね」と頼んだけれど、梶谷は「大丈夫だよ」と言ったきりだ。どうせそうだろうな、梶谷なんて何の準備もしてないに違いないと弥生は思った。
 「大田原さんは、その一部始終を水野さんから聞いたんですか?」と、僕は訊いた。
 「ええ、そうです」
 「ちょっと、どきどきするほどリアルですよね。そんなことも話をするんですねえ」と、清花。
 「うん、リアルでしたね。でも、彼とのことを報告する弥生は、なんとも思ってなかったようです。いつしか僕たちはそういう友達になっていました」
 清花が「ふうん」と感心するのと、僕がため息をつくのがほぼ同時だった。
 一度深い仲になった男と女ってそうなのか?
 僕は思いを巡らせたけれど、別れた後も友達として付き合っている人がいないので、なんとも言えなかった。
 弥生はその後、相変わらず青山と梶谷の二人との付き合いを続けたけれども、やがて破綻がやってきた。生理が来なくなったのだ。
 青山をごたごたに巻き込みたくない。
 弥生はそう思った。
 青山は相変わらず身体を求めては来ないけれど、自分を大切に思っている気持ちはひしひし伝わってくる。一緒にいて愉快なのはどちらかといえば梶谷だけれど、青山が自分を大切に思ってくれているのもまた心地よかった。青山とのデートは、時に退屈することはあったけれど、つまらないというのとは違う。だから、青山との付き合いを終わらせようなどとは露とも思わなかった。
 だけど、もう、けじめをつけなくちゃ。
 ただ「好きだ」という気持だけを伝えてくる青山を、男と女のどろどろしたことに引きずり込みたくないと弥生は思った。
 そして、弥生は理由を告げずに、青山に別れを口にした。
 同時に、女友達に、相手が誰かを告げずに弥生は相談をした。
 「まだ、きちんと調べてないんでしょ? まずはお医者に行って、もし妊娠してるんなら彼にも言わなくちゃ」
 ごく当たり前のことをアドバイスされて、それでも弥生はどうすることも出来ずに、大田原のところにやってきた。
 仮に妊娠していたとしても、梶谷のことだ、なにも考えようとはしないだろう。弥生はそう思っていた。あんな男に打ち明けられない。
 大田原が彼女に言ったことも、女友達と大差なかった。
 そんな折り、弥生は梶谷の浮気に気付く。
 いつの頃からか、梶谷の態度が変化していて、他に彼女がいるんでしょと、冗談半分の口調で問いつめたら、あっさり白状した。
 「だって、お前最近、なんだかつまらないから」と、梶谷は言った。
 新しい彼女とは、心の底から笑い逢える愉快な時間を過ごせるのだと、梶谷はしゃあしゃあと言ってのけた。
 「もう、寝たの?」
 弥生は嫉妬を覚えている自分に気が付く。
 「まだ」
 「じゃあ、わたしの方がまだいいんじゃない」
 「バカかお前? お前は足を開くから寝たんじゃないか。お前に責められるいわれはないね。お前は別に彼氏がちゃんといて、それでもいいからって俺が口説いて、それをお前は受け入れた。そうだったろう?」
 淡々と言われて、弥生はショックだった。確かに、自分と梶谷はそういう割り切った関係から始まったけれど、そして、相変わらず青山とも付き合っていたけれど、もっと心の底で通じ合えるものが二人の間に生まれていると思っていた。
 全てはただの思いこみだ。
 相手の望むままに受け入れて、あげく生理が止まり、恋人とも別れ、悩んで悩んで悩み抜いて、それでも梶谷には妊娠したかも知れないと告げることも出来ず、それが気になって、梶谷と一緒にいてもなんとなく心ここにあらず、それが態度に出てしまい、「最近のお前はつまらない」と、浮気をされてしまう。
 もうどうでもいいや、と弥生は思った。
 この男には、もう何も期待しまい、と。
 そう思うと、楽しかった時間や熱く抱き合ったひとときが急に色褪せて見えた。
 「もう逢わない」
 さっさと去る弥生を、梶谷は全く追わなかった。
 全てを手放して、弥生は開放されたのだろう、止まっていた生理はすぐにやってきた。
 一方、弥生に別れを言い渡されて落ち込んだ青山を、再び大田原は励ますことになる。
 「僕は詰まらない男だったんだよ。何も彼女にしてあげられなかった。だから、別れられたんだ」
 そう言う青山に、大田原は「詰まらないなんてことがあるものか。お前の良さは俺がよく知っている。ただ、弥生にはそれがまだよくわからなかったんだ」
 適当なことを言ってるなと思いながら、大田原は他に言葉を見つけることが出来なかった。
 「いつか、弥生にもそれがわかる」
 「わかったら、戻ってくるだろうか」
 「それはわからないよ。戻ってこない可能性の方が高いだろうな。だけど、時間が経って、『青山君は青山君で、なかなか魅力的な人だったなあ』って、気が付くときが来るよ」
 「そうだろうか」
 「来る。きっと来る。絶対来る」
 「だけど、戻ってこなくちゃ意味がない」
 「そんなことあるか。お前だって、その頃には新しい彼女が出来ているかも知れない。お互い懐かしく良い想い出として持っていられるなら、お前が彼女と過ごした時間は無駄でも何でもなかったんだよ」
 青山が立ち直れる日が来るのだろうか、そう思いながら、大田原は言葉を選んだ。

