第2話 ピュアーラブ「雨よ流して」   =6= 




 6月25日 晴(?)

 これまでのことは比較的いつの出来事かよく覚えていた。天気は新聞のバックナンバーから拾い集めていた。
 なぜこんなに月日の記憶がはっきりしているのか、それはあまりにも印象が激しかったからだ。
 今日はこんなことをされた、こんなことになった。悔しい思いを秘めながらカレンダーを睨み付けていた。
「夏休みまで後何日」という思いもあった。
 夏休みが何も解決してくれないのはわかっていたけれど、でもその40日間はとにかくいじめから開放されるのだ。
 でも、確か、6月25日。この日から後のことはさらに僕の周りが怒濤のように流れ、もはや日にちや曜日の感覚が全くなくなってしまった。
 怒濤のように、といっても、これは極めて個人的なことだ。まわりは平凡に推移していたはずだった。
 僕と、鈴鹿涼子の二人の、大げさに言えば短くて密度の高い日々が始まったのだ。
 太く激しい流れの中で、僕は色々なことを考えた。まわりのごく一般的な生活とか時間の流れなどどうでも良くなってしまった。
 涼子は僕のリクエストに応えてくれて、毎日のように色々な本を持ってきてくれた。
 ところで僕は今、「涼子」と書いた。いままでのように鈴鹿涼子と書くのが面倒になったのではない。毎日訪ねてくれる彼女に対して、距離感が無くなり始めていたのだ。
 本のデリバリーは僕にとってありがたいことだったけれど、それ以上にいつしか彼女と過ごす時間に僕はいいようのない安らぎを感じ始めていた。
 彼女が持ってきてくれる本は、決して僕が触れることがないであろう世界を僕に伝えてくれる。そして、涼子との会話が僕のまわりの現実と僕をつなぎ止めてくれた。
 とてもバランスがとれていた。「いじめ」による苦痛などが存在したのが嘘のように、僕の心は日々平穏だった。
 もちろんそれは学校に行くことをやめてしまったからだが。
 そして、僕の心のバランスは「死」を迎える準備を、音も光もない海底を静かに流れるわずかな水流のように、ひっそりと整えつつあった。
 精神の平穏は、死を受け入れることによって保たれようとしている。
 僕はまるで定められた運命を受け入れる覚悟を決めた後のように潔く爽やかな気分になっていた。
「いじめ」というまがまがしい現実はもはや僕の前にはない。そんなものはどうでもよくなっていた。
 もちろん死を決意したからこそ「いじめ」から逃れられたのだし、「いじめ」が明日から綺麗さっぱり無くなるのならば「死」を取りやめただろう。
 けれど、いったん死を決意して歩き始めた僕にとって、そんなことは関係なくなってしまっているような気がした。
「最近、気分が良さそうね」と、涼子が言った。
「うん、そうかも知れない。なんか、サバサバした感じがする」
「それは、学校にずっと来ていないから?」
「だろうね。ただ。。。。」
「ただ、何? もしかしたらそろそろ学校へ来れそう?」
「学校へはもう行かないよ」
「どうして? ホームルームでも話題になったのよ。それで、いじめがなくなるという保証はないけどさ」
「ううん、そういうんじゃなくて、ただ、決めただけなんだよ」
「何を?」
 何を、と身を乗り出して僕をのぞき込む涼子の目は、僕の決意を言葉にするのを一瞬躊躇させた。なぜなら、彼女が求めた答えは「いじめに負けず勇気を持って明日を信じて、前向きに歩く」と言うようなことであると、彼女の目の輝きから察することが出来たからだ。
 でも僕は、彼女のその目の輝きに負けないぐらいの明るいまなざしで言ったはずだ。
「死ぬんだ、僕」

