青 空
=7=

 


 暴言を詫びようと決意はしたものの、気が重い。
 蓑田君の父親は、頭を下げる私に対してどんな態度をとるだろうか。
 私の予測の範囲を超えた反応をされたら、どう返事すればよいのだろうか。
 これまでのように「死者は何をしたって返って来ない」を繰り返されたらどうしようか。
 彼に対して良い印象が無いために、彼がひどい言葉を吐くことしか想像できない。「死者を冒涜した」「殺しただけでは気がすまないのか?」「うわべだけ言葉を重ねても気持ちは伝わってこない」……。
 そうなのだ、所詮私が蓑田君の父親にかける言葉など、うわべでしかない。非がこちらにあるとしても、詫びの気持ちはとっくに消えうせ、同情すらも沸かない。それどころか、「どうして俺がこんな目にあうんだ」とすら思ってしまう。
 ええい!
 考え込んだところで時間を浪費するだけだ。私は蓑田家に詫びに行くんじゃない。菊村氏はじめ他のメンバーの立場を少しでも悪くしないために頭を下げるのだ。

 昨日、あんな事があったというのに、蓑田君の父親はいつもと特に違った態度はとらず、相変わらず抜け殻のようにたんたんと私を迎え入れた。
「いじめた側」「いじめられた側」という大きな立場の違いはあるものの、いつの頃からか私もある種被害者の一員のような気分になっていた。
「いつまでこんなことが続くんだろう」と。
 子供達はいつになったらこれまで通り学校へ通えるようになるのだろう。
 死者がどうして生者よりも大切なのだろうか、とすら思う。
 今日は詫びにやってきたのだから、そんな素振りはしてはいけない、と自分に言い聞かせつつ、それでも何か腑に落ちないしこりのようなものが私の中にどっしりと居座っていた。

「昨夜は本当に申し訳ありませんでした」
「いえ、別に・・・・。それで我が子が蘇るわけではありませんし、何を言われようと息子の死以上に辛く悲しいことなどもうありませんから」
 聞きようによっては「昨夜のことは水に流しますよ」とも受け取れる。しかしあの「許すも許さないもありません」と言った同じ口から出た台詞だと思うと、嫌味として受け止めるのが妥当のようにも思える。
 私は「そうですか」と呟いて、唇を閉じた。
 ちゃぶ台に差し出された茶は手をつけられることなく、湯気の量を徐々に減少させてゆく。喉が焦げるように乾いていることに気が付いたが、茶を飲みたいとは思わなかった。
 無言の時間が流れた。
「あの、差し出がましいようですが、毎日どのように過ごしておられるのですか」
 私としては精いっぱいの優しい台詞だった。こんな男に情けなどかける必要はないと思うものの、彼の生活はひどすぎるような気がしたのだ。
 最愛の息子を不条理な自殺で亡くしたその気持はわかる。だが、それからもう何日過ぎているというのだろう。自分達夫婦の生活だってあるはずだし、多少の貯えがあるとしても、長期間席を外したままでは会社だって困るだろう。
「あの子は・・・・」
 彼はゆっくりと口を開いた。
「さぞや無念だったことでしょう。やりたいこともたくさんあったに違いない。その全てを振り捨ててまで死を選んだ。そうせざるをえなかった。そこまで追い込まれた。どれだけ苦しみのたうちまわったのか、親の私も想像がつきません。人間が『死んだほうがマシ』と思う精神状態というのはどんなものなんでしょうかねえ。そんなことばかり考えていますよ」
 返す言葉がなかった。
「いえ、もちろんそれだけではありません。何をどうしたってあの子は戻ってこない。そう思った時の、とめどない喪失感。胸に穴が開いた感じ、というのはまさしくこのことでしょうね。胸に空いたその空間をただ見つめるばかりの毎日です。どのように過ごしているかなどと問われれば、何もしていない、としかお答えのしようがありません」
 目の前でしょんぼり肩を落とされると、「いったいいつまでそうしているんだ」と苛立ちさえ感じていた私も、さすがに気の毒に思えた。自分の子供は生きていて、彼の息子は死んでいる。私には彼の気持ちを理解することは不可能なのだと悟った。
 しかし、だからどうだというのだ。いつまでそうしているつもりなのだ。本人が言うように「死者はもう蘇らない」のだ。そう思うとまた苛立ってきた。この男には「前向き」という言葉の片鱗も感じられなかった。

「でもね、やっぱり何もしない腑抜けのような生活、というのも耐えられないものなのです。さて、何をしようか、何かしなくては、そう思うときもあります」
 私は早く本気でそう思ってほしいと願った。自殺へ追い込むようないじめをした子供達やその親には確かに相応の責任というのがあるだろう。だが、いつまでもいつまでも、どこにも行きようのない態度を続けられたのではたまったものではない。私はたまたま転勤という憂き目にあったからこの場を逃れる事が出来るが、残された人たちはどうなる。この男の心の傷が癒えるまで無意味で味気ない訪問を続けねばならないというのか? 馬鹿馬鹿しい。原因がどこにあるかなどと関係なく、人は自分で立ち上がらなくてはならない。
 それに、遠く離れるといっても、音信不通を生涯通せるほどの遠くへ行くわけではない。この男がこんなでは、いつ呼び出されるかわからない。山陰の福知山などというところからわざわざ出向くなどもってのほかだった。
 どうせならしがらみを全て断ち切ってしまいたい。それでなくても重い気持で転勤しなくてはならないのだ。