 月日が流れた。
 高校を卒業し、それぞれの道に進む。
 大田原と弥生は相変わらず親しかった。
 「もともと家は遠くなかったんですが、車の免許を持つようになって、ますます近くなったせいもあるでしょう。あそこまで何でも語り合ってしまうと、ずっとそうやって過ごすのが当たり前のような気になっています」
 家の都合で両親が不在となった弥生が急に寂しさを覚え、懐かしいなあ、あの頃のメンバーでまた逢えないかなあ、などと言いだしたときに、「じゃあ、集めてみようか」と大田原が提案したのは、すごく自然の成り行きだったという。
 「いいのかい?」と、大田原は訊いた。
 「なにが?」
 「だって、色々あったじゃない」
 「うん。色々あったね。懐かしいわ」
 「こだわりとか、わだかまりは、もうないのか?」
 「そうねえ」
 弥生は少し考えて、「全くない。とは言い切れないけれど、懐かしさの方が強いような気がするなあ。今なら、みんなと親友になれるかも知れないとかとも思っちゃう」
 「みんなって? 青山とか、梶谷とかとも?」
 「そうよ」
 「キミに振られて、青山なんか随分めげてたぞ」
 「そっか。あれはあれで、今から思えばいい男だったんだよなあ。別れなきゃ良かった」
 「指一本触れない、詰まらない男だったんだろう?」
 「別に。確かに奥手なタイプかなって気はしてたけど、寝たいと思ったらわたしから誘えば済むじゃない。あいつのいいところは、その程度じゃ色褪せないのよ」
 「もっと早く気が付けば良かったのにね」
 「そうよね。今だからそんな風に思えるのね。あの頃は、じんわりと想いを伝えてくる男より、がんがん迫ってくる男の方が、心地よかったのよ」
 「梶谷みたいな?」
 「そうそう」
 「妊娠させても責任とらないような男が良かったんだ」
 「結局妊娠してなかったし、彼にはそのこと言ってなかったし。実際どんな反応したかなんてわからないわ。でも、確かにちょっとひどいヤツだったよなあ。あんなのに『妊娠したわ。どうしてくれるの?』なんて言ったら、お腹、蹴られたかもね」
 アハハと笑う弥生に、「もうみんな乗り越えたんだね」と、声をかけようとして、結局、大田原は口にしなかった。
 「まあ、あれはあれで、少しは大人になったんじゃないの?」
 「もう、逢っても平気?」
 「大丈夫よ。そう、わたしはいつだって大丈夫。あの時、サヨナラ言ったのは、自分にけじめをつけたかっただけ。追いかけてこなかったからそれっきりになっただけなの。って、ちょっと強がりかな?」
 「だったら、逢えばもう一度火がついたりして」
 「う〜ん、それは多分ないなあ」
 「言い切れる?」
 「だって、懐かしさだけでもう一度付き合えるのなら、あなたととっくに恋人復活してるって」
 「どうだか。お互い近すぎて、恋愛感情持てないだけかも知れない」
 「ううん、そうじゃないよ。想い出は想い出だもの。いまさら燃えないよ」
 「そっか」
 大田原に話を聞くことで徐々に弥生の気持ちが明らかになってゆく。


 

 



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