アスワンの王子
終章  新しい世界





 

 ザアーッ、ザアーッ!

 ヨウシャは海岸に立ち、よせてはかえす波の音を聴いていた。

 ザアーッ、ザアーッ!

 この国は一方を海に、その反対側を峻険な山に阻まれた天然の要塞である。自然の遮蔽物がない場所には重厚な壁が立ちはだかり外界と区別されていた。
 王政のしかれた都市国家である。
 しかし、王政は廃止された。この国はこれから「議会民主制」として生まれ変わる。
 今までの利権が全て意味を成さなくなり、そして新たな利権が生まれる。王家に仕えて安穏と暮らしていた層はあわてふためき、野心に燃える連中は新しい制度の中で如何にのし上がるか画策をしていた。
 全てはこれからである。大いなるうねりは始まったばかりだ。

 王政の廃止を唱えたのは王家だった。国も民も王家のものではない。民のものだ。これからは皆で話し合って国を育てよ。それが王が民に残した遺言だった。なぜ王が王家廃止を決意したのか知る者はない。国と民を背負うものとしての限りなき責任の重さに耐えかねた、という説もあるが、そうではないだろう。王家には代々仕える学者の一族も医者の一族も占い師の一族も執事の一族も武士の一族も特殊能力者の一族もいるし、世襲にとらわれない選び抜かれた側近もいる。有能な人材で周りを固めている。困難などいかようにも乗り越えることが出来よう。事実、これまでの多大な困難を乗り越えてきたからこそ、現在の王家があるのだ。
 つまり、重責に耐えかねての王政廃止ではない。
 しかし、だからこそ、人々は王の遺言が不思議だった。
 遺言・・・、すなわち、王は既に亡き人であった。
 旅から戻ったアスワンの王子を迎えたのは、王と王妃の遺影であった。その遺影に向かって王子は旅の終焉を報告したのである。
 王子の旅の目的は、王政の廃止を周辺諸国に伝え、理解を求めると同時に、新しくなった国に対してもこれまで同様の付き合いを頼む、と挨拶に回ることだった。国政の端境期にここぞとばかりに侵略戦争など仕掛けられたらたまらない。しかし、王子が自ら頭を下げにやってきたのだ。相手国の世代交代が行われるまでは少なくとも安泰と言えた。
「王の亡き後、王子が王に即位しなかったのは、まさしく王の気持ちを汲み取ってのことなんだよ。王政廃止を知らされてから、多くの役人や側近が王家を離れて行ったけれど、王子が王に即位しないままに執務を続けたことに心を打たれて、俺は王家の最後を見届けよう、見事な終焉を迎えるために最後までお手伝いをしよう、そう決意したんだ」
 案内人のタンセはこうヨウシャに打ち明けた。

 ザアーッ、ザアーッ!

 全てが終わってこうして海を見つめていると、ヨウシャは不思議な気持ちになる。
(まるで、何もなかったみたい)
 そう、ヨウシャの旅など、太古から繰り返される波の動きに比べたら、まさしく「無きに等しい」ものであろう。

 ヨウシャはゆっくりと砂浜に腰を下ろした。遠くからこちらに向かって犬を連れた少年が波打ち際に沿って走ってくる。
 自分の視界に入るものがまるでこの世の中の全てのような気がした。今もどこかで誰かが何かを悩んだり泣いたり笑ったり喜んだり、あるいはなにかとんでもない陰謀をめぐらしたりと、人の数だけ人の思いはある。それはわかっているけれども、何もかもが終わってしまった今、ヨウシャにとってはそんな人の思いなどどうでもよかった。
 運命に翻弄されようやく辿り着いたアスワンの地。王宮で流れた怒涛の時間。それにくらべたら、今ここに存在するものの何もかもがたいしたことではないように思えた。
 けれど、そんなちっぽけでささやかなものこそが、本当は大切なのだとヨウシャは気づいている。
 そして、自分も・・・
 ヨウシャは今日、帰路の旅路につく。恋人アクアロスの元へ、母の元へ。懐かしい故郷に辿り着けばヨウシャもまた、一人の女の子として、ちっぽけでささやかな人生を送るのだ。

 旅の多くを共にした白猫のハックンは、望まれて王宮に残った。王家なきあとの王宮は、現在の王族の隠居所としてとりあえず保護される。だが、あくまで「現在の王族」についてのみ、だ。その子孫については保護されない。出が王家であろうとなかろうと、平民のひとりとなる。その後の王宮は、果たしてどうなるのだろう? 博物館のようなものにしようという話もあれば、森林公園として開放しようという案もある。

「ハックン・・・」
 そっとヨウシャは囁いた。
 幸運の白猫と旅の途中で教えられ、つかずはなれず一緒に旅を続けていたけれど、最後の最後に、ハックンは大活躍だった。王宮に望まれて残ることになったのも当然だとヨウシャは思った。別れは辛いけれど、これからはそれぞれの道を歩む。
「ハックン、これまでどうもありがとう」
 ハックンのことを思うとヨウシャの網膜は知らず濡れるのだった。
 瞳を閉じる。
 王宮に王子が戻ってからの出来事が瞼の裏に蘇ってきた。

 王子を出迎えたのは200名ほど。一国の王子の帰国だというのに、それは淋しい出迎えだった。そもそも周辺諸国への挨拶回りだというのに王子に仕えて一緒に旅をしてきた一行がたった6人。これではまるででお忍びの休暇旅行である。
 しかし、出迎えの人々の拍手は熱かった。最初それは、ヨウシャにはとてもささやかなものに思えた。だが、ヨウシャは気づいた。そこには微塵の汚れもないことに。王子が思いを果たして無事に戻ってきたことを純粋に祝う心のこもった深く熱い拍手だった。
 いつまでも鳴り止まない。
 この拍手のいったいどこが「ささやか」だというのだろう。いったいなぜわたしは「ささやか」だなんて印象を持ったのだろう。少し考えて、ヨウシャはすぐにわかった。「王子」という華やかな言葉から、どこまでも途切れることのない大群衆と、その中央を颯爽と行進する隊列を連想させていたからである。
「虚飾の美」
 ふとそんなフレーズがヨウシャの頭の中を掠めた。たった200人とはいえ、ここで王子を迎える人たちは本当の意味での側近であり従者であり忠誠を誓ったものたちだ。もしかりに「大群衆」が王子を迎えたとしても、今と同等の思いを持った者の人数はさほど変わらなかったのではないだろうか。つまり「大群衆」のほとんどは偽者である。正装した兵隊や賑やかにメロディーを奏でる楽団や旗を振る無数の国民たちがいたとしても、それらは偽者、まさしく「虚飾の美」なのだとヨウシャは思う。
 涙が出た。
 熱い思いを伝えたくて伝えきれずにただいつまでも手を打ち鳴らすことでしかできない彼ら彼女らの中にあって、なんて自分はちっぽけなんだろう。
 人々の思いが波動となってヨウシャの心に響き、知らず涙が出てくるのだった。
 王と王妃の待つステージへ向かう王子の隊列。そのゆっくりとした行進が、一瞬止まった。王子がチラリとヨウシャを見る。
「え?」
 ヨウシャの心臓はビクンと跳ねた。
 しかし、次の瞬間にはもう王子の隊列は何事もなかったかのように前へと進んでいた。もともとがゆっくりとした行進である。大方の者はこのわずかな王子の所作に気がつかなかっただろう。
 いや、ヨウシャだって、自信がない。もしかしたらそれは、王子にあうことを考え続けてきたが故に見た幻かもしれない。第一、初対面であるはずのヨウシャに王子が視線を走らせることなど考えられなかった。ここには王子の側近として親しく使えてきた者たちがたくさんいるのである。見るとすればそちらだ。そういった者達に視線を向けることなく真っ直ぐに進んできた王子がヨウシャなど気にとめるはずがないのである。
 心臓を爆発させそうになったヨウシャは恥ずかしくなった。

 王子は壇上にあがり、帰国の挨拶を王と王妃に告げた。ステージの位置が高いために、出迎えたものたちはその様子を窺い知ることが出来ない。見上げてもステージを支える丈夫そうな丸太の柱がそびえているのを見るのみだ。人間3人分くらいの身長はあろう。遠くに離れれば見ることもかなうだろうが、王子の帰国の儀式、しかも席をあてがわれたヨウシャが式典の最中にあっちこっちうろつくなど許されるわけがない。王子の様子はわからないけれど、声は響く。
 このとき、参集したヨウシャ以外の人々は、王と王妃が既に亡き人であることを知っていた。だから、それなりに神妙な態度をとることが出来た。
 知らないのは、ヨウシャのみである。
 真摯な態度で「周辺諸国の理解を得た」ことを報告する王子に、一言も声をかけようとしない王という人物が不可解に思えた。

 今から思えばあれは「王と王妃」への報告ではなく、王子をひたすら信じて待っていた最後の家臣たちへの報告だったのだのだとヨウシャは思う。

 儀式を終えた王子はステージから降りてきた。
 到着のとき拍手で迎えた連中は、壇上から降りてくる王子を今度は敬礼で迎えた。席に座っていた上位の者たちも起立をしている。ヨウシャもそれにならった。
「今宵、王家最後の宴を行う」

「正装か、参ったな」と、案内人のタンセが言った。
「そうですね、参りましたね」と、メイドのアーヌが応じた。
 この王宮での正装とは、執務服を着ることである。兵士は兵士の格好を、メイドはメイド服を着れば良い。困るのはヨウシャである。客人に「正装」はない。
「旅人、ということで、旅の服装でいいじゃないですか」
ヨウシャは言うが、
「キミの旅の服装なんて、杜撰もいいとこだ。妙にエロチックだし」
 指摘されればその通りである。
 これまでヨウシャは、行く先々で色々な男たちと身体を交えてきた。それが当たり前になっていた。服装も自然と男たちを刺激するものを身につけていた。旅に出る前、すなわち男を知る前はまずしいながらもそれなりに恥じらいを心得た衣装を身に着けていたのに、いつのまにか「女」をアピールするようになっていた。
「わたし、出席できなくても構いませんけど」
 途方にくれる二人にヨウシャは言った。
「ただ、お願いがあります。王子さまと、ふたりっきりでお会いする時間さえ作ってくだされば、それでいいんです。それが旅の目的ですから」
「そうはいかないんだよ、お嬢さん」と、タンセは説明を始めた。