「え?」
 涼子は一瞬、僕の台詞が理解できないようだった。
 ふっと遠くの世界に意識がとばされたように目がうつろになった。空耳? 幻聴? そんな疑問符を何度も繰り返しながら徐々に現実に引き戻される。
 僕にはその涼子の変化が手に取るようにわかった。冷静に彼女を観察している自分に気付く。
「死ぬって、なにそれ? いじめられたから?」
「そう。でも、もうそんなことどうでもいいんだよ」
「どうでもいいわけない! 人間は簡単に生まれては来ないのよ。だから、簡単に死んでもいけない。どうでもいいことなんてない」
「ううん、もう決めたんだ。いじめがきっかけでそんなことを考えはじめたのは事実だけれど、それはもうどうでもいい。そういう運命だったんだって思ったら、惜しくもないし悔しくもない。ただ、死ぬだけなんだ。とてもさっぱりした気分だよ」
「だって、だって、だって。。。。。」
 涼子はあとの言葉が続かなかった。
 そうかも知れない。僕だって、目の前の友人に「実は死ぬんだ」といわれたら、どう反応していいかわからないに違いない。ただの知り合いとか、通りすがりの人だったら、「ちょっと待って。考え直せよ」って言うだろう。無責任が故に言えることだ。
 でも、友達だったら?
 友達?
 涼子は僕にとって友達なんだろうか?
 僕に対するいじめが始まるまではほとんど口もきいたことがない。ただのクラスメイト。顔と名前が一致する程度。
 急速に親しくなった、もしくは僕がそう感じているのは実は一方的な感情で、涼子にしてみればただの同情かも知れない。
「あの世とこの世が入れ替わっただけなんだと思うよ」と、僕は言った。
「いや、聴きたくない」と、涼子は小さく叫んだ。
 僕は顔を伏せ、しばらくの沈黙が流れた。
「ねえ」と、涼子。「死ななくてもいいんじゃないの?」
 僕は何も答えない。答えることが出来なかった。
 僕が黙っていると、涼子は一方的に喋り続けた。
「転校する方法はいくらでもあると思うの。それもだめなら、休み続けていっそのこと留年してもいいんじゃないの?」
 僕はうなだれたままだった。
「ねえってば」
 涼子は僕の肩に両手をかけた。
「お願い。死なないで。死んだりしたらダメ。生きて」
 彼女は手に力を入れて揺さぶる。
 僕は一瞬、ホンの一瞬、あの世とこの世が再度入れ替わった。いま生きているのが現実の世界で、死後の世界がもうひとつの世界。
 その時、僕の意識の中を数々のいじめのシーンが駆けめぐった。
 机の中やロッカーから全ての持ち物が無くなったこと。
 便器の中に顔を突っ込まされ、たまっていた水を飲み込んでしまったこと。
 大勢に取り囲まれて、罵られながらこづかれたこと。
 弁当の蓋を開けたら、消しゴムのかすが振りかけられていたこと。
 日直の時、「起立、礼」の号令を無視されたこと。
 鞄の中にジュースをぶちまけられたこと。
 殴られたり、蹴られたり、下劣な言葉をあびせられたり...
 まだまだいっぱいあるけれど、きちんと知覚できなかった。ぐるぐると頭の中を駆け回り、激しい目眩が僕を襲った。
 後で聞くと、僕はこの時強く痙攣していたらしい。そして、嘔吐。
 もうろうとした意識の中でわずかに認識できたのは、涼子が吐瀉物を処理してくれている姿だった。
 ティッシュで口のまわりなどを拭いてくれている。
 床や布団はほとんど汚さなかったらしい。そのかわり、涼子自身でそのほとんどを受けとめていたようだった。
「着替え、は?」
「あ、そこ」
 僕はタンスの引き出しを指さした。
「あ、いや、もちろん自分でとるよ、そんなことまで。。。」
 僕は立ち上がってタンスに歩み寄り、Tシャツの入った引き出しを開けた。
「私も、借りていい?」
「あ。ああ」
 Tシャツ二枚を僕は引っぱり出した。
 よく見ると涼子はスカートも汚れていた。
「ズボンは? ジャージか、なにか。。。」
「あ、それは大丈夫。下に短パンはいてるから。小学校の時にスカートめくりされて以来ずっと。男の子にとってはスカートめくりなんてホンの悪戯なんだろうけれど、わたしにとっては深刻ないじめ、だったの。もちろん、平気な子もたくさんいたけれどね。中学生になってスカートの下にブルマも何だから、短パンにしたんだけど」
「そう」
 僕は服を着替えると、部屋を出て母親に事情を話し、洗濯物籠をとってきた。
 部屋に戻ると涼子は着替えの最中だった。と、いうより、脱いだ服の置き場に困っていたのだ。僕が吐き出したものを包み込むようにして脱いだ服を手にしていた。
「ごめん」と、僕は目を閉じ、洗濯物籠を床に置いた。「これに入れて。洗濯するから」
