遥かな草原の香り
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 本殿は、威容を誇る前社と異なり、森の中に静かに佇んでいた。建築様式はジャムが慣れ親しんだ日本の和風建築に良く似ている。仔細に観察すれば必ずしもそうではないが、違和感を感じるほどではない。
 規模だって奥ゆかしいものだ。山間の盆地で、昔から増えもせず減りもしない周囲の檀家だか氏子だかとともに、長い時間をひたすら共有してきた、そんな地域密着型信仰にちょうどよい程度の大きさの建物だった。
 もっともここは、山間の盆地ではなく、激しく山の中であるが。

 本殿正面の前は小さな庭だ。就学前の子どもたちが輪になってくるくると走り回るのに適度な広さ。寺と神社の区別がつかないあたしだから、そこにいるのは神主だか坊主だかわからないけれど、そこの責任者と子どもたちの親が片隅でたわいの無い会話をしながら、それでも子どもたちの様子をちゃんと見ることのできる、具合のいい空間。
 すなわち、ちょっと子どもたちが成長して、三角ベースでもしようと思いついたら、もう事欠くくらいのスペースしかなかった。
 とはいえ、午後のひと時を日向ぼっこで過ごすという風情ではない。天気がいいので日差しはきついが、標高が高いせいで気温は高くない。空気は冷涼だし、周囲を囲むのは鬱蒼とした原生林。邪気邪念をタップリ抱いた参拝者が後を絶たないせいで空気は澱んでいるが、自然そのものは素晴らしい。必死になって浄化しようと活動しているのがあたしには理解できた。ただ、人の汚れの方が多いから、間に合っていないのだった。

 フルダはゆっくりとしたスピードで小さな前庭を横切って、本殿の前を通過。
 助手席のあたしは、庭の先に立ちはだかる崖がどんどん近づいてくるのを視野の中央に捕らえながら、フルダがブレーキを踏むのを待っていた。本当はもっと手前で停まるのかと思っていた。でも、停まらずにそのまま進む。本殿の正面に乗り付けるつもり? いくらなんでもそれは憚られるだろうと思っていると、同じゆっくりなスピードで本殿前を横切った。
 小さな庭は、そこにそのスペースを作るために無理矢理切り拓いた区画のようで、一部の山を切り崩してある。だからここは、山間でありながらスロープではなく水平だ。その分、庭の終りには崖がある。このまま進めば崖の壁に激突する。
 しかし、フルダはスピードを緩めなかった。
 あたしは視線を右に向け、左に向けた。どこにもエスケープルートはない。この小さな前庭は、目の前の崖をもって終わっている。その先に車が進むべき道はどこにもない。
 けれど、フルダは停まろうとしない。まっすぐに視線を前に向けている。
「ちょ、フル……」
 あたしの視野をぐんぐん占拠していく、岩石と土で出来た壁。山が切り崩されてから相当の歳月が経過しているのだろう。根がはみ出しているし、小さな枝なども生えている。
「ね、フルダってば!」
 ついにあたし達の車は、壁に激突……せずに、その中に吸い込まれていった。

「結界で守られている。普通の人間には崖にしか見えない。だから、侵入者から守られてるんだよ」
「フルダには見えるの?」
「見えない。感じるだけだ。ジャムだって、その気になれば感じたはず……」
「そんなの、わからなかったわよ」
「目に見えるものだけに心を奪われていたからだよ。本来のキミは、感じる力を持っているはずだけど」
 崖の中に、ぽっかりと開かれた中空のスペース。
 あたしは鍾乳洞の中の地底湖を連想した。
 誰の目にも触れることなく、ひっそりと佇む地底湖。なにかの偶然でそこへの道を見つけ、辿り着いた人間が感じるのは、ただただ神秘的な空気感だけである。
「さ。着いたよ」
 フルダが車を停め、降りるようにあたしを促した。