 帰国の報告を終えた王子は、執務室にタンセを呼んだ。
「お前が客人の世話をしてくれているそうだな」
「はい」
「あの客人が伝説の少女であるのは、確かか?」
「伝説の通りです。運命に抗う一人の少女と幸運の白猫、間違いありません」
「内輪の宴に客人を参加させたことはこれまで、ない。だが、伝説の少女と白猫とあらば別だ。彼女にも正装をさせ、白猫とともに出席させよ」
「かしこまりました」
 ──と、まあ、こういうわけなんだよとタンセは言った。
「それなりの服装を探しておきます」と、アーヌが進言した。
「頼むよ」と、タンセ。「あ、それからヨウシャ姫、王子と二人きりで会えるかどうかはわからないから、期待しないでくれよ」
「え? そうなの?」
「私から王子にそんなことを頼むような立場じゃない。王子から言い出せば別だけどね。もちろん、そう仕向ける努力はしてみるけれど、期待しないで欲しいな」
「そう・・・。でも、あなたは王子の養子なんでしょう?」
「養子だからといって特別扱いはしない。従者の一人だ。有能な者がそれなりの環境の中でその才を伸ばす事がひいては国のためになる。国に尽くす気があるのなら養子に迎えそれなりの環境を用意しよう、だが、その気がないのなら立ち去れ。最初にそう言われたよ。養子という立場は心置きなく才能を研鑽してやがて国に尽くすため、ただそれだけなんだ。王宮の中で実権を握っているわけではないんだ」
「だけど、あなたがわたしの世話をしてるって王子さまはご存知なのでしょう? だったら、わたしが会いたがっているって伝えてくれたって・・・」
「それは可能だよ。だけど、ふたりきりで会うかどうかは、王子とその側近が決めることだよ。私がそんなことを進言すれば身の程をわきまえよって叱られるに決まっている。王子は身の程をわきまえないものが嫌いだからね」
 そんなものかな、とヨウシャは思った。
 国民のために王制を廃止するとまで言っている人が、「身の程をわきまえよ」なんてことを言うのだろうか。ヨウシャは腑に落ちなかった。
 若いヨウシャにはまだ理解できなかったのだ。ただ世襲というだけで王が国を支配することこそが「身の程をわきまえていない」と王家が考えており、だからこそ身を引くのだと。自分にも他人にも厳しい態度をとっている王子にとって、「身の程をわきまえる」というのは当たり前のことなのだ。

 アーヌの計らいで、結局ヨウシャは町娘の普段着の格好をすることになった。
 衣装はアーヌに貸してもらった。
 アーヌが採用試験に合格し、王宮に登城したときに来ていた服だ。さりげないフリルのついたワンピースだった。町娘にとってそれは、いわゆる余所行きの服である。
 衣装室からつばの広い帽子と、ひじの手前まである純白の手袋も借りてきた。
 それらを身につけると、「今日は大切なパーティーだからおとなしくしているのよ」と両親に諭されながらいやいや連れてこられたお転婆な良家のお嬢さんのように見えそうで、アーヌはクスリと笑った。

「これでいいわ。じゃあ、お風呂にお入りになって、あとはお呼びするまでお部屋で待っていてくださいね。本当はわたしはずっとヨウシャさまのお世話をしなくちゃいけないんですが、人手がたらないのでこれから設宴を手伝うように言われているの。お風呂の場所はおわかりになりますよね」
「大丈夫よ」
「じゃあ、失礼いたします」
 アーヌが去ると、ヨウシャはベッドに身体を横たえた。お風呂に入るように言われているが、行動をおこす気分になれない。
「ようやくここまでやってきたけど・・・」と、ヨウシャは独り言をつぶやく。「王子さんと関係できなければ、何にもならない・・・」
 深いため息が出る。
 にゃあお。
 ハックンが鳴いた。
「困ったね」って相槌を打っているのか、それとも「なんとかなるさ」と励ましているのか、ヨウシャにはわからなかった。

 終焉間際となって没落の一途をたどる王家ではあったが、王宮が崩れ落ちたわけではない。天井の高い荘厳な雰囲気を漂わせた大きなホールに宴の会場は設けられた。
 ヨウシャはベッドの上でしばらくボーっとしていたため、ゆっくりとお風呂に入っている時間がなかった。
「まだここにいらしたんですか?」というアーヌのあきれ声にせかされながら風呂をあがり、身体を拭うのもそこそこにホールに駆けつけた。
 まともな下着など持っていなかったが、さてどうしようか、などと考える暇もない。アーヌが用意してくれた衣装をそのまま素肌に身に着けてのホールへの登場となってしまった。
 ヨウシャの後からまだ駆けつける者もいた。準備が整いきらないらしく使用人などは出たり入ったりしているが、王子からは間もなく開会の宣言が下された。
「今宵は王家としての最後の宴だ。皆のもの、存分に楽しんでいってくれ。そして、もし名残惜しいと思ってくれるのなら、末来のいつの日にか、今日の宴のことと潔く幕を下ろした王家のことを思い出して欲しい」
 壇上に立つ王子の後ろには、王と王妃の肖像画が飾られていた。それを見てヨウシャは初めて王と王妃が既に亡き人であることを悟った。そして、王子が王に即位せず、王子という立場のままで執務を続けていたことも知った。
 開会の宣言がされた後にもかかわらず、次から次へと料理や飲み物が中央のテーブルに運ばれてくる。
 中央のテーブルの外側には、立食のためのテーブルが並べられており、さらにその外側のテーブルには着席できるように椅子も設置してあった。
 王子はじめ王族はいつもは専用のテーブルに着席をするのだが、今日は特別とあって、側近や役人たちと同じくホールで一緒に食事を取りながら歓談するとのことであった。また、普段は席を同じくするはずのない使用人も、仕事を終え、あるいは手を止め、参集していた。
 人々が集まってくる様子や配膳の風景などを見ていれば退屈しないが、開会宣言からしばらくたつとそれも落ち着き始めた。するとヨウシャは嫌が応にも思い知らされる。
「知り合いが、いない」
 話すべき相手がいないのである。
 ひたすらに食べて飲むだけ、というわけにもいくまい。
 しかし、雑談する相手もまた、いないのである。
 そういえば、アーヌはどうしただろう?
 メイドが彼女一人ということはあるまい。きっと同年代の仲間がいるはずだ。その中になら入っていけそうな気がした。
 けれど、メイドの姿をしたものはまだ相変わらず忙しそうに動き回っている。宴に「参加する」ことになっているとはいえ、宴そのものを成立させるには彼女たちの働きが必要なのじゃないだろうか? それとも、ホール付きのメイドと人付のメイドは違うのだろうか?
 あれやこれやとヨウシャは考えたが、「人手が足りない」とアーヌが言っていたのを思い出した。
 人付きのメイドも設宴のための要員にされているのだ。おいそれと手は空かないのだろう。忙しく動き回っているメイドたちの中にもアーヌの姿を認めることは出来なかった。
 時間とともに使用人の姿も増えてくる。庭師、馬の世話係、兵士、事務員・・・。
 あちらこちらで会話の華が咲いている。
「あら、あなたがヨウシャ姫ですね」などと、声をかけてくれる人もいるが、挨拶を交わしてそれで終わりである。
 ヨウシャは一抹の淋しさを憶えたが、「ちょっとまって。こんなことしている場合じゃないわ」と思い立った。
 今こそ、チャンスだ。
 身分の差を越えて、全員が一堂に会しているのである。客人である自分が王子に近づいたとて、何の不思議もないし誰も咎めだてしない。
 こんなチャンスはまさしく宴の間だけだろう。これが終われば王は自室に戻り、おいそれと近づけないはずだ。
(わたしは、何を考えていたんだろう。どうして王子への取次ぎをタンセやアーヌに頼ろうとしたのだろう。これまで多くの人の助けを借りながら旅をしてきたのは事実だけれど、自分の力だってもてる限りを使って一生懸命やってきた。最後の最後になって、どうして人に甘えようなどと考えていたのだろう)

 王子に、個人的に、近づくなら、今が、チャンス!
 ヨウシャは、それまで使っていたテーブルから離れた。

「あ、そこの。ちょっとお待ちください」
 一歩か二歩、ヨウシャが足を踏み出したそのときである。
 白髪、碧眼の老紳士が、ヨウシャを呼び止めた。
「え? わたし?」
「そう。ヨウシャ姫でございましょう?」
 ヨウシャ「姫」という呼び方はこれが初めてではないが、慣れない。
「ええ」と、なるたけ楚々に答えるヨウシャ。
「王子が面会を希望しています。お疲れのところ恐縮ですが、宴の後、私室においで下さい」
「え?」
 老紳士は、今、何と言った?
 ヨウシャは自分の耳を疑った。
「何か不都合でも?」
 老紳士は優しげな口調ではあるものの、「断ることはなりませんぞ」と表情の奥に秘めている。
「お、お断りするなんて、とんでもありません」
 どうやって王子と面会する機会をえればいいのだろうと頭を悩ましていたところだった。
「お受けくださいますね」
「はい」
「では、宴の後、ご入浴をお済ませになり、お部屋でお待ち下さい。アーヌを呼びにやらせます」
「ま、またお風呂ですか?」
「当然でございましょう。王子とのご面会ですよ」
「そ、そうですね」
 うっかりしていた。ヨウシャにとっての面会は、ただの面会ではない。王子を誘惑し、ベッドをともにしなくてはならない。そのためには少しでも美しい自分であらねばならない。封印の解けた直系の血を鎮めるための唯一の方法は「アスワンの王子」と寝ることだ。今日までそのために旅をしてきたのである。
 ヨウシャはしっかりと身体を磨こうと決意した。
「おっしゃるとおりにいたします」
「それがよろしゅうございます」
 老紳士は会釈をしてヨウシャに背中を向けた。
「あの、すいません」
 その背中に声をかけるヨウシャ。
「はい。なんでございましょう」
「王子様に、ご挨拶しておかなくていいのでしょうか?」
「王子は宴の最中は多忙です。ほら、御覧なさい」
 老紳士が示した方角には、何人もにとりまかれた王子がいた。
「宴というのは、正式な手続きを踏まずに王子と直接会える機会なのです。逆に言うと、正式な手続きを踏めば王子とは会えない人たちがああやって取り巻いています。王子も本当は気が進まないのですが、こういう機会でもなくては彼らは全く王子と言葉を交わすことができませんから、王子もああやって応じているのです。ヨウシャ姫、あなたはこのあと、王子からの正式な申し入れによってお会いすることが出来るのですよ。いま、何かをしておく必要なんて何もないのです」