「ですから最近は、……どうやったら我が子の無念を晴らせるのか、そのことばかり考えています」
 え? なんだって?
「何かしなくては」と言い、その後に「ですから最近は」と続けば、普通なら例えばこんな風に考えるはずだ。気分を改めて仕事に打ち込む、新しい趣味を見つける、子作りに励む、恵まれない子供を引き取って我が子として育てる。
 しかし、そうではなかった。
 この男は今、なんと言った?
「ですから最近は、……どうやったら我が子の無念を晴らせるのか、そのことばかり考えています」
 確かそう言った。ちょ、ちょっと待ってくれ。
 私は息を詰まらせた。あれほど無感情な男の目が、ギラリと一瞬輝いた。
 私は心底驚いた。
 ところが「どうしたら無念を晴らせるか」って? わたしは救いようのない泥沼に精神を叩き込まれたような気がした。
「どうせもう私たちは生きていたって意味がない。犯罪者として捕らえられて死刑になっても悔いることはない。いっそのこと、あなた方を皆殺しにしてしまおうかと思ったこともあります」

 背筋が寒くなった。
 やくざ者が強面でせまってきても、暴力に対する恐怖以外の恐さは感じない。しかし、この男の一言は、心底恐ろしかった。暗闇の中を音もなく迫ってくる恐怖とはこのことだ。
「ですが、やめました。私は死後の世界がどういうものかなど知りませんし、本当に死によって全てのことが終わってしまうのなら、相手を殺してしまえばそれで終りです。息子の受けた苦しみや屈辱を味あわせるには死は不適切でしょう」
 今にも息絶えてしまいそうな口調だったが、語り終えたその瞬間、またこの男の目が不気味に光った。生命力の感じられない鈍い光だ。だが決して弱々しくはない。暗い決意を秘めた目だった。それは私にゾンビの目を連想させた。
 さっき「ですから最近は、……どうやったら我が子の無念を晴らせるのか、そのことばかり考えています」と言い、そして今、「相手を殺してしまえばそれで終りです。息子の受けた苦しみや屈辱を味あわせるには死は不適切でしょう」と言った。
 復讐、というフレーズが私の頭の中をぐるぐる回った。しかもそれは、斧で頭を叩き割って殺してしまうとか、そういうレベルの話ではない。この男は我々を、殺す以上に酷い目にあわせて復讐をしようとしてる、そういうことか? それならまだ憎悪に満ちた怒りで殴り殺される方がましだ。
 いったいこの男、何を考えている……

「なにをどうしたって息子は帰ってこない。私の心に開いた穴は塞がりようがないのです。一生、このままなのかと思うと、とてつもなく広大な虚無感が私を襲ってきます。けれど、皆さんはそうではないでしょう。進級、進学、就職、結婚、出世・・・、輝かしい未来が待っている。今でこそ毎日毎夜、訪ねてきてくださるが、いずれ忘れるに決まっている。ああ、なんという不条理。苦しんだものだけが一生苦しみ、苦しめたものはいつしかその罪を忘れ、人生を謳歌するのです。おかしいと思いませんか?」
 おかしいのはお前だ。
 私は膝ががくがくと震え始めているのに気が付いた。
「損害賠償、というのがあるんだそうですね。直接手を下した殺人ではありませんから時間はかかるそうですが、自殺の原因がきっちりとした証拠とともに特定できれば無理な話ではないはずです。私たち夫婦が受けた傷に対する慰謝料も請求できるようです。法律関係は詳しくありませんので、弁護士の先生に相談しているところです。時間がかかるといわれました。でも、それでいいんです。私は最後の最後まで示談やらには応じない。 お金が欲しいわけじゃない。なるべく長い時間、出来ればあなた方が死の瞬間を迎えるまで、決着がつかなければいいと思っています。殴られたり蹴られたり物を盗られたり隠されたり。いじめとはそういうものでしょう? 言葉攻めもあったでしょう。暴行、傷害、窃盗。刑事事件にすることも可能なはずです。いえ、懲役だの罰金だのを期待しているのではありません。我が子をいじめ殺したことが、一生付いて回る。それだけでいいんです。そうですとも、何事もなかったかのように人生を全うさせやしませんよ」

 蓑田君の父親は無表情に笑った。
 無表情なのに、笑った。
 これがどんなに気味の悪いことか、想像できる人などいるまい。

 その夜、私は夢を見た。
 悪夢だった。
 底なしの恐怖感に全身を包まれて、目が覚めた。

 夢の内容は思い出せない。喉が強烈に渇いていた。汗をびっしょりとかいていた。頬の筋肉がひきつっていた。
 夢の内容は思い出せないが、ひとつだけはっきりと脳裏にこびりついている画像がある。蓑田君の父親の、あの表情だ。無表情に笑う気色の悪い顔。暗く光ったゾンビの目。
 私は台所に行き、水道の蛇口をひねって水を出すと、直接口を近づけて飲んだ。液体が固まりとなって喉を通り過ぎてゆく。喉の渇きが癒えないうちに腹が膨れた。ちっとも喉など渇いていないことに気がついた。焼け付きそうになっているのは私の精神そのものだった。
 少し落ち着くと、私は既に彼の術中にあるのではないかと不安になった。



 

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