 神秘的な空気感とともに存在するその空間は、掴みどころがまるでなかった。広いのか狭いのかわからない。どこがその終端なのか判然としないのだ。それはきっと、明るさが不明瞭だからなのだろう。
 ちっとも明るくない。照明らしきものがまるでないのだから、当然といえば当然だ。しかし、暗闇というのでもない。必要なものは全て見える。それ自体が発光しているというわけでもない。光源などどこにもないのに、まるで太陽光に照らされた物体のように、はっきりとその姿を現している。
 まず見えるのは、数名の人物。そして、いくばくかの物。とても限られた物しか存在していなかった。
 直径1メートル、高さは1メートル50ほどもあろうかという大きな甕。その存在の目的は明らかだった。水である。甕の上部に、勺が伏せてある。神社の入り口などの水場においてある、口をゆすいだり手を洗ったりするときに水をすくうのに用いるあれだ。
 こげ茶色の敷物の上には、生活用具、というか炊飯用具や食器が置かれている。老人が立ち上がり、その中からカップふたつを手にして、甕から勺ですくった水を注ぎ、フルダとあたしに手渡した。
「まず、飲まれよ」
 髭の老人に進められるままにカップを手にする。口元に近づけると、美麗な香りがした。
 懐かしい、とあたしは思った。
 自分がパワーを必要とするとき、周囲の自然たちから無条件で降り注いでくるあのなんともいえないエネルギー。それらが間違いなく持っていた香りである。これまでそれらは当たり前のように存在したため、特に香りを意識することは無かった。だが、ここではそれはとても貴重に思えた。
 車酔いの時にフルダがくれたミネラルウオーターも、これに比べたらまるで価値のないものに思える程だ。
 カップを唇にあてがうと、淡雪が解けるように口の中に入り、喉を優しく撫で、胃に届くまでの間にふっと消える。あっというまに身体の中に吸収されている。
 細胞についていた穢れが洗い流され、ぎくしゃくしていた身体の機能が鮮やかに目覚めていく。
「もういっぱい、いいですか?」
 あたしの足は、知らず甕に向かい、手に勺をとっていた。
「気が済むまで、飲まれよ。その水は、必要とする者には無限に与えられる」
 あたしは、2杯・3杯と立て続けに飲んだ。
 向かい側では、フルダが同じようにしていた。
「最強の娘の召還、ご苦労だった。しばし、休まれよ」とは、老人からフルダにかけられた言葉だった。
 何杯目かの水を飲んだフルダは、甕から数歩下がって、そして地面に身を横たえた。老人にねぎらわれ、そのままフルダは眠りに落ちたようだった。
「娘は、そこに座られよ」
 最強の娘とは、つまり、あたしのことらしい。

「我々は自らを陰修師と呼んでいる」
 老人は言った。
「みな、自己紹介してくれ」
 みな、といってもあたしを入れて全部で6人。そのうちの1人、フルダは眠っている。
「私は陽光」と、黒い髪の女が口を開いた。「本名は陽子。太陽の光が私を護り、力を与えてくれる。だから、ここでは、陽光なの」
 彼女は、その特徴である長い髪を自らの手で梳いた。指と指の間から、髪が流れ落ちる。サラサラという音が聴こえてきそうだ。 「私は日本人よ。多分、あなたもそうでしょ?」
「え、ええ……」
 あたしは答えた。国籍などこれまで考えたことも無いけれど、今までに出会った人たちは確かに日本人とは異なる容姿の人も多かった。パーオもパーメもそうだ。
 それなのに会話が成立したのが不思議だけれど、なぜそんなことが可能だったのか、今ならわかる。口から発せられる音声は、お互い言葉を解さない者どうしにあっては、「これから意思を伝えますよ」というただの合図。メッセージそのものは、意識から意識へと直接伝えられていた。
「日本人、といっても、別の世界かもしれないけれどね」
「別の世界なの?」
 あたしは、ちょっとがっかりした。
「かもしれないって言ったでしょう? もしかしたら、同じかもしれない。けれど、どの世界かを特定する材料はないの」
 陽光は立ち上がって、そして座った。さっきまで正座をしていたが、今はあぐらをかいている。
「お互いの世界の歴史を語り合えば、ヒントは見つかるわ。どこかが違っていれば、それは確実に別の世界。でも、歴史の全てを語り合うことは不可能だから、会話で交わされる歴史が全てが同じだったとしても、それは同じ世界だという証明にはならないわ。間違った知識もあるかもしれないしね。だから、違うことは断言できても、同じであるということは絶対に断言できないのよ」
 でも、あたしにはそんなことはどうでもいいことのように思えた。さっきはちょっとがっかりしたけれど、それは物事の本質とは違う。
 なぜなら、あたしと彼女は、ここに存在して、話をしている。それだけで十分だ。
 あたしがそう言うと、「そんな風に解釈してくれて、嬉しいわ」と、陽光は言った。