 老紳士が去ると、ヨウシャは再び手持ち無沙汰になった。さて、どうしよう。周りを見回したがタンセもアーヌもいない。
 しかし、すぐにヨウシャに話しかけてくる人物がいた。
「あなたがヨウシャ姫?」
 アーヌとさほど変わらぬ年齢の女の子に思えた。けれど、メイド服ではない。きらびやかなドレスを身にまとっている。
「あたし、クラウディア。一応、王族ね。でも、端っこの方だけどさ」
 気さくに話しかけてくれるのは嬉しいけれど、ヨウシャは戸惑った。こういう場合、どう立ち居振る舞いをするのが良いのかさっぱりわからない。
「ねえ、十分食べたでしょ? 外へ行かない?」
「はい」
 外へ誘われたことが嬉しかった。誘われて初めて、なんとなく息が詰まりそうになっている自分に気がついた。
 外といっても王宮の外に出るわけではなかった。大ホールにしつらえられたバルコニーに出るのみだ。
 バルコニーの広さもただ事ではなかった。そこだけで200人くらいのパーティーは出来そうだ。テーブルにチェアはもちろん、花壇まである。
 樹齢数百年はあるであろう大木の切り株が、インテリアと実用をかねてバルコニーのあちこちに置いてあった。椅子と机の中間ぐらいの高さで、ドリンクを片手に持ちながらひょいと腰掛けてたたずむには具合がよさそうだ。
 クラウディアはそんな切り株の一つに腰を下ろした。
「あなたはここまで自分の国からずっと旅してきたのね」
「ええ」と、ヨウシャは答えた。
「うらやましいわ」と、クラウディアはつぶやいた。
 望んでも決してかなうことのない「永遠の憧れ」を見つめるような瞳でヨウシャを見ていた。
「どうしてわたしなんかが羨ましいの?」
「端っこの端っことはいえ、あたしは王族の娘なの。自由なんてないわ」
「自由が、ないの?」
 ヨウシャはどきりとした。「自由」について考える必要もないくらい自分は自由なんだと感じたからだ。
 自分の住んでいた村にも「しきたり」や「決まりごと」はもちろんある。でも、自由とはしきたりに逆らって好き放題することではない。自分で判断して行動することだ。アクアロスとの恋愛もしたし、目的の定められているこの旅だって、日々の行動は自分で選択して来た。まがうことなき自由なのだ。
「ごめんなさい」
 思わずヨウシャは謝ってしまった。
「え、ちょっと、あなた、なに言ってるのよ。そんなつもりじゃないのよ、あたし」

「でも、もうすぐ自由になるわ」と、クラウディアはヨウシャに色々なことを語ってくれた。
 王族が故の自由のなさ。それはじつはちょっと贅沢な話だと思うの。確かに行動様式は決められているし、思想や物事の考え方についても制限されて、少し横道にそれると厳しく「なにが正しいことなのか」について叩き込まれる。いわゆる王族教育だ。
 庶民の子に比べてマスターしなくてはいけないことがたくさんあるから、自由時間も少ないし、安全への配慮からむやみに外出することも許されていない。
 けれど、その分、物質的には恵まれている。
 食べ物がなくて飢えるということもないし、着る物がなくて凍えることもない。お城がひとつ欲しいなんていう突飛な願いはもちろん聞き入れられないけれど、自分だけの部屋は用意してもらった。欲しい本もすぐに手に入るし、旅に出たいといえば幌つきの馬車が用意され、幾人もの従者が従った。馬を操るもの、身の回りの世話をするもの、通訳、護衛・・・。行く先々ではガイドも雇い、一般には入れないところまで見学することだって可能だった。
 けれど、それはあらかじめ定められた様式によるものである。贅沢する自由はあっても、自分で考えて判断し、行動する自由がないのだった。
「ね、きいて、ヨウシャ姫。それが、早ければ明日にも、なくなっちゃうのよ」
「なくなるって?」
「聞いてない? 王制が廃止されるの。あたしのような端っこの王族なんて、もう何の保護も受けられないのよ。何もないところに放り出されるの。何もかも自由になるわ。けれど、色んなことが不自由になるの。ご飯を食べようと思ったら、材料を自分で買ってくるのよ。そのためにはお金もいるわ。お金を稼ぐには働かなくちゃいけない。ああ、なんて面倒臭いんでしょう、なんて考えちゃうのよね。ううん、わかっているわ。世の中ではそれが当たり前なんだってね。もちろん、働かずに何も食べずに、野垂れ死にする自由だって得られるわ」
「やめてよ、野垂れ死になんて」
 人事ではなかった。今でこそ普通にしているヨウシャだが、一時は性に狂い、死の一歩手前まで達していたのだ。
 いや、今だって油断は出来ない。解けてしまった封印が再び封じられたわけでは、まだ、ない。それこそ王子との面会を目の前に控えているというのに、目的達成まであと一歩のところまで辿り着いていながら、セックスの快楽の渦に巻き込まれて今度こそ元に戻れなくなるかもしれないのだ。
「野垂れ死になんて冗談よ。やっと手にした自由だもの。何もかも自分で考えて、自分で選んで、自分で生きていくわ。生きてみせる」
「そうよ。そうこなくちゃ」
 親指を立てて見せたヨウシャに、クラウディアはキスをした。
 それは短い、唇と唇がほんの一瞬触れ合うだけのものだったが、ヨウシャは身体がグラリと揺れるのを感じた。
「あなた、かわいいわ」
 そう呟いて再び唇を重ねてくるクラウディア。
「あたし、恋愛だって自由じゃなかったのよ。好きでもない人と付き合わされて・・・。その人とセックスまでしたのよ。他に好きな人がいたのに・・・あん、ちょ、んぐ」
 ぐるぐるとわけのわからない意識がヨウシャの頭の中でうごめいている。脳みそが、細胞の一つ一つが、セックスの快感を狂おしいぐらいに覚えている。求めている。あふれ出してくる。
 クラウディアがキスしたのは、ヨウシャに対してちょっとした親愛の情を示すだけのつもりだったろう。少しばかりの甘えもあったかもしれない。
 だから、言葉を遮られるほどの激しいキスを浴びせられ、クラウディアは咄嗟にヨウシャを突き放した。
「い、いや・・・」
「あ、ごめんなさい」
 かろうじて理性が謝罪の言葉を述べる。だが、ヨウシャのその瞳は、セックスの最中に悶え喜ぶ女のそれだった。
「やだ、ちょっと、あなた、どうしたの・・・」
 半ば怯えるように後ずさりするクラウディア。
 クラウディアのそんな様子を、ヨウシャは霧雨のためにぼんやりとしか見えない風景のように認識していた。
(ああ、だめ。きてしまった)
 ドクドクと心臓が高鳴る。興奮曲線が急上昇する。乳首が固くなり服に摺れて痛い。その痛みが快感に変わる。ぷっくりと服を押し上げ、外からはっきりと乳首の形が見えた。
「え、うそ。な、なに。この子、なに興奮してるのよ・・・」
 艶っぽい目にいすくめられて身動きできなくなるクラウディア。
 あふれ出す汁。ヨウシャは下着を着けていない。汁を遮るものは何もない。つつーっと、太ももの内側を伝って流れる。
「あ、ひ」
 汁が太ももの表面をなでるわずかな刺激が、ヨウシャの感度を大幅にアップさせた。男の指先、あるいはペニスの先端でやさしくこすられているような錯覚におぼれてゆく。
 足をきゅっと閉じるとクリトリスが圧迫され、すさまじい快感だ。
「ごめん、なさい。も、う、がま、ん、出来ない・・・」
 ヨウシャはクラウディアに一歩一歩近づいてゆく。
 これから何が起ころうとしているのか、お嬢様育ちのクラウディアにははっきりとわかった。それがたとえ望まない相手との交わりだったとしても、クラウディアも女だ。一度憶えた性の快感は身体に染み付いていた。
 ヨウシャの責めが凄まじいものであろうということも、ヨウシャのどこか吹っ飛んだ表情からは容易に想像できる。怖い、という気持ちもあるが、それにもまして、迫ってくるであろう快感の波への期待が勝ろうとしていた。
 無理やりあてがわれた「恋人」との初夜。王族公認の恋人であってみれば拒絶は出来ない。たとえ一度や2度拒絶したところで、「襲われた」などという訴えを聞いてくれる者はいない。なにしろ公認なのだから。そこまで考えて、クラウディアはかりそめの恋人を受け入れる決心をした。「こんなもの、目をつぶっている間に終わる」と自分に言い聞かせて。
 これはセックスじゃない。こんなのセックスじゃない。あたしは処女。これまでも、これからも。望まないセックスで処女は失わない。本当に大切なものは本当に大切な人にだけ捧げるのだ。
 けれど、痛みと出血という現実。これは否定のしようがなかった。
 一夜明けて泣きくれるクラウディアを癒してくれたのは、クラウディアの家庭教師だった。10歳ほど年上の女だ。クラウディアが物心ついた頃からずっと仕えてくれている。ある意味、母親以上の存在だった。
 家庭教師はクラウディアの女性器に手を触れ、「大丈夫よ。平気よ。身体は汚されても心は汚されていないわ。身体の汚れなんてお風呂に入れば落とせるわ。ううん、いますぐにでも、私が綺麗にしてあげます」
 欲望のままに突き入れてきた「恋人」と違い、家庭教師はクラウディアと同じ女。どうすれば良いのか身をもって知っていた。グロテスクな行為によってイクことも、甘く美しい幻想の中で昇り詰めることも。クラウディアは家庭教師の指技によって落とされてしまった。
 だから、女同士の営みがいかに心地よいかをクラウディアは嫌というほど叩き込まれていたのだ。

