遥かな草原の香り
=2=     

 

「聖姫(せいき)様、お目覚めですか?」
 ようやく取り戻した意識。眩暈、というほどでもない浮遊感。
 どこか現実をうまく認識できない、まるで目覚めたばかりの寝ぼけた状態。
 そんなあたしの耳にふんわりと届いたのは優しげな初老の男の声だった。
 身体を起こそうとして、鈍い痛みが走った。
 筋肉痛とか打撲とかの痛みではなかった。長い間じっとしていたために身体が固くなってしまい、それを無理やり動かそうとしたときに起こる痛みだった。このような感覚は小学校4年生のときに高熱で3日間寝込んで以来である。
 4日目の朝、すっかり熱も下がったあたしは強烈な空腹を感じ、「何か食べたい」という切実な思いに駆られて起き上がり、うぎゃあと悲鳴を上げたのだ。関節や筋肉が錆付いてしまっていたかのようだった。
 思い通りに身体が動かないじれったさ。
「ああ、聖姫様。無理をさなってはいけません。ゆっくりと、そう、ゆっくりと起き上がられるとよろしいですよ」
 声の主に顔を向けることも出来ない。だから表情すらもわからない。けれどその初老らしき男の慈愛に満ちた感情が心の中にしみこんでくるようだった。

 あたしは天蓋付きのベッドに寝かされていた。
 首だけを起こし、さらに目だけを動かしてあたりの様子を窺う。
 視野が狭くてはっきりしたことはわからないけれど、広くてシンプルな部屋であるらしい。窓からはカーテン越しに温かくて柔らかそうな光が差し込んでくる。こんな日差しは今までに見た事がない。童話や昔話をイメージさせられる。
「聖姫さま…」
 ベッドについた掌に力を込めながら上半身を起こそうとするあたしにかけられる、木漏れ日のような声。
「せいき?」
 あたしはようやく不思議な呼ばれ方をしていることに気が付いた。
「聖なる姫、聖姫さま。あなたさまのことですよ」
 ようやく腰から上をベッドの上に起こすことに成功したあたしは、声の主を見る事が出来た。想像通り初老の男。しかし、あの優しげな声とは似ても似つかぬ巨躯であった。陽に焼けて引き締まった顔、盛り上がった筋肉、2メートルにも届こうかという長身。目の前ににゅっと現れたらそれだけで悲鳴を上げたろう。自分が所属する軟弱な不良グループではついぞ見かけることのないタイプだ。巨漢を利用してありとあらゆる武道を極め、その結果、真髄にある人の優しさや思いやりを身につけた、そんな感じの男だった。真っ赤な作務衣を着ていた。

 それにしても、「せいき」とは参ったな。
 普段なじみのある「せいき」は「性器」であって、聖なる姫などとはほど遠い。そもそもここはどこで、あたしはなんだって聖なる姫なんだ?
「さ、これをお飲み下さい」
 老人はベッドの横のサイドテーブルを指し示した。そこには水差しとグラスが置かれていた。
「聖なる水です」
 せ、聖なる水ウ!?
 あたしはひっくり返りそうになった。その道で「聖水」といえば、オシッコのことじゃないの!
 冗談じゃない。そんなもの飲めるか。
 しかし、巨漢の老人は大真面目だった。
「前人未到の東の高嶺より採取しましたこの聖なる水は、無味無臭無色透明でありながら甘露。豊富なミネラルとビタミンを含有しております。病み上がりにはうってつけでございますよ」
 あたしは病み上がりなんかじゃないと叫びそうになったが、どうやら身体の錆付き具合からしてそう呼ぶにふさわしい。かなり長い間あたしはこのベッドで意識を失っていたのだろう。
 それにしても、決して国語の成績のよくないあたしだけど、この老人の言葉がいかに出鱈目かぐらいは理解できる。
 前人未到というのなら、じゃあいったい誰がこの水を運んできたというのだ?
 無味無臭でありながら甘いとはどういうことだ?
 しかし、喉が渇いているので水は飲みたい。このさい理屈が通っているかどうかなんてどうでもよかった。オシッコでないなら問題なしである。お伽噺とは往々にして理屈が合わないものだ。
 お伽噺?
 そう、まるであたしはお伽噺の世界にやってきたような気分になっていた。天蓋つきのベッドに寝かされ、おそらくボディガードとしても優秀な、しかし柔和な巨漢の老人に付き従われている。グラスを手に持てば無駄ない所作で老人は水差しから水を注いでくれる。
 あたしは水を口にしながら、もう一度考えた。
 ここは、どこ?