「次は俺か? 別に自己紹介といっても大したことはない。俺もあんたらと同じ世界から来たのか、別の世界から来たのかはわからんが、少なくともこの世界の住人じゃない。だが、なぜかここにいて、死鳥と戦っている。名前はトムだ。国籍はアメリカ。この世界にもいくつもの人種がいるらしいが、国籍とか人種とかの明瞭な区別はないらしい。つまり、国家とか、国境という概念がない。行政単位はひとつだ。我々はそれを村とも呼ぶし、市とも町とも呼ぶが、人口や都市の規模からなんとなくイメージでそう呼んでるに過ぎない。 もっとも、一定エリアをまとめてナントカ地方みたいな言い方はするらしいし、いくつかの行政を集めて群とも称するらしい。だがそれは単なる協力体だったり協議会だったりするだけで、そこに首長や議会があるわけじゃない。ま、ここはそんなところだ」

 あたしはとっさに、この人はなんだか教頭先生みたいだなと感じた。この世界の社会の仕組みを“教えて”くれたからだろうか。でも、それだけじゃない。担任の先生のように近くも無く、でも校長先生のように遠くも無い。いや、そんな理屈よりも、印象によるものが大きいだろう。
 でも、年齢的には教頭先生というには若い。フルダより5歳ほど年上くらいにしか見えない。しかも、男前だ。
 おっと、こんな言い方をすると、世の教頭先生がみんなブ男だってことになってしまう。もちろんそんなことはないはずで、たまたまあたしの出身校も今の学校もそうだった、というだけ。
「じゃあ、パスポートとかもないんですね?」
 相手が教頭先生だから、言葉遣いまで変わってしまう。
「多分、ないだろうな。そもそも俺は、というか俺たちは、この世界の住人じゃないから、身分証明書すらない。パスポートがあるかないかなど知る由も無い。だがまあ、国家が無いんだから、パスポートかそれに替わるものはないだろうさ。隣の村へ行くのに、そんなものが必要なら、わずらわしくてしょうがないだろう? ここでは、どれだけ歩いたって、辿り着けるのは常に隣の村だ。隣の国はない」
「あなたのいた世界にも国はあったんですよね? あたしのところにもあったわ。だったら、同じ世界と言うことにならないんですか?」と、あたしは訊いた。
「平行異次元には色々ある。似た世界もあれば、まるで違う世界もある。本当は全ての世界が少しずつ似ていて、少しずつ違っているだけで、離れれば離れるほど、その相違が大きくなり、結果としてまるで違った世界になってるだけかもしれない。そうではないかもしれない。全ての世界を知るものは誰もいないから、それはわからない」
 トムはそこで一呼吸おいた。
「俺はここでは、情報分析のような役目をしている。戦闘の能力はあまりない。キミの能力は相当すごいらしいとフルダには聞いているが、これまではそこの少年が1番の使い手だった」
 トムが視線を向けた先に、少年がちょこんと三角座りをしていた。

「僕はノッパラット。生まれたときからこの世界にいるけど、長老によると、やっぱり違う世界の住人なんだって」
 彼は髭の老人を長老と呼んだ。フルダの言っていた「長老」と同一人物だろう。一方、トムに少年と紹介されたノッパラットは、中学生くらいの体格。声変わりもしていない。利発そうな子だ。
「死鳥との戦いで、ノッパラットのご両親は命を落としたのよ」と、陽光が横から説明をする。
「じゃあ、生まれたときから、ここにいるの?」と、あたし。
「さにあらず」と、長老が言った。「この子やご両親は、我らとは別の系統の戦士」
「別の系統?」
「あんたたちも、そうだろう? ここの世界にも研究所なるものがあって、死鳥と戦ってる」と、トム。
 そういえば、ここに来る前にフルダに召還された世界にも、死鳥と戦う機関があった。そこではあたしは、救世主でもありお姫様でもあったのだ。
「父と母が死んだ後、僕は長老に拾われたんだ」
「どういう経歴のご両親かはわしにもわからぬ」と、長老が口を挟んだ。「だが、この少年はこの世界の住民権を持つ。ご両親がうまく立ち回られたに相違ない。この世界の住民となった。その子だからな。家もある」
「でも、そこには住まないのね?」と、あたし。
「普段は家にいるよ。学校にも通ってる。普通の住人として暮らしなさいって言われてるから」
「この世界の正式な住人が仲間なのは、我らにとってもメリットが大きい」
 メリットだなんて、そんな……。こんな少年を損得勘定で仲間にしておくだなんて。しかも戦いに巻き込むなんて。
 あたしの気持ちを即座に察した長老は言った。
「そうではないよ、お嬢さん」
 長老の口調が変わっていた。優しく語り掛けるようにあたしのことを「お嬢さん」と呼ぶ。
「この子は誰よりも知っている。死鳥の真の正体なるものを」
 長老は深く静かに、そしてわずかばかりの哀しみを含みながら、唇をゆがめた。微笑しようとして失敗したかのようだった。