「ヨ、ヨウシャ姫! な、なんてことを!」
 アーヌが二人を発見したとき、ヨウシャもクラウディアも行為の真っ最中だった。ここがどこで、今何が行われているかなど、二人の意識からは消し飛んでいた。快感を与え、あたえらることに夢中だった。
 大木の切り株に二人は仲良く並んで座っていた。ヨウシャもクラウディアもスカートを捲り上げて足を広げている。ヨウシャの右足が、右隣のクラウディアの左足の上に載せられている。クラウディアのパンティが足首に引っかかったままになっているのがいやらしい。
 ヨウシャのスカートの裾は胸まで捲り上げられていて、クラウディアの左手によって交互に乳房を弄ばれていた。クラウディアの右手はヨウシャのワギナに達し、その上にヨウシャの左手の掌が重なっている。割れ目に挿入されたクラウディアの指をさらに奥深くに押し込もうとしているようであり、同時に自分自身でも感じる場所を愛撫しているようでもあった。
 ヨウシャの右手はクラウディアの背中側からお尻の下に達していた。ぱっと見ただけでは、その指先がクラウディアのどこをどのようにいたぶっているのかわからない。
「ああ、クラウディア様、クラウディア様まで、その気になってしまわれて・・・」
 慌てて駆け寄り、二人の間に割ってはいるアーヌ。
 しかし、昇天というゴールを目指して突っ走る二人にとって、アーヌの乱入などなんの障害にもならなかった。
 あっという間にアーヌは押し倒されてしまう。ヨウシャのキスの雨がアーヌの顔に降り注ぎ、メイド服の胸元を引きちぎったクラウディアが乳房を執拗に揉んだ。
「あ、おやめください、おやめください」
 相手が自分と同等かそれ以下の身分のものならば、突き飛ばしたり蹴り上げたりすることも出来ただろう。だが、「宝」と「王族」であれば、そうはいかない。
「ああ、おやめください、お願いです。こんなことは、ああ、ああ、おやめください」
 説得しようとするのが精一杯だ。
 ヨウシャはアーヌに跨った。メイド服のスカートの裾を一気にめくり上げる。
「あ、いやあ! いやです、こんなところで・・・」
 ヨウシャは返事をしない。性奴への最後の階段を転がり落ちている最中だ。もう他には何も考えられなくなっていた。いや、セックスのことすらもう考えていない。溢れ出る欲望に忠実にいやらしい行為に没頭する。
 ヨウシャは膝と腰を曲げて姿勢を低くし、アーヌの股間に顔を近づけて、アソコをペロペロト舐め始めた。アーヌは普段から下着をつけていない。
 アーヌの胸を揉んでいたクラウディアの手は、ヨウシャのお尻で弾き飛ばされてしまう。
「あん、もう」
 一瞬不満そうな声を上げたクラウディアだったが、ヨウシャの丸出しになったヒップが目の前にある。アーヌの手をとってヨウシャのワギナに思いっきり突っ込んでやった。
 ズボウ!
 アーヌを手首まで飲み込んでしまうヨウシャ。
「あ、うそ、こんなこと、あ、いや、いやあ」
 アーヌだって男を知らないわけではない。王宮という閉ざされた空間で、しかも自分よりも身分の高い男たちに囲まれて、拒否できなかったことも何度もある。どうせ拒否できないなら楽しもうと、いつしか自分から腰を振るようになった。
 ぬぷり、ぬぷり、ぬぷり
 アーヌはただ手を前に差し出しただけのなのに、ヨウシャの腰の動きによってヨウシャのアソコから出たり入ったりしている。そして、そのヨウシャによって、自分のアソコは舐められているのだ。
 ああ、そのなんともいいようのない快感!
 アーヌはこれまで女性のゲストに対してはよく身体でもてなしをしてきた。長旅で王宮にやってきた女性客が、いくらセックスに飢えているとはいえ、いきなり初対面の男と身体を交えるのは抵抗があるだろう、そう思ったからだ。アーヌのその奉仕は多くの女性に喜ばれた。何度もやってくる女性客はメイドにアーヌを指名するものさえいた。昨夜もそのつもりでヨウシャをもてなしたのだ。まさかこんなことになるとは思っていなかった。
 けれど、アーヌもセックスは大好きだ。
「お、お願いです。もうやめてください。こんなところで、誰に見られるか、ああ、はあ、ああ、ああああ」
 場所が寝室ならとっくに夢中になっている。
「ああ、いやあ、ダメです。ヨウシャ姫。ああ〜ん、そんな、気持ちのいいこと、ああ、もう、あああ」
「うるさいわよ」と、アーヌの口をクラウディアが股間でふさいだ。
「んぐ」
「さあ、舐めなさい、アーヌ」
 アーヌもまた快感の波間に沈んでいった。
 クラウディアは腰の位置を前後させることによって、クリトリスからヴァギナ、そして肛門にいたるまで、アーヌの舌技を受けた。
「あうん、気持ち良いわ。アーヌ。あなた、慣れているじゃない。ああ、もっとして。ほら、あたしのアソコ、開いてるでしょ? 舌、入れて、ねえ、ああ、そう、そうよ。もっと、もっとお」
 快感のあまりガクンと身体が前に崩れるクラウディア。目の前にはヨウシャの背中があった。胸に手を回してぎゅうっと揉む。
「いやああああん」
 ヨウシャの官能が声となってあたりに響いた。
 3人に近寄るひとつの人影。「誰かに見られたらどうするの」というアーヌの心配がとうとう現実になった。しかし、そのアーヌも女性3人プレイに没頭している。

 事態を収拾したのはタンセだった。
「全くもう。気づいたのが他のヤツだったら大変なことになってる・・・」
 力技で3人を引っぺがすことが出来たのは、養子とはいえ「王子の息子」という身分だったからだ。
 手を持って引きづったり、背中を小突いたりしながら、なんとか近くの空き部屋まで3人を連れてきた。
 そこは、今日は空室になっているゲストルームだった。
 王宮にいくつの客室があるのか、タンセにも正確にはわかっていない。だが、これだけは明らかだ。
「今夜の客人はヨウシャ姫のみ・・・」
 つまり、ヨウシャが使っている以外の部屋は、誰も外部からの宿泊者はいないのである。
「さて。仲間に入れてもらおうか。2対2の4人っていうのは経験があるが、3対1というのは初めてだな」

 どれくらいの時間が経過しただろう。ヨウシャ以外の3人は既にへとへとだった。
 いや、ヨウシャも疲れきっている。だが、解けた封印のせいで、性奴への坂道を転がり落ちている最中だった。本人の意思とは関係なく、死ぬまでセックスし続ける運命にある。
 ワギナとアヌスに延べにしていったい何本の手を受け入れただろう。それでも飽き足らず、フェラチオで無理やり立たせたタンセのペニスを受け入れ、膣壁で必死になってそれを絡め取っているところだった。
「い、痛い、痛い・・・」
 呟くタンセ。アーヌとクラウディアはグッタリと壁にもたれながらも、その様子をニヤニヤしながら見ていた。
 膣壁の急激な痙攣の増幅でヨウシャの昇天を知ったタンセは、ヨウシャの後頭部を思い切り殴打した。
 ドサリとベッドに倒れこむヨウシャ。
「目覚めたときは正気に戻ってくれよ」

 ザアーッ、ザアーッ!

 目的を達成して王宮を後にし、帰路の旅路についたはずのヨウシャだったが、相変わらず一歩も動かず、じっと海を見ていた。
 思い出に浸ってしまうと、ひとつひとつのことがあまりにも大きく、いつまでたっても終わらない。

 ザアーッ、ザアーッ!

 よせてはかえす波は相変わらずだが、少しだけ海岸が広がったようだ。
「引き潮・・・」
 潮の満ち引きを自分の目で確認できるほど長い時間、じっと海を見ていたことなんてこれまでなかった。
「そろそろ行こうか、ハックン」
 思わず声に出して、既にハックンが傍にいないことを思い出す。王宮に残してきたのだった。
 しかし、そのかわりにヨウシャがもらったものがある。
 野営のための様々な道具と、それをいれるかばんである。かばんには車輪と取っ手がついていて、ゴロゴロとひっぱって行けるようになっている。
(一晩だけ、ここに泊まろう。そして、思い出に浸ろう)
「明日になったら、必ず出発するから!」
 自分に言い聞かせるようにヨウシャは声に出した。
 実はそれほどのんびり出来ないのだ。ヨウシャは帰路の安全を願う王子から、ひとつの手形を受け取った。それはヨウシャがアスワン国の公人であることを証明するものだ。
 もうひとつ、ヨウシャは王子から、伝書鳩ももらっている。家に着いたら、伝書鳩を放つ。伝書鳩は王子のもとに帰り着く。その時がアスワン国の最後である。
 いかに公人の証明書を持っていても、その国が存在しなくなればただの紙切れだ。だから、王子は王国の終焉をヨウシャが無事に家にたどり着くまで待ってくれているのである。
 世話になった王子の夢をかなえるために、なるべく早くヨウシャは帰宅せねばならない。
(よく考えたら、かなり疲れているのよね。ここで一晩ゆっくりした方が、きっと早く帰れるわ)
 ヨウシャは自分に対して言い訳をしたが、これは事実でもあった。王宮のふかふかしたベッドより野宿のほうが性にあっている。疲れが取れるのである。

 ザアーッ、ザアーッ!