「ありがと。目を開けてもいいよ」
 着替えにしては早いなと思いながらも目を開けると、上半身は何も身につけていない涼子がいた。
 僕の視線は釘付けになった。
 誤解しないで欲しいといっても無理かも知れないけれど、いやらしい邪心は全くなかった。よこしまな気持などみじんも許されないほど、涼子の裸身はあまりにも美しかった。視線を背けることが出来なかった。この美しさを目にすることを拒否するなど、神への冒涜のようにさえ思えた。
「綺麗でしょ?」と、涼子はいった。
「うん」と、僕は答えた。
「自惚れでいってるんじゃないのよ。一般論よ」
「そうだね」
「でもちょっとだけ自惚れてるけどね。比較的素敵なフォルムだなって、自分で思うもの。だけどね、本当は女の子ってみんな綺麗なのよ」
 涼子が何を言おうとしているのか理解できた。死んでしまったら、そのたくさんの美しさに出逢うことは出来ない、というのだろう。
「違うの」と、僕の心を見透かしたように涼子は言った。
「え?」
「本物は何だって美しいって事」
 本物とは、裸と言うことだろうか。着飾っていない姿という意味なのだろうか。僕にはよくわからなかった。
「ショックだった、さっきのこと。あなたが痙攣したり戻したりしたこと。私が『死なないで』って言ったからでしょう?」
 多分そうだろう。死ぬと決意してから保たれていた僕の心の平穏が、一瞬にして崩れ去ってしまったのだ。
「う、多分」
 僕はそう返事をしたけれど、「多分」ではなくて「確実に」そうだった。
「洗濯物は?」
 遠くで母親の声がした。
「いっけない」
 まるで自分が怒られたように涼子がつぶやいた。
 涼子はTシャツをかぶり、洗濯物籠を下げ、そして「やだ。。。」と言った。
「なに?」
「胸、透けてる。こんな格好でお母さんの前に出ていけない」
「いいよ。僕が持っていく。僕のせいだから」
「ありがと」
「ついでにシャワーでも浴びてくるよ。それとも、先に浴びる?」
「あとでいい」
「じゃあ、ビデオでもCDでも、好きなことしててよ」
「うん」
 僕と涼子は交代でシャワーを浴び、その間に汚れた服は洗濯機と乾燥機にかけられた。
 母親は当然のように涼子の分も夕食の用意をした。涼子が僕の家で食事をしてから帰るのは珍しいことではなくなっていた。
 初夏と盛夏の区別が付かないようなじっとりとした空気が部屋に充満していた。僕はエアコンのスイッチを入れた。シャワーで火照った体に涼やかな風が心地よかった。
 涼子は相変わらずの格好で、しかもシャワー後によく拭かなかったのか、汗の為なのか、肌が透けて見える。
 こうなると勝手なもので、神々しいまでの美しさ持ったあの裸身に目を奪われ時の敬虔とすら呼べるような気持は消え失せ、僕はただ女の子に興味津々の普通の少年に戻っている。
 僕の視線にいやらしさを感じたのだろう、あのとき「目を開けていいよ」と言った涼子の同じ口から漏れた言葉は「やだ、見ないで」だった。
 身を隠す場所も、隠すものも、どうやらとっさには発見できなかったのだろう。涼子は僕のベッドに逃げ込むように潜り込んだ。
 そして、顔だけを持ち上げた。
「こっち、来て、いいわよ」と、言った。そして、「さっきはごめんね」とまで付け加えた。
「え。でも」
「こっちへ来て、お願い」
 衣服越しの悩ましい姿を布団で完璧に隠されて、僕からは再びいやらしい気持が無くなった。優しく微笑む涼子の中に聖母の存在さえ見ることが出来た。
 僕はのそのそとベッドに這い上がり、彼女と並んで布団の中に身を潜めた。
「わたしは、」と、涼子は言った。「あなたと生きてあげる」
「え?」
「ううん、あなたに『死なないで』なんてもう言わない。だから、それまでの間、一緒に生きてあげる」
 僕には涼子の言っていることが全くわからなかった。そして、同時に全てを理解することが出来た。
「一緒に生きてあげる。そして、もういいと思ったら死んでもいいよ。その後も、それでも、わたしはずっときみとともに生き続けてあげるから」
 涼子は僕にゆっくりと体をもたせかけてきた。徐々にからだ全体を預けてくる。
 やがて、仰向けになっている僕に涼子は重なった。涼子の全体重が僕にのしかかる。
 僕は涼子を感じた。
 人って、こんなにも重く、暖かく、そして柔らかいものだったなんて。
 一緒に生きてあげるという気持までが伝わってきた。
「重いでしょ」
「うん。ちょっとね。でも、何だかいい気持」
「わたしも。人と人が触れあうってとっても気持ちいいことなんだね」
「そうだね」
 涼子は僕の胸に耳を当てた。
「どきどき言ってる」と、涼子。
