遥かな草原の香り
=6=     

 

 注射器を持った看護婦の手が、パインの腕に伸びた。骨に皮が張り付いたようなパインのどこに筋肉注射を打つ場所があるのだろうか。あたしはその痛々しい情景に目をそむけずにいられなかった。
 そのとき、「待って」と口に出したのはパーメだった。
 呟くような小さな声だったが、シンと静まり返った医務室にはそれで十分だった。誰の耳にも届いた。いや、それは室内が静かだったからだけではない。確固たる意思を持った言葉は言霊となって凛と心に響くのだ。
「普通の、治療は出来ないのでしょうか?」
「普通の、治療?」
 看護婦が鸚鵡返しした。
「源力注射をしなくても、普通に栄養剤を点滴して、ゆっくりと休ませてあげれば回復するんじゃないでしょうか?」
「うむ」と、パーオが腕を組んだ。
「それは確かにその通りだが、時間がかかりすぎる。こうしている間にも黒死鳥は再び襲ってくるやも知れぬ」
「そのための軍隊でしょう!!」
 パーオの眉間に皺が深く刻まれた。

 しばらく無言だったパーオは、「確かにその通りだ」と返事をした。
 源力注射を指示したフルダは意識を失ってしまっている。医療行為とはいえ、この場の最高責任者はパーオ以外にありえない。パーオの一言で全て決まる。
 あたしは「お願い」と心の中で叫んでいた。
 パインに優しくして上げて、と。
 それはあたしにひとつの覚悟を強要した。
 わかっている。
 あたしは自分で自分に言い聞かせた。
 覚悟は出来ている。

「パーメの言うとおりだ。パインには普通の治療を…」
 パーオの指示を受けて、看護婦たちはテキパキと動いた。あたしも元の世界で見慣れている点滴の用意があっという間に整い、パインに施された。あの中には「普通」の栄養剤やらなにやらが入っているのだろう。
 一連の様子を確認してから、パーオはあたしに向き直った。
「聖姫様、このような次第になったからには、次に黒死鳥の脅威が訪れたその時には…」
「わかってるわよ。あたしが出撃するんでしょ?」と、あたしは言った。
 戦闘もののアニメか何かで聞いた「出撃」などといういかにも「戦い」らしい言葉をわざと選んで。
「恐縮です」
「何言ってるのよ。あたしはこの世を救う奇跡の聖なる姫なのでしょ? だったら、もともとそのつもりだったんじゃない。今更、何が『恐縮』なのよ」
 言葉遣いを知らないじゃじゃ馬のような台詞はもちろん虚勢を張っているだけだ。
 けれど、それがあたしの使命らしかった。
 ううん、そんな大げさなものじゃない。このやせ衰えたパインの助けに、少しでもなりたかった。
「恐れ入ります」
 頭を下げるパーオに、「だから、最初からそのつもりだったんでしょ!」と怒鳴りつけようとして、出来なかった。看護婦も、パーメも同じようにしていたからだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ、大げさな…」
 ベッドの上で意識不明のはずのパインの目元からも、小さな涙の粒がこぼれていた。

 戦いの準備が始まった。
「聖姫様、まずはあなた様の正確な源力を計測させていただきます。用意を」
「はい」
 看護婦が答え、どこかに電話をしている。
「2人だけで、話をさせて」と、パーメが言う。
「わかった。その奥の部屋を使うといい」
 医務室の片隅の扉を開けると、4人が座れる応接セットのしつらえられた部屋があった。風景画が飾られており、テーブルには花も生けられていたが、なんとなく殺風景だ。
 その原因のひとつは、この部屋に窓がないことだろうと思う。
 けれどそれ以上に、ここには何か得体の知れない異様で悲しげな空気が満ちていた。
 戦闘用のセーラー服を身に付けてから、あたしは源力にさらされている。感性がとびきり鋭くなっているのが自分でもわかる。だから、この部屋の空気が何なのかも察知できた。
 ここは、「死の宣告」を受ける部屋なのだ。
「あなたは末期のガンで、残り2ヶ月の命です。有意義に過ごすことを考えてください。我々に出来ることはもう延命治療と痛みを和らげることだけです」
「残念ですが脳に受けた損傷が大きすぎます。良くて植物人間、最悪の場合は脳死。息子さんの安楽死も検討しておいてください。最善を尽くしますが、ここ48時間以内に意識が回復しなければ…」
 そんな会話が聞こえてきそうだ。
 今、ここでやりとりがなされているわけではないが、多くの思念が残留していて、あたしをぞっとさせた。