 太陽が沈んだらテントにもぐりこもう。おっと、それまでに食事をしなくちゃね。豪華な携帯食料、もらっちゃった。

「んああ〜〜。あれ、わたしどうしちゃったんだろう・・・」
 タンセの祈りが通じたのか、ヨウシャは目覚め、そしてどうやら普通に戻っていた。
「お目覚めだね、ヨウシャ姫」とタンセが言い、
「そろそろ王子さまとの面会の順番がまわってくると思いますが、手っ取り早くご入浴なさいません? お手伝いいたしますわ」と、後を継いだ。
 クラウディアはいなくなっていた。
「うん、ありがとう」
 時間の流れの感覚をヨウシャはうまく掴めていない様に思えた。
 どれくらい戯れの時間をすごし、そのあとどれほど眠っていたのだろうか。
 ヨウシャはそのことを質問した。
「そろそろ真夜中だよ、ヨウシャ姫。王子は何人もの方と順次面談中です。長引いてるんだよ。みんな色々と言いたいこと、聞きたいことがあるんだろうな。いまさらジタバタしたって動きは止められないというのに」
「ヨウシャ様は、一番最後です。王子様はヨウシャ姫とは時間を気にせず語り合いたいとおっしゃっています」
「後の人のことを気にしなくていい。そのための一番最後なのね」
 ヨウシャは期待を膨らませた。もちろん、王子と身体を交える、という期待だ。ヨウシャにとっては「王子と面会する」というだけでは意味がないのである。
 少なくとも後の時間を気にしなくてもいい、というのはヨウシャにとってありがたかった。
「さ、お風呂へ参りましょう。少し急ぎませんと」
 アーヌに促されて立ち上がったときである。部屋を誰かがノックした。
「どうぞ」と言ったのはヨウシャだ。
 カチリと静かに音がして、扉が開いた。入ってきたのは、宴の最中にヨウシャに声をかけてきた白髪・碧眼の老紳士だった。
「恐れ入ります。色々な方との面会が長引いてしまい、王子は大層お疲れです。ヨウシャ姫とお会いするのは明日の朝にしたいとのことです」

 思わぬ延期が良かったのか悪かったのか。
 老紳士から予定の変更を言い渡されたときはヨウシャは気の抜けた思いがした。
 でも、と、ヨウシャは思う。いまさら一日、その日が来るのが遅くなったからといっていったいどんな影響があるというのだろう。
 確かに、急ぐ。
 一分一秒でも早く、アスワンの王子と交わらなくてはと思う。
 セックスに歯止めが利かなくなってしまったのもこれで2度。タンセがいたから殴って気絶させてくれたけれども、相手が違えばそのまま奈落のそこに落ち、それこそ言い伝えの通り精も魂も朽ち果てるまで快感をむさぼり続けていたであろう。
 だけど、タンセがいてくれたこと、最後の歯止めになってくれたこと、これはもう運命としか言いようがないとヨウシャは感じていた。
 運命が味方してくれているからこそ、タンセがわたしの傍にいるのだ。
 もし運命が敵方にまわっているとしたら、とっくにわたしは命を落としていただろう。ううん、それどころか、この王宮にだってたどり着けなかったに違いない。
 そう考えると、一日日延べにはなったけれども、全てがうまくいくような気がしてきた。

「ハーブティーをお持ちしました。気持ちが落ち着きます。疲れも取れます」
 入浴を終えたヨウシャの所にアーヌが飲み物を持ってきてくれた。アーヌは相変わらず甲斐甲斐しく尽くしてくれる。ヨウシャは「王室の宝」と位置づけられた客人であり、担当メイドをいいつかったアーヌとしてはそれは当然の行為だろう。しかし、それ以上の親近感をヨウシャはアーヌに感じていた。
「ありがとう」
「熱いわ。ゆっくりとお飲みになってね」
 言われた通りにした。
 そういえば、旅の途中でであった銀竜詩人のメンバーからも、最高級の飲み物と称する薬草茶を飲ませてもらったことがある。けれどそれより上を行くものだとヨウシャはハーブティーを一口飲んで理解した。上には上があるものだと思う。
 その慈悲深い味わいは身体中にやすらぎを浸透させ、逆立った神経をゆっくりと撫でて癒してくれた。心と身体を理想的な位置に持っていこうとする作用があった。
「わたしももらっていいかな」と、タンセが言った。
「もちろん、どうぞ」
「アーヌさんも飲んでください」と、ヨウシャが促した。
「いえ、これは大切なお客様にお出しするもので・・」
「いいじゃないか、その客人がキミに飲みなさいって言ってるんだ」
「あ、はあ、でも・・・」
「誰にもいいつけやしないさ。それに、言いつけたところで、今の王宮はそんな些事に構っていられる状態じゃない。第一、キミを雇っている王家自体がまもなく存在しなくなるんだから」
「そ、そうですね」
 タンセの一言で、アーヌものむことにしたようだ。ヨウシャのベッドルームの片隅にある小さな丸いテーブルで、3人はゆっくりとハーブティーを飲んだ。
 ほっこりと和んだ空気が3人の間に流れた。時は真夜中だが、うららかな春の陽気に包まれて、芽吹いたばかりの若葉や、やんちゃざかりの小動物たちと一緒に、自然を賛美する歌を唄っているような気持ちになってくる。王宮ご用達・客人専用の最高級ハーブティーの効能は絶大であった。
「ところで、ヨウシャ姫。ひとつ教えて欲しいんだが」と、タンセが口火を切った。
「は、い」
「キミはどうして旅をしているんだい? そしてなぜ、ここにやってきたというのだろう。本当を言うと、不思議で仕方がない。伝説は伝説として語り継がれるものだけれど、まさかその伝説の通りの少女が現れるとは、驚きでもある。ヨウシャ姫だって、誰かに何かを頼まれてここにやってきたんではないんだろう? キミにはキミの旅の目的があったはず。ま、それがいわゆる導きというものなのだろうけれどね」
 世の中を達観したようなタンセの口調に、ヨウシャは自分の身に起こった運命を話し始めた。
 結界の外で何日も待たされ、そして現れたあの尊大でどことなくいじわるっぽかった案内人と今のタンセが同一人物とは思えなかった。
 役どころを全うするために虚勢を張ってはいたのだろう。お互い心を許したこともあるだろう。だが、それだけではない。考えればヨウシャは2度もこの男に救われている。一度目は馬上でだ。弓矢がタンセを貫通しその威力を減じてからヨウシャに突き刺さった。もし、タンセという緩衝材がなく、直接ヨウシャを弓が射てれば、その場で命を落としていただろう。しかもその時、ヨウシャはセックスに深くはまり込んでいて、そのままでは母が教えてくれた通り狂い死にしていたに違いなかった。矢傷を負い、さらに落馬することによって、ヨウシャはかろうじてこっちの世界に引き戻されたのである。2度目はついさっきの出来事。殴られ、気絶させられることで、その後意識を取り戻したヨウシャは元通りになっていた。
 タンセはいわば命の恩人なのだ。
 そのタンセに請われて、ヨウシャは自分の過酷な運命とこれまでの長かった旅について、語りたくなっていた。

 ヨウシャは語った。解けた封印のこと、運命を母から教えられたこと、その運命に立ち向かうために旅立ったこと、旅の道中でであった様々な出来事や人々について。
 ヨウシャが語り始めたとき、「まさかそんなことが、信じられない」と言いたげな表情をしていたアーヌは、やがて真剣な表情になった。呪われた運命を哀れむような表情さえした。ヨウシャは今にも「もうやめて、ききたくない」とアーヌは耳を両手でふさぐのではないかとすら思った。そんなに悲惨な話をしているつもりはなかった。ひとつの目的を達成するために確固たる信念を持っての旅である。悲劇を語っているつもりはなかった。アーヌも話が進むにつれ悲壮な表情が消えた。目を輝かせ、身を乗り出してくる。わくわくしながら冒険忌憚に聞き入る少年のようだ。
 タンセはある程度のことはわかっていたのだろう。ヨウシャの一言一句を噛み締めるように頷きながら聞いていた。時々遠くを見つめたり、目を閉じたりする。目を閉じると時として頷くこともしなくなる場合もあって、ヨウシャは「居眠りしてるのじゃないか」と不安になるのだが、そうではなかった。ヨウシャの語る情景を瞼の裏に投影させているのだった。
 それほどヨウシャの語りは上手かった。
 旅に出て、多くの人に会い、多くのことを話した。聞いた。そのことがヨウシャを語り上手にしているようだった。
 床で丸くなって眠っていたハックンも、いつしか目を覚ましていた。身を起こした。ヨウシャの旅の中でちょうどハックンが登場するところだった。
 明日は大切な王子との面会がある。早く眠って明日に備えた方がいい。そのことはヨウシャもわかってはいたが、ちっとも眠くならなかったし、真剣に話を聞いてくれる二人を前に、手を抜いてさっさと終わらせようとも思わなかった。
 時々ヨウシャは語るのをやめた。しばらくの沈黙が続く。頭の中を整理し、次に喋ることを考えているのだった。その間、タンセもアーヌもじっと待っていてくれた。
 ヨウシャは「旅の全てを誰かに話すのって初めてだな」と思った。
 本当にたくさんの出来事があり、たくさんの出会いがあった。ふっとこのままいつまでも旅を続けていたいなという思いにすらとらわれた。
 長い間話が中断すると、アーヌは「ちょっと失礼いたします」と席を立った。そして、ハーブティーのおかわりを用意してくれた。からっぽだった3人のカップに新しい液体が注がれる頃には、ヨウシャは続きを語る準備が出来ていた。
 そして、ヨウシャはまた語り始めた。