 程よく冷えた水は身体を蘇らせた。
 無彩色だった自分の身体が、水が染み渡るに連れて色彩を帯びてくるようだった。あれほど動きにくかった関節がスムーズに活動を開始し始めた。
「おかわり」
 差し出したグラスに、またも澱みない動作で水を注いでくれる老人。
 あたしが2杯目の水を飲み終えるのを待ちかねたように老人はあたしの手からグラスを受け取ってサイドテーブルに置いた。
 そして、右手を鳩尾のあたりに添えながら軽く一礼した。
「申し遅れました。私はパーオ。聖姫様のお世話係主任でございます。そして、身の回りのこまごまとしたことを担当するのが、パーメ」
 パーオは斜め後ろを振り返った。
 そこにはあたしとさほど年齢が違わないであろう少女が佇んでいた。
「パーメです」
 クリスタルガラスが声を発したかと思われるほど美麗なソプラノでパーメは挨拶をした。黄金色のストレートヘアがカーテン越しのほのかな陽光にキラキラと輝いた。肩までの髪がおじきにしたがってふわふわサラサラとそよぐ。衣装はパーオと同じく赤い作務衣だが、小柄で華奢なので全く違ったコスチュームを身につけているような印象さえ受ける。パーオのように筋肉が盛り上がっていたりなどしなかったが、腰のくびれといいキリッと引き締まった顎のラインといい、何らかのスポーツか武道で身体を鍛えているに違いないと思った。あたしも中学校の頃は新体操をやっていたので、スポーツをしている身体かそうでない肉体かの区別はつく。小柄なのに羨ましいほどのオッパイだった。大きいにも関わらず綺麗に盛り上がっているのは乳房を支える胸筋がしっかりしているからに違いない。
 パーメは「カーテンを開けますよ」と言った。
 あたしは「うん」と返事した。
 ガラス越しに見える風景は青空だけだったが、その明るさに驚いた。しかも、眩しくない。あの目を射るような直射日光ではなく、優しく包み込むような愛のある光だった。
 中央で分けたパーメの髪が顔にかかる。彼女はそれをさりげない仕草で手に取り、耳の後ろに引っ掛けた。
 かわいい。
 あたしはこの少女と友達になれると思った。

 パーメは「部屋を案内するわ、来て」と言った。
「これ、パーメ。聖姫様にそのような言葉遣いはなりませんと何度も申し上げたでしょう」
「いいのよ、タメグチで」とあたしは言った。
 老人のみならず、親近感溢れるこの少女にまでうやうやしく口を利かれたのではたまったものではない。
「いや、しかし」
「いいじゃないの。聖姫様がこうおっしゃってるんだもの」
「そうそう」
 パーオの立場はなんとなくあたしにも理解できた。けれど、どうやらあたしのこれまで住んでいたのとは違うらしいこの世界で、回りの全ての人に特別扱いされるなんて孤立無援状態に追いやられたような気持ちになるだろう。それは耐えられそうもない。パーオには悪いけれど、パーメは友達でいて欲しい。
 そう、あたしはこの時既に、どうやら別の世界に飛ばされてしまったらしいと理解していた。
 両親も先生も友達もここにはいないであろうことを直感していた。
 異様な空間に投げ出されて意識を失い、気が付いたら異世界にいたなんて、普通ならパニックを起こすだろう。
 にも関わらずあたしには元の世界に戻りたいという焦燥や、未知の時空間に追いやられてしまったことへの恐怖はなぜか感じなかった。どうやらあたし自身がこの変化を受け入れてしまっていたのだろう。それは柔和だが頼りがいのありそうなパーオ、そして人懐っこい笑顔を浮かべるパーメによるところが大きいに違いない。
 だが、それだけではなかった。
 ある種の脱力感があたしの精神を諦めの境地に追いやっていた。
 信じがたい世界が次から次へと展開するものだから、わめき散らして現実を拒否するだけのパワーすら消えうせていた。
 気が狂ったりしなかったのは、パーオとパーメのおかげだった。
 あたしは静かに周囲のものを受け入れた。
「ああ、嘆かわしい…、しかし、聖姫様がお望みであればそれもしかたありますまい」と、パーオはぶあつい掌で目を覆った。
 そう、それはあたしの大切な望み。唯一の救い。
 パーメが親しげに接してくれることで、あたしの精神のバランスは保たれていると思った。
 パーオの呟きになど耳を貸すことなく、パーメは目で「こっちへおいで」とあたしを誘う。
 あたしはベッドから降りた。身体をさいなめた痛みはもう消えていた。