「あなたの源力はすごいわ」と、パーメが言った。「だって、肉眼で見えるほどだもの」
 死の部屋で、ふたりっきりで、いったい何の話だろうと思った。
「能力者ではないけれど、わたしも普通の人よりは少しは源力値が高いの。それに、ここに勤めているうちに、見えるようになったの」
 あたしは頷いた。
 それ以外にどんなリアクションをしていいかわからなかった。
「死んだ彼と一緒に居てる時もそうだったけれど、こうして能力者に囲まれていると、だから感じるのよ」
 ポッとパーメが顔を赤らめた。
 それは「能力」について彼女が語ろうとしているのではないことを示していた。女のあたしだからわかる。
「濡れてくるの。…恥ずかしいわ。ここに居る間、わたし、ずっと感じて、濡れてるの」
 それはあたしも同じだった。戦闘服を身に付けた以降、ずっと性的な快感がつきまとっている。歩くたびにグシュグシュと下着が音を立てるくらいだ。
「あなた、男は知ってる?」
 あたしは頷いた。
「そう、だったらまだいいわ」
 何がいいと言うのだろう。あたしはパーメが次に発する言葉を待った。
「源力のパワアとか、それを引き出そうとする装置や薬とか、そういうのって、すごく性的な快感を高めてくれるの。パインは処女だったから、それが何かわからないままに戦っていたわ。そして、気持ちのよさから虜になってしまったの。抗うことが出来なかったのね。男が与えてくれる快感だってわかっていれば、きっと男に頼って、戦って傷ついた精神を癒すことも出来たでしょう。けれど、彼女は戦うことでしか癒されなかった。テレヌルに搭乗しての戦闘は本当に気持ちがいいらしいの」
 パーメはいったん言葉を切って、そしてまた恥ずかしそうに言葉を継いだ。
「イクって、わかる?」
 どう答えていいか迷った。わざわざ訊くところから判断すると、あたしがどの程度の男性経験を持っているのか、パーメは判断しかねているのだ。
 あたしは嘘をついてもしょうがないと思った。取り繕うことがパーメの正しい判断を狂わせるとも思った。
「遠慮しないでいいよ。幼く見えるかもしれないけど、それなりにちゃんと経験してるから」
 パーメは頷いた。
「源力を使って戦うってことは、イキまくり状態と同じなの」
 あたしはちょっとびっくりした。おしとやかに振舞いながらあたしの世話をしてくれているパーメから「イキまくり」などという下世話な台詞が出たからだ。
「あ、お願い、引かないでちゃんと聞いてね」
 あたしは頷いた。
「でね、テレヌルや源力注射は、そういう状態さえも増幅してくれるの。究極の性玩具であり、媚薬なの。だから、パインは離れられなくなったの。命を削るってわかってても、やめられなくなっていたの。だから、わたし、さっきも『普通の治療』をお願いしたの」
「そっか」
「お願い。あなたは理性を失わないでね。男が必要になったら、調達してあげるから」
「あ、いや、その…」
 あたしは照れた。いくらなんでもそこまでは…。

 医務室に戻ると、計測器の準備が整ったらしかった。
 あまりにもあっけない装置だ。
 クリスマスケーキを入れる箱ほどの大きさの直方体の機械。デジタルメーターがついていて、「0」を示している。6桁まで表示できるようだった。
 その箱から一本の線が延びている。そのラインはビニールで表面がカバーされており、先端部分だけ金属がむき出しになっている。電圧を測るテスターのような感じだった。
「聖姫様、ここに触れてください」
 金属部分の根元を自分の手で保持しながら、パーオはそれをあたしに差し出した。
「そして、気持ちを集中させてください」
 気持ちを集中と言ってもよくわからない。
 そう答えると、パーオはさらに説明してくれた。
「聖姫様には今、聖姫様を取り巻くあらゆるものから力が注ぎ込まれています。それは何となく感じておられるでしょう?」
 あたしは頷いた。それが股間を濡らしてほとほと困っているのだ。
「その力を放出するのです。この装置の先端に利き腕の人差し指で触れながら、そこに向かって力を放出してください」
「まだ、よくわからないんだけど」
「やり方は、あなた自身が知っています。触れればわかります」
 あたしは言われたとおりにした。

 その瞬間だった。
 医務室が光に包また。
 悲鳴が沸き起こった。
 悲鳴?
 歓声かもしれなかった。
 何が起こったのかわからなかった。

 質量を持たないはずの光が、ぐるんぐるん渦巻いて、あたしの身体を空中に放り上げた。
 不安定感に恐怖を抱いた。
 だが、それは一瞬だった。
 足元はしっかりしていた。
 計測が始まる前と同じく、あたしはしっかりと床に立っている。
 あたしが光の渦に投げ出されたのではなかった。
 あたしが中心となって、光の渦を放出しているのだった。

 まわりのありとあらゆるエネルギーがあたしに集中し、あたしの身体を通り抜けてゆく。
 それは、ものすごいスピード。
 そしてパワア。
 めくるめく快感。
 セックスに似ているだって?
 冗談じゃない。こんなセックスをしたら何回イっても足らない。痙攣と失神の連続。
 激流は計測器に触れた指先に向かって怒涛のごとく流れている。