 全ての話が終わった時、陽は昇っていた。
「王子とセックスしなくちゃいけないのかい?」とタンセが改めて訊いた。
 ヨウシャは頷いた。
 ノックの音がした。「どうぞ」とヨウシャが言うと、メイド服を着た中年の女性が扉を開けた。
「まったくもう、アーヌにはヨウシャ姫のお世話をするようあれほど頼んであったのに、どこにいったのかしら」
 ぶつぶつ言いながら入ってくる。
「あ、アーヌ。こんなところでなにを油売ってるの」
 大きな声で叱責した後、ヨウシャに向かって今度は飛び切りの笑顔を作った。
「朝食のご用意が出来ております。食堂においでになりますか、それとも、お運びしましょうか?」
 しばらく考えて、ヨウシャは「食堂で」と言った。
 タンセやアーヌと一緒に食事をしたいと思ったからである。ゲストルームで客人と一緒に使用人が食事をするわけにはいかないだろうと判断したのだ。
「それから、お願いがあります」
「はい、なんなりとお申し付け下さい」
「タンセさんとアーヌさんも、一緒に・・・」
 にわかに中年メイドの顔がひきつった。
「・・・・ダメですか?」
「ダメも何も、ヨウシャ姫、あなたはこれから王子と面会をなさるほどのお客人ですよ。一緒に食事などとんでもない話です。アーヌは本来、配膳や給仕の役どころ。それを放り出して、お客人の部屋でお喋りに講じるなど言語道断。さ、アーヌ、きなさい。あなた弛んでるわよ。そりゃあ、もうすぐここのメイドという任を解かれるでしょう。でも、最後まで役どころは全うしないといけないわ。仕事と言うのはそういうものよ。何度も教えたでしょう? さ、来なさい」
 ヨウシャに語りかけていたはずの中年メイドは、いつしか矛先をアーヌに向け、お説教をし始めた。
 それどころかアーヌの腕を掴んで部屋の外に引っ張り出そうとする。
「あ、ちょっと待ってください」
 ヨウシャは慌てた。
 アーヌがヨウシャの部屋に入るのを咎め立てしなかったのはヨウシャ本人だ。責任はヨウシャにある。しかも、延々と喋り続けたのもヨウシャである。
「それは、わたしに責任が・・・」
「いいえ。お客人がなんとおっしゃろうと、役どころをわきまえるのは本人の自覚と責任ですから」
 アーヌを掴んだ手に力が入った。
 中年メイドの年季の入った太い腕に血管が浮かび上がる。
「あ、痛!」
 そのときである。
 ボコッと音がして、壁が崩れ落ちた。
「キャー!」
 思わず叫ぶヨウシャ。
 しかしよく見ると、それは壁が壊れたのではなかった。それまで壁の一部だと思っていたその部分は扉で、その扉が開いたのである。いわゆる隠し扉だ。使われることなど滅多になかったのだろう。開きづらくなっていたようで、そのドアを開けるために、向こう側から思いっきり叩いた蹴ったりしたに違いない。それで大きな音がしたのである。
 扉から現れた人物を見て、ヨウシャは「あ!」と叫んだきり、固まってしまった。
 次に続く言葉が見つからなかった。
 見覚えのある人物。たった2度会っただけだが、決して忘れようもない。ヨウシャの脳みそに深く刻まれたその人物。
 最初に会ったのは王宮前。旅から戻る王子を出迎える席でのことだ。馬に乗ってゆっくりと進むその人は、ほんの一瞬だったが馬を止めてヨウシャに視線を走らせた。
 2度目は宴の会場。大勢の取り巻きに囲まれていた。
 ずっとずっと会いたいと思っていたその人、アスワンの王子。
 王宮まで辿りついたはいいものの、果たして面会できるのか、仮に会えたとして、どうやってこんな雲の上の身分の人と寝ると言うのか。不安ばかりだったけれど、ヨウシャは恵まれていた。なぜか王宮内部ではヨウシャは伝説の少女であり、かつ王子自らが「会いたい」と申し出てくれたのだ。
 それでも「寝る」ことが出来るかどうかは、全くの未知数だった。もうすぐ終焉を迎える国とはいえれっきとした王子である。王と王妃のなきあと、王に変わって国政をとってきた。そんな人が、ヨウシャと二人きりで会うことなどありえないとヨウシャは思っていた。警備や側近といった役どころの連中が周りを固めているに違いない。
 だから、面会の日延べを知らされたとき、がっかりしながらもホッとしたものだ。「ここまで来たら一日ぐらい延びても一緒」などと自分に言い聞かせていたのは、ホッとしたことにたいする言い訳に過ぎなかったんだとヨウシャは今、気がついた。
 それにしても・・・
 ずっと想い続けてきたかのアスワンの王子が、こともあろうに隠し扉の向こうにいて、どうやら盗み聞きをしていた?
 ヨウシャは驚きを隠せなかった。

「謀(はかりごと)をして、すまなかったな、ヨウシャ姫」と、タンセが言った。
 ヨウシャは首を横に振った。
「有事の際に客人を安全に誘導するため、ゲストルームには全てこのような仕掛けがなされているんだ。もっとも、そこに王子が潜み、ヨウシャ姫に旅のことを語らせる、というアイデアを出したのは私なんだ。ヨウシャ姫の緊張を考えると、とてもまともに面会など出来ないと思ったもんでね」
 王子ともあろう人が盗み聞きなんて・・・。驚いたが腹は立たなかった。むしろ「緊張して何も話せないだろうから」というタンセの気遣いや、タンセの進言を聞き入れた王子の度量などに、ヨウシャは感激をした。
「皆で食事を採ろう。タンセも、アーヌも一緒でかまわん」と、王子が言った。
「そ、それはなりません、王子。身の程をわきまえ、役どころを全うすると言うのは、王宮に仕えるものとして最も基本的な心得であって・・」
 相変わらず中年メイドは頭が固い。
 だがそれも、「まあ良いではないか」の一言で片付いてしまった。
 王子の顔は憔悴しきっていた。長旅から戻ったときも相当濃く疲労の色を表情ににじませていたが、そのあとに宴が続き、さらに重要な人との個別の面談、そしてヨウシャの物語の盗み聞き。王子は全く眠っていないようだった。
 年齢も若くない。「王子」という言葉からつい、「若くてハンサム」を連想していたヨウシャだったが、何歳になろうと王に即位しなければ王子は王子なのだった。
 この人、いったいいくつなんだろう?
 食堂への移動の途中、王子の背中を見つめながらヨウシャは思う。
 銀流詩人のロセリが、王の娘だと言っていた。つまり、この王子とは兄弟である。もしかしたら腹違いかもしれない。王子は比較的早くに出来た子でロセリは年いってからの子供だということは容易に想像できたが、しかしそれにも限界はあろう。アスワンの王子は見た目ほど年齢を重ねていないのかもしれない。重責を一身に背負って老けてしまったのだろうか。
「さあ、ここぞ」
 先頭を歩いていた王子が、美しい彫刻が施された重厚な扉を前に、振り返って言った。
 皺は深く、油分の一切がなく、隈の浮き立ったその顔。だが、目に宿る光だけは失っていなかった。いや、疲れきっているこんな状況でさえ、常人のそれをはるかに上回っていた。
 この人、並じゃない、とヨウシャは思った。
 きっと精力も絶倫なのだろう。
 王子は既に盗み聞きによってヨウシャの旅の目的を知った。ただそれだけのことだが、ヨウシャは「きっとわたしと寝てくれる」と確信した。
 わたしのことをよく知って、わたしの気持ちに答えよう、そういう気持ちがあったからこその盗み聞きだとヨウシャは思ったからだ。

 扉の向こうは、シンプルで小さな部屋だった。3方をガラスに囲まれた明るく美しい部屋だった。天井は真っ白に塗られ、染みひとつない。床は木材で出来ていた。黒光りしている。よく磨きこまれていた。シンプルだが丁寧に手入れの行き届いた部屋だった。
 楕円形のテーブルは6人も座れば狭く感じるだろう。椅子は4つ。ヨウシャ、タンセ、アーヌ、そして王子の4人で食事をするために、手配されてセッティングされたらしかった。小さな部屋だが、この部屋が大切に扱われていることが良くわかった。
 4人が席に着くと、メイドが何人もトレイを持って現れ、朝食をセッティングしてくれた。
 香ばしく、ほろ苦い香りがたちこめる。
「コーヒーを用意させた」と、王子が言った。「昨夜からハーブティーを飲み続けであろう? 覚醒作用と鎮静作用の両方をもつあの茶は、飲みすぎると毒だ」
 コーヒーなるものはヨウシャにとっては初めてだ。
「お嬢さん方はミルクとシロップをたっぷり入れて飲むといい」
 お嬢さん「方」とは、ヨウシャとアーヌのことだった。王子はこの苦い液体を飲みなれているようだったが、タンセは顔をしかめた。
「このような苦い飲み物は初めてです」と言った。
「いかにも、身体に良さそうであろう」と、王子が応えた。
 王制を廃止すればこの王子も一般人の一人に過ぎない。そうなってもこのような話し方をするのだろうかと思うとヨウシャはおかしくなった。
 王子を目の前にして多少の緊張はあったものの、なごやかに食事は進んだ。
 食器類が下げられたところで、「ひとつ、話がある」と、王子が言った。
 なごやかさは取り払われ、みなが王子に注目した。王子のひとことひとことには重みがある。ヨウシャは感心した。
「重要な話だ。よく、きかれたい」
 ヨウシャは意識したわけでもないのに、背筋がぴんと伸びた。
 そして、王子は重々しく告げた。
「ヨウシャ姫よ、長旅ご苦労であった。何を求めんが故の長く苦しい道のりだったかも理解した。その求めに応じたいと思う」
(え?)
 ヨウシャは王子の言葉を繰り返して頭の中で確認した。
(わたしの旅の目的を理解し、それに応じてくれる)
 王子は確かにそう言った。
 いかにして王子とベッドを共にするのか、最後の難関がそこだったから、ヨウシャは狂喜した。王子自らがヨウシャと寝てくれると宣言したのである。
 全てが、報われる。
 ヨウシャの胸がドクドクと高鳴った。
 ああ、わたしはなんて幸せなんだろうと思った。
 そ、そうだ。お礼の言葉を述べないといけない。でも、こういうとき、何と言ったらいいの?
 相手は一国の王子である。王子といっても実質は国王だ。即位していないだけの話である。そのようなお方に対して、お礼を申し上げるとき、どんな言葉を口にしたらいいのかさっぱりわからなかった。上流階級に属していないことなどなんとも思っていなかったヨウシャだったが、この時ばかりは自分の出生を恨んだ。
 見つからない言葉を捜していると、王子は付け加えた。まだ王子の発言は終わっていなかったのである。
「だが」と、王子はさらに重々しく言った。あのぎらぎらした目の輝きに陰りが見えていた。
「残念ながら」と、王子は言った。
 残念ながら?
 それはどういう意味だろう。一抹の不安がよぎる。
 あの堂々としていた王子がなぜか小さく見えた。
「我輩は、不能である。男として役に立たぬ」