 あたしはパーオと並んで窓に正対した。あたしが両手を広げた状態で3人分くらいはある広い窓。天井から足元までしっかりガラスで雄大な風景を眺めるにはぴったりだった。
「ここはお城なの。国の一番高いところにあるわ。といっても山の頂上にあるわけじゃないのよ。国を見下ろせるっていうだけでね。背後には急峻な山が立ちはだかっているの」
 足元に広がる国は渓谷に沿った川原に人家が築かれていた。水の流れと並行に走る道は他のそれより一回り広く、おそらくメインストリートだろう。川原のこちら側も向こう側も山稜がせまっていて、段々畑や果樹園が築かれている。中腹より上は森林だ。山々の連なりは海原のように遠くまで続き、無数にある緑の頂は波のうねりのようであった。
 渓谷は右に左にカーブしながらがやて山影に隠れて見えなくなる。どちらが上流でどちらが下流かわからなかった。
「冬になると空気が澄むから、左側の遠くの方に海が見えるようになるわ。そこに港町があって、大陸の果てなの。海の向こうにも大陸があるって言うけど、わたしは行った事が無いな」
 パーメの視線は焦点を失った。それは遠くの大陸への畏怖なのか憧憬なのかあたしにはわからない。
「窓があるのが東側ね」と、パーメは言った。
 振り返ると部屋の全貌がわかった。
 ベッドは窓に並行に、枕元を左の壁に接して配置されている。つまり南側だ。
 水差しが置かれていたサイドテーブルは、テーブルではなくてワゴンだった。
 ベッドの頭の部分の接している北の壁は木目調で、扉がひとつある。
「あの向こうが着替えのスペースね。中に入ると左右にドアがあるの。左が衣裳部屋、右がバスルームよ」
「うん」と、あたしは言った。
 正面、つまり西の壁も木目調だが、いくつかの絵画が飾られていた。正面の壁の中央にも扉があり、「あそこが廊下への出入り口」とパーメが教えてくれた。
「で、北側にあるのが執務机」
 北側とは窓を背にして立つあたし達から見ると右手になる。
 机のすぐ後ろに迫る壁には、その全面を利用して楕円形のディスプレイがあり、そこに表示されているのは明らかに地図だった。青い部分は海で、茶色い部分と緑の部分が陸。緑は森か草原か、そんなとこだろう。その地図上に色とりどりの光点が輝いている。
 執務机は学校の職員室にあるそれと比べれば悠に2倍はある。パソコンのディスプレイとキーボード、ペンたてがしつらえられていた。ベッドは寝心地がよさそうだが、この机の前に座るのかと思うと気が滅入った。勉強は苦手なのだ。

「これをご覧下さい」と、パーオがうやうやしく言った。
 これ、というのは西の壁にいくつか飾られた絵画のうちのひとつだった。他の絵に比べて一回り大きく、額縁も高級そうだった。その絵の扱いだけが別格だった。
 セーラー服を着た少女の肖像画である。
「ちょ、ちょっと、これって」
 あたしは戸惑った。
 どこかで見たことのある制服だと思ったら、あたしの通う学校のものじゃないの。油絵を間近で見たものだからはっきりしなかったけれど、2歩3歩と後ずさりして見れば、間違いない事がわかる。
 それどころか、ここに描かれている少女って・・・・もしかして、あたし自身?
 ディフォルメはされているけれどあたしの特徴はつかんでいた。大きいだけなら可愛らしいのに少し吊りあがった目元。ぽってりした唇。正面から見ればスッキリした鼻筋なのに横から見たら低いのがモロバレのちいさな鼻。顎の先はシュンと尖ってかっこいいのになぜかポチャッと曲線に彩られた輪郭。一度茶色に染めたきりで根元が黒くなったソバージュヘア。
 うーん。髪型が違う。
 今のあたしはおかっぱのストレート。けれど、髪の染まり具合も根元が黒くなっているのも同じだった。今のあたしがそのままソバージュヘアになればこの肖像画と同じになるだろう。
 きわめつけは小脇に抱えたペチャンコの学生カバンとそこに乱暴にマジックで書かれた「JAM」のサイン。否定しようがなかった。あたしそのものだった。
「これ、あたし?」
 自分自身に同意を求めるように小さく呟いただけだったが、パーオは「そう、これは聖姫様、あなたの肖像画です」と言った。
「どうしてあたしの絵が、ここに・・・?」
「135年前、聖姫様がこの国を訪れてくださった時の肖像画です」
「ひゃ、ひゃくさんじゅうごねんまええ〜?」
 あたしは気の抜けた声で復唱した。発声に必要な空気の3倍くらいのエアーがプシューっと喉元を過ぎた。
「お帰りなさい、聖娘様。この小さな国を遙か昔に救って下さったことなど、もはやお忘れでも仕方ありますまい。けれど、再度訪れたこの国の危機。過去の伝説と諦めず、聖娘様の再来を皆で祈りを捧げておりました。そして、あなたは来て下さった。これで黒死鳥の驚異からも逃れられるでしょう」
 かつてこの国を救った?
 再び訪れた危機?
 黒死鳥?
 なんだそりゃと思いながら、校舎の屋上で見たあの巨大でおぞましい黒い鳥のようなものが「黒死鳥」で、あたしはそれを退治するために祈りによってこの国に召喚されたんだ、ということがなんとなく理解できた。

つづく

 



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