Boy Meets Girl
「side KYRIE」

6.邂逅

 月が昇り始める頃、あたしは商売に出かけるフリをして家を出た。おかあちゃんは、いちいち詮索しない性質(たち)なのでホント助かる。

 普段なら通り過ぎる、区域内図書館の入り口の前に止まる。昨夜の男の話を、思い出したせいもあったんだけど。あのニュースに映った"彼"は今日も資料を探していたんだろうか?

 週の真ん中は客も中休みらしく、あたしに会いたがる人は殆ど無い。昨夜の男みたいなのは珍しいことで、大抵お金を出す限りは元を取ろうとする。もっとも、彼らの下半身に理性があるならば、こんなオコサマのあたしに欲情して、出せるだけのスペルマをぶちまけるなんてありえないし。

 あたしは深い考えも無く、いつものバーのドアを押した。看板も無ければ店の名前すら、とうに剥がれたままの古い店。酒でタガの外れた男で、溢れかえる暗い店内。アルコールと体臭の合間に、今夜の相手を"物色"する目も入り混じる。

 あたしの肩を撫でて「ねぇねぇ、二万に負けてよ」と冷やかす客。あたしはそんなヤボな交渉はしない。にっこり笑って適当にあしらいながら、カウンターの隅に静かな客を見つけた。おどおどと、カクテルグラスを口に運ぶ横顔。仄かな明かりに浮かぶ、その輪郭はあのニュースで報道されていた"彼"だった。

 ――秀才サマもやっぱり男なんだ――
 あたしは興味本位で彼に近づいてみる。化けの皮をはがしてやろう。ちょっと、そんな意地悪い気持ちだってあったんだけど。
 彼だって人並みにエレクトしたい欲望があるはず。じゃなければ、こんな場末の色街に来るはずがない。

「マスター、いつものジンバックちょうだい」
 あたしは大声でカウンター越しに叫んで見せた。マスターは無骨なグラスをとりだし、透明な液体に氷山みたいな氷をひとつ放り込む。

 彼の隣に腰をおろし、足を組んで見せた。 彼はえ?っといった表情を見せたが、すぐに人懐っこい笑顔になった。
 あたしが名乗ると彼は「タクト」という名前を教えてくれた。クラシックでマエストロが振ってるあの棒ッキレと同じだって。でも、あたしはクラシックなんか大嫌いだから、彼の名前にまつわるエピソードには相槌をうってあげなかった。変な気遣いで、面白くもない話を盛り上げるなんて面倒くさい。

 たしかに周りではみかけないタイプだった。勉強ができることを自慢するでもなく。どちらかといえば、地味な感じだけれど。ただ、話す中で感じたコトはタクトはとっても柔らかな人だってコト。話のテンポがゆっくりとしてるせいかもしれない。

 それから、あたしたちは乾杯を何度も繰り返す。何がそんなに楽しかったのか? 何がそんなに嬉しかったのか? 理由はなんだってよかった。

 酔いで飛びだす話題にタブーはありえない。
 いつしかあたしたちは、恋愛論を互いに力説するのだが、あの雄弁なタクトがだんだん、言葉を詰まらせるようになる。

 そして、彼は判決を言い渡すかのように唇を開く。
「僕は……経験……したコトが……ない」
 リズミカルな会話のテンポが途絶えた。艶(あで)やかなダンスのステップを踏み込めない。あるいは古いレコードのように肝心なところで針が飛ぶような。

「え? 好きな人を思って一人でしたコトもない?」
 彼はあたしの言葉で"自慰の追求"を察して、さらに コクンとうなづいた。
「レプリカでは自由恋愛はないんだ。すべて政府に割り当てられるんだよ。結婚相手だって」
 ……ごめん……タクト……

 動物に限らず、植物だって成熟してくれば子孫繁栄のDNAに基づいて"色気"づいたり、"欲情"のまま精を撒き散らすってあるコトなのに……学校で習わなかったの? タクト?

「習ったけど、それは二十世紀の"オリジナル"での症状であって、僕らのカラダにはシステム的には"ありえない"って言われた」

 ねぇ、好きな女の子を考えて"、胸がドキドキ"したりとか、タクトの一番大事なところが"変化したり"ってしないの?
「ごめん……キリエさんのコトバ……理解できない……」

 あたしたちの会話が途切れた。騒々しい店内で、それは何の意味ももたないけれど。

 そうかぁ……何もしらない状態なら、ここへきて何かを期待したり、今夜の相手を物色したりするはずがないか。彼は生まれたままの赤ん坊とさほど変わりがない。あたしは酔いに任せて、体を揺すりながら煙草の煙を吐いた。

 タクトの落胆の様子が、何故か胸を締め付ける。別に、セックスしてようとなんだろうと関係ない。あと三日もすれば"レプリカ"に帰るお客様なのだから。

 ドキン。そう、この前テレビで見たときも思ったんだ……、なんだかこの顔、覚えてる気がして。ううん……この気持ち、なんだか忘れられないような感覚なのに。

 あたしが初めて恋をしたのは、小学校の一年だったかな? 隣の席の男の子……眉毛のくっきりとした勝気な子だった。異性ということの意味を知らないまま、ずっとずっと……、一緒に居たいって初めて思ったんだけどなぁ。

 タクトはそんなことも知らないまま、十五才になっちゃったんだ。
 あたしは煙草の吸殻を灰皿に押し付け、グラスに残ったジンバックを飲み干した。そして、深呼吸をしてタクトを呼んでみた。

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