 

・・・・・

 

・・・・・

 

・・・・・

 一行は用意されていた幌馬車に乗った。王子があらかじめ手配させていたものだ。
 これからどこに行くのか、ヨウシャは知らされていない。タンセもアーヌも知らないだろう。
「王宮の奥深くへまいる。直系の王族しか立ち入ることが許されていない場所だ。その間に、話そう」
 こうして、王子は、語り始めた。

 王族は、代々直系であった。直系とは、ヨウシャと同じく、淫乱の血を引く者である。
 王子の父、アスワン第35代王は、すさまじく絶倫だった。
「蝋燭は消える前にひときわ明るく輝くと言う。太陽の終焉は、その惑星をいくつも飲み込んで巨大化し、大爆発をして散るという。始まりには全て終わりがあり、終わりの直前にはそれらはきらびやかになる。まるで栄華が永遠に続くようなきらびやかさだ。だが、それは違う。終わりを目前にしたあだ花なのだ」
 35代王は、自らの中に流れる直系の血が、その特殊な能力が、自分で終わることを悟った。
 しかし、終わらせるわけにはいかなかった。
 王族、すなわち、直系の能力が途絶えることは、この国の滅亡をも意味したからだ。
 超絶な精力と人並みはずれたセックスの技巧をもっていることだけが直系の能力ではない。もうひとつ、大切な能力があった。それは神との交信である。性欲は人間の基本的な欲求のひとつだからこの能力を発揮するのに特別なトレーニングはいらない。だが、神との交信はそうではない。修行が必要だ。だからヨウシャにはその能力がまだ発現していない。
 アスワン国は、代々の王が持つこの「神との交信」という能力を持って、栄えてきたのである。
 神からもたらされるのは全てに対する指針であった。
「来年は干ばつだから、今年の収穫は隣国などに売らずに、蓄えておけ」
 例えばこんな指針があったとしよう。ここからは政治の手腕だ。これまで何年も豊作が続き食料飢饉など予想だにしない庶民にこんなことを言ったって通じるわけがない。ここで政治の手腕が問われる。ある王は井戸を掘ることを命じ新しい水源を確保したし、またある王は税率を極端に高くして収穫物を王宮の倉庫に眠らせた。一時的に反発は起こるものの、翌年になって飢饉が訪れた時、王の先を見通す力に皆が感心した。
「敵国の侵略に備えよ」
 これに対して王は「町の周囲の壁を頑強に作り直して城壁とし、高さも5倍にせよ」と命じた。
 それまでは町とそうでない部分を単に区画するためだけの壁であった。この住み良い都から逃げ出すのは犯罪者だけだった。だから、多大な費用と人手を投じてそのような作業をすることに誰もが疑問を抱いた。王の命令だからといやいやながらに作業に従事した。屈強な城壁が完成してまもなく、武装した他民族が襲ってきた。だが、この城壁のおかげで兵士も武力も補充することなく、戦争に勝つことが出来た。非戦闘員は誰一人として怪我すらしなかった。
「疫病に備えよ」
 病院施設を拡充し、薬草の栽培面積を増やし、他国から有能な医者を招いた。
 この国が大きな危機に瀕することもなく、ゆっくりとだが着実に成長していったのは、王の持つ先見の明によるものではなく、神からの指針によるものだったのである。
 だが、人々はそんなことは知らない。皆、王のおかげだと思っている。
 しかし、直系の能力が途絶えれば、神との交信も出来なくなり、王が王であることの出来る唯一のもの、「人々を正しく導く」ということが出来なくなってしまう。いや、しかしそれとて、物事を正しく判断すれば、これまでのような「完璧」はありえないとしても、それなりに「良き方向」へ人々を導くことは出来るだろう。ただし、正しく判断すれば、だ。周辺諸国には間違った判断をして国力を急速に弱めてしまった王もいるし、私利私欲に走り国を滅ぼしてしまった王さえいる。特殊能力を失った我が王族も、いずれそうならないとは限らない。
 ならば、国を人々で取り仕切ってもらおう。議会を作り、合議制で国の行く道を決めよう。利口か阿呆かわからないたった一人の王が国を導くなど危険だ。有能なものが集まってより良い方策を考えた方が、国は正しく栄えるだろう。
 35代王は王政の廃止を決意した。
 もちろん、直系の能力を諦めてしまったわけではない。35代王は正妃の他に妻を大勢迎え、次々と子供を作った。誰かが能力を授かるかもしれない。
 しかし、それも空しいあがきであった。直系としての能力を備えた子供はついに生まれなかった。
 正妃の長男、すなわちヨウシャが目指したアスワンの王子が成人したとき、王は子に全てを語った。
「父上。まだ諦めるのは早いのではありませんか?」
 王子は言った。
「他に何か方法があるというのか?」
 王子は「養子」をとることを提案した。
「養子?」
「直系の血を引くものはこの大陸の各地にいます。その中から特に有望なものを養子にして王家を継がせるのです。いえ、直系でなくてもこのさいいいでしょう。才知に溢れる者がいればそのものでも構いません。大衆に国を任せるなどリスクが大きすぎます。それは最後の手段といえましょう」
「う〜む、しかし・・・」
 35代王は考え込んだ。王族でもなんでもないたった一人の人間に国を任せることの方が王には危険に思えた。私物化されたらそれまでだからだ。それくらいなら有能な者が合議制によって政を行ったほうが良い。この大陸にはそういう議会制の国だって存在するからだ。
「父上、ご決断を」
「では、候補者を集めて養子という身分に据え、訓練を受けさせてみよ。ただし、養子に王家を継がせると決めたわけではないぞ。あくまでも可能性のひとつとしての扱いだ。見込みがないとわかったら養子と言えども王家は継がせぬ」
「承知」
 こうして集められた養子は17人に及んだ。タンセもその一人である。
 しかし、王のお眼鏡にかなうものはなく、養子案を提案した王子の目にもそれは同じだった。
 こうして王制の廃止は決定された。
 おりしも、その日のことである。35代王は神と交流し指針を授かるために、いつもの洞窟にこもった。
「傷つき、犯され、それでも自らの運命に抗おうと必死に生きる一人の少女と、寄り添うようにその少女に付き従う幸運の白猫。このコンビが、来るべき王宮の最後を救う」
 これがその時の指針であった。
「少女と白猫が王政の廃止を防いでくれるというのか」と、35代王は考えた。
「父上、それは違うと思います。王家の最後を救うと神はおっしゃったのでしょう? だったらやはり王家は終わりを告げるのです。そこでなんらかの厄災があるかもしれないが、それを救ってくれる、ということでしょう」
「かもしれんな」

「ここから先は馬車では進めん。歩きだ。ついてくるが良い」
 王子に促されて3人は馬車を降りた。
 左右は岩石の壁がそそりたつ荒々しい風景である。足元にも大小さまざまな石や岩が転がっている。なるほど、これでは馬車では進めないだろう。人間だって進むのに一苦労だ。足元を一歩ずつ確認しながら慎重に進んでゆく。左右の岩の壁はどんどん迫って来て、歩くためのスペースが狭くなってゆく。両手を広げればどちらの指先も左右の岩の壁に触れるほどに狭くなり、やがて道は行き止まりとなった。
 これ以上一歩も進めない。よじ登れるような生易しい壁でもない。陽も射さず、どんよりと薄暗い、どこか不気味な雰囲気さえした。上空から俯瞰すれば、地球の裂け目のような場所だろう。薄暗くて不気味なのもうなずける。なにか魔物でも潜んでいそうな冷ややかな気配すら漂っていた。
「さあ、ヨウシャ姫、この目の前の岩石をどけてみよ」
「え?」
 そんなことできるわけがないと思った。
「祈れば道は開く。この先に神と交信するための場所がある。直径の血を引くものならば出来るはずだ」
 王子は父に連れられて何度もこの地にやってきたことがあると言う。そして、父の祈りによって岩石が左右に割れて開く光景を見た、とも。
「そんなこと、わたしには出来ません」
「いや、直系の血を引く者ならできる」
「でも、これは特別な訓練を必要とするほうの能力なのではないですか?」
「とにかく、やってみせよ。言い訳なら出来ないと判明してから聞いてやろうぞ」
 出来る、出来ないでこれ以上ここで押し問答をしていてもしょうがない。やってみようとヨウシャは思った。
「出来ると信じ、心を込めて祈ってみよ。結果、出来ずとも、咎めだてはせぬぞ」
「はい」
 ヨウシャは「開け」と念じた。
 いや、それではあまりにも心がこもっていない。せめて目を閉じ手を合わせるくらいはしなくちゃね。
 ヨウシャがそう思った瞬間である。
 目の前の岩盤の中央に音もなく亀裂が走った。
 ゴゴゴゴゴゴ
 地鳴りが響き、亀裂を境目に岩盤は左右に開いた。
「え? え? あれ?」
 あまりものあっけなさに、ヨウシャは目を丸くした。 「たいした能力よ。父でもこうまで早くはなかった」
「そ、そうかしら」
 王子に感心されて少しばかりいい気になったヨウシャだが、すぐに(そんなことが出来たってちっともうれしくないわ)と、思った。
 当てにしていたアスワンの王子はインポであり、自分自身のことは何一つ解決していないのだから。
「入るがよい」
「え?」
 ヨウシャは訊き返した。
「入るのじゃ。この中に」
「ええー」
 冗談じゃないと思った。
 ただでさえ薄暗いこの場所である。その先に開かれた洞窟など、まさしく一条の光も差し込まない真の闇だ。いかに王子の命とはいえ、「はい、わかりました」と足を進められるものではない。
「直系の血を引くものならこの中に入り神の指針を授かることが出来ようぞ」
 どうやらここまで来て「出来ません」では通りそうもない。
 どうせ王子とセックスできなければ自分の命などまもなく果てる。ならば、神と交信するための場所とやらに踏み込んでみるのも悪くはない。
 ヨウシャは意を決した。
 だが。
 意を決したものの、なにやらこの世のものとは違うひんやりした空気と、これまでに一度も感じたことのない何者かわからない気配が、びんびんと伝わってきて、足を竦めさせた。
「どうした。躊躇するでない」
 王子が背中を押した。
 運がよかったのか悪かったのか、ヨウシャの足元には小さいが重い石があり、王子に押されて前のめりになったとたん、その石につまずいてしまった。
 バランスを失って身体が前のめりに傾斜する。このままでは転倒する。自然と右足が一歩前に出た。それでもまだ身体は前のめりになっている。足を踏み出すのを少しばかり我慢したせいで勢いがついてしまっていたのだ。左足も前に出た。
 その連続動作につられてまた右足が前に出、左足もそれに従った。
 と、と、とっと何歩か進むことになり、ようやくヨウシャの身体がバランスを取り戻したとき、ヨウシャは洞窟の中にいた。