「そりゃ、生きてるから、まだ今のところ」と、僕。
「そうね、今のところ」
「なんだか、死に向かって一歩づつ歩いているのが嘘みたいだな」
「あなたは生きるの。私の中で、永遠に。死に向かってなんかいない」
 なんて心地いい言葉なんだろうと僕は思った。
「みんなが『死んだ』って認識したとき、あなたは私の中で生き始めるのよ」
 死のうとするクラスメイトを思いとどまらせようとすることは簡単だ。使い古された言葉を駆使すればいい。でも、それで魂は救われないことを僕はさっき知った。痙攣と嘔吐という拒絶反応が現れたからだ。
 一方、死のうとする人の気持を自分の心に取り込もうとする人が今僕の側にいる事実。これは奇跡だろう。立場が逆転したら僕にはできっこない。それは涼子がいじめられた経験があるとかないとか、そのようなことは無関係に思えた。
 彼女の魂が僕のそれと交わり、ひとつになって理解し合ったからだ。いや、僕は彼女を理解していない。彼女が僕を受け入れただけなのだ。
 父親が帰宅し、僕たちは4人で夕食をとった。
「今夜、泊まってもいいですか?」と、涼子が言った。
「ええ?」と、驚いたのは僕だけで、母親は「お願いします」と言った。父親は無言だった。
 夕食後再び僕たちは僕の部屋に引っ込んで、二人きりになった。涼子が持ってきてくれた優しい曲調の音楽を聴きながら彼女が口を開く。
「わたし、一人暮らししているから。外泊しても平気なの」
「え?」
「わたしがいじめられっこだった時のことをご両親には話してあるの。転校するには私が一人暮らしするしかなかったのよ。小学生の女の子が1人で暮らすなんて非常識よね。でも、それでも、いじめられるよりかはいいという結論になったの」
 彼女が「転校する方法なんていくらでもある」といったのはこのことが前提にあったのかと思い当たった。
「ご両親はね、私が泊まることであなたの今の状況から少しでも良くなるなら、女の子をあなたの部屋に泊めてもいいと思っているのよ」
 そうか、そういうことか。
「でも、私はあなたのお父さんとお母さんを裏切ることになるわね。私はあなたの死を認めてしまったもの」
「君には迷惑がかからないようにする。遺書か何か残して。。。。」
「大丈夫よ。私のせいであなたが死んだなんて誰も思わないって。わたしでは結局止められなかった、そういう認識しかされないに決まってるから」
「そ、そう、だよね」
 その日から僕たちはひとつの布団で眠った。
 朝、涼子は僕たちと一緒に朝食を食べてから学校に行った。その日の夕方には彼女は色々なものを僕の部屋に持ち込んだ。教科書とか着替えとか、そういうものだ。
 毎晩僕たちは、涼子が眠たくなるまで長々と話をした。
 話の内容はいつも似たようなものだった。
「心の底から笑ったことがある? それはどんなとき?」とか、「あなたは女の子を好きになったことがある? どれくらい好きになった?」とか、「自転車で思い切り走るのって気持ちいいよね。決して自分の足ではあんなに速く走れないのに、紛れもなく自分の力だけで自転車は進んでいるんだ」とか、「神は人間がでっち上げたものだけど、真理としての神はきっと存在する」とか、「テレビドラマの撮影スケジュールと放送日の関係はどうなっているのか」とか、色々だ。
 話していて楽しかったり盛り上がったりしたことは何度でも話題になったし、そうでないことはそれっきりになった。
 お互い向かい合ってベッドに横になり、僕の腕を枕に涼子は語った。僕はもう一方の手を彼女の背中に回して、涼子は足を絡ませてきた。
 そうして触れあっていることがとても心地よかった。
 お互い夢中になれることだけを話題にしたから、不快な会話は一切無かった。
 体に触れることも、たわいもない会話をすることも、全ては魂の結びつきを確認するための手段に過ぎなかった。
 涼子を犯してしまいたい気持になったことは何度もあったけれど、この崇高な結びつきが汚れるような気がして、一度も実行に移せなかった。
 だけど確かに僕たちは結ばれていたのだ。
 このようにして何日も何日も過ぎた。
「いったいいつになったら死ぬの?」なんてことを涼子は一度だって口にしなかった。にもかかわらず僕たちは感じていた。僕が一歩ずつその場所へ向かっていることを。
 ある日僕は、「明日がその日だ」と感じた。
 80歳にも90歳にもなる人が聞いたら「お前は何もわかっていない」と言うかも知れないけれど、僕は一生を生きたという気分になったのだ。
「明日は、荷物をまとめて出ていってくれるかい? そして、もうここには来なくていい」
「そう、わかったわ。明日なのね」
「うん」

 僕は今、1人だ。
 長い長い時間をかけて、ここまで書いた。
 主に涼子が学校に行っている間に。
 いつの間にか僕にとっての「死の準備」とは、このノートを書き上げることになってしまっていたようだ。
 ノートが進まないと死の時が遠ざかり、涼子との時間が増える。するとまたノートに書き込む内容が増える。
 僕はようやくノートが現実に追いついたのだった。
 そして、さっき睡眠薬を一気に胃の中へ流し込んだ。
 致死量がどれくらいかなんてわからない。とにかく、死に損なわないように大量に飲んだ。
 これで僕は確実に死ぬだろう。
 死へ向かうことの陶酔がそうさせるのか、薬が効いてきたのかわからないけれど、何となく僕は朦朧となっていくのがわかった。
 やがてふっと意識が途絶えるのだろうか。それともこのままゆっくりと本来僕があるべき世界へ向かうのだろうか。
 本来あるべき世界?
 最後の最後になって、僕は大きな疑問にぶつかった。
 書き残さなくては。。。。
 体の力が抜けて行く。思うようにボールペンが持てない。持っても動かない。
 だめだ、このまま死んではダメだ。
 僕が本来あるべき世界、それはどこなんだ?
 死後の世界なのか?
 何故僕は死のうとしているのか?
 それは。。。。いじめの苦痛に耐えられなくなって、絶望したからだ。
 足立大介、金沢伸吾、村井修。あいつらは何故僕をいじめたんだ?
 僕でなくてはダメだったのか?
 あいつらは僕が死んだ原因が自分たちにあるなんて事をみじんでも考えるだろうか?
 。。。。。。能なしの、担任。。。。。
 恨み言を言ってもしょうがないけれど、僕はどうして、。。。。助けて。。。。もらえな。。。。。かった?
 僕は。。。。。。助けて欲しかったのか?
 。。。。。。。。。。。。こんなことで、死ぬなんて。
 。。。。。ロンドンにもパリにも。。。。。ニューヨークにも行っていない。
 。。。結婚もしていない。。。。。女の子を抱いたこともない。。。。
 キャビアも。。。。。熊刺しも。。。。。ルイベも。。。僕はまだ食べたことがない。
 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。
 。。。。。。。成績でもスポーツでも一番になったことがない。。。。。。人に自慢できることなどまだ何もない。。。。。
 。。キャッツもクレイジーフォーユーも。。。。。観ていない
 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 。。。。。。。。。バイクも。。。。車も。。。。

 。。。。。。。。。。。。。。。!
 どうして僕は死のうなんて考えたんだろう。
 そうだ、いじめだ。いじめに耐えられなかったのだ。
 そんなことで死んでいいのか?
 このまま死んでいいのか?
 このまま死んでたまるか!!!!!
 。。。。。。。。。。
 だけど
 。。。。。。。。。。。。。。。

 。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 もう
 。。。。。。。。
 。。。。。。。。。。

 。。。。。。。。。。。。


 薬が。。。。。


 。。。。。。。。



 。。。。。。。。。。。。効いて。。。。。。。



 意識が、完全に、なくなるまでに。



 。。。。。。。。。。。。ノートを、。。。。。閉じて。。。。



 せめて、ベッドに。。。。。。。。。移動しなくちゃ。。。。。。。



 。。。。。ノートの上に、顔を。。。。。。。。突っ伏して。。。。。



 よだれ。。。。ま。みれの。。。。。。。。



 。。。。。。。。。ノートが、発見。。。。。。。。されるなん。。。。。て、こと。。。。。



 。。。




 。。





 。













「な、なに、よ、これ。。。。。」
 喉を詰まらせながら、清花が言った。
「こ、こんなことって」
 僕は山下君がこの世にいないことを改めて感じ、清花のように激して感情をあふれさせたりする事が出来なかった。
「ホームルームで話し合った。。。。。クラスのみんなも担任も知っていたんだ。ご両親も学校へ相談に行っていたんだ」
「コピーをとったあと、ノートはお墓に戻しておきました」と、杉橋は締めくくるように言った。

「ノートが決め手だったわね、やっぱり」
 清花が言った。僕と清花は2日間の冷却期間をおいてから、顔をあわせた。
「うん。でも、ノートを探し出したのは杉橋で、結局僕たちは何もしなかったに等しいよな」
「だけど、最後の仕事が残っているわね」
「そう、依頼者への報告だよね」
 しかし、僕たちは報告書は作らなかった。請求書だけを作った。
 それは辛く苦しい作業だった。僕たちはなるべく事務的に伝票を整理し、ワープロを打った。

 夏休みの学校はひどく静かだった。陽射しだけが強かった。
 もちろんクラブ活動や補習授業で登校している生徒はいる。彼らの声が響く。でも、それらはなんとなく空々しく、どこか遠くからむなしく届いているように思えた。単に僕たちの心が虚無感に包まれているせいかもしれないのだけれど。
 あるいは陽射しが強すぎて風景を白っぽくしているせいかもしれない。
「死ぬのは、勇気がいることなのだろうか?」と、僕は言った。
「どうしたの? 唐突に」と、清花。
「死者にむち打つわけじゃないけれど、他に方法はなかったんだろうか?」
「せっぱ詰まっていた。他に何も可能性を考えられないほど窮地に追い込まれていた。うん、言葉では、いくらでも説明できるよね」
「なあ、清花。そこで、もういちど問うよ。『死ぬのは、勇気がいることなのだろうか?』」
「何が言いたいの?」
「正直に言って、僕は死ぬのが怖い。自分の人生がある時点でプツリと途切れてしまうことにも、死後の世界がまったく想像つかないことも、どっちも恐怖だ」
「うん、それで?」
 清花にも意見はあるのだろう。けれども、先を促してくれる。とにかく僕の言いたいことを全て吐き出させてあげよう、そう思っているのだ。彼女の優しさに感謝しながら、僕は続ける。
「追いつめられた山下君に、『死ぬ気になれば何でも出来るだろう?』なんて言うつもりはないんだ。けれど、僕だったら、死への恐怖から、最後の最後で、他の方法を考えるだろうな」
「例えば?」
「例えばというより、他に思いつかないんだけど、僕なら涼子ちゃんに救いを求めるよ。彼女だけは間違いなく、山下君の味方だった。山下君もそのことには気が付いていたはずさ」
「半分賛成。でも、半分異論」
「それは?」
「山下君も涼子ちゃんもまだ子供なの。そう、涼子ちゃんが大人なら、というか、私だったら、全ての生活の面倒を見ながら、山下君を少しづつ癒してあげることが出来る。でも、彼女一人では生活すら出来ないわ」
「それは、そうだけど」
「それと、もうひとつ。あの子達は、なぐさめ方をまだ知らない」
「それって、身体の関係のことを言ってるの?」
「そうよ。汚い?」
「汚くはないけど」
「でも、彼らにとっては、汚いことだと思うな」
「だろうね。純粋に愛し合っていたことは、間違いないだろうけれど」
「純粋すぎて、行き場を失った?」
「失ったと言うよりも、純粋ゆえに辿り着いた必然。そう思う」

 使われていないがらんとした教室で、僕たちは依頼者と面会した。
「これが、請求書です」と、清花が言った。
「報告書はありません」と、僕は後を継いだ。
「え。。。」
 依頼者は意外そうに小さな声を上げた。
「全て、ご存じだったんですね」と、しばらくしてから清花が言った。「あなたは全てご存じだった。教育委員会がどう言おうと、警察の見解がなんであろうと、あなたは山下君の自殺がいじめによるものだと確信していた。違いますか?」
 依頼者はわずかに肩を震わせた。そして、小さく頷いた。
「なんのための調査だったんです?」
 依頼者は答えなかった。
「もしあなたが教育者として今回のことをきっかけにいじめを何とかしようと思うのなら、この事実を白日にさらすことが出来るだけの材料は持っていたはずです。僕たちの結論はそうです。あなたの材料だけでは足らないと判断したんですか? それとも、別の目的があったのですか? 例えば、僕たちの調査結果から『自殺の真実を永遠に封じ込めて責任逃れが出来るかどうか』の判断に使おうとしたとか」
 僕は我慢できずに思ったことを口にしてしまった。
「わたしは責任逃れをするつもりはない!」
「でもあなたは、知っているはずの事実をどこにも発表していない。あなただけの力では権力に立ち向かえないと考えたんですか?」
「遺族の気持ちを考えれば、これ以上、今回のことをクローズアップしてどうこうしようなどという気もありません」
「ならば。。。。。どうして」
「。。。。。。わたしにもわかりません。報告を受けてそれからどうしようとしていたのか。どうしたかったのか。ただ、知りたかっただけなんです」
 ただ、知りたかった。
 死者がどんな気持で死んでいったかを、ただ、知りたかった。
 なるほど、まさしくそれを調査するのが我々の仕事なのだった。
 にしては、最初に僕たちが依頼者と会ったときは、調査結果を利用して何か行動を起こそうとしている、そう見えたのだが。
 事実依頼者はそれをにおわす発言をした。
 僕たちをたきつけるためだったのだろうか。それとも、社長が先入観を抱いていることに勘づいて、対抗策ともいえる芝居を打ったとでもいうのだろうか。よくわからない。
 いずれにしても、「ただ、知りたかった」という依頼者の気持ちに嘘は感じられなかった。
 むしろこれまでのやりとりにこそ、嘘や方便が含まれていたのかも知れない。
 行方不明者の捜索じゃない。死者の気持ちを調べるなどと言うあやふやなものだから、依頼者の気持ちも時間と共に変化しても不思議はない、とも思う。
「清花。。。」
 僕は小声で彼女を呼んだ。君はどう思う? そういう問いかけだ。
「うん」と、清花が言った。
 二人とも、コピーを見せてもいい、という結論に達したようだった。
「報告書の代わりが、これです」と、僕はコピーの束を依頼者に渡した。
「読んで下さい。読み終えたら、すぐ処分します」
 清花はこのノートのコピーがどういう素性のものであるのかを簡単に説明した。
「わかりました」
 依頼者が読み始める。
 全ての時間が止まったように、依頼者は身じろぎひとつせずにコピーを読み始めた。
 時折、依頼者が紙をめくる仕草とその時にわずかに発生する音が、時間は止まってなんかいないよと告げていた。
 だけど。
 山下君の時はあれからずっと止まったままだった。


 



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