 時間が流れた。沈黙の時間だった。
 それが短かったのか長かったのか、あたしにはわからない。時計なんてものがないし、あたし自身時間の感覚を失っている。そもそもここでの時間の流れというものは、時計の針が刻む正確で無機質な、けれどもこの世の中のもっとも大切なものさしのひとつ、なんて尺度を超越していた。
「その通り。よく気付かれた」と、長老は言った。
 まいった。フルダともよく言葉なしに会話をしたけれど、それは伝えたいと望んだときに限られた。心を読まれる、というのとは違う。けれど、長老はまさしくあたしの心を見透かしていた。
「すまぬな。だが、伝わるものは仕方なかろう」
「はい」とあたしは答えた。悪い気がしなかったのだ。
「最後は、娘の番。語られよ」

 あたしは、自己紹介をした。それは、長い物語だった。フルダとの出会い、もうひとつの世界での戦い。もといた世界での出来事。そして、こっちへ来てからのこと。
 みな、真剣に耳を傾けてくれた。
 途中で中休みをとった。陽光が七輪のようなものの上に鍋をおき、テキパキと料理を作ってくれる。ノッパラットがこまごまと動き回り、名アシストを努める。
 この世界の正式な住人である彼には身分証明書があり、買い物が出来るのだ。もっとも、買い物をするためには現金収入が必要だ。両親がいないという理由でノッパラットには生活保護金が与えられるが、それは彼の生活費である。陰修師たちがまさかそれを使うわけにはいくまい。「我々の現金収入は、本殿におさけめられる信者たちからのお賽銭よ」と、陽光が言った。
 むう……。それもどうかと思うが……。
 長老には、邪心を誤魔化すために参拝するものと、本当に真っ白な心で信仰するものを区別する能力がある。真っ白な心の持ち主には用はない。むしろ、邪心が深ければ深いほど、我々には好都合なのだと長老は説明してくれた。そのような人を見抜き、色々な話をするのが長老の役目だ。「それこそが、死鳥退治の根本につながるのだ」と長老は言った。
 また、この世界で死鳥退治のために推し進められている軍事力の増強は、逆に死鳥にパワーを与えるものだとも長老は言った。だから、当面の敵は、死鳥そのものではなく、研究所かもしれない、とも。
 すぐには理解できなかったが、この世界で戦ううち、あたしにもそれは理解できるようになる。しかしまあ、これはまだ先のことである。

 食事休憩が終わると、再びあたしは、自分自身のことを話し始めた。
 食事前にフルダも目を覚ましていて、おそらくそれは食べ物の匂いに吊られたためと思われたが、まあそれはどうでもいい。あたしの語りでは不十分なところを補ってくれた。

 語りつかれて、乾ききった喉を甕の水で潤したところで、お開きになった。
 ノッパラットは自宅に戻った。こんな山奥からどうやって戻るのだろうと思ったが、彼の身体には源力が漲っていて、瞬間移動に限りなく近いスピードで去っていった。
 それはあたしやフルダが空を飛ぶのともまた違っていた。自分と目的地の間を、あらゆる物体を障害とせず、まっすぐにすっとんでいくのだ。
「すごいなあ」とあたしは感嘆した。
「ジャムの方がもっとすごいはずなんだけどな」と、フルダが言った。

 崖の中の空間から出たあたしたちは、本殿の中へと入った。参拝者のための大広間とは別に、奥には部屋がいくつかあった。まず、社務所のような部屋。ここは、本殿内の廊下にも、前庭にも面して受け付け用の小さなカウンターのついた窓がある。そして、トイレ。その先はいわばバックヤードで、いくつかの小部屋や台所、そして風呂なんかがある。
「こんにちは」と、あいさつしてきたのは、若い女性だった。
 若い、といっても、あたしよりも年上なのは明らか。20代前半かなと思う。
 でも、その邪気のない笑顔、それほど高くない身長、そしてどこか甘ったるい声質が、ややもすれば実年齢よりも低い印象を与える。
 とはいえ、つい気軽に話しかけたくなるようなタイプの女性ではない。清楚で落ち着いた立ち居振る舞い、愛想は悪くは無いけれども、どこか人を寄せ付けない独立峰のような雰囲気。
「代々この社の管理を任されておりますイタコ族の、マイヤと申します。双子の兄、トオヤと交代で社につめています。よろしくお願いします」
 彼女はゆっくりと一礼し、頭を下げた状態で微塵も動かず、そしてまたゆっくりと頭を上げた。
「寝室にご案内いたします」

つづく

 



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