 洞窟の中は既知の世界だった。
 憶えている。右も左も前も後ろも上も下も、なにもない空間。
 矢に射られてタンセと一緒に乗っていた馬から落ちた後に迷い込んだあの世界。
 おそらく、この世とあの世の境目。
 2度目だったからか、恐怖はなかった。
「あのときのあそこは、ここだったのか」と認識を新たにする程度の余裕すらあった。
 しかし、後から思うと、やはり平常心ではなかったらしい。普通なら「どうやったらもとの世界に帰れるのかしら」と考えていたはずだとヨウシャは思った。けれどこのとき、ヨウシャは「で、ここで神と交信するのね。でも、どうやって」と真剣に悩んだのである。
 ただ祈ればいいのだろうか。それとも、なにかきっかけのようなものがあるのだろうか。
 そもそも、修行も何もしていないわたしに、神との交信など可能なのだろうか。
「案ずるな」
 声がした。
「だれ? なに?」
 声がしたような気がしたけれど、しなかったような気もした。
「もしかして、ハックン?」
 何もない空間にいたとき、ヨウシャはハックンと心で会話をした。そのときと感じが似ていた。
「案ずるな、ヨウシャよ」
 再び声がした。やはりそうだ。耳を通じて聞こえる音声ではない。直接心の中に語りかけてきているのだ。
「ハックンなのね。ねえ、どうなってるの? ここはどこ? わたしはどうしたらいいの?」
 返事はなかった。
 相手は一方的に話しかけてくるのみだ。
「ただ、伝えよ。案ずることは何もない、と。大切に思う者が、真剣に考えて出した結果は、なにものにも劣らない」
「え? それ、どういうこと? 意味がわからないわ」
「全てのものにたいして、優しくあれ。自分自身にも優しくあれ。全てそれでうまくいく」
 心そのものに共鳴するその言葉は、女神から発せられた麗しさと閻魔の判決のような重々しさを同時に兼ね備えていた。

 闇に閉ざされていたはずの漆黒の空間は突然消えた。
 まわりを見渡すと、ヨウシャは洞窟の前にいることを認識した。開いていたはずの岩は閉じており、その先によくわからない空間があったことなど嘘のようだ。
「おかえり。どうだった?」と、アーヌが訊いた。
「なんだかよくわからないわ」と、ヨウシャは答えた。
 
 

 
 
 ザザザザアー、ザザザザー。

 日が落ちて、風が出てきた。波の音が微妙に昼間と違っていた。

 海岸にテントを張り、明日の出発に備えてその中で身体を休めるヨウシャ。
 なんだかよくわからなかったけれども、全て終わったんだと思った。終わりは、新しい始まり。

 明日からの帰路の旅のために早く眠らなくてはならないのだが、次々に思い出があふれ出してくる。
 あれから王子は、色々と教えてくれた。
「大切に思う者が、真剣に考えて出した結果は、なにものにも劣らない」というのは、「国を大切に思うからこそ王制を廃止するのだという判断は間違っていない。他のどんな方法よりも国をよい方向へ導いてくれる」という神からの指針に違いないと言った。
 民の代表による合議制への移行は、国のためになると神も判断したのである。
 しかしそれは同時に警告でもあるのだろうと王子は言った。政を行うものが「国を大切に思う」気持ちをなくせば、たちまち国は危機に瀕するぞ、という警告だ。
「傷つき、犯され、それでも自らの運命に抗おうと必死に生きる一人の少女と、寄り添うようにその少女に付き従う幸運の白猫。このコンビが、来るべき王宮の最後を救う。この伝説は結局どういう意味だったんでしょうか」と、タンセは質問した。
 王子は「文字通りだ」と答えた。
 王制の最後になって、その判断が正しかったのかどうかを神から聞くことが出来た。それはこの少女がやってきてくれたおかげだ。まさしく、王制の最後を救ってくれたのだ。そう王子は言った。
「てへへ。なんだか照れくさいや」
 誰が聞いているわけでもないのに、テントの中でヨウシャはひとり呟いた。
「じゃあ、ヨウシャ姫は本当に神と対話をしたのね」と、アーヌが言った。
 それについては今もヨウシャは確信がもてない。神の声だといえばそのようにも思えるし、けれど一方で、やっぱりあれはハックンだったのではないかという思いも拭い去れない。
 王子も「神イコールハックン」説にとりたてて異議を唱えなかった。
「このような考え方も出来ようぞ」と、王子は考え方のひとつを自分の意見として言った。
 これまでは神の声を聞く者がおり、それは距離を越えて伝わるものだった。だが、35代王で直系の能力が途絶え、神の声を聞く者がいなくなった現在、神は人々の身近にいる必要が出来た。そこで、ヨウシャという旅人に寄り添って猫の身体を借りた神がこの国にやってきたのではないだろうか。
 それにしても御伽噺のようでつかみどころがない。
「じゃあ、ハックンは、この国には必要な猫なのですね?」
「そうかもしれん。そうでないかもしれん」
「じゃあ、ハックンは置いていきます。ね、ハックン、淋しくないよね。わたしは淋しくないわ。この国のために尽くしてあげて」
 にゃおん。
 承知した、とハックンは言った。ようにヨウシャには思えた。

「本当に王子殿は、男として機能しないのですか? そうと決め付けずにヨウシャ姫と寝てあげてもらえませんか?」
 タンセは改めて王子に頼んでくれた。
「それはもういいの」と、ヨウシャは言った。「もしわたしがセックスで理性をなくし、それで朽ち果てるまでセックスに身を投じて狂ってしまうっていうのなら、きっとそれも運命なのよ。だけど、何とかなるような気がするわ」
 ここまで旅してきた苦労が水の泡だけど、と思いながらも、ヨウシャはそう言った。
 神から「全てのものに優しくあれ」と言われたからである。不能の男性にセックスを強要することは、きっととてつもなく優しくないことなんだろうなとヨウシャは考えていた。
「自分に対しても優しくあれ、というのは、厳しくあれ、ということでもあるぞよ」と、王子は言ってくれた。
 優しくとは自分の命を守ること。厳しくとは理性をしっかりと持つこと。流されないこと。
 ここまで旅してきたことで得た数々の経験は、こんな不能者と寝るよりも、はるかにヨウシャの助けになるだろうとも王子は言った。
 きっとそうだろうとヨウシャも思った。

 旅立ちの前、母から授かった言葉を思い出すヨウシャ。

 全ての理性を無くす前に王子に会いなさい。
 そして、王子と交わるのよ

 自分の中でそれは「王子とセックスすること」だと思い込んでいた。そのせいだろう。旅の行く先々で母の言葉を思い出した時、いつしか母の声が「アスワンの王子とセックスをしなさい」と頭の中で言うようになっていた。けれど、旅立ち前に母が言ったのは、「会う」ことと「交わる」こと。セックスをしろとは言っていなかった。

 いや、多分、母が言ったのもやはり「セックスをする」という意味だったのだろう。けれど、母は無意識のうちに理解していたに違いないとヨウシャは思った。それはセックスだけのことを言っているのではない、と。だからあえて「交わる」という言葉が口をついて出たのだ。
 交わるって?
 優しい気持ちでお互いを理解しあうこと。心と心のふれあい。きっとそうなんだろう。

 そして、ヨウシャはもうひとつ、母の大切な言葉を思い出していた。

 決して結婚するまでは、身体を許してはいけないよ。

 ならば、結婚してしまえばいいのである。
 ううん、もうわたしとアクアロスは結婚しているの。
 儀式なんてどうでもいい。祝いの宴なんてどうでもいい。それは本人同士の心の問題。
 だとすれば、わたしは既に結婚しているわ。

 どうして母はあの時、「それならすぐに結婚しなさい」と言わなかったのか、あえてヨウシャを旅に出したのか、今ならよくわかる。
 あのままアクアロスと結婚していても、きっとそれは形だけのものに終わったであろう。
 旅に出て、様々な愛の形を学んだ。愛のないセックスも見聞し、体験した。そんな今だからこそ、「わたしは既にアクアロスと結婚している」と言えるのだ。
 ヨウシャをこんな気持ちにさせようと思って旅立たせたのか、それとも、アスワンの王子と交わりさえすれば娘の命は助かるのだと思っていたのか、ヨウシャには判断が出来ない。
 帰って訊けばわかるかな、と思ったりもしたが、それは無駄だろう。所詮、親なんて子供の成長に合わせて言うことなんていくらでも変えるのだ。

 とりあえず、寝なくちゃね。
 ヨウシャはいったんテントの外に出た。
 波の音が大きくなった。
「月」という名の衛星が南中していた。
 やばい、本当に寝なくっちゃ。明日からの旅はまた体力勝負なんだから。
 
 
 


「あとがき」へ進む。

作品集一覧に戻る