「もういい! やめるんだ、手を離せ!」

 あたしはお花畑の中で浮遊しているような感覚にとらわれた。
 思わず、誰か男の人の名前を呼んだ。
 それは、かつての彼氏だったような気もするし、空想の中の見知らぬ男性だったような気もするし、あるいはテレビを通じて観た最高にイイオトコだったようにも思えた。
「最高!」と、あたしは叫んでいた。
「カイカンだあ」とも。

 ほんの一瞬、意識を失っていたような気がした。
 たいした時間じゃない。それは理解できた。
「最高」だの「カイカン」だの、本当に叫んでいたら恥ずかしいなと思ったが、どうやら医務室はそれどころではないようだった。
 全員が固唾を呑んで装置のデジタルメーターを見入っていた。
 光の渦はとうに消えうせている。
 振り返ったパーオが怖い顔であたしを睨んだ。
「すごい、すごすぎる」と、呟く。
 あたしもそっとメーターを覗き込んだ。
 650000
 パインが30000といってたっけ。その2倍以上のパワアをあたしは持っているらしかった。
「信じられん」と、パーオが感嘆の吐息を漏らした。
「パインのおよそ12倍…」
 12倍?
 あたしはもう一度メーターを見た。
 65000ではない。650000だった。
 桁がひとつ、違う。
「すごーい、すごーい」
 あたしの能力値がすごくてどうしてパーメが喜ぶのかわからなかったが、彼女はあたしに抱きついてきた。
「これでもう、悲惨な戦いはしなくて済むわ。戦いはきっと一撃で終わるわ」
 そうだった、彼女は最愛の人をなくし、その後もパインの悲惨な戦いぶりを目にしていたのだ。

 驚愕すべき事実はそれだけではなかった。
 看護婦が奇声を上げて報告した。
「パインさんが、回復しました!」
 もう一人の看護婦も大声を張り上げた。
「フルダ先生も、お気づきになられました」

 パインはもう骨と皮だけのミイラではない。年頃の少女らしいなだらかなウエーブを纏った肉体に変化していた。肌のつやもいい。目も輝いている。
 ベッドに寝かされ点滴を受けるその姿は痛々しかったが、二コリと微笑むその表情は、見ているこちらがトロケてしまいそうなほどに美しかった。可愛らしさと美しさの両方を兼ね備えていた。パッチリとした二重の瞳があたしを見つめていた。
「ありがとう」と彼女は言った。
 パインの回復は明らかにあたしが放出したパワアのせいだろうとは思う。でも、だからといって恩に着せるつもりはない。もともとそのつもりで放ったエネルギーでもない。けれど、彼女はちゃんとあたしから発せられたそれによって回復したことを認識していたのだ。
 決して大きくはないのに、横になってすらぴんと天に向かって競りあがっている彼女の乳房がまぶしかった。ああ、処女なんだなと思った。何者にも蹂躙されていない美しさがそこにはあった。ちょっと羨ましかった。
「きゃ、いやっ」
 胸が露になっていることに気が付いたパインは、足元に畳んであった毛布を、上半身を起こしてひっぱりあげた。
 身ひとつ動かすことも叶わぬであろうやつれ方をしていた彼女だったが、その動作は敏捷だった。
 ピンク色の小粒が毛布の下に隠れて、あたしは思わず「ちぇ」っと思った。見とれていたのだ。けれど、彼女のピンクはそれだけじゃなかった。柔らかそうな細目の唇。レズに興味はないが、パインの唇は美味しそうだった。「おめでとう」などと言いつつキスしてみたい気もしたが、男達のモノを咥え込んだあたしの唇で彼女を汚すわけにはいかなかった。

「ありがとう。おかげでもとの姿に戻れたよ」
 ここではこれまでに聞いた事のない、少し高めの男性の声がした。
 振り向くと、長身の2枚目が立っている。
 こんな男、いたっけ?
 見覚えはないが、すぐにわかった。床に倒れていたはずのフルダ医師がいない。目の前の男はその医師と同じく白衣を着ている。
 若い男性の医者が新たに登場したのではない。彼こそがフルダ医師だ。
「フルダ、さん?」
 確信はあったが、おそるおそる訊いてみた。
「そうだよ。驚いたろう? 僕も源力の使いすぎで、老人ごとき姿になってしまっていたんだ」

 ゆっくりとした足取りであたしに近づいたパーオは、がっしりとあたしの手をとった。
「ありがとうございます。ありがとうございます。やはりあなたさまは伝説の聖姫さまであられた。これで黒死鳥との戦闘態勢も完璧に整いました。ありがとうございます」
 パーオの目からは涙が次々とこぼれ落ちた。
 それは今までの戦闘がいかに勝ち目のない悲惨なものだったのかを物語っていた。

つづく

 



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