第4話 スーベニール「未来の子供達のために」  =5= 



 目が覚めると、隣に清花はいなかった。
 二人とも酔っていたので気にならなかったのだろうが、朝の陽射しの中で見ると、ささやかな酒宴の後が結構散らかっている。へしゃげたビールの空き缶やつまみ類の袋が机の上や床に散乱していた。そんなに飲み食いした覚えはないのだが。あとで知ったことなのだが、夜中に僕が清花を蹴飛ばして、目を覚ました彼女は一人でまた飲み始めた。その残骸がこれなのだった。
 その後再び眠気を催した彼女は、そのまま自分の部屋に戻って眠ったとのことだった。
 僕はとりあえず部屋を片付けることにして、手当たり次第にゴミ箱に放り込んだ。
 自分の荷物はといてさえいなかった。そういえば風呂にも入っていないし、着替えてもいない。バスタブの蛇口をひねり、湯がたまる間にバッグから下着を引っぱり出した。
 まだ十分な湯量にはなっていなかったが、僕は服を脱ぎ、浴槽に浸かった。寝汗がじっとりと身体にまとわりついて気色悪かったが、お湯が徐々に増えるに従ってじわじわと気持のいいものが身体に染みわたってくる。
 肩まで湯が達したので蛇口を閉める。僕は顎まで湯に沈めて目を閉じた。
 どれぐらいそうしていただろうか。身体を洗おうと思ったとき、電話が鳴った。湯から上がり、バスタオルでざっと身体を拭う。バスルームを出る。受話器を手にする。
 「おはよう。まだ寝てた?」
 清花だった。
 「葵双葉さん、今日、会ってくれるって。大田原さんは添乗で沖縄に行ってて、しばらく不在みたい」
 聞き覚えのない人物名が出ると思ったが、すぐに思いだした。いずれも青山健二の同級生、今回の案件の関係者だ。
 清花は朝からアポ取りをしたらしい。
 「わかった。でも、まだ風呂に入ってる途中なんだ」
 「うん、ゆっくりでいいよ。葵さんとの約束は午後イチだから時間はあるの。わたしもこれからシャワー浴びるし。そのあと、朝食をとってから出かけましょ」
 まるで遠足に行く幼稚園児のように、清花の声は弾んでいた。昨夜のことなど綺麗さっぱり忘れたように屈託無く明るい。
 じゃあ1時間後に、と約束をして電話を切る。僕はもう一度バスルームに戻った。

 身支度を整えてホテルのレストランで朝食をとり、僕たちは堺へ向かった。
 交通経路は、こうである。
 三田駅から乗ったのは四条畷行き快速。これは東西線系統の列車で、大阪駅を通らない代わりにすぐ近くの「北新地」に停車する。
 ホームに降りたときにやってきたのがこの列車だったから乗ったわけで、意識的に「大阪駅」を避けたわけじゃない。
 北新地からはすぐ隣の「西梅田」へ。
 大阪駅周辺の私鉄や地下鉄駅は全て「梅田」という名称を使っているが、実体は梅田を大阪と読み替えても差し支えない。知らない人は少しとまどうが、東京の地下鉄の「異名同駅」に比べれば随分おとなしいものだ。
 西梅田から「難波」までは地下鉄四つ橋線。そして難波から堺へ南海電車に乗り継ぐ。
 距離的には大したことはないが、都市部を挟んでいるため交通体系が複雑で、乗り継ぎをよぎなくされる。予想以上に時間がかかった。
 駅から清花が葵双葉に電話を入れた。
 約束の時間にちょっと遅れるかも知れないとの申し出に、「あら、わたしも仕事で手が放せなかったの。ちょうど良かったわ。いま、どちら? あら、じゃあそんなに時間はかからないわね。それまでに仕事、終わるかしら。わたしがお待たせするかも知れませんね。でも、かまわないから、上がって待っていて下さいな」とのことだった。

 僕と清花はタクシーに乗り、双葉の住所を告げた。
 「仕事か。でも確か、葵さんは専業主婦だって、青山さんからは情報をもらってるよね」と、僕。
 「そうよね。でも、自宅にいるわけだから、内職とか、そんなかも」
 「あはは、今は内職なんて言い方はしないんだよ」と、僕は呆れて言った。
 「じゃあ、なんて言うのよ」
 「SOHO」
 「ぶっ。もしかして和宣、在宅勤務を全てSOHOだと思ってるんじゃない?」
 「え? 違うの?」
 知ったかぶりをして、実はそれが間違いだった。こんな時は赤面するしかない。今の僕がまさにそれだ。
 「まあ、広い意味ではそうかも知れないけれど、わたしはもっと狭い意味だと理解している」
 広い意味と狭い意味?
 物事や言葉の解説を聞いているとよく「広義ではこう解釈されているが、私が言わんとしているのはもっと狭義であり、すなわち・・・」なんてのを耳にするけれど、「わけのわからない前置きはいいからさっさと本題に入れ」なんてイライラしたものだ。そう、もっとも最近では・・・・
 あれ? 思い出せない。確か大学の講義だった。でも、何の講義だったっけ?
 広義だの狭義だの、その時はただじれったく感じただけだったが、葵双葉訪問に際してひょっとしたら若干の知識は必要かもと僕は思った。彼女がSOHOに携わっていたらそういう話題が出るかも知れないし、話が弾めばたくさんの情報を引き出せる。
 「ちょっと説明してよ」
 「うん。わかった」
 清花の解説が始まった。
 SOHOとは、Small Office Home Officeの略であり、これだけでは「店舗を構えない自宅開業」を意味しているように思える。
 これが広義の解釈で、『会社から配達員によって届けられる材料を加工して、会社から引き取りに来る配達員に完成品を渡す、歩合制の仕事』、すなわち内職もそこに含まれるかも知れない。
 また、在庫を持たない通販業もそうだろう。消費者から電話やファックスで注文を受け、それをとりまとめてメーカーに発注、メーカーは製品を消費者に直送する。
 しかし、ここには必ずしもインターネットが介在する必要はない。
 「SOHOはインターネットっていう新しい通信システムを最大限に利用して、極端な場合は誰とも面識を持たないままで、仕事を受注して、電子メールで打ち合わせをして、出来たものをメールで送信、そうしてギャラを得るわけ」と、清花は説明する。
 電話やファックスを使えば、直接会わなくても仕事の打ち合わせは出来る。インターネットを利用して電子メールでやりとりしなくてはならないとは限らない。むしろ、電話の方がその場でディスカッションできるから向いている。
 では、インターネットでなくては出来ないものとは?
 例えば、画像。例えば、レイアウトされた文章。例えば、音楽。
 電子メールに添付して送ることによって、これらは一切劣化をしないままで相手に送ることが出来る。しかも、瞬時に。
 この特性を生かした在宅開業こそがSOHOだと清花は言うのだ。

 「それと、サラリーマンがインターネットなどを使って在宅勤務することは、SOHOじゃないのよね。あくまでも、独立開業していないと」
 「じゃあ、業務の幅は、そんなに広くない?」
 「多分、今のところはね。ホームページ作成とか、電子メールでDMを送るとか、バナー広告なんかの画像作成とか、翻訳とか、ね。でも、この先どんなのが出てくるかはわからない。だって、インターネットの世界って、バーチャルって言うけど、現実と何も変わらないもの。詐欺もあるし、密輸もあるし、ネズミ講もあるし、内蔵の売買まであるんだから」
 「うん、ニュースで聞いた」
 僕もプロバイダ契約はしているが、とりたてて欲しい情報があるわけではないし、せいぜい風の予感の業務に電子メールを使うくらいだ。しかし、それもたいした量ではない。
 調査依頼に対してはきちんとした打ち合わせが必要なので、顔を合わせてのミーティングとなる。だから、業務に使うといっても、ギャラの明細が送られてくるくらいである。いちいちプリントアウトするのが面倒だからそうしているのだろう。もっとも、メールチェックを忘れたまま数日が経過することも少なくないから、明細を見たときは既に銀行からおろした後だったりする。
 「ネットは匿名性が強いから、現実社会より犯罪は横行するでしょうね」
 「でも、お金のやりとりが絡むと、振込先の口座なんかから犯人はわかるよね」
 「クレジットカードを使わせて、クレジット専門の集金代行会社を経由させれば、簡単にはわからないの。しかも、集金代行会社は海外の法人だったりするから、よけい始末が悪いのよ」
 「へえ」
 僕は感心した。犯罪は犯罪だろうが、よくもそこまで手の込んだやりかたを考えるものだ。
 「けどまあ、振り込みでも詐欺は出来るよね。ある程度のお金が集まったら会社を倒産させて、元社長は『個人責任じゃない。会社の責任だ。会社は倒産したから、もうどうしようもない』なんてのらりくらり逃げながら、こっちでは新しい会社を設立して、また詐欺をするの」
 「インターネットでなくても、そういう例はゴマンとあるだろう?」
 「そうよ。だけど、ネットを使うことで、より複雑で巧妙なことができるのよ」
 「ふうん・・・」

 僕たちを乗せたタクシーは住宅地の中に入り、スピードを落とした。
 「この辺やと思うけど、どないやろ」
 どないやろ、と言われても、自分の家に帰るわけじゃないので、そこを右だの何本目の電柱の横だの説明できっこない。
 「じゃあ、ここでいいわ」と、清花。
 「ほな、脇によせまっせ」
 「領収書、くださいね」
 「領収書な」と、運転手は気のない声で返事をした。

 葵双葉の家は、電柱などの住居表示からほどなく探し当てることが出来た。狭いながらも庭のある一戸建てだ。一帯は古くからある住宅地のたたずまいだった。インターホンを通じて清花が名前を告げると、「どうぞ。鍵は開いていますから」との返事。まだ仕事が終わらないのだろう。
 来訪の用件は今朝の電話で清花が伝達済みだ。榊原チエに話したのと同じく、弥生の古い友達が依頼者ということになっている。

 僕と清花が通されたのは、ダイニングキッチンだった。家屋が古いのでしぶい雰囲気だが、テーブルや椅子は新しく明るい色合いだ。コーヒーを注いで出された食器類も洗練されていた。
 「素敵なお住まいですね」と、清花。
 「そんなことないですわ。古いばかりですもの」
 「でも、家具とか、食器とかは、比較的新しいですよね」
 「ふふ、主人の両親がみんな持って出て行っちゃいましたから、新しく揃えたんですよ」
 「え?」
 清花の表情が、「話題の選び方、まずったか」と物語っていた。
 旦那の両親と同居していたが、何か(嫁と姑とのいさかいなど)問題が起こって、こともあろうに両親の方がおん出てしまった?
 「わたしと主人は、自分たちが住むつもりで、マンションを買っていたんです。
 ところが、そちらの方が日当たりもいいですし、駅にも近いですから、主人の両親が気に入ってしまって。高層マンションなんですけど、エレベーターがあるので年寄りも不自由しませんし。それにマンションですと、子供が出来て暴れ回ると下の階の人に迷惑でしょう?
 で、結局、両親の住んでいた家に私達が住むことになって、お父さんとお母さんは、私達が住むはずだったマンションへ引っ越したんです。使い慣れた家財道具と一緒にね」
 「そうだったんですか」
 なるほど。新婚夫婦が新居に住むとは限らない。世の中色々あるなあと僕は感心した。

 「じゃあ、悪いんですけど、もう少しだけ待ってて下さいね」
 双葉は席を立った。
 ダイニングキッチンの隣は和室で、もとは襖で仕切られていたようだが、取り外されている。
 和室のほぼ真ん中に座卓があり、その上にノートパソコンが一台ポツンと置いてある。
 「それでお仕事を?」と、清花が声をかける。
 「ええまあ」と、双葉は、ちょっと面倒くさそうに答えた。さっきまでと口調が明らかに違っていた。さっさと仕事を片付けようとしているところに、またぞろ話しかけられたからだろう。
 「お子さまは?」
 「まだ、です」
 「じゃあ、昼間は静かに仕事が出来るわけですね」
 「ええまあ」
 お茶を出してくれているときは雄弁だったのに、パソコンの前に座ると、とたんにぞんざいな返答になった。迷惑がっているのが手に取るようにわかった。
 声をかけるのは遠慮したほうがよさそうだなと思ったら、再び双葉は雄弁になった。
 「そうだわ。そこでお待ちになっても退屈でしょう? よろしければ、こっちへお越しにならない?」
 双葉はノートパソコンを指さした。

 「こういうのは、興味ないかしら。ないわけないですよね。誰だって、こういうのは好きだもの」
 「へえ、何かしら」
 清花が席を立ち、僕が後に続く。
 清花がパソコンの画面を覗き込む。
 「ええ? こ、これって!」
 清花の声が裏返った。本当は叫びたいのだが、必死にこらえているようである。
 僕も見る。
 そこには、裸の男女の性交中の写真画像があった。しかも愛し合っている部分があからさまに写っている。見せるためのポーズとアングル。
 双葉はマウスを操って、アッという間にボカシを入れ、目の部分に黒い線を入れた。
 「はい、これで終わりです」
 双葉はにっこり笑って、ノートパソコンのふたを閉じようと画面に手をかけた。
 その瞬間、僕は思わず「ちょっとまって」と叫んでいた。
 「もっと見ます? まだまだありますわ」
 「あ、いや、その・・・」
 決してエロ画像をもっと長い間見ていたい、という意味ではない。が、そう思われたんじゃないかと思うと、焦って舌がもつれた。
 「しどろもどろになるくらいなら、最初から名残惜しそうな声なんか出すんじゃない」
 清花に睨まれた。
 「いや、写真が見たいわけじゃなくて」
 「何をご覧になりたいのかしら?」
 「あの、これって、いったい・・・いや、差し支えなければでいいんですが、どういうお仕事なんですか?」
 僕はやっと用件を切り出すことが出来た。
 なぜわざわざそんなことを訊いたのかというと、双葉が処理していた写真が、いわゆるポルノ雑誌に掲載されるヌード写真のモザイク処理、というのとは少し違うような気がしたからだ。だからどうと言うことではないのだが、何かが引っかかった。そう、例えばそういう写真ならプロのヌードモデルを使うから、目線を入れたりしない。あえて言うあら「投稿写真」か。
 「ああ、これは、私のホームページに掲載する写真ですの」
 双葉は平然と言った。
 いったい何の必要があって、普通の主婦が作る個人ページに猥褻な画像を掲載する必要があるのだろう?
 葵双葉という女性は、このような行為によって性的な刺激を享受し、自分を満足させているのだろうか?
 だとすれば、一種の異常性欲者? この程度のことで「異常」とまで言ってしまうのは言葉が過ぎるとは思うけれど、一般的な範疇は越えているような気がする。
 「へえー。女の人が作る、女の人のための、エッチなページですか。なかなかいいですね」
 清花が感心するものだから、僕はさらに驚いた。
 「いえ、別に女性のためのページというわけではないんですのよ。どなたが見るか、についてはこだわっていないんです